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春の行方
風の強い日だった。
気象庁はその風を春一番といったが、春という言葉はとても似つかわしくない、冷たい風が吹きすさんでいた。
残業を終えて電車から降りた僕は、コートの襟を立てて改札口へ向かった。僕は人並みに逆らうことなく、改札を出て出口へと進む。駅舎の外は、バスターミナルやタクシー乗り場があり、バス乗り場には人が列を作っている。幸い僕が住むマンションは徒歩で通える距離にある。寒い日や暑い日、雨の日にはタクシーを使うこともあるが、冷たい風の今夜は、何故かその気が起きなかった。
そして僕は彼女に出会った。正確にいえば、彼女の歌声が僕の耳に飛び込んできた。
駅前は花壇やベンチが置かれた、ちょっとした広場になっている。そこで、ストリートミュージシャンや大道芸人が思い思いに自分をアピールしているのは、僕も知っていた。だが、特に音楽が趣味でもない僕は、彼等のパフォーマンスにこれまで目を留めたことはなかった。
だから今夜、彼女の歌が僕の耳に届いたのは、僕にとって奇跡としかいいようがない。僕は彼女の歌声に導かれるように、普段は寄りつかない広場へと歩いていった。彼女は自分の前にギターケースを開いて置き、花壇の前でギターを抱えていた。ギターケースには、手作りのフライヤーとCDが入っていた。それを手に取ればいいと分かっているのに、僕はたったそれだけのことができなかった。少し離れたところに移動して、彼女を見つめながら歌を聴いた。歌が終わると、次に彼女の歌を聴けるのはいつだろうと思いながら、僕はその場を立ち去った。
次に彼女に会ったのは、いや、見かけたのは、すぐ次の休日だった。たまたま休日出勤をして戻ってきた僕の耳に、彼女の声が飛び込んできた。どきん、と胸が高鳴り、僕はまた吸い寄せられるように広場へ足を運んだ。だが結局、前回と同じように離れたところで歌を聴き、歌が終わると広場を立ち去った。
僕はフライヤーを手に取り、彼女の名前がマナだと知った。フライヤーには、ライブ情報とCDの情報が書かれていた。CDは自主制作のアコースティック版と、僕は聞いたこともないレーベルから発売されたCDがあった。レーベル版のCDを手に取った。ジャケットに映る彼女は、綺麗に化粧をして口を真一文字に結び、僕を見ていた。
「こんばんは」
ふと気づくと、歌い終えていた彼女――マナが僕に微笑みかけていた。目の前の、にっこりと笑っているマナと、ジャケットに映る無表情なマナが、とても同一人物に見えず、僕は何度か見比べてしまった。そんな僕を彼女は見て、小さく笑った。
「全然違うでしょう」
「そうだね。でも、笑ってる君のほうがいいよ。楽しそうで」
気障な科白がすんなりと口から出たことに、僕は驚いた。
「本当ですか? うわあ、嬉しいな」
素直に喜びを表現する彼女を見て、僕はもっと驚くことを口走っていた。
「時間があるなら、どこかで一杯飲みませんか?」
今度は彼女が驚いた顔をして、大きな目を更に大きくして僕を見つめた。美人と言うよりは、可愛らしさの中に芯の強さがうかがえる、個性的な魅力の持ち主だった。歌手を目指して街頭に立っていて、今の僕のように男に声をかけられたことも、きっとあるに違いない。彼女は口を引き結んで僕をじっと見つめた。ナンパ目的の男と勘違いされたのだと思った。僕は、下心はないのだと伝えたくて、必死で言葉を探した。だが、探せば探すほど、嘘に聞こえる気がして、結局何も言えないまま、僕は立ちすくんでしまった。
「あと一曲、どうしても歌いたい歌があるんです」
マナは、阿呆のように突っ立っている僕に笑いかけて、ギターを持ち直した。
「もしその歌を気に入ってくれたら、一杯ごちそうしてください」
「――あ、うん、もちろん」
僕が答えると、よし頑張るぞ、と彼女は笑みを浮かべた。そして息を吸い込むと一転、真剣な顔で歌い出した。
寒い冬の日に、恋人とつなぐ手の温もりを歌った、恋の歌だった。そんな小さなことが幸せだといえるような恋をしているのだろうか。僕は見知らぬ「あなた」へ嫉妬しつつ、マナの歌を聴いた。
周囲から聞こえる拍手の音で、僕は現実に戻った。僕がぼんやりとマナのことを考えているうちに、いつの間にか聴衆は増えていて、マナの歌が終わっていた。数人がマナに声をかけてCDを購入していき、マナはありがとうと頭を下げていた。
僕は、ギターやCDを片付けるマナをぼんやりと見ていた。感想どころか、一言も発することのない男が目の前から立ち去らず、迷惑だと思っているに違いない。
「ごめん」
僕がようやく見つけた言葉は、なんとも間抜けな言葉だった。
「……迷惑だよね、帰るよ」
ギターケースにギターをしまい、キャリーケースにCDやフライヤーをしまい終えたマナが、僕の目を捉えるようにして立ち上がった。
「気に入りませんでしたか? 寒いから、熱燗なんかいいなって思ってたんですけど」
残念だな、とマナは笑ったが、その目が笑っていないことに、僕は気づいた。
「そんなことないよ。でもごめん。正直、途中からは他のことを考えてしまって、ちゃんと聴いていなかったんだ」
彼女を悲しませたくないという一心で、僕は言った。
「だから、そのおわびに、一杯ごちそうするよ。歌姫を目の前にして、歌を聴いてないなんて、最低だよな」
「ほんとですよ。……じゃ、熱燗におでん追加ね」
今度はマナの目も笑っていた。
僕たちは駅前の居酒屋で酒を飲み、食事をした。マナはよく飲み、よく食べ、よく話した。歌に対する情熱、悩み、夢、歌うことの喜び、歌を作ることの楽しさを、僕に熱く語った。僕はそれをひたすら聞き、マナのよく変わる表情を眺めていた。
酒と食べ物がなくなったところで、僕たちは居酒屋を出た。この後どうしていいのか戸惑い、気まずい空気が流れた。
「もう一度、歌ってくれないかな」
僕は意を決して言った。
「そう言ってくれると思ってた」
マナは微笑み、僕の手をぎゅっと握った。
「あったかい」
僕はマナの小さな手を握り返し、彼女のキャリーケースを受け取って、歩き出した。マナは道すがら、鼻歌のようにしてメロディを口ずさんでいた。僕の部屋で、マナはもう一度小さな声で歌ってくれた。歌い終わったマナが、僕の鼻の頭にキスをしてくれた。
「次はちゃんと聴いてくださいね」
「うん、もちろん」
そうして僕たちは、まさしくその歌の通り、冬の寒さを温めあうように恋をした。僕の心は、まるで一足先に春が訪れたかのようだった。
だが、一緒に過ごすようになっても、マナの一番の関心は歌だった。僕はいつも歌に嫉妬し、少しでもマナの心に占める僕の割合を増やそうとあがいた。最初のうちこそ、僕の独占欲をからかう余裕を持っていたマナも、それが長く続くことにいらだちを隠さないようになっていった。
結局、僕たちは二年目の冬を越せずに、別れてしまった。
僕が故郷にある支社へ転勤となった時、マナは徐々にライブの本数を増やして活動していた。大好きな歌を思い切り歌える環境を、実力で勝ち取りつつあった彼女に、ライブハウスなどという洒落たものは一軒もない田舎へついてきて欲しいとは、僕は言い出せなかった。
最後にマナは、アコースティック版のCDをくれた。それを荷物の一番奥にしまって、僕は東京とマナに別れを告げた。
それ以来――とその客は、ビールが僅かに残った、タンブラーの底を覗き込んで呟いた。私はカウンターの内側で、グラスを磨きながら彼の話を聞いていた。
うちのようなバーに客が入るのは、食事が終わってからの時間だ。まだ早い今の時間、お客は初めてきたこの男性だけだった。
「それ以来、僕の心はずっと冬のままなんだ。なんて言ったら気障かな」
ハハ、と乾いた笑いをこぼした彼に、私は小さく、いいえ、と返した。
「もう十年以上昔の、若くて苦い思い出なんだけれど、忘れられないんだな。あの時につないだ手の温もりが」
じっと自分の手を見て、彼は言った。私が何も言わないでいると、彼はビジネスバッグの中から一枚のCDを取り出し、カウンターに置いた。ジャケットは、何度も取り出して眺めているのか、端がボロボロになっていた。
「マスター。もしよければ、かけてもらえないかな。三曲目だけでもいいんだ」
他に客もいなかったので、普段はかけない日本語歌詞のそのCDを、私はトレイに乗せた。リクエスト通り、三曲目を頭出しして流す。マナという女性シンガーの声が、店内に響き渡った。透明感と緊張感がある声の中に、歌が好きなのだという熱情が溢れていた。
「正直、歌の良し悪しなんてわからない。この歌が、どんな音楽性を持ってるかなんてことも、さっぱりわからない。けど、あの時、僕の心を溶かしてくれたのは、この歌なんだ」
「歌に、いいも悪いもないですよ。好きか嫌いか、それだけではないでしょうか」
私が言うと、彼はにっこりと笑った。店に来て、初めて見せる笑顔だった。彼は、残ったビールを飲み干して、タンブラーをカウンターに戻した。
「けどね。僕はどうしてもこの歌は好きになれないんだ」
え、と私が思わず聞き返すと、彼の顔からまた笑顔が消えた。
「これが冬の歌で、僕たちは冬に出会って、冬に別れた。だから僕の心は、永遠に冬に囚われたままなんじゃないか――そんな風に思えてならないんだ」
私はそっと、CDのジャケットに視線を落とした。そこには、はりきれんばかりの笑顔の女性が、小さな花束を持って映っていた。
「この花は、彼女がお好きだったんですか」
「え、ああそうだね。付き合い始めの頃、よく買っていたな。デイジーというのだっけ」
CDは四曲目になっていたが、私はCDを替えることはしなかった。
「まだお時間、大丈夫ですか?」
私は彼に訊いた。彼が頷いたのを見て、私はジンのボトルに手を伸ばした。
ドライジン、レモンジュース、グレナデンシロップ。材料を入れたシェイカーを振る。シェイクの音が、歌と混ざり合った。クラッシュアイスをたっぷり盛った冷えたカクテルグラスに、シェイクした中身を注ぐ。ミント、レモンスライス、ストローを添えて、彼の前へ滑らせた。
「どうぞ。素敵な歌を教えてくださったお礼です」
彼がグラスに口をつけて、一口飲むのを待って、私はカクテルの名前を彼に告げた。
「ジン・デイジーといいます。ヨーロッパでは、デイジーの花を一度に九つ踏むと、春が来るといわれているそうです。切花は冬から出回りますが、デイジーは三月、春の訪れとともに咲く、春を告げる花なんです」
私の言葉を聞き終えると、彼はカクテルをゆっくり飲み干し、立ち上がった。
「マスター、ありがとう。一度に九つは無理かもしれないが、ひとつずつ、春の証を探すようにしてみるよ」
CDはいつの間にか、五曲目も終わろうとしていた。CDを返そうとした私を彼は制し、君に預けるよ、と言った。
「春になったら、返してもらおう」
「わかりました。大切にお預かりします。それから、うちでは土曜日にちょっとしたライブをしているんです。よろしければ週末、いらしてみてください」
私は釣りと一緒に、店のライブスケジュールを渡した。彼はごちそうさまと言って、出て行った。彼とすれ違いで、どこかで食事を終えた客が入ってきた。私は、CDをいつものブルースナンバーのCDに替えた。
土曜日、今年の春一番が吹いた。
私は彼の来店を待ったが、彼は来なかった。代わりに、抱えきれないほどのデイジーの花束が届いた。送り主の名前も、あて先もない花束だった。私は今日のミュージシャンへ花束を渡し、預かっていたCDを見せた。彼女はボロボロのCDジャケットを見て、一粒、涙をこぼし、やがてジャケットの笑顔と同じ顔で微笑んだ。
その夜のライブのラストソングは、冬の日に恋人とつなぐ手の温もりを歌った、恋の歌だった。
タイトルは「デイジー」といった。
――了
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