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「で、おれらどこを突っ込んだらいいわけ?」  すっかり氷の溶けたアイスコーヒーをストローでかきまわしてアイスアメリカンにする早紀。  みるくも泣き出しそうな顔になっている。 「みるちゃん、そんな顔しないで」  晴海はみるくを気にするも。 「気にするなっていうほうが無理なんだよ!」  早紀がキレた。 「早紀、怒らないで」  みるくが消え入りそうな声で言う。 「早紀、みるちゃんをこわがらせないで」 「おまえが怒らせたんだろうが」 「だいじょうぶ、みるくびっくりしただけだから」  みるくは大きなリボンのついた白いブラウスに両手をあてて深呼吸する。 「晴海、てめーなー」  早紀も鼻で大きく息を吸い込んで静かに吐き出した。  カフェテリア。それでなくとも目立つ3人がさらに注目を集めている。その野次馬を早紀はビームを発射する勢いでにらみまわして蹴散らす。 「まずは非常識もいいとこな母親と再婚相手だ」  高層ビルをなぎ倒しそうな剣幕。みるくはびっくりしただけと言いつつもさらに萎縮してしまっているよう。 「てめえらの娘のことしか考えてねえ」  否定できず晴海はしゅんとなってしまう。 「でも、はるたんの骨髄がなかったら妹さん死んじゃうんでしょ」  みるくの意見は正論。 「晴海の人格無視してそれが当たり前のことといえんのかよ」  テーブルをたたき割る勢いの早紀をなだめるのが筋なはずなのに。晴海の脳裏に浮かぶやよいの10年前の態度が、助けなくてはいけないという人としての常識に待ったをかけている。 「だけど……命の問題だから」  晴海のかわりにみるくが言う。  それに対してさらに怒りをたぎらす早紀。 「頼む前に晴海を認めろよ。おれだったら絶対に断るね」  そっぽをむく早紀にみるくは泣きそうな顔になる。 「はるたん、断らないよね。それで妹さん死んじゃったら一生後悔するよ」  まっすぐ見つめてくるみるくに晴海は目をそらしてしまった。 「はるたん」  晴海は血をわけた妹が死んでしまうのを黙って見るような人ではない。みるくの声にはそういう意味が含まれていた。  早紀は野次馬の視線からこの場を守ることに専念してくれている。 「きっとわかってもらえるよ。はるたんが骨髄あげて、妹さんが元気になったらお母さんもはるたんのこと認めてくれるよ」 「あたしは、道具じゃない。やよいのための骨髄工場なんかじゃない。お母さん、いちどもあたしの名前呼んでくれなかった」  あたしの名前は「あなた」じゃない。晴海は会話どころか名前すら呼んでもらえなかった。「やよい」という名ばかりがお母さんの口からあふれていた。  姿を現さないやよいがまたお母さんから晴海を遠ざけている。それも死ぬ覚悟で。 「でもさ、型が合わなきゃなしだろ、その話」  気まずくなった晴海とみるくの間に早紀が突っ込む。 「両親ですら合わなかったんだろ。異父兄妹が合う確率ってそうないんじゃね」  続けてみるくが決死の覚悟のように言った。 「はるたん、検査だけでも受けてあげて。お母さんに会う機会をつくればその間にはるたんのこときっとわかってもらえるよ」  晴海の目が充血してきた。 「お母さん……」  一緒におしゃべりがしたい。一緒に買い物がしたい。一緒にお食事がしたい。一緒に笑い合いたい。  検査だけでも、足を前に出せば、違った進展があるかもしれない。  小さく。弱々しく頷いた。 「それで、どろぼうに一目惚れってか」  一段落ついたと確認した早紀が話題を変えてきた。  みるくも「すごく気になる」とさらに真剣な目つきになる。  晴海の心臓が早打ちを始める。 「それはポチが……」  考えられない出会いにやよいが一瞬にして消え去った。夢から飛び出した月明かりの王子様の出現。太ももに両手をいれてモジモジしてしまう。 「ポチィ〜?」  早紀が露骨に顔をゆがめた。 「ポチって?」 「雑種の犬を飼っているの」  晴海は小さくため息をついた。 「おばあちゃんでね、もういつ天国に行ってもおかしくない年齢なのよ。お散歩の時間も短くなったし、ご飯をあげてもがっつかなくなったし。あたしに撫でられても、かすれた鼻声しかださなくなっちゃったのに」  とくに今年の夏は度38を超す猛暑日が10日以上続いた。9月に入ったいまでも暑さはひこうという気配がない。人間でもへばるのに、全身毛におおわれた老犬のダメージは相当なものと思う。日陰に穴を掘って体を埋め、夜にならないと動く気もないポチだった。 「それなのに、よがり声が家に入る前から聞こえたのよ。一度も子犬を産んだことがないままおばあちゃんになったポチが、女としての喜びを近所中に聞こえる声で」  晴海はポチの歓喜に溢れる鼻声を思い出す。どうしたら老犬からあんな声をひきだせるというのか。 「ゴールデンフィンガーよ」  細くて長い、でもふしぶしがしっかりある男らしい指だった。はれぼったい自分の手とは大違い。 (握ってみたい……いいえ、あたしが触れられたいのよ、ポチを女として蘇らさせた奇跡の指とあたしの指を絡ませたいの) 「晴海、ヨダレたれてんぞ」  あわててタオルハンカチで口元をぬぐう。妄想は電車で爆睡のような心地よさを呼んでいた。 「いやん」  あまりの恥ずかしさにハンカチで顔ごと覆う。 「そんなにいい男だったのかよ」  顔をハンカチに埋めたまま大きくうなずいた。だって相手は王子様なんだから。 「はるたん、正直」  つまならそうにみるくが言う。 「でもさ、おかしくね。晴海そいつにあんたは誰だって聞かれたんだろ」  自分の家なのに、見ず知らずのどろぼうになんでそんなことを言われなくてはならない。 「ええ、そうなのよ。あたしね、どうしてあのとき素直に笹山晴海二十歳大学2年生乙女です、って言えなかったのかしらって後悔しているの」  真面目な晴海の発言に。 「自己紹介してどうすんだよ!」  早紀が空気平手打ち(実際に頬を打つわけではなくマネをするだけ)を往復4回かました。 「いやん、早紀ってば痛いわ」  ノリで頬に手を当てる晴海であるが、目にはハートマークがみられた。 「おまえこそだれだっ、て言いたくなるよね」  ふたりのノリツッコミにダイビングするように入るみるく。 「はるたんのお家に勝手に入ってポチちゃん悶絶させて。そいつこそ何者なの、どろうぼうでしょ」  みるくはムキになっている。少年がここにいたら飛びかかって顔をひっかいてしまうかもしれない。 「なんだよ、みるくはその美少年に嫉妬でもしてるのか?」  早紀は冗談ぽく笑いを混ぜて突っ込んだ。しかしみるくは「そんなんじゃないよー!」と笑いでは返してくれなかった。 「そいつは刃物とか持ってたかもしれないんだよ。はるたんが刺されてたら、みるくそいつのこと一生許さない」  晴海も早紀もはじめてみるくのアルト声を聞かされた。茶色がかった瞳が赤く燃えている。いつもの可愛さ全開の高い声はどこへいったのか。  晴海と早紀は手こぎボートに乗って離れていくように引いた。それに気付いたみるくは元の声をだそうとして、 「それくらい、しんぱいなの、ごほっ」  むせた。 「みるちゃん、大丈夫?」  おそるおそる覗きこむ晴海。 「みるくははるたんが心配なの」 「おれはみるくが心配」  さりげなく早紀が付け足した。  重い足を引きずりながら家路についた。ポチはシッポを振って鼻声をだしたが、それはエサをくれ、もしくは散歩に連れて行って、のどちらかの催促。 (王子様がまた佇んでいる、ということはないのかしら)  甘い期待に心臓が沸騰をはじめ、ヤケドしそうなくらい体が熱くなっていた。 (やだわ、あたしったら)  妄想に支配されていることを自覚して頬に手をやる。玄関に目をやると灯りがついている。 (お父さん、帰っているんだ)  今日は早いと思う。晴海がカミングアウトしてからまっすぐ帰ることがめっきり減った。どこかでお酒を飲んでくるので赤い顔で帰ってくる。  特に今日は、お母さんから先日の話を聞いたと思われる父は今夜もグダグダに酔って晴海が寝た頃帰るつもり……だと思ったのに。 「ただいま」  おそりおそる家に入った。玄関の鍵はあいていた。 「お父さん、いるの」  と半信半疑になるのは、ひょっとしたら王子様がいるのかもしれない。と思ったから。  胸を押さえながらキッチン兼居間に入ると父が出前の寿司2人前を前にして腕組みで座っていた。 「お寿司? どうしたのお父さん」  だれかの誕生日でも記念日でもないことは晴海がちゃんと記憶している。父は晴海を見据えて。 「飯にしよう」  と言った。 「特上だわ」  いくらにあなごにウニに大トロまではいっている。つい最近の晴海の誕生日のときだって上寿司だった。それより上だなんて。 「吸い物はインスタントだがいいか」  晴海がうんと言う前に父はお椀に松茸風味のお吸い物の素を入れてポットから湯をそそぐ。  晴海は寿司をながめた。つやが残っているから届いたばかりみたいだ。 「ねえ、お父さん」 「ビールもあるからな」  父は手際よくビールを冷蔵庫から出してあらかじめテーブルにおいてあったグラスに注いだ。 「おつかれ」  父は功績をあげた部下をねぎらうようにグラスをかかげた。晴海もおずおずグラスをあげる。 「さ、食え食え」  晴海がお寿司好きであることを知っての特上であろうけれど。 「ねえ、お父さん」  ビールを半分ほど飲んで晴海は父を見据えるが、 「早く食べろ。乾いたらまずくなる」  お寿司は鮮度が命だからせっせと食べなくては勿体ない。 「ほらほら、もっと飲め」  お寿司が進めばビールも進む。なんのために松茸風味のお吸い物を用意したのかわからないくらい父と子はお寿司をつまみにビールを飲んだ。  父の薄くなった頭のてっぺんまで赤くなった頃、晴海も首筋まで真っ赤になっていた。 (親子だわ、あたしたち)  なんて思ったとき。 「これ母さんからだ」  父がテーブルのしたに隠していた百貨店の紙袋を差し出した。 「え!」 「今日会ってきた」  先日のことは父にも伝わるだろうとは思っていたけれど、電話かメールくらいのもので、まさかふたりが会うなんて思ってもいなかった。なにせお母さんが家をでたとき「お前の顔は二度と見たくない」と吐き捨てた父なのだ。  父は真っ赤になった顔をわざとらしいくらいにそむけて「早く受け取れ」とジェスチャーした。 「欲しくないのか、母さんからだぞ」  欲しくないわけがない。お母さんは晴海の二十歳の誕生日が今月であることを忘れてはいなかったんだ。 「ありがとう」  晴海はあふれそうになる涙をこらえて父から紙袋を受け取った。ずっしりとした重みに、情熱的なフラメンコほどの興奮を覚えた。 「お母さん、なにをくれたのかしら」  ビールを飲んでいるせいもあって心臓もドキドキを通り越してバクバクと鳴っている。胸のなかに小人さんがいてドアを激しくノックするように晴海をせかしている。  袋の中身をひっぱりだして、思い切り広げて。  そのまま晴海は固まった。  白さを前面に押し出す洗剤のコマーシャルのように青と白の縞Yシャツを広げたポーズのまま、 「これはなに?」  父は答えてくれない。おそるおそる袋のなかを覗いた。黒いチノパンがみえる。シャツをテーブルに置いて引っ張り出すとやっぱりチノパンで、そのサイズは晴海にぴったりで返品は許さないと言っているかのうようだった。 「サイズはお父さんが教えた」  と父が言う。 「一緒に買ったの?」  脳天から声を出してしまった。はしたないけれど、もどかしさが先に立ってしまう。父は頷いた。 「あたしがこんな、男の子みたいな服着ないってこと説明してくれなかったの」  晴海は間違った性別で生まれてしまった。父には何度も説明したのだ。お母さんに会ったのならその話をしてくれなかったのだろうか。  父は激しく首を振る。そんなことしたらビールが脳みそのなかでシェイクされて頭が痛くなりそうじゃないか。 「それを着て病院の検査に来て欲しいそうだ。今度の土曜に予約を入れてあるそうだ。K医大付属病院だ。お前の大学とは系列だから場所はわかるだろ」  晴海は手にしたチノパンをクシャクシャにして床に投げた。 「なんでこんな格好しなきゃいけないのよ」  ご機嫌取りの特上寿司を半分以上も食べてしまったことを後悔する。 「お母さんの頼みだぞ」  父はガリをつまみビールをあおる。  晴海は人差し指で涙をぬぐった。 「髪は、仕方ないからうしろでしばっておけ」 「お父さん、なんのためにお母さんと会ったの」  お母さんを臭わすようなことを言うだけで機嫌が悪くなる父だったのに。 「服のサイズがわからないというから付き合ってやっただけだ」  父にとってお母さんは憎むべき対象だった。なのに一緒にお買い物して、それでお友だちのように「じゃあね」「ばいばい」と別れたというのか。 「なんでこんな服買うのよ」 「人ひとりの命が関わっているんだ。私だってハツ江には会いたくなかった。しかし、人道的問題だろ。電話口で娘を助けろと号泣されては」  またそれなのね。と思ったが声にはだせない。 「私たちを捨てたハツ江は許せない。その気持ちはいまでも変わらない。しかしやよいちゃんにはなんの罪もないだろう」  なんの罪もないのか。と思ったが声にはだせない。 「検査にいくだけのことだ。頼む晴海、これはお母さんの頼みなんだぞ」 「そんな」  晴海は涙と鼻水を同時に垂らした。 (もういや、消えてしまいたい)  人ひとりの命という言葉の前では、どんな主張も自己中心的な我が儘になってしまう。  人としての常識。わかっている、よくわかっている。でも二十歳の女の子がおじさんみたいな青縞のシャツに黒のチノパンに焦げ茶色の革ひも靴だなんて。お化粧もなしで外にでるなんて。なにかの刑罰としか思えない。 (どうしてあたしのままじゃいけないの) 「なにしてる、早く行かないと病院も予約時間があるんだぞ」  父はこんなときだけお母さんの味方。玄関からなかなか出ることができない晴海のお尻にムチを打つようなことを言う。 「あたし、やっぱり着替える。だって、こんなのおかしいよ」  はいた靴を脱ごうとする晴海を父は腰を低くして関取のようなつっぱりで阻止にかかった。 「ふざけたことを言うな」 「お父さん」  飲んでいるわけじゃないのに真っ赤な顔は鬼のよう。  涙ぐむ晴海であるがかえって父の頭に角を生やす結果となる。 「お前は母さんの気持ちを考えないのか、自分のことしか考えてないのか」 「お母さんの気持ち」  大好きなお母さんがそれを懇願している。  やよいを助けてと晴海に土下座までしたお母さん。やよいやよいやよいって何度その名前が飛び出してきただろう。 「なあ、晴海。母さんは何年もお前に会っていないんだ。一度でいいから、男としての姿をみせてやってくれないか」  父が詫びるように晴海の肩を叩いた。 「お父さん、でもあたし……」 「頼む、晴海」  薄くなった頭をさげる父にもうイヤだとは言えなかった。 (みんなが見てる。あたしのおかしな格好を)  家をでたとき、真向かいの奥さんと出くわしてしまった。晴海の姿を見て両手に荷物を持ったまま晴海が見えなくなるまで固まっていた。きっとほかの奥さまたちに「大変よ!」と大騒ぎをするに決まっている。 (きっとあたしのこと、あたまがおかしくなったと言うんだわ)  お母さんのためでなかったら、こんな馬鹿なマネはしない。  電車に乗っても晴海は人の目が気になって仕方がなかった。 (引き返したい。ちゃんとした格好になりたい)  でも、それは我が儘。たとえやよいであっても人の命は尊いもの。 (そのためには今日だけの我慢。仕方がないことなのよ)  つり革を握りしめ、かたく目をつぶった。流れる車窓のように今日という日が早く終わって欲しい。 (お母さんとちゃんとお話しするためだもの)  そのとき、チノパンのポケットに突っ込んでいた携帯がブルッと震えた。  メールはみるくから。  今日のことはみるくにも早紀にも伝えていない。こんな格好して病院に検査に行くなんて知られたくなかったから。  メールを確認すると。 『はるたん、みるくはね。はるたんのこと思うと元気になれるんだよ』  という出だし。 (みるちゃん)  大切な友だち、ということがじんわりと伝わって心が温かくなってくる。 (あたしだってみるちゃんにパワーもらってるんだよ)  下に空きがあるみたいだ。カーソルをおろしていくと次の文章が現れた。 (みるちゃんたら、こんなに空けたら普通気付かないわよ) 『ねえ、はるたんは女の子に生まれてよかったと思ってる?』  カーソルを動かす指が止まり、晴海は今の姿を忘れてみるくのメッセージを一字一句をみつめた。それは文字ではなくなにかの意味を持った暗号に見える。  晴海は女の子。大きな声をあげて言うことだってできる。でも神様のいたずらで違う体で生まれてしまった。  みるくの質問はどういう角度で受け取ったらいいのだろうか。 (みるちゃん)  今の晴海は女の子としては不完全。最初から女の子として生まれたみるくとは女の子でよかったと感じる部分はおんなじなのだろうか。 (あたしは幸せだよ。みるちゃんや早紀がいてくれるから。でもね、満たされないことも幸せの量とおなじくらいあるんだよ)  理解のない人からの好奇に満ちた目を感じるときとか。父がポチを撫でるさみしそうな後ろ姿。いろんな闇が襲いかかってくる。  お母さんの口からでてくる「やよいやよい」というマシンガンも浮かぶ。 (なんて返事したらいいんだろう)  女の子で良かった、生まれたときからそう思っている。なんてデコメールをする気持ちになどなれなかった。 (みるちゃんは幸せじゃないの。あんなに愛らしくてかわいいのに)  携帯を握りしめている間に、駅に着いてしまった。  駅を降りて徒歩5分もしないところにあるおおきな病院。お金持ちじゃないとここでのハイレベル医療は受けられないって近所のおばさまたちがうわさしている。  いい返事が思いつかなくて、みるくのメールはスルーしてしまった。申し訳ないけれど、今日の晴海はいつもの状態じゃない。ごめんなさい、レスのしようがない。  病院のロビーに入ったとたん。お母さんの姿が飛び込んできた。  たくさんある待合い椅子のひとつから立ち上がった。  やつれて化粧気のない顔に乱れた髪の毛がへばりついている。くちびるなんかはかさかさで、リップクリームだけでもぬって欲しいと思う。 「晴海」  かわいたくちびるが力無く開いた。 「晴海なのね」  足下で小さな地響きが起こった。 (お母さん、やっとあたしの名前を)  晴海は砂漠をさまよい歩いていた。ようやく見つけたオアシスの名はお母さん。いちごゼリーの香りが手招きをしている。 「お母さん」  幻なんかじゃない。手をのばせばたしかな感触がある。 「早く、こっちよ」  しかしお母さんは晴海の手を綱引きのごとく引っ張り、診察室へ連れて行った。  すぐにに検査は終了した。  なんてことはない、いま病気にかかっていないかという問診と血を抜いただけだ。  診察室を出て会計のためにロビーに向かう。 「結果は1週間後にはでるから。そうしたら連絡するからね」  お母さんは嬉しそうだ。目がギラギラしている。晴海がダイヤモンドに見えているみたいに。 「あの、お母さん」  お母さんは取り乱している。晴海が血縁者として最後の希望だから仕方がないけれど、少しはお話がしたい。この10年どれほどふたりきりで会いたかったか。  お母さんは本当の姿ではない晴海をまじまじと見つめて、両手で手を握りしめてくれた。 「本当にありがとう。適合が決まったらまた洋服も送るから、病院に来るときはそれを着て来てちょうだいね」  晴海は全身の血を抜かれる思いを味わった。  そんなの、いくらお母さんの望みでも無理。嘘っこの姿は今日だけにして。そう言おうとしたところだったのに。 「あのね、お母さん」 「外田さんのお母さん」  違う声が重なって晴海の訴えはかき消されてしまった。 「飯田君」  お母さんは晴海の手を離し、駆け寄ってくる高校生らしき少年に身体をむけた。  飯田と呼ばれた少年はダボダボのTシャツにダボダボのGパン。スニーカーはかかとをふんずけて素足で履いていた。たれ目気味で金髪が逆立っている。ちょっとつついたら目が吊り上がりそうなヤンキーなイメージ。 (なにかしら、この子)  ガニ股だし……。  シャープなシルエットの月明かりの王子様とは大違い。 「外田さんは」 「今日はいくぶん元気よ。ありがとうね本当に」 「そんなこと言わないでください」  なんのために持っているのかわからないペッタンコなカバンを小脇に挟んだ飯田君は外見は恐そうだけど、お母さんにはとても丁寧な言葉を使う。なんて思っていたら目が合ってしまった。 「この人は?」  誰コイツ? と言わんばかりの目をむけられた。 「あのね、ドナー検査に来てくれたの。親戚の子なの」  お母さんにそう紹介されて晴海はうつむいた。  飯田君は晴海をまじまじと見つめている。ぜんぜんタイプじゃないのに、男の人に見つめられるとドキドキしてしまう。そんな自分が恥ずかしくなって胸を押さえてしまう。 「オカマ?」  飯田君は眉間にしわを寄せて言い放った。  晴海は瞬時にカッとなった。それは恥ずかしいからではなく、あからさまにさげすんだ言い方だったから。 「ちがう」  あたしは女の子よ。 「精神的に、デリケートなだけなの! 刺激しないであげて」  ロビーに響き渡るお母さんの悲鳴で晴海の感情はおさえつけられた。  晴海は呆然とお母さんの横顔を見つめた。目は血走り額に汗が浮かび上がっていた。 (お母さん) 「そうなんだ、ごめんなさい。ドナーになってくれる人かもしれないのに」  飯田君は素直に頭をさげた。いい子なのか、嫌味な子なのかわからなくなる。  飯田君は晴海に熱い視線をぶつけて。 「お願いします。どうか外田さんを助けてください」  わずかな可能性にすがる。彼はやよいの恋人なんだろうか。  あのやよいがこういうタイプを選ぶんだ。  晴海は声を出さずにうなずいた。そこへお母さんが飯田君をせかすように、 「はやく会いに行ってあげて。あの子待っているから」 「はい」  飯田君は駆け足で病棟にむかって去っていったが、エレベーター待ちの間、晴海の頭の先からつま先までを記憶に留めようとするかのようにジロジロみていた。  誤解されている自分の姿に晴海は顔が熱くなりすぎて溶け出してしまいそうだった。  飯田君がエレベーターに乗り込んだのを確認して、晴海は口を開いた。 「あたし帰るね。また今度ゆっくりお話がしたいの。ほんとうの姿で」  お母さんとお話がしたいというテンションがどこかに流れてしまった。お母さんも急に目に光がなくなってしまったから、今日はこのまま去ろうと思ったら、 「晴海!」  どこからともなく父の声。 「え、なんで」  薄い頭をなでつけたスーツ姿の父はこの時間に検査が終わることを最初からわかっているとしか思えない登場で、顔をそらすお母さんも父が来ることがわかっていたみたいな。 「今度は私に付き合ってもらうぞ」  父は容赦なく晴海の腕を握り、お母さんから引き離していく。 「お母さん!」  晴海は引き裂かれる悲しみに手を伸ばして懇願した。  お母さんは連れ去られる我が子に、 「ほんとうにありがとう」  と頭を下げて見送ってくれた。  父は病院の前で待機していたタクシーに晴海を強制的に押し込んだ。 「なにするのよ!」  と晴海が抗議したのと同時に父は運転手に行ってくれと頼んだ。  ミラーごしに運転手が眉間にしわをよせたのを見逃さなかった。晴海はくちびるを噛みしめて父をにらみつける。 「ひどいじゃない!」 「お前は風邪だ」  タクシーが発車したとたん父は抗議の答えとは思えないことを言い始めた。 「お前は風邪をひいて声が出ないことにしてくれ」 「なにが?」 「いいか、奇声を発したり、内股で歩いたりしてはいけない」 「なにそれ、わけわからない」 「お前は父さんが好きか」  こんなところでそんなことを聞くなんて、悪いものでも食べたのか。もしくは衝撃の事実でも語られるのか。 「好きに、決まってるわ」  晴海は頷くように父の横顔をみた。額にうっすら汗をかいていた。 「だったら頼む。私の残り多いとはいえない人生がかかっているんだ」  父は車が向かう先だけを見つめていた。 「お父さんどうしちゃったの」  晴海はすがりつくように尋ねたが父はなにも語らず。そのかわりそんなやりとりに耳を傾けているタクシーの運転手の爆笑寸前な頬のふくらみをバックミラーに映し出していた。  タクシーは新宿の名の知れたホテルの前で止まった。 「え、なに。こんなところでなにがあるの」  晴海の家庭は情報誌に載るほどのホテルに足を踏み入れられるほどセレブではない。 「お父さん、取締役昇進?」 「いいから黙っているんだ。なにがあっても声を出すなよ。これからレストランで、しょ、しょ、食事をする」  背をむけたまま父は大股でホテルに入り、ずんずん先を行ってしまう。 「そんなお金あるの? 高いんでしょ」  っていうかどうしてかわからない。こんな格好をさせた晴海へ対する申し訳ないという気持ちならば近所のお寿司屋さんで充分なのに。 「先方は、去年から今日という日を待っていたんだ。頼むから父さんに恥をかかせないでくれ」  去年って?  恥ってなに?  先方って誰?  父は両手両足を硬直させたままフレンチレストランに向かう。和食好みの父がマナー重視のホテルフレンチだなんて。  晴海は自分が恥ずかしい格好をさせられていることを忘れてしまうほど混乱した。  そしてその混乱は、テーブルにたどり着いたときパニックに変わる。 「正一さん」  見たこともない中年女性が父を見つけて立ち上がった。父は「待たせた」と言いつつマッチ棒のように直立。 「そちらが晴海さんね。ようやく会えた」  長い髪をアップにした穏やかな女性は初対面の晴海に初めてとは思えない笑顔を向けてくれた。日だまりのような笑顔。 「晴海、こちらは、冬木圭子さんといって、私の会社の近所の定食屋で、アルバイトをしている人で、その、なんだ」  父がこの女性についてのデータを話している。晴海は冬木圭子さんのおだやかな物腰に目が釘付けになっていた。  父が好きになった人で、もう1年近くの付き合いがあるという。  父はそんな人がいるなんて一言も言わなかったけれど、肝心なことをギリギリまで話さないことは今までにも多々あったから腹立たしさは覚えない。それどころか、初めて会う人が晴海に嬉しそうな顔をしてくれているのが驚きだったのだ。  お母さんからもらいたかった笑顔がここにあった。  赤の他人で初対面の冬木さんはどうして心からの笑顔を差し出してくれるのか。 「忙しくて時間がとれないって、お父さんから聞いていたの。やっとお話ができるのね、とても嬉しいわ」  奥歯でほっぺをかみ締めていないと涙腺がゆるみそうだった。 「どうしたの、驚かせちゃったかしら」 「あ、晴海はひどい風邪をひいていて、声がだせないんだ。熱もあるかもしれないなあ」  赤ら顔で涙目の晴海をフォローすべく父が早口でまくしたてるが、かえって冬木さんを刺激してしまう。 「熱があるの。そんな無理してまで」  額に手を伸ばそうとする冬木さんに晴海は大丈夫ですと言わんばかりに首を振って一歩下がった。 「突っ立ってないで座ったら。おれ待ちくたびれてお腹が空いてるんだけど」  冬木さんが父にはもったいないくらいの人だったから、もうひとり、テーブルに紺のブレザー(制服姿)の少年がいることに気づけなかった。 「涼一、そんなこと言ったら失礼でしょ」  冬木さんはあわてて言う。  父は背筋を伸ばして座っている少年に「すまないね」と思いやる言い方。  晴海はそれまで赤かった顔がみるみる青くなるのをはっきりと感じ取っていた。 「こんにちわ」  椅子から立ち上がり晴海にむかって軽く会釈した少年は、紛れもなく老犬を若返らせるフィンガーテクの持ち主ではないか。 (つっ、つっ、月王子!)  フレンチレストランの明るい照明のもとで全身像が明らかになった。暗い闇の世界からスッと抜け出してきた王子様は溜息がでるほど美しく。気高さを感じた。 (夢なんじゃないかしら)  悲鳴をあげたい心境であったが、本当に熱がでてしまったようで視界がぐにゃり曲がってめまいに襲われた。 「晴海さんはお洒落なんですね。全身ラルフローレンですか」  晴海には男の子のブランドなんてわからなかった。ただ渡されたものを着ただけで。どこのブランドなんか気にもしていなかった。 「涼一君はくわしいな。さすが若い子はみるところが違うね」  父はうれしそうだ。 「一見地味に見えますが上品ですよ。スーパーで買うようなものとは大違いだ」  晴海の胸に矢が刺さる。あの夜見られたほんとうの洋服。 (わかってて意地悪なことを言っているの?)  おどおどする晴海に涼一は口元をゆがめてみせた。 「とても似合っていますよ」 「ああっ」  晴海は父にもたれかかるように力が抜け、父ごとふかふかのカーペットに倒れ込んだ。
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