ある職業犬

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 とうとうこの日を迎えた。  これまでの努力が報われるかどうかは、ここでの働きぶりに懸かっている。 「緊張しているのか?」  いかつい風貌の上司が問う。 「それはもちろん……」  新人の担当官は額の汗を拭って言った。 「気持ちは分かるが、その子はお前を信頼しているんだ。お前がうろたえちゃその子も動揺する。自信を持て」 「は、はい!」  背筋を正す。 (そうだ、僕がしっかりしなくちゃ……)  ここに至るまで幾多の試練を乗り越えてきた。  言葉が通じないゆえの苦悩、言葉が通じないゆえのコミュニケーション。  互いの目と目で心が通じ合ったと実感できた、あの瞬間。  彼は自分を見上げるつぶらな瞳と目を合わせた。  彼女にはいくつもの表情がある。  遊ぶときは全力で遊び、その時に見せる笑顔は思わずこちらも微笑み返したくなるような柔らかさがある。  一方で訓練に取り組む際の顔は真剣そのもので、きりっと凛々しく引き締まる。  寝食を共にした彼と彼女はもはや人生のパートナーと言ってもよいだろう。 「そろそろ時間だ。準備するぞ」 「はい!」  新人担当官は彼女の頭を優しく撫でた。  ジャスティスと名付けられた彼女は、十数頭いる訓練犬の中で最も優秀な麻薬探知犬になると期待されていた。  優れた嗅覚と順応性、なにより担当官との相性が良く、テストではいつも好成績を収めている。  そうして訓練課程を経て今、ジャスティスはついに現場に投入されることとなった。  今日から彼女は一人前の、まさしくプロの麻薬探知犬として活躍することになる。  果たして訓練どおりにやれるだろうか。  担当官は不安を拭えない。  直前に受けた現場トライアルでも実際に空港を使って実践形式でのテストをしている。  だがそれはあくまで仕掛け人とダミーの麻薬があらかじめ仕込まれている、実践に限りなく近づけた訓練の一環である。  ここからはミスは許されない。  もし麻薬が運び込まれるのなら、わずかの量さえも見逃してはならないのだ。 「ジャスティスを信じてやれ」  初日だけは訓練の頃からの上司が付き添ってくれる。  探知犬、担当官、そして両者の連携を見るためだ。  問題がないと認められれば、いよいよ独り立ちである。  つまり実際のところ、今日が二人にとっての最後の試練ということになる。 「俺はもう何十年も探知犬に関わってきたが、その子は間違いなく歴代でトップクラスの適性の持ち主だ」  だから何も心配することはない、いつもどおりにやれと彼は言う。 「分かりました……では、行きます」  やや狭い通路の向こう、バックルームから空港のエントランスに出る。  リードを持つ手がわずか引っ張られる。  ジャスティスは担当官より少し前を一定の歩調で歩く。 「よし、よし……大丈夫だ」  空港には10万人を超える利用客がひしめいていた。  その大半が大きな荷物をいくつも抱えている。  ジャスティスは悠然と人混みに向かっていった。 「今のところは順調だな。これだけの人数にも落ち着いて行動できているぞ」  後ろで上司が言うと担当官もそれに押されて自信が湧いてくる。  その時、ジャスティスが小走りに利用客のひとりの元へ駆けた。  脇にある旅行かばんを嗅ぐと、その場に座って担当官の顔を見上げた。  麻薬を発見したときの合図だ。 「まさか、もう……?」  困惑する担当官をよそに、上司は無線で係員を呼んでいた。  と同時にジャスティスは立ち上がり、すぐ傍のベンチに腰かけている男めがけて走った。 「お、おい! どうしたんだ!」  ジャスティスは男が肩から提げているバッグの臭いを嗅ぎ、先ほどと同じように座り込んだ。  ――かと思えば再び立ち上がり、今度は柱にもたれかかっている女の元で同じ動作を繰り返した。 「落ち着け! 落ち着くんだ!」  想定外のことに担当官はすっかり動揺した。  その間にもジャスティスは空港内を駆け回り、利用客たちの手荷物を嗅いでは座り、嗅いでは座りと忙しく動き続けている。 「訓練ではあんなに上手くいっていたのに、やっぱりこれだけ人がいると興奮してしまうんでしょうか……?」  担当官は落魄した。  現場トライアルでもごった返す人々に動じなかったというのに、ジャスティスはまるで初めて散歩に出た幼犬のように所かまわず嗅ぎまわっている。  ぐいぐいとリードを引っ張るジャスティスを見て、彼は思った。  この子は使役犬ではなく、一般家庭で愛犬としてのびのびと暮らしたほうがいいのではないか。  適性を持った個体は他にもいるのだから、彼女にこだわらず別の候補犬の育成に力を入れたほうがいいのではないか。 「あの…………」  担当官は声をかけようとしたができなかった。  上司の表情は驚愕に引き攣っている。 「どうかしたんですか?」  そう言っている間にもジャスティスは人混みをかき分け、手当たり次第に鼻を近づけている。 「これは大変なことになったぞ……」  真っ青な顔をして上司が言った。 「それは失敗したからですよね……」  担当官の手から力が抜け、リードが離れた。  ジャスティスは空港内を駆け回った。 「いや、失敗なんかじゃない」  上司はかぶりを振った。 「あの子は忠実に、正確に仕事をしているだけなんだ……」
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