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第1章 浅緋
「だぁかぁらぁー!とりあえず今持ってる金、全部出せって!したら今夜は帰してやっから、な?」
腫れ上がった片方の瞼の隙間で、黒目がちらちらと怯えるように動く。よれたスーツで両ひざをつき、だらりと両肩を落とした男は情けない顔つきで自分を痛めつけた青年と、派手なジャケットの男を交互に見上げた。
「聞いてんのアンタ?助けてくださいとかいう目で見たってダメ。借りたのはアンタなんだからね?わかる?浅緋、もっかいこいつにケリ入れろ」
いつもは負けん気の強そうな眼をサラリーマン風の男から逸らして、浅緋と呼ばれた若い男は錆びついたフェンスの隅に転がるペットボトルを眺めるフリをする。
こっち見んじゃねえよ。
「浅緋!聞こえねえのか?お前の仕事だろ」
不機嫌に命令され、浅緋は弱々しく呻く男の肩口に踵をのめり込ませた。がくりと身体を揺らして、男はずるずるとアスファルトへ倒れこむ。
「こいつから有り金全部取っとけ。俺は事務所に戻っとく」
「…っス」
煙草をくわえ、首をぐりぐりと回しながら気怠そうに去っていくジャケットの背中を見送ってから、浅緋は地面に倒れている男の前にしゃがみこんだ。さらりとしたアッシュグレーの髪にシルバーのピアスが鈍く光る。目もとに僅かに幼さの残る青年を、痛みで目を瞬かせながらスーツの男が見上げた。
「すみませんすみません…っ、もう、蹴らないでください…」
「大丈夫か?」
思いがけず青年からかけられた気遣わしげな声にほっとしたのか、男はふにゃふにゃとした呟きを漏らしてよろめきながら立ち上がった。片手で掴んでいたカバンを抱きしめ、顔をしかめながら腫れた瞼に指を添わせている。
「相当腫れてんぜ。とっとと冷やすかなんかしとけよ」
「はいっ!ありがとうこざいます!」
大丈夫か、と尋ねてきた当の本人に痛めつけられたくせに、膨れ上がった顔に薄笑いを貼りつけて後ずさりする。そのまま賑やかな光が漏れる表通りの方へ顔を向け、ぺこりと頭を下げ歩き出そうとした。
「おいおい、金はちゃんと払ってけよ。そのまま帰んな」
と浅緋が凄みを効かせた。効かせたつもりなのだが、仕事とはいえ他人から金を巻き上げるようなことに彼はまだまだ抵抗がある。言葉の端々にそんな甘さがのぞいてしまうのもいつものことだった。
すっかり見逃してもらうつもりになっていたスーツ男は、頬をさする手のひらの動きをぴたりと止めて、目を見開いた。
「え、あの…家に帰してくれるんじゃ、ない、んですか…」
「…っそっ!そんなわけねーだろ!コッチも仕事なんだよ!」
浅緋はまた、男の目を見ないようにして大事そうに掴んでいたカバンを力任せに取り上げ、なかを乱暴にまさぐる。くたびれた財布らしきモノを掴んで鞄を突き返した。
「んじゃ、財布、貰っとくから」
「や、やめてくだ、……!えっと、む、息子!そう!ムスコの誕生日に…っ必要なんですっ」
「見え透いたウソついてんじゃねーよ」
ううウソじゃないですぅ、としどろもどろになりながら浅緋のパーカーの裾を掴んでひっぱる男。見ると角がめくれ、擦り傷だらけの財布から、色あせた写真がのぞいていた。古ぼけた背景に小さな男の子が写っている。
くそ、こんなもん見せんじゃねぇっての。
「あんた、こんなもん持ち歩く資格ねーよ!ギャンブルばっかしてウチに借金繰り返してるくせに、調子のいいこと言って見逃してもらおうとしてんじゃねえ!」
苛立ち紛れに腹に蹴りを二、三発入れ、うずくまる背中に財布を投げつけて、彼はそのまま、裏通りを歩きだした。
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