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2.竜人と龍神
強い痛みが走る。今まで味わったことの無い雷のような痛みは二千年もの時間にも見当たらない。
不思議な音がする。熱い鉄板に垂れた水滴が蒸発していくような嫌な音。不快な音に周囲を、見渡してもその発生源が視界に入ることは無い。ゆっくりと雲の下を見てみるも、特に変化は無いように見えてしまい更に戸惑う。
それでも何度か周囲を見渡してようやく気づく。煙が自信を包んでいる異質な状況に。
「そうか」
ヴァイスは小さくそう呟きゆっくりと目を閉じる。まるでその煙から目を背けるように。
「私に未来が無いと知って.......」
天から降り注ぐ白い光を、乱反射していた龍鱗が剥がれてゆっくりと大地へと落ちてゆく。そして体は液体のように溶け出して、その体積を小さく小さく縮めて行く。液体は雲を伝い大地へと降り注ぎ、煙は霧散して消えてしまった。
「何を知るべきか、何を得るべきか。それだけが答えではない。」
溶け出していく意識の中、はっきりと聞こえてしまうそんな声にヴァイスは応えようとせず、既に機能を停止しようとしている体に従い、ゆっくりと息を吐いた。
そうしてヴァイスは何処か.......遠くへと消えていった。
静かな湖のほとりに男は立っていた。酷くやせ細った体と少し青みがかった銀髪。白い肌は単純な白.......という表現が似合わない。まるで、全ての色素を抜き取られてしまったかの様に、透き通るような色。美しく儚げなその体が、辺りを駆け抜ける突風に弱々しく揺れていた。
遠目に見れば消えいってしまう老人にも感じられる男は、身に一切のものを纏っていなかった。
「ここは.......」
男は空を見上げる。青く澄み渡った空からは白い太陽が大地に光を与えている。眩しげに男は目を細めるが、その表情は何処か睨んでいるようにも見えるだろう。
「一体何を.......」
広がる湖と、その周りを囲むようにして拡がる山脈。見渡しても見渡しても、視界に入るのはそんな大きな山々ばかり。所々に弾けた木の残骸や、どこからか飛ばされてきた、得体の知れないものが転がっていること以外はただの湖。
男は混乱したように足元を見るも、その大地に立っているということが信じられないようで、何度もしきりに空と大地を見る。
余りに小さいその体躯に気づいてしまったのだろう、男はその行動を停止し、呆然と立ち尽くしてしまった。
「おい、アンタ.......こんな所で何しているんだ?
まさか、嵐の中こんな場所にいたんじゃ無いだろうな.......?」
街で働くクロズミの少年シュラスは、湖の前で裸の人間を見つけて声をしまうが、その異様な光景に血相を変えて持っていたものを落としてしまう。
男が驚いてそちらへと目を向ける。全身褐色の小柄な少年の背には、何やら刀のようなモノを背に携えているものの、それを男に向ける気配は無い。しかし、男はそんな二回り近く小さな、少年の問いかけに対する解答が見つけられず、閉じられた口を開くことが出来ない。
「あ.......」
ようやく開けた口からは、上手く言葉が出せずに虚しい音が一つ。男は、目の前の小柄な人間の問いかけにすら答えられない自身に悔しさを滲ませた。
しかし、シュラスは小さく笑みを浮かべる。その笑みは不思議と悪意を感じられない。
「なんだ、思ったより若そうじゃないか。もし嵐に服をもってかれて絶望してたんだとしたら、ちょっと間抜け.......だよな。ほら、それでも着なよ。無いよりはマシだろう?」
シュラスはゆっくりと男に近づくと、濃紺色の膝上まであるブカブカの服を手渡した。
「感謝する」
男がふっと笑いそれを受け取る。
「感謝するって.......アンタ珍しい喋り方するんだな」
シュラスは笑ってそう口に出す。
「俺の名前はシュラス。ここら辺に住んでるんだがアンタの名前は? 」
男は自分が誰であるのか、そんな単純なことですらも返答に迷う。見ない顔という言葉の裏を考えて、男はまた頭を抱えるがシュラスの好奇心に溢れた表情にそんな考えを捨てた。
「私か.......。私は.......ヴァイス。そう、ヴァイスだ」
男がそう名乗る。これはあの青いヤツが彼を呼ぶ時に使っていた名前。なんでそうなったのか、そんなことはもう思い出せない。それでも赤のヤツに呼ばれてた名前よりはマシだと考えたのだろう。
「へぇ、ヴァイスか。どうして嵐の後にこんな場所に居たのかも、どうして裸なのかも分からないけど、アンタ困ってるんだろう?
俺の姉さんと.......あと.......思い出せないけど誰かに言われたんだ、困ってる人がいたら助けてやれって。着いてこいよ」
シュラスが手を引いて街まで歩く。
だが不思議なのは、人間の体というものが驚く程しっくりきているという事実。一歩、また一歩と足を踏み出す度にヴァイスは驚いていた。
脳からの司令が一切の滞りが無く伝達されているかのような感覚にヴァイスは小さく笑みを浮かべた。
幾らか歩いたところでようやく街に着く。
辺りを見渡すと木箱に何かを載せた褐色の肌の人々が忙しそうに街を行き交う。山々に群がる人々とその無機質な街並みに、ようやくヴァイスは記憶の中から場所を探し出したようでゆっくりと息を吐き出した。
しかし、シュラスは街についても尚歩く速度を緩めることは無く、一息つこうとしたヴァイスの手を強く引いた。よろけながら進むヴァイスとその手を引き街の中へと歩いてゆくシュラス。.......が。
「クロズミ共、邪魔だ道を開けろ」
強い衝撃を背中に受けたヴァイスは、体制を崩して建物の壁に体を打ち付ける。鈍い音と共にヴァイスは倒れた。悲鳴とともに道を開ける人々。それらの人々は、男達に関わるまいと目を背け、その場からゆっくりと離れていく。
ヴァイスは、味わったことの無い衝撃に驚きながらも、よろよろと痛みが走る体を起こす。そして目線を戻すがそこに居たはずの男は、何事も無かったかのように広くなった道の中央を歩く。
「私になんの用だ.......」
「あ?」
「黙ってひれ伏せ」
ヴァイスは首を縦に振り、男に言うがただ笑うばかりでその声は意味を為していない。
「何、神様にでもなったつもり?」
面倒くさそうにこちらに目をやる男。周囲に幾らかの人間を連れ、金色の装飾に身を包んだ男は、ゆっくりとヴァイスの元へと近づき嫌な笑みを浮かべると、腕を振り上げた。
「邪魔だから邪魔だって言っただけなんだよ」
そして男が腕を振り下ろした.......が、それがヴァイスに届くことは無く、短いながらも逞しい腕がその拳を受け止めていた。
「お前らのやりたい放題に関係ない人間を巻き込むなよ」
シュラスの声だった。
「は?それならお前が先に死ねよ」
男はもう片方の腕を振り上げるが、それより早くシュラスの腕が男の腹にめり込んだ。そして、続け様に繰り出した膝が男の腹部を更に襲った。
「うガッはッ.......」
唸り声を上げ、体をくの字に折り曲げる。そして苦悶にその顔を歪めて倒れ込む男。地面に転がり、悶え苦しむ男をシュラスは冷たい目で見下ろしていた。
「大丈夫か、ヴァイス?」
しかし、シュラスは一瞬にして表情を緩め、ヴァイスの様子を伺う。
「あぁ。少し体を打っただけだ」
体を壁面に預けたまま、緩やかに体を動かす。しかし、ヴァイスは表情を変えることなくそう呟いた。
ヴァイスの体は、痛みがないといえば嘘にはなるが、それでも答える余裕がある程度には痛みは抜けていた。
「おい.......お前ら.......アイツを殺せ」
突然。完全な意識外からそんな声が飛んだ。
悶えながらなのだろう、途切れ途切れの声を出した男。その声に反応するように後ろにいた男達が一斉にシュラスへと殴り掛かった。
「いっッ.......」
耳を塞ぎたくなる様な、不快で鈍い音が響く。ヴァイスを庇ったのだろうか、側面から殴り掛かった男の拳をシュラスはまともに受けてしまっていた。決して彼の致命的な一撃では無い。しかし、僅かに行動を止めてしまった隙に、他の男達が急速に距離を詰める。そしてそのまま流れるようにして、他の男の拳がシュラスを襲う。
だが恐ろしいことにそれだけの攻撃を、シュラスはほとんど受け流している。しかし、多勢であり全員がシュラスより一回り以上大きな人間。全てはいなせ無いようであり、ゆっくりとではあるものの、着実に痛みはその小さな体を蝕んでいく。
「貴様達.......」
ヴァイスがよろよろと立ち上がり、救援に向かおうとする。しかし、シュラスを囲む男達の背後から殴り掛かったにも関わらず、ただ体勢を崩した男の体に押されただけでヴァイスはよろめき、地面に転がった。そんな様子に男達が気づくことは無く、ヴァイスはただ自分の無力具合に奥歯を噛み締めた。
ヴァイスは、人間という存在一人一人を重要視しているような存在ではなかった。
そう、故に決して人間、シュラスの為ではない。初めて会った人間ということだけ。素性すらも知らないただの珍しくも、何ともない劣等種。
だがそうであると、最も理解しているはずのヴァイスは、自身も驚く程に何故か足掻こうとする。しかしそんな足掻きは身を結ぶことは無く、ただ響いていく音を不快感に耐えながら聞くことしか出来ない。
今後は更に過激さを増していくだろう。そして目の前で起こるであろう惨劇を、ただ眺めるしかないということに、強い屈辱感を味わっていた。二千年の中で、味わったことの無い類のもの。二度目の無力感。
そんなものに苛まれながら、俯いてしまう。しかし.......
「痛いっての」
声が聞こえた。シュラスの声だった。直後にヴァイスの目の前の男が一人腹部を抑えてその場に倒れ込んだ。そして続け様にその隣の男が倒れている男の上に重なって倒れる。
ヴァイスには何が起きたのかは分からない。だが、体にいくつかの傷を受けながらもそこに立っているシュラスの姿を逞しく感じていた。
「お前.......本当に死にたいようだな」
倒れた男の一人が銀色に鈍く光るモノを取り出したのが見えた。そして体を何とか起こしてゆっくりとシュラスへと近づく。
あまりに嫌な空気に、ヴァイスは瞳を閉じる。そして未来を見ようと、意識を集中させる.......。しかしそんな願いを断ち切るような稲妻が脳を駆ける。
「見え.......ない.......」
造作のない事のはず。そうヴァイスにとっては、そう難しいことでは無かったはずの『未来を見る』という行為は不発に終わる。絶望。
「シュラス、避けろ」
ヴァイスのできる最大限の行動。そこには神としての威厳も、龍としての力も感じられず居たのはただの人間の姿であった。
驚くように反応するシュラスだが、完全には間に合わず刃物の切っ先は無情にもシュラスを引き裂いた.......。
「ッッッッッ!? 」
声にならない声を上げ、腹部を抑えて蹲るシュラス。それを喜ぶように、嫌な笑顔を浮かべてジリジリと迫る男達。
「良くやった.......お前ら」
一際嬉しそうに笑顔を全面に押し出すのは、あの金色の男。未だ立ち上がれずにいるが、這いながらもその喜びを体で表現している。対してシュラスは蹲り、赤い水滴が一滴、また一滴と足元に赤い水溜まりを作り出していく。
「終わりだな」
刃物を持った男が迫る。ヴァイスは再度、意識を集中させる。戻るだけでもいい、なんでもいい、彼を救えれば。その切な感情はまた酷い痛みに寸断される。
「私は何も出来ないのか」
ポツリと呟き、ヴァイスは息を吐く。そして無心で刃物を持った男に向かって駆け出した.......。フラフラの体で、後方から刃物を弾くべく頼りない拳を差し出す。不意打ちである、そして動いてすら居ない相手に対して行われた攻撃。そこには既に誇りも威厳も無く、あるのはただ必死な姿。
空気を裂く.......とは言えないまでに、遅い拳。それはただ空気の流れを変えるだけで、何に当たることも無く残ったのは虚しさだけ。
「は? まだ立つ余裕でもあったのか? 」
刃物を持った男は、自身の横を抜けた拳に気付く。フラフラと頼りなく立つヴァイスを嘲笑う様に、刃物を目の前にチラつかせて、ゆっくりと表情を変えて行く。そしてその顔が笑顔に染まった時、その切っ先がヴァイスの体へと標準を定めた。
「ならお前もぉぉぉ!! 」
甲高い声を発して、突き出された刃物。胸元を目掛けて突き進むそれを視認したヴァイスは、避けようと体に力を込めるが、所詮はただの人間。間に合うはずも無く、無情なそれがヴァイスの突き出された拳を捉えた。
鮮血が辺りに舞う.......確かにそうなるはずであった。しかし、舞ったのは刃物の先。男の声をかき消すような音と共に、金属の破片が宙を銀色に染めた。
何が起こったのか。しかし、そう考えようとした男とヴァイスの思考は、一瞬にして止まることとなった。
「いい加減にしなさい」
耳を劈かれると錯覚するほどに、大きな声。周囲を巻き込み、震わせるような声に、ヴァイスそして男を含めた全員がその行動を急停止させた。
「この様な公衆の面前で荒事を起こすとは、流石は下級の貴族。やっていることは賊のそれと同じですね。余りにも不快な様子を見せるならば、貴方達全員をこの街.......いえ、この世から消すことも容易いのですよ」
中性的な容姿と透き通るような美声。青い服には鳥を象った紋様が描かれており、その男.......はゆっくりとシュラスの前へと足を運んだ。
「大丈夫ですか?」
「.......なぜ、止めた.......俺はまだ.......平気だってのに.......」
強がりであることは明白。腹部を抑えながら何とか応答する。しかし、そんな様子に青い服の男は、酷く退屈そうな表情を浮かべる。ほんの一瞬の後にまた、不自然な程の笑顔を浮かべるが、シュラスはそんな様子を見逃してはいなかった。
「今、お前の内が見えたぞ.......」
シュラスが、背に携えた刀を抜く。刃先は鋭く研ぎ澄まされて居て、この大地特有の白い太陽の光を、強く跳ね返している。だが腹部に負った傷のせいだろう、右手に持った刀をは頼りなく揺れている。
「俺は弱いやつには、剣を振らない.......だがお前みたいな気に食わない奴は.......。いや、あんたが一番質が悪いって俺には分かるんだ」
「心外.......ですね。こちらとしてはただ、怪我を負っている貴方を助けるために、態々仲裁に入ったというのに。それを無下にするだけではなく、刃を向けるとは、恩を仇で返すにも程がありますよ。貴方達は下がっていなさい」
青い服の男が、近くの男達を遠ざける。そして腰に携えていたモノを抜く。抜かれたそれは、シュラスの物より少し短いが、両刃で少し赤みがかっている。一体なんの塗料が使われているのか、そんなことが頭に浮かぶような色であった。
「シュラス、辞めておけ.......今は敵を作るべきでは無い.......」
ヴァイスが声を上げるが、シュラスは反応すらしようとしない。
「辞める。この私に無礼を働いたのですから、ただで済まされる.......などとは、余り甘い考えで物事を口に出すものではありませんよ。異国の方」
青い服の男が構える。その刃を地面と水平にして、シュラスへと向けた姿は、どうやら貫くことに特化しているようだった。対してシュラスが斜に構える。右の肩を不自然に上げて、刃の先を自身の左腹部につく程に近づける。余りに不自然で、負った傷のせいで自殺行為にすら見えるその構え。しかし、その構えを見た青い服の男は、深い傷を表情に刻む。
「まさか貴方.......湊牙流.......あの方の、いえあのお眼鏡にかなったというのか.......? 」
「ソウガ流.......? 師匠の名前.......だった気がするが、俺の流派は新陰流だ」
「新陰流.......? 聞いたことも無いですね.......。どうせ湊牙流の真似をした、偽物の剣なのでしょう。あまり驚かせないで下さい」
青い服の男が、肩の力を抜くように息を吐き出す。緊迫していたように見えた空気が、男によって意図的に緩められた。だが対するシュラスの周囲の空気だけが、まるで質量を増したかのように重く、圧力を増していく。そして怒り故か、シュラスの腹部からの出血にも勢いが増したように見えた。
「切り伏せる」
シュラスが足を踏み出した。たった一歩でつまる間合い、そこは互いの射程圏内であり、互いにとっての死地であった。シュラスが斬りかかる.......。
「シッ.......」
空気が漏れるような音が聞こえた。斬り付けていたのは、男の方だった。距離を詰めたシュラスを、待ち構えていた男が、鋭い突きでシュラスの喉元を貫く。
「クッ.......この攻撃を躱すとは.......まさか貴方.......」
驚愕の出来事に表情を歪めていたのは、男の方だった。突きは喉を貫いた.......ヴァイスには、確かにそう見えていたが、シュラスはその突きを躱していた。もっと正確に言うならば、受け流していた。そう、目にも止まらぬ程の一撃を.......だ。
「突きは、貰わないよ」
シュラスが、前方へと斬りかかる。体側へと構えていた刀を、前方へと振る様子は居合のようにも見えるが、その軌道がどこかおかしい。
男は、避けきれずなんとなそれを刀で受け止める.......が、直後に襲いかかったシュラスの右足に当たってしまい、後方へと押し出される。
「クッ.......くっそ.......痛て.......」
ダメージの色が濃いのはシュラス。蹴りを繰り出したことにより、腹部を抑えて追う足が出てはいなかった。
「惜しかったですね.......」
男は、シュラスの一瞬の隙を見逃してはいなかった。後退したはずだというのに、距離は瞬きの間に詰められ、その剣は既にシュラスの首元を捉えていた.......。
シュラスの表情が苦悶に歪む.......。
場に訪れた沈黙に、ヴァイスは耐えきれず飛び出そうとした.......が。
「やるならトドメをさせよ.......」
シュラスの声であった。剣は、シュラスの喉元、薄い皮一枚に届こうか.......というところで静止しており、男はそれ以上動かす素振りもない。
「いいえ、もう十分な罰は与えました。貴方の剣を、愚弄した無礼は詫びましょう。湊牙流......こちらの知る所最高の剣、それには及ばずともただの真似事ではない.......寧ろ、本物である可能性すら感じさせられましたもので。こちらとしてもそれ程の剣であれば、もう少し万全の状態で手合わせしたいものですから。そして何より、裁くべき対象は貴方ではありませんし.......」
青い服の男は、にっこりとした笑みをシュラスに送ると、倒れている金色の男へと近づく。
「あ、いえ。申し訳ありません、ミレア・ベルリネス様。二度とこの様な醜態を晒さないようにしますのでどうかお許しくださいませ.......」
男は頭を地面に擦り付けて許しを乞う。体は小刻みに震えているようで、装飾が触れ合うような音が辺りに響いていた。
「そうですか。分かればいいのです。何も一度で貴方を消しさろうとする程鬼ではありません。但し次はありませんよ。やるならば静寂で迅速にが基本です」
ミレアはそう言うと、興味をなくしたように急に踵を返す。
「貴方達も気をつけてくださいね」
ミレアは一言そう告げると、ゆっくりと街の中へと歩き出した。とても優しそうな声であった.......が、薄らと見えたその目は、どの人間よりも冷たく無機質なものであるように見えた。
「ごめんな、ヴァイス。アンタはクロズミじゃなかったのかもしれないのに、俺が渡した服のせいで.......。その服はクロズミの服って呼ばれている貧乏人の為の服なんだ.......。それ以外の服を着ていればヴァイスがそんな目に遭うことはなかったかもしれないのに.......」
シュラスはボロボロの体で、奥歯をギリギリと噛み締めながらヴァイスにそう言う。抑えている筈であるのに零れる液体に、ヴァイスはより表情を曇らせる。
「いや、私は気にしてない。それよりそちらの傷の具合の方が心配だ」
ヴァイスは派手に飛ばされたが、実質的な傷はほとんどない。それに対して、長時間大勢の拳に晒された挙句、刃物で腹部を切られたシュラスの方がダメージは大きい。挙句の果てには、仲裁に入った上級貴族と思われる男との戦闘まであったのだから.......。
「こんぐらい全然.......平気さ」
それでもシュラスは気丈に振る舞う。しかしそれがヴァイスには酷く悲しい。何分頼られることに慣れ続けて来たのだから、頼られるどころか足でまといとなってしまい、更には一回り以上も小さな人間に救われたとなれば、悔しいと感じるのは当然のことだろう。
だが、幸い鋭く切れてはいるものの、深く切れている訳ではなく、服の下の傷は何故か恐ろしいことに、 傷の端から修復を始めていた。
「こんなもの、布でも巻いとけばなんとでもなるさ」
シュラスはそう言って、萎んだ袋の中から一枚のシャツを取り出すと、それを破いて腹部に巻き付けた。白いそれは一気に赤く染まり、同時にシュラスが表情を歪ませるが、それを悟らせまいとするように無理やり笑顔を作っているようだった。
「大丈夫なのか? 」
「大丈夫さ。いいから来いよ」
シュラスに手を引かれる。細身だと言うのに掴む力も引く力も恐ろしく強い。だが、横から見えたその顔がヴァイスには酷く悲しそうに見えていた。
街の中を歩けばより人が多く、ガヤガヤとした喧騒が街の活気を伝えている。
「シュラス君、お疲れ様。嵐の後だとやはり、大変だっただろう。.......所でそちらの方はどなたかな? 」
シュラスが立ち止まった店先で、店主と思わしき男から声をかけられる。シュラスより二回りほど歳を食っているであろうその男は、茶色い短めの髪と褐色の肌になにより隆々とした筋肉が印象的な男だった。
「ヴァイスって言うらしいんだ。サブ湖の近くにいたんだけど、どうやら嵐で服を無くしちゃったみたいでさ。俺のせいでちょっと怪我までさせちゃったから家に連れてこうと思ってるんだ」
「ほう.......。ヴァイス君.......か。ここら辺じゃあ見ない顔だね。どこから来たのかな?」
不思議そうにヴァイスへと視線を飛ばす男。いや、男だけではない。通ってゆく人々は皆不思議そうにヴァイスを見ているのだ。
「クロズミの服を来ている人間は皆茶色い肌をしているからな.......。目立っちゃうのは仕方ないよな」
シュラスがそう呟き、ようやくヴァイスは男の言葉の意味を理解する。長く伸ばされた髪の色は銀色、肌は消え入りそうなほど白く、この街にいる人間とは似ても似つかないほど異質な存在なのだろうと。
それでも元の体毛、体色に酷似したそれはどこかヴァイスの心を落ち着けているようである。それでもやはり石組の建物が立ち並び、黒い色だらけのこの街ではどうやっていたってヴァイスの白は浮いてしまうのだろう。
「あぁ。私は.......私は首都から来たのだが、少し嵐でやられてしまったからなのか記憶が曖昧なのだ」
咄嗟の嘘だった。だがそれでも、首都であればどのような容姿の人間がいたところで、不思議ではないのだと考えた上での嘘だった。
「わざわざ首都から。よく見れば傷もあるし、やはりサブ湖の近くで嵐の影響を受けてしまったのだろうね」
「それもあるし、傷はさっき貴族のヤツらに襲われたせいなんだ。でもヴァイスやっぱり嵐でやられてたんだな。でも記憶喪失ならもっと早く言ってくれれば良かったのに。家で休ませるからちょっと待ってて」
シュラスが口を尖らせてそう言うと、男と共に店の中へと入っていった。そして彼らが居なくなるとヴァイスは余計に周囲の目線が気になってしまっていた。不思議な存在だということは理解したが、それでも好奇による視線は何処かくすぐったいようで、あまり心地が良いものでは無い。
ふうと、顔を手で覆う.......がそこでふと気づく。
「左眼.......」
小さく呟いたヴァイスはその存在をなぞるかのように、左の眼球を瞼の上からゆっくりと触る。確かな感触。本来のものでは無いとしてもヴァイスはそれがあると言うだけで、自身が高揚していることに気づいてしまった。
百年前に失って以来一度も触れることが出来なかった。一度も戻ることのなかった視界。それがあると言うだけでなんと幸福なことか。
ポツリと落ちた雫が、黒い石で出来た地面を濡らした。
「ヴァイス、待たせたな」
振り返ると既にそこにはシュラスがいた。普段ならこれほどの距離で、気づかないなんてことは無いのだろうが、ヴァイスはあまりのことに小さく笑ってしまっていた。
「行こうか」
シュラスにまた手を引かれる。そしてもう片方の手には先程とは違う明らかに膨れた袋が握られていた。ヴァイスは腕をひかれて街を抜けた先まで歩いていった。店が立ち並ぶ場所を抜けて、街の郊外へと入りその奥に黒色の鉱石で造られた家が建ち並ぶ場所があった。そこでシュラスはようやく足を止めた。
「ここが俺の家。なかなか立派だろう?」
「あぁ」
シュラスがそう言うだけあり、その家は周りの家より一回りほど大きく立派な作りをしているように見えた。
そしてシュラスに連れられるままにヴァイスは家の中へと入っていった。内部は、外見のイメージとは違い白やグレーの鉱石が用いられ、床は木材で造られていた。
「ただいま」
「おかえりシュラス。そちらは誰?」
玄関を抜けた先の広い場所。今と思わしきそこにはシュラスによく似た女性が居た。黒に近い茶色の髪色、褐色の肌、黒く大きな瞳。優しそうな雰囲気を感じさせる彼女.......しかし、こちらを見る目はやはり好奇さを感じさせる。それでも街中の人々の様な嫌な好奇心で無いということだけはヴァイスに伝わっていた。
「私の名前は.......ヴァイス。ここにはシュラスに連れられて来た」
ヴァイスなりに簡潔に話したつもりではあった。それでも目の前に映る女性の反応は、少し固い。
「そ、そう。シュラスがお客さんを連れてくるなんて珍しいわね。ゆっくりしていってね.......」
彼女はそう言うと、体制を崩しながらも急に立ち上がる。そしてシュラスの荷物を受け取り次第、足を引き摺りながら何処かへと消えていった。予想していた反応とはあまりにかけ離れていた為か、ヴァイスは呆然と入口で立ち尽くす。
「ごめん、ヴァイス。別に姉さんは悪気があるわけでは無いとは思うんだけど.......その人見知りなんだ。少し経てば慣れると思うから、あんまり気にしないでやってくれ」
シュラスが苦笑いをしながらヴァイスにそう告げる。申し訳なさそうに笑顔を作る姿はあまりにも自然で、歳に相応しくないだろう。
「私は気にしてなどいない。態々招いて貰ったのだから感謝する他の感情は無い」
「そうか。ありがとう。姉さんはきっと飯でも作ってくれるだろうから一緒に食べよう。それまでは好きに寛いで居てくれればいい」
「感謝する」
ヴァイスは思った。こんな事になるのならば、もう少し人間というもののことを知っておけばと。もっと、人間と関わればよかったのでは無いかと。
しかし、今の私がいくら言い聞かせた所で、過去の自身が人間というものに、興味を持つことは無いということも分かっていた。そこまで考えてヴァイスは小さく息を吐き出す。そして横になればふわりとした、柔らかい布の手触りのせいか強烈な眠気に襲われる。
眠気に抗うことをせずに瞳を閉じれば、その意識は一瞬にして深い沼の底へと引きずり込まれていった。
未来が見える。未来がわかる。
自分の力で得た力では無く、神により与えられたものではあるが、私は未来の道筋を辿ることが出来る。分岐する未来が見えている.......だと言うのに今の私に触れる術は無い。
何故ならこの瞳は.......。
ゆっくりと顔へと手を伸ばすと、その左にある空洞に気づく。忌まわしい。
誰が.......。憎悪に体が震え出すことを感じる。人間.......そんな下等種が辿り着ける場所ではない.......だとしたら。
そう考えを巡らせると、唐突に頭を猛烈な痛みが.......。思わず漏れだした声。
「.......大丈夫か?」
何かが聞こえる。ヴァイスはそれを手繰り寄せるように、それに縋るように手を伸ばした。
「ヴァイス、大丈夫か?」
それはシュラスの声であった。身体中を冷たくなった何かが包み込み、不快感が波のように押し寄せた。夢であった.......そう理解したところで、余りにも現実味を帯びたそれは、強く脳にこびりついて離れようとはしてくれない。
「あぁ.......。どうやら少し嫌な夢を見てしまっていたようだ.......」
心配そうな目で見つめるシュラス。ヴァイスは心配をさせまいと、人真似をして笑顔を作ろうとするが、引きつった表情は到底笑顔とは呼べないのだろう。
もう一度試みるも、シュラスの曇った表情が、上手くいっていないという事実をヴァイスに伝えていた。
大きく息を吸い込むヴァイスだが、そこで自然と表情が綻んだ。
「良い香りだ.......」
ヴァイスには覚えのない香り。それでもこの体が知っているのだろうか、とても体が落ち着いたよに感じたヴァイスは自然と震えていた体がから力が抜けていた。
「さっきはごめんなさい。少し初対面の人が怖いの。でも料理を作りましたので、良かったら召し上がってください」
コトンと、ヴァイスの前に皿が差し出された。液体状のものに満たされた皿からは、白い蒸気が立ち上り、その香りが鼻腔を満たすと、何故か勝手に喉が鳴ってしまう。
ヴァイスは不思議な感覚に誘われるがまま、差し出された液体をゆっくりと口に運んだ。暖かなそれが口内を満たすが、体がは足りないと言いたげに次の一口を要求していた。
懐かしい.......。知らないものに対して使うべきではない表現であるというのに、ヴァイスの脳内にはそれ以外の表現が浮かばなかった。
「お口に合いましたか?」
「あぁ。とても。知らない味だが、驚くほど落ち着く良い味であった」
嘘偽りない言葉。ヴァイスにとっては最大限の謝辞であった。
「良かった。もしかしたら、貴族の方なのでは無いかと思って.......。口に合わなかったらどうしようかと。でも美味しいと言って頂けて安心しました」
彼女の言葉にも偽りは無いようで、緊張が解れたのかゆっくりとその場に座り込んだ。
「ごめんなさい、名乗ってませんでしたね。私はレーネです」
「そうか。私はヴァイス、宜しく」
深々と頭を下げるレーネだったが、適切な反応が見当たらないヴァイスは目をそらす様にして言葉を返した。
「そう言えば、ヴァイスって実はサブ湖の畔に居たんだけど、どうやら嵐のせいで記憶が曖昧みたいなんだ。でも首都から来たみたいだし、わざわざここまで来るなんて、巫女様にでも会いに来たんじゃないかと思ったんだけど、姉さんはどう思う?」
「記憶喪失?どうしてもっと早く.......いえ、直ぐに部屋を出た私が言えることでは無いでしょうね。でもそれは大変ね」
「裸だったし、放っておけないと思って連れてきたんだけど.......。あ、しかも家に来るまでの間に、アイツらに狙われて怪我までしてしまったんだ。俺のせいでそんな目に合わせてしまったから、何とか力になりたいんだけど.......。それに姉さんも良く困ってる人がいたら助けろっていうだろ、どうしよう」
シュラスはまたチラリと、申し訳なさそうな表情をこちらに向ける。その表情を見る度に何故か、締め付けられるような痛みを感じた。
「ええ、困ってる私達を助けてくれたあの方がいたのだから、良いことをしたわねシュラス。そうね、巫女様なら何か分かるかも知れないし、首都から来たならそれが一番いいかもしれないわね」
レーネは納得するように、何度も頷いてそう話した。今更実は.......などとヴァイスが口を挟むことが出来ず、ヴァイスを他所に話がどんどん進んでいく。
「白い肌に白い髪。そして透き通るようなその碧眼。きっと貴方は余程高貴な家の出身なのでしょうね.......首都には貴方のような美しい人間が他にもいらっしゃるのかしら.......なんて、記憶が無い貴方に聞いても答えられないわよね」
レーネは笑顔でそう言った。やはりと言うべきか.......自身の瞳、が碧眼であるということを知りヴァイスは微笑んだ。しかし、それよりも気になるのはこの人間達から絶大な信頼を得ている巫女様という者の存在。
「巫女様とは一体何者なんだ.......?」
「巫女様はこの街に居る神の使い。未来や過去が見えるって言われてて、彼女に見てもらえば普通じゃ分からないことも分かるらしいんだ。
きっと覚えていないだろうけど、この大地には白い龍神さまが居て、彼女はその使いなんじゃないかって言われている。空からも、地上からもだなんて本当に人間思いだよな」
嬉しそうに語るシュラスの姿に、ヴァイスは心を痛めていた。
「そ、そうなのか。それで私をその巫女様に」
「うん。もしかしたら記憶が戻るきっかけになるかもしれないし、やっぱり首都から来るとしたら巫女様目当てかなって」
「えぇ。明日なら、もしかすると直ぐに会うことが出来るかも知れませんし、シュラスお願いね」
「分かった。ヴァイス、明日は早くに出るからもう寝よう」
シュラスはそう言って、ヴァイスに白い大きな布を一枚渡して自身も地面に突っ伏した。龍神の使い.......非常に胡散臭い話である.......いや、有り得ることの無い話なのだから。
いきなりのことに、まだ色々と納得が出来てはいない。ミレアの存在により、かき消されてしまったあの謎の現象。幸いであるというべきか、蹲っていたシュラスは痛みの影響か、ヴァイスの人ならざる可能性をまだ知らないだろう。
だが、ヴァイスはそんな思考を急停止させ、目の前の最優先事項へと意識を移行する。そう、単純に言ってしまえば、巫女様と呼ばれる存在に興味が湧いていた。人間というものが、縋る存在。
小さく笑って、細くゆっくりとした息を漏らす。そして彼は眠りについた。
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