飲みの過ち

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 俺は外資の家具メーカーの下請け会社にいる。大学卒業して6年。そこそこ仕事もしている。  この美人上司、西尾秀一が俺の部署の課長としてきたのは、一年くらい前だった。  凄く若いと思ったけれど、実際32歳という若さ。優秀な人というのが見た目で分かる。きっちりとスーツを着込み、隙がなく、銀縁眼鏡の奥の瞳はいつも涼しげで人を寄せ付けない感じがあった。  正直、苦手だなと思った。  実際西尾課長は優秀だった。業務の効率化は勿論、デスク周りの整理整頓、スケジュールの徹底管理に無駄な接待の廃止まで。  愛想があまりなくて怖い印象があるけれど、彼がバリバリ仕事を持ってくるものだから業績は向上。ヒーヒー言いながら仕事をしているけれど、その分終わった時は爽快な感じだ。そして給料が目に見えて上がった。  こんな感じで西尾課長は愛想なしで近寄りがたいけれど、部下の信頼は厚い人だった。  昨日は丁度、三ヶ月くらい取り組んでいたプロジェクトが終わったお疲れさん会をしていた。課長が中心になっていた事もあって、普段は参加しない飲みに加わってくれたのだ。 「それでは、三ヶ月お疲れさんしたー。無事に納期も終わって万々歳です。それでは、課長から一言」  こういう場面で必ず仕切ってくれる同僚の岡野が適当な声で音頭を取る。指名された西尾課長は少しぎこちない感じで前に出て、10人いないくらいの仲間を見回した。 「本当に、お疲れ様でした。メンバーの尽力のおかげで、無事にプロジェクトを終えられた事に安堵している。今日は楽しんでいってくれ」  安い居酒屋に不似合いな西尾課長のぎこちない挨拶を聞いて全員が微笑ましい顔をして、程なく乾杯となったのである。  2杯目のビールがなくなった頃に、ふと見回してみると課長がいなかった。ただ、荷物は置いたままだ。  トイレだろうか? 丁度俺もトイレに行こうと思っていたので席を立って向かうと、トイレ前の廊下で誰かが蹲っている。  飲み過ぎたんだろう。普通なら関わらないが、知っているような背中に足を止めて近づいてみると、それは西尾課長だった。  少し顔色が悪くて、でも頬の辺りは上気していて、目はいつものキリッとした印象がなく弱々しい潤んだもの。半開きの唇が少し濡れている。  ドキリとした。けれどそんな自分に動揺した。男にドキリなんて、有るはずがない。 「大丈夫っすか、課長」 「沖野……」 「気持ち悪い? それとも具合悪くてしんどいっすか?」  無理に立たせる事はせずに近づいて声を掛ける。場合によってはこのままタクシーに放り込もうと思っていた。  けれど俺の腕を掴む手のほっそりとしたラインや、弱く縋るような瞳を見るとやはり、ドキドキしてしまった。 「沖野……」 「あの、タクシー呼びましょうか? その前に水」 「平気。でも、みんなの前にはいたくない」 「はぁ?」  意味が分からず首を傾げる俺の腕に縋る課長は、本当に別人みたいだった。かっこいい出来る男の姿は微塵もなくて、弱くて儚い印象すらあった。  そして、そんなこの人を見て俺は、何故かドキドキしてしまっていた。 「あの、今日はもう帰ったほうが」 「帰りたくない」 「いや、でも……」 「一人は嫌だ。沖野……」 「えぇぇ」  困った。そう思ったけれど放置しておくこともできなくて、俺はとりあえず宥める。  するとそこに丁度、岡野がトイレにやってきた。 「ん? どうした沖野?」 「あぁ、岡野か。悪い、俺課長送って帰るわ」  不思議そうにしている岡野が俺に隠れるようにしている課長を見つけて、驚いた顔をする。けれど俺が指で「しー」とやると、無言で頷いてくれた。 「お酒、あんまり強くなかったみたいなんだ」 「ありゃ、そうか。だから酒の席にこれまで出てこなかったのか。悪い事したな」 「悪い。代金後で請求してくれ」 「おう、了解」  岡野はそう言うと俺と課長の荷物を取りに行ってくれて、俺はそれらを持って課長の腕を引いて、居酒屋を後にした。  夏の一歩手前は蒸し暑くて、じとっと肌にまとわりつく感じがある。  俺は課長をタクシーに乗せようとしたけれど、何故か課長は嫌がって歩き出してしまった。しょうがなく、俺はついていく。 「家、どこですか?」 「知らない」 「いや、知らないって……」  子供かよ。  飲み屋街を歩いていく課長は細い路地を曲がる。そうして小さなバーを見上げて、そこへ入っていってしまった。 「ちょ!」  酔っ払いなのに更に飲むつもりか! 俺も慌ててバーに飛び込むと、課長はそこのカウンターに座って水を飲みながら、俺が来るのを待っていた。 「沖野」 「もう飲まないっすよ」 「おごりだから」 「いや、だから……」 「寂しいんだ。家に、帰りたくない。あそこは空っぽになってしまった」  凄く悲しい目をして言うものだから、俺は気の毒になってしまった。そしてなんとなく、課長が自棄気味に見えてしまった。  隣に腰を下ろして、とりあえずジントニックを飲んでいる。課長は水をチビチビ飲みながら、カウンターに半分体を預けてぼんやりしていた。 「あの……マスターさん。この人、ここにきた事あるんですか?」  明らかに迷惑な客状態の課長を、ここのマスターらしい初老の人物がにこにこして見て居るから、俺はそっと聞いてみた。するとマスターは穏やかな様子で頷いた。 「月に3~4回くらいですね」 「あっ、結構来てますね。あの、俺はこの人の部下で沖野と言います。ご迷惑じゃないですか?」 「いえいえ、とんでもないですよ。恋人と別れたと言って泣きながら飲みに来たのが先月で、それから顔を出していないものですから心配していたのです」 「別れた?」  俺は隣でだらしなくする課長をまじまじと見てしまった。課長はこちらの話を聞いていないのか、少し眠そうにしている。無防備な顔は少し幼くすら見えて、俺は妙なドキドキを再燃させてしまった。 「2~3年くらい付き合った相手だったらしいですがね」 「この人でも、フラれる事があるのか」 「何でも、相手に新しい恋人が出来て、そっちと結婚することになったからとか」 「うわ、なんすかその最低女! ってことは、課長二股かけられてたってことか」  途端に俺はこの人が気の毒で可哀想に見えた。確かに愛想はないし笑顔も見たことがないけれど、真面目でいい人だというのは伝わる。さりげなくフォローしてくれたり、サポートしてくれたり。それに、今の時代部下の失敗にためらいなく頭を下げてくれる上司というのは貴重品だ。  そんなこの人のいい部分を、相手は知らなかったのだろうか。 「沖野……」 「あっ、なんすか? 具合悪い? トイレ連れてきますよ」 「一緒に、飲もう?」 「いや、だからこれ以上は……」 「飲みたいんだ」 「…………はい」  完璧人間な会社の課長。けれどプライベートはズタボロで、お酒が入って弱い部分が出てしまったのだろうか。飲みたいと言うこの人の縋るような視線に、俺は負けた。  そうして多分3時間は飲んだ。課長はだらしない格好のままチビチビとグラスを2杯空け、俺は4杯も飲んだ。  さすがに気持ちよく酔いが回っていて、足が微妙についていない感じがする。美味しいカクテルというのはこんなにもいい物かと思ってしまう。 「沖野……帰りたくない」 「俺も帰れないっす~」  酔っ払い2人がふらふらしながら飲み屋街の裏手を歩く。看板だけがポォッと明るい建物が何軒も並んでいて、側には料金形態が書かれている。  その一つに、課長は俺を誘った。  俺はあまり考えていなかった。というか、こういうことはしばしばあった。飲んで終電を逃して、シャワーと寝床を確保に同僚とかとラブホに入る。当然なにもなく、シャワーを浴びてソファーやベッドで行儀良く寝るだけだ。  今日もそのつもりでいた。シンプルな部屋を選んで入って、荷物を置いて…………そこまでは、記憶にある。  ……あっ、ちょっと思い出した。俺はその戸口で課長に、キスされたんだった。
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