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街の噂
「悩みっていやぁさ、そういや、最近この辺で家出だか失踪だか聞くようになったよな、マスター」
三つほど向こうの席で暇そうに煙草をふかしていた男が不意に声をかけて来た。
「そうなんですか?あまり聞いたことはありませんが」
優雅に口調を変え、穏やかに男に接する。桐夜の落ち着いた、深い艶のある声は男女関わらず幸福感を与えるらしい。話したくてたまらなかった様子で年配の男は機嫌よく話を続けた。
「ああ、俺の知り合いの親戚とか、仕事でちょっと付き合いのある奴の息子の友達、とかさ、最近元気ねえなぁ、てな感じで思ってたら、ふっと連絡取れなくなってたりするんだってよ。何人か聞いたな」
咥えたストローを玩びながら浅緋は、知り合いの親戚、なんて不確かな情報をぺらぺらと良く話すもんだ、と半ば呆れ気味に男を横目で見る。一方桐夜はレモンを切る手を止めて、気遣わしげな表情を浮かべながら、相槌を打っていた。
「それは、心配ですね…」
「まぁね、どっか旅行にでも行ってるのかもしれないけどね。元気ないって聞くとあれだね、変な気起こしてないか心配になるよねぇ」
男はもっともらしい口ぶりで、最近はわけわかんない事件に巻き込まれたりとかあるもんねえ、マスターも気をつけなよ、と続けている。あんたみたいな綺麗な人間だって危ないんだよ?
浅緋は聞くともなしに二人の会話をBGMがわりにしてぼうっと物思いに沈んでいた。
さっきのあの男。なん年前の写真だよあれ。あんなモンでなに絆されてんだ、俺は。
結局あの債務者からは財布を取れなかったし、何も回収できなかった。思い出すと気分は重くなる。あんな、痛めつけられて戦意もない奴からの回収もできねえんだな、と呆れたような先輩の顔が今から見えるようだ。
あの人は上からの命令でしかたなく自分に仕事を教えてくれているが、なかなか芽が出ない浅緋をお荷物扱いしていた。そしてそれは、今まで地元ではお山の大将であった彼の自尊心を大きく傷つける。何もない自分を日々、思い知らされていた。
カウンターに置いた端末が震え、メッセージを受信した。よくつるんでいた友達とも疎遠になって、このスマホが告げるのは仕事の呼び出しくらいになっている。一人で過ごすのは嫌いではないが、一緒にバカをやっていた奴らから距離を置かれているのは、こんな仕事をしているからだという自覚は浅緋にもあった。
寂しいような、放っておいてくれるのが妙に安心するような、そんな混ぜこぜな気分で画面をチェックする。
珍しく二カ所からだった。
『今日はもういいから、明日朝イチで事務所来い』
『元気にしていますか。こちらは元気です。連絡ください』
浅緋はグラスに残った氷をひとつ、口に入れ席を立った。
「じゃ、行くわ」
「ああ、もう来なくてもいいぞ」
「言ってろ。最初にまた来い、つったの、アンタだからな」
「覚えていないな」
少しだけ口の端を上げて目を細める。そうして桐夜は、お前も、気をつけろ、と浅緋の目を見た。
「はぁ?何をだよ」
「なにもかも、だ」
珍しく気遣わしげな響きをあえて無視して、浅緋はぶっきらぼうに応える。
「よけーなお世話」
ふん、と鼻を鳴らして背中を向ける。重いドアを開ける後ろ姿を、憂いを含んだ灰墨色の瞳が見送った。
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