『cafe &BAR 雪』

1/1
226人が本棚に入れています
本棚に追加
/85ページ

『cafe &BAR 雪』

賑やかな通りから何本か道を挟んだ裏路地の一つに、その店は静かに佇んでいた。注意深く探さないとあたりの闇に溶け込んでしまいそうな色のドアをゆっくりと押す。 客を拒否しているかのような重たい扉の向こうで、意外にも柔らかな光が浅緋を迎えた。 数人の客が気怠げな視線を彼へ向けたが、すぐに自分の世界へと戻っていった。 「いらっしゃ…なんだ、おまえか。飲めもしないのに来るなと言っただろう」 右手のカウンターの奥からむっつりとした声が響く。艶のある黒髪をきっちり後ろで結び、カマーベストが恐ろしいほど似合う店長兼バーテンダーの桐夜が浅緋を睨む。 百八十五を越える長身と気品溢れる美しい顔立ち。彼はこの界隈で、その容姿と優雅な接客で有名だ。 「いいだろーが。カフェなんだろここは」 「それは昼間だ」 浅緋はバーカウンターの一番端のスツールに腰をどさりと落とし、壁にもたれ店内を見渡す。目新しい客はいなくて、照明を絞ったテーブル席で陰気臭い背中をこちらに向けながらちびちび飲んでいる奴ばかりだ。カフェとして営業している昼間は、店長目当ての女子がきゃいきゃいと賑やかだが、夜には一転、寂れた雰囲気に様変わりする。 『cafe&BAR 雪』偶然見つけたこの店の、裏路地に隠れるような雰囲気が浅緋の肌に合って、いつしか夜はこの店に通うようになった。 薄暗い店内では誰もが後ろ暗い過去を持っていそうで、ヤミ金の使いっ走りみたいな中途半端な仕事をしている不良あがりの人間なんて見向きもされない。 このまんまじゃダメだろ、なんて諭したりする者もない。他人にも、自分にも真剣に向き合う必要がないのだ。 浅緋は今年十九歳。どうにかこうにか高校は卒業したものの、バイトや喧嘩に明け暮れた三年間の先に輝かしい未来など用意されてはいなかった。 卒業と同時に育った家を飛び出し、この街でふらふらとしていた彼は、よくない噂のある先輩に誘われるまま、小さな金融会社の臨時見習い社員として働くことになる。そこは、法外な利子で貸し付けるいわゆるヤミ金融で、浅緋は社員に付き添ってにらみを利かす役として採用されたのだった。 喧嘩には自信があるが、基本まっすぐな性格の浅緋にとって人を執拗に追い詰めるような真似は、毎日自分を少しずつ追い詰めているのと同じだった。 「で、今日は何を失敗した?」 「うるせー」 酒は飲めないし、飲める年齢でもない浅緋に、桐夜はいつもノンアルコールのカクテルを出す。たっぷりと氷の入ったタンブラーに乳酸菌飲料を二センチほど注ぎ、カシスシロップをバースプーンにそっと添わせながら入れる。炭酸水とミントで仕上げたそれは、要するにカシスジュースだが、新レシピの実験台と称してタダで飲ませてくれたりもするので、ガキ扱いすんなと憤慨しながらも入り浸るようになった。 形のいい眉をあげ、ぶっきらぼうに聞いてくる桐夜を適当にあしらってストローに口をつける。 この年齢不詳の男はなぜか、ふらふらとしている浅緋を気にかけてくれているようだが、彼にしてみればまるで、持ったことのない兄ができたようで少し鬱陶しい。だがついつい店に入ると隅のテーブルではなく、カウンターに腰を下ろしてしまうのだ。 頬杖をついてしばらく、優雅な手さばきでカクテルを作る桐夜の手元を眺める。 「なぁ」 「なんだ、腹がへったのか?」 「ちげーよ。ヒトの顔見りゃいつも腹へってんのかばっかだな。あんた」 「腹が減ってそうな顔をしているんだ、お前は」 くくっと笑う桐夜にため息をついて浅緋はもう一度聞く。 「この店って何でこんな昼と夜で客層ちげえの?」 「今さらなんだ?」 「や、なんか、ふしぎっつーか」 「昼間はまじないをかけている。明るい雰囲気になるように」 「なに言ってんの」 「そうでもしないと、昼間から悩みを抱えた紳士ばかり集まることになるからな」 妖艶に微笑む桐夜に、ばーか、ともう一度呟いてグラスの氷をストローでからからと混ぜる。無数の泡が縦にしゅわしゅわと消えていった。
/85ページ

最初のコメントを投稿しよう!