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『勝ち目あるんですか、これ……』
三河が容赦なく痛いところを突いてくる。しかしこの局面で杉村を取られていたら、数手先で負けていたのだ。
それに、俺は見かけの戦力よりも、ビショップやポーンといった一見弱そうな駒で相手を翻弄する戦法が好みだった。腕にも自信があった。
とはいえ局の中盤へきて、一手、一手を打つのにかなりの時間を要する。
O-O。キャスリングの表記方法である。チェス特有のルールで、一手でキングを盤の端に、ルークを中央に動かすことができる。この場合、キングはg8に、ルークはf8に移った。
キングは出来るだけ盤の端にいたほうが安全であり、戦力の高いルークは出来るだけ中央に出して活躍させるのが鉄則だ。
この人間チェスゲームではチェックメイトを取られた瞬間、キングは間違いなく死の危機に晒される。
司令塔である俺がキングを務めるのが自然な流れだった。にもかかわらず、俺を信じて殿に名乗り出てくださった男気ある上司を、こんなところで失うわけにはいかない。
目を瞑って、何十通りの何十手先までを頭の中のチェス盤で試し打ちする。スマホの画面には額からの汗が滴り落ち、背中には滝のような汗が流れている。
十六手目先行、『f3』。
俺は息を止めた。なんだこの手は?
ポーンがこちら側に一歩進んだことにより、キングの左右ががら空きとなった。敵のキングは今、危険な状態だ。
中折り帽を被って下を俯き、このクソ暑い中、黒いローブのような服を身に纏っているあのキングこそが榎本だろう。何を企んでいる。
とりあえずは、こちら側に食い込んできている敵のクイーンを、キングから引き離しておいたほうがいい。
Bd7。
『Qa6』
Bxa4。
『Qxa4』
杉村とは別のビショップを囮に、クイーンを遠ざけた。キングと同じく黒いローブのような服に身を包んだクイーンが、妙な威圧感を残して去っていく。
さて、どうするか。あのがら空きのキングは罠なのか。
『木戸先輩。とりあえず、e4のナイトを守ったほうがいいかと』
三河からの助言だ。それはもちろん考えた。しかしその何十手先に、確実な勝利があるかどうかは不確かだ。
この場で求められているのは確実な勝利。考えろ、考えろ。
どれだけ時間が経ったか分からない。
……これしかない。
十八手目。
杉村、斜め左前方の一番端まで行って、ポーンを奪うんだ。
『待ってください!』
やっぱり三河は反応するか。
『杉村君を捨てるんですか!』
そう。杉村はここで切り捨てる。
杉村は指示通りに動いたら最後、目の前に待ち受けるルークに取られる。
『え、俺、捨てられるんですか?』
大丈夫だ杉村。ただ無駄にお前を捨てるわけないだろ。これは、俺たちが勝つために絶対必要な手なんだ。
俺を信じろ。
俺は杉村を直視した。杉村は真っ直ぐに俺の目を見ながら、力強く頷いた。
杉村が相手側へゆっくりと歩いて行く。
しばらくして、杉村はルークに取られた。
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