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6
翌日のカフェテリア。
「だから期待するなって言ったんだ」
早紀は大きく首をまわして「あ~あ」とオヤジみたいな声をあげた。
「早紀、ひどい!」
みるくがムキになった。
「ひどいのは冬木親子だろ」
理解を示すようなことを口にしていた。晴海の心に小さな灯りがともった。なのに。出口はここよと微笑みかけておいて、トンネルをでたら地上ではなく奈落の底であった。
「で、どうするんだ」
泣きそうなみるくと冷め切った早紀が晴海の顔を覗きこむ。
「お父さんには考えさせてと言ったわ」
昨日の昼間まで希望に満ちていた晴海の表情には色がなかった。それはほお紅を塗り忘れたから、つけまつげをつけ忘れたから、口紅の色だけが異常にピンクラメだったりということ。話し方にもまったくといっていいほど起伏がない。
「冬木さん、なんでお父さんを苦しめるようなことを言うのかしら」
父が泣いた。晴海のことを恥ずかしいとか女装はやめてくれと、怒りをあらわにすることはあっても涙を見せたことはなかった。
「お父さん、鼻水と涙流しながらビール飲み続けてそのままつぶれちゃったの」
晴海が寝室まで運んだ。こんなことも初めてだった。
「きっとなにかわけがあるのよ。あたし、それが知りたい。誤解を解きたい」
「そうだな。わけはあるんだろうな。怨みがあるとしか思えない仕打ちだし」
「どうして早紀はきついことしかいわないの。早紀のほうがはるたんに怨みがあるみたいだよ」
みるくは晴海の傷口に塩を塗らないで、と言いたいのだろう。しかし早紀はそれを受け流す。
「晴海、正直に言わせてもらう。信じる力でハッピーエンドになるのはフィクション100%の世界だけだ」
晴海はだれにも聞こえない声でちがうとつぶやいた。トレイの上にはアイスティーしか乗っていない。
「早紀、自分が涼一君にキツイことを言われたからって、はるたんに八つ当たりしているんじゃないの」
「みるく、それ本気で言っているなら軽蔑するぞ」
みるくは「え」と声を上げたかもしれない。
「おれはたしかにカッとなる悪いクセがある。それを男の汚いところを選んでいると言われたらさらに腹立たしくもなるよ。でも、おれに言わせれば女のほうがよっぽど怒りっぽい。ヒステリーがはじまったら両耳ふさいでも鼓膜が破れそうになる」
早紀はチラッとみるくをみた。みるくは目をそらせてくちびるを噛みしめる。
「信じてる信じてるって。実の母親に無視され、男装させられ、新しい家族に気にしないって口にして言われたのか知らないけど。結局絶縁しろってなんだよ。おかしすぎるだろ。まだいつかきっとわかってもらえるって言うのかよ」
晴海は膝に置いた手をぎゅっと握りしめている。必死に首を横に振って。
「お母さんにも……冬木さんと涼一君にも事情があるのよ。それをあたしの思うとおりにならないからって、人を信じなくなってしまうのは、あたしのすることじゃないわ」
「信じるのと我慢するのは違うだろ。こういうときには怒ってみせろよ。ためこんでどうするんだよ」
晴海はぎゅっと目をつぶった。屈辱と裏切り。強大な闇の力が団子になって攻撃してきた。お布団かぶってわんわん泣いた。毎日のように目を腫らして学校に来て、こんなにも早紀とみるくに心配をかけている。
だけど。闇にむかって悲しみをぶつけてもなにも生まれやしない。みんなそれぞれの理由がある。晴海だけがだだをこねてあばれるなんてこと、できない。
「あたしにはできない。大好きな人たちに悲しみをぶつけるなんてこと。それなら、その力を全部信じることに使いたい」
晴海の言うことにみるくが一生懸命首を縦にふる。
「そうよ、乱暴はしてはいけないことなのよ。信じればわかってもらえるんだよ。みるくはるたんを信じる」
「みるちゃん」
みればみるくはぽろぽろ涙をこぼしている。
「乱暴と怒ることは違うからな」
今日の早紀はかなりお腹が空いているようでトレイにはコロッケカレーにサラダにプリンアラモードまで乗っけている。それを押し込むように口に運んでいる。
「おれはみるくや晴海からみたら乱暴者なのかもしれないけど、なにされても信じると言って耐えていくなんて気味が悪い」
「はるたんのことそんな目で見てたの!」
みるくがまた早紀にむかってコップの水をかけようとしたが、早紀が素早く反応してよけたので、たまたまうしろを通りかかった女学生の腰のあたりにかかってしまう。
「きゃーっ! ちょっと、なにすんのよ! このガキ!」
女学生は買ったばかりだの渋谷にしかないブランドだのとわめきだした。
水をよけた早紀は平然とカレーを食べる。
空のコップを握りしめたままみるくは女学生のヒステリーを一身に浴びて固まってしまった。
「ごめんなさい、わざとじゃないの」
かわりに晴海がレースのついたハンカチを握りしめて怒りをあらわにする女学生の元へ走りよった。
「大丈夫よ、すぐかわくから」
トレイを持って両手がふさがっている女学生のためにスカートの腰あたりを叩くようにふき取る晴海。しかし女学生のこめかみはひきつり。目は鬼のように吊り上がる。
「やめてよ痴漢!」
晴海の手が止まる。女学生は嫌悪感あらわににらみつけた。
「あたし、そんなつもりじゃ」
女学生はみんなに聞こえるような舌打ちをして仲間と去っていく。
「座れよ」
立ちっぱなしの晴海とみるくに食べるのをやめない早紀は言う。
「早紀は平気なの、はるたんが、はるたんが」
なきべそのみるくはコップを離せないでいる。
「みるくはどうなんだよ。晴海のことばかり気を使ってるけど。ほんとうは自分が助けて欲しいんじゃないのか」
痴漢呼ばわりされた晴海には早紀の重要な言葉が耳に入らない。だからみるくがコップを落としたのにも気付くことができなかった。
「いつでも相談に乗るからな」
早紀はなにかと闘うようにカレーとサラダを平らげ、プリンを手にした。
「みるくは……」
「おれじゃだめか」
「ごめんなさい」
みるくは静かにカフェテリアをあとにした。
早紀がプリンアラモードを胃袋に詰め終わった頃になってようやく晴海が。
「ぜったい綺麗になってみんなにわかってもらうんだから」
とポロポロ涙を流しはじめた。みるくが帰ってしまったことにも気付かないで。
「まったくどいつもこいつも」
早紀は晴海の涙を受け止め、
「晴海、また太ったんじゃねえの」
ぱっと晴海は覆っていた手を離した。
「ヤダッ! それ言わないでよ!」
カフェテリアのざわめきが一瞬途切れた。百数十人収容可能な空間のテーブルの片隅。一生懸命笑い顔を作る晴海がいる。
「おれに足りないのはこれなのかね」
「なにが?」
「なんでもねえよ」
「もう、イジワルなんだから」
「そんなことより冬木母子。はっきりさせようぜ。納得できないだろこのままじゃ」
「早紀……」
「絶縁しろというのは普通じゃない。おれだって理由は知りたい。涼一がオレに絡んできたことにもつながっている気がする。晴海、ひとりで抱え込むなよ」
身体を委ねたいとさえ思った涼一。お父さんのことをだれよりも理解している冬木さん。ふたりとも失いたくない。新しい家族として手をとりあって生きていきたい。
晴海はうつむいていた。足の先をみつめていると自然と涙がこぼれ落ちてしまう。
「おまえ、乙女なんだからさ。無理すんなよ」
それでも晴海は洟をすすって微笑もうという努力をした。
「心配しないで、あたし子供じゃないから。自分のことは自分できっちり解決するから」
涙でファンデーションがむらになっている。
「化粧直せよ」
「あたし。そんな酷い顔?」
早紀は大きくうなづいた。
「お化粧室行ってくるわ」
「おい晴海」
早く直したいのだから呼び止めないで欲しい。
「会いに行くんだよな。冬木親子に」
「うん。ちゃんと話せばきっとわかってもらえるけど、あたしのなかで整理してから」
「親父さんに内緒で行く気だろ」
「お父さんに迷惑かけられないし」
「なあ、晴海」
とそのとき携帯のマナーモードが作動した。
「ごめん早紀、電話だわ」
あわててスカートのポケットからピンクのデコ携帯を取り出した。着信はメールではなく電話で、表示された相手の名前をみた晴海は携帯を落としそうになるほどあわてて、馬鹿がつくほど丁寧に受信ボタンを押してゆっくり耳にあてた。
「もしもし、晴海、です」
晴海の声は緊張のあまりうわずっていたが、それをうわまわる相手の声は悲鳴に近くて、そばにいる早紀にまでまる聞こえ。ノコギリで金属を切りさくような声で。
『あったの! あったのよ! きせきがきせきがおこったの!』
「お母さん……」
あとはなにを言っているのかまったくわからないただの絶叫だった。
もう口をきいてもらえない筈だった父が「これとそれは別問題だ」と切り出してお母さんから送られてきた百貨店の包みを差し出して「冬木さんにはやよいちゃんの問題が片づくまで待ってもらうことにした」と執行猶予宣告をしてきた。
だけど父は目をあわそうとしてくれない。晴海も沈黙で答える。
精密検査の日。晴海はぐずらずにお母さんが選んでくれたシャツに袖を通した。もちろんノーメイク。あまりにおとなしく晴海が病院に向かったので父も感情に波をたてることなく見送ってくれた。
庭先でシッポをふるポチに「がんばるね」と言い。外にでる。
近所の奥さんとまた目があったが軽く会釈してやりすごした。奥さんは怪しいといわんばかりの目を投げつけてきたが、そんなことに気をとられる余裕はない。
先日の電話でお母さんは泣き崩れて、言っていることはわからなかったけれど、気持ちは充分伝わった。
(お母さんが喜んでくれた)
晴海が人ひとりの命を救う。
お母さんは電話で感謝の言葉を並べ「あなたを産んでよかった」と締めくくった。
本当の兄弟でも適合の確率は4分の1というのに、
(信じれば起こる奇跡)
電車に揺られながらぼんやり思う。
冬木母子のことで動けなくなりそうだった晴海に、手を差し伸べてくれたお母さん。
やよいの病気がよくなったら、叶えたい夢に近づいた。
(感謝しなきゃ。つらいことばかりじゃない)
暗くて長いトンネルのなかにいても、必ず灯りは用意されている。突破口の道しるべは必ずある。
早紀には「また男装するのか」と聞かれた。それは嫌に決まっている。あれっきりでおしまいにするつもりだった。だけど……。
(あたしにはやらなきゃいけないことがある。そのためには我慢しなくてはいけないこともあるわ)
流れる電車の窓に写る冬木母子。「気にしていない」というニュアンスと口元しか動かない笑み。あれは晴海のなにを否定するためのものだったのか。
(この格好をしていれば、冷静な気持ちであたしの話を聞いてくれるんじゃないかしら)
晴海は病院での検査が終わったら冬木家を訪れるつもりだ。冬木母子を刺激しないよう男装で行こうと決めた。本当は屈辱的なことだけど、お父さんの幸せのため。冬木母子が抱えている誤解を解くため。なにより晴海の新しい家族のため。
お母さんからHLA適合の電話をもらった直後早紀にそう言ってみた。
早紀はしばらく考えてから。「理不尽だけどさ、理由を聞き出すためには代償も必要なのかもな」と残念そうに言った。
(見守ってくれる友だちのためにも頑張るわ)
電車に乗ったところで携帯がブルブルした。メールが同時に2通着信していた。
『はるたん、病院が終わったら会えない?』
みるくにはやよいと型が合って検査のために学校を休むメールはしたけれど、そのまま冬木家に向かうことは伏せていた。余計な心配はさせないほうがいいと思ったから早紀にも口止めを頼んでいる。
(どうしよう、夜ならオッケーかな。でも冬木さんがわかってくれて、話が盛り上がったら遅くなりそうだし……先にもう一通の見ようかな)
みるくのメールを保留にして、次の人が書いた文章を確認。
送信者は、涼一とあった。
(涼一君……)
内容を見るをタップするのに永遠のような時間を要してしまった。
『晴海さんと家族になれなくてとても残念です』
車内アナウンスが聞こえなくなった。笑い声をあげる女の子たちの声もボリューム0になり電車が動いている音すらどこかへ消えてしまった。
(涼一……君……)
なんでこんなメールをよこすのか。これを彼らしいクールな文面というべきなんだろうか。
晴海はグッと携帯を握りしめた。
(そう決めつけるのまだ早いよ)
晴海は相手の感情の見えないメールを一文字ずつ追って涼一の気持ちを探ろうと試みた。でも文字だけで心を読むことはできない。思い浮かぶのは薄いくちびるを吊り上げる笑い顔。
(理由が知りたい。それからでも遅くはないはずよ)
「あ、あのう」
(涼一君)
握りしめる携帯電話。
(おかしいわね、こんなことされているのに。あたし涼一君に触れたいと思ってる)
「あの、外田さんの、親戚の方ですよね」
(あたしは、なにもわからないまま涼一君とお別れしたくないの)
「あの、すごいデコケータイですね。やっぱりそういう趣味なんすっか?」
耳障りなことを言われていることに気付いて真横を見たら。たれ目で金髪ツンツン頭の高校生が立っていた。
「あなたは」
精悍な涼一君と比べたくない少年。なんであんたがここにいるのよと言いたいのをこらえてそっぽをむいた。
「すみません、自分、またやっちゃいましたか」
「やっちゃった? なにを」
このまま無視しようと思っていたのに誘導にひっかかってしまった。
シャツをだらしなく出している少年はツンツン金髪に手を頭にやって申し訳なさそうにペコペコ頭をさげた。
「空気読めないっていうか、的はずれなことを言うとか、マヌケとかパッとしないとか、そういう類のことです」
「そうね、その通りだと思うわ」
晴海はこの少年相手に緊張する必要はなしと判断した。だから格好は男でもそのままの晴海で受け答えすることにした。
「あなた学校は。サボリ?」
少年は大きく首を振った。
「あ、いや、サボリといえばサボリっすけど。そんなことより、あなたにじかにお礼が言いたかったんです」
「お礼?」
「病院に行けば会えるかと思ったんですが、電車で会えるなんて思ってもなかったっす」
少年はいきなり晴海の手をとってブンブン上下に振り回した。
「外田さんと型が合ったって外田さんのお母さんから聞いたときは、自分神も仏も信じましたよ」
他の乗客の目が少年に突き刺さる。ふだんは晴海が受けているこのテの視線を、はじめて違う人が集めているのを感じてつい吹き出してしまった。
「なにがおかしいんですか!」
「しーっ、ここ電車のなかよ」
少年はあわてて手を離し、「す、すみません」とどもった。
精密検査の予約時間まで少し早く最寄り駅に着いてしまったので、ふたりは近くのカフェに入ることにした。
自己紹介で晴海はやよいの母のイトコの子供ということにしておいた。
「そんな遠縁の人の型が合うなんてホントに涙が出ます。マジでマジで」
テーブルに座るや否や飯田君は涙目を披露してくれた。
「あなたたち、付き合ってどのくらいなの」
晴海は単刀直入に聞いてみた。
その質問に飯田君は赤くなりながら、やよいがいかに素敵な女の子であるか語り出すと思っていた。
ところが予想に反し、あれほどはしゃいでいたのが空気が抜けてしまったのだ。
「どうしたの? 付き合っているんでしょ」
飯田君は涙目のまま。
「すんません、一方的な片思いっす」
「えーっ!」
お母さんだってすっかり彼のことを信用しているかのように振る舞っていたのに。
「付き合ってないの?」
飯田君は小さく頷いた。
「すみません。自分なんかが外田さんとつり合うわけないっす」
「片思いって、やよいのどこにひかれたの」
飯田君は晴海の真面目な言い方になにか思い当たる節でもあるのか大きく溜息をついた。
「親戚の人でもそう思っているんですね」
そうって? と聞き返そうとしたけれど、飯田君の溜息が深いから黙ってみる。
「外田さんのせいなんでしょうか」
飯田君はコーヒーにスティックシュガーを落とす。褐色に吸い込まれる白いさらさら。
「せいって?」
「彼女、不倫の子って。ベビーカーに乗った公園デビューのときからハブにされていたそうなんです」
外田さんにも奥さんとお子さんが2人いた。お母さんも外田さんも、晴海を入れて3人の子供を捨ててまで、やよいとの暮らしを選んだのだ。
「親が不倫して、元の奥さん、旦那さん。子供たちのこと捨てたら問題だと思いますよね。だから、よその家庭こわすまでして不倫貫くなんて信じられない、と思われてのいじめですよ」
晴海はつり革を持つ手に力を入れた。飯田君が続ける。
「でも、外田さんがなにしたってんですかね。靴隠されたり、教科書に落書きされたり。自分、ヘタレだからただ見ていることしかできなくて、何度も助けなきゃって思ったんす。でも『外田が好きなんだろ』ってはやしたてられるのがオチだし、そんなんで自分みたいのが好意寄せてるの知られたらきっと外田さんに『キモイ』って言われると思って……」
「あなたって、はっきりしない男ね」
ウジウジして。と続けて言うのは彼が傷つきそうだったからこらえた。
「すんません」
「で、やよいのどこに惹かれたの。性格キツイでしょ、あの子」
飯田君は小さく頷いてから、あわてて首を横に振った。
「キツイのは防御です。外田さんは歯をくいしばっているんです」
「どういうこと」
「自分、幼稚園から一緒なんですけど。彼女どんなに中傷されても、酷いことされても泣いたことがないんです。自分には無理っすよ、教室じゅう敵だらけなんですよ、それでも1日も休まずに。受けて立つみたいな姿勢で」
お母さんは渡さない。あのときの目が思い出されて胸がチクッとした。
「一度だけ、小学校5年生のとき、誰もみていないところで外田さんに、思い切って声をかけたことがあるんです「つらくないの」って。そうしたら外田さんは言ったんす。「あたしはお父さんとお母さんが大好きなの。あたしはお父さんとお母さんが愛し合って生まれてきた子供なの。あたしを馬鹿にするやつらは許さない。あたしの存在を否定するやつらには絶対に負けない」って。その目に圧倒されました。自分、辛くないのかって聞いただけなのに、そんな返事されて。でもそのときの外田さんメッチャかっこよくて。中学に上がった頃には外田さんの毅然とした態度と成績の良さとか運動神経のよさとか。馬鹿にされる余地を見せることがなくなって、いじめはなくなりました。ホッとしました」
一気にそこまで語った飯田君は甘くしたコーヒーを一口。
「自分、猛勉強したんす。外田さんが偏差値高い高校を受けること知って、どうしても同じ高校行きたくて」
「話が飛ぶわね」
「すんません。外田さんは天の上の人なんです。美人だし、頭いいし、運動神経いいし、毅然としてるし」
「それは聞いたわよ」
と突っ込んだら飯田君は真っ赤になった。
「こんな自分でも必死になればできるんだってとこ見せたくて。そんで、高校受かったときに思いました。これでまた3年間外田さんと一緒にいられるって。チョー嬉しかった。中学のとき下から数えたほうが早かった成績の自分の受験番号が掲示板にあったとき、思わず外田さんに走り寄ったんです。「これからも、よろしく」ってうわずってたマジで。そしたら外田さんが「飯田にしてはがんばったね」って笑顔をみせてくれたんです。彼女の笑った顔なんてみたことなかったからびっくりしましたよ。チョー可愛かったんです。まるで自分が受験のために漫画もテレビも封印して友だちの誘いも断って勉強したのを知っていたみたいな「がんばったね」だったんす。そのときはっきり悟ったんす。彼女のそばにずっといたい。大好きだって」
飯田君は熱をさますかのように水を一気に飲み干した。
「高校でも、同じ中学から来ているやつはいるから、外田さんのことはあっという間に広まったんです。それで彼女、高校でも友だちできなくて。でも自分、もう逃げないって誓ったんです。外田さんが好きだって伝えたくて、入学して間もなくひとりで中庭のベンチで弁当食べてる外田さんの前に立ったんです」
晴海は洟をすすりながら声を張り上げる飯田君に釘付けになっていた。
「告白、したの?」
飯田君は自信なさげに。
「外田さんの前で「あの、こんにちわ、お弁当おいしそうですね」って声かけたら速攻で言いかえされました「優等生ぶった喋り方どうにかして。真面目髪型も見苦しい」って。で、自分生まれ変わったんです」
それで髪染めてワックスいっぱいつけてツンツン逆立てて、おかしな喋り方になってしまったのか。
(じゃあ、それまでは黒髪で七三分けだったのかしら)
晴海は飯田君をじっと見て、吹き出しそうになるのを堪えた。
「自分なりに格好良くしたつもりなんです。おかげでクラスの注目の的になったし」
どういう意味で注目を集めたのか、わかっていなさそう。
「もう一度告白チャレンジしたんです。リベンジっす。そうしたら外田さんは」
晴海は息を飲んだ。
「緊張でカチンコチンの自分を前にして、半分も食べていないお弁当をベンチに置いて、立ち上がって「飯田にしては上出来」って言って。そのまま、自分の腕に倒れてきました……」
「え?」
それって。
「彼女の身体、すごく熱くて。息も絶え絶えで。そのまま救急車に運ばれて入院です」
飯田君はコーヒーを空にした。
「外田さん、ずっと具合が悪かったのに、だれにも言わないで気張ってたんです。自分、気付いてあげれなかった」
晴海のなかで『お母さんはあんたなんかに渡さない』と挑戦的ににらみつけていた小さな女の子。
「急性骨髄性白血病って、ドラマじゃあるまいしって実感わかなかった。それよりきつかったのはクラスの連中の反応で、「可哀相に」とは言うんですけど、外田さんのためになにかしようってだれも言わないんですよ」
「あなたは?」
「はい」
力強く飯田君は頷いた。
「おれ15歳だからドナーどころか登録も出来ないんです。だから、おれの家族に相談して、ドナー登録をしてくれる20歳以上の人への協力を求めるビラを配りました。これは、担任の先生が手伝ってくれました。先生は、いい人で」
「クラスの人は」
「強要はしませんでしたから」
「千羽鶴とか、励ましの色紙とかは」
闘病にはつきものなことなので聞いてみた。
「色紙はだめでした。昔の彼女を知っている何人かの女子が「可哀相だけど、今更心にもない励ましの言葉は書けない。外田さんも迷惑に思うに決まっている」って言いだしてほかの女子もその意見に同調して」
「なんでそんな、おかしいじゃない」
「自分もそう言いたかったっすよ。でも、みんな関心ないんです。外田さんのこと」
飯田君も身体を震わせるほどの闘いをしてきたんだ。
「鶴なら誰が折ったか言わずにクラスみんなからって言えるから、折り紙1000枚自分が買って、折ってもいいという何人かと担任とで折りました」
「なんであなたが買うのよ。クラスみんなからお金出し合うべきじゃない」
飯田君は破顔して。
「自分が買いたかったんです」
しっかりした口調だった。
「それでも放課後残ってまで鶴を折ってくれたクラスメートのなかに、女子が5人もいたことが嬉しくて。折りに来た理由が「外田さんの過去自分には関係ないし、話したことないから嫌いになる理由もないから」って言うんです。自分嬉しくって泣いちまって。外田さんにはクラスみんなからって渡しました」
「やよいの反応は?」
「いつもどうりっす」
そっけなく「ありがとう」って感じだろう。
「でも、自分が見舞いにいくと、いつも千羽鶴眺めてんです。こないだは、折ってくれた人の名前聞いてきました。みんなからって言ったんだけど外田さんわかってんすね」
「そう……」
晴海は再検査に影響がでてはいけないので水しか飲まない。
「あんまりね、みんなの反応」
「え?」
晴海の呟きに飯田君が身を乗り出す。
「いじめの理由ってやよいが不倫の末に出来た子だからなんでしょ」
飯田君は黙って頷く。
「ということは、先にいじめをしかけたのは、やよいからではないのよね」
「当然っすよ。外田さん感情表現下手だけど、自分から攻撃しかけるなんて卑怯なマネはしないっす」
憤慨する飯田君をみていると幼い頃、晴海のことを敵視してお母さんとの仲を邪魔をしたやよいは、小さい身で必死な防御をしていたんじゃないか。
「外田さんはひとりで闘ってきたんです。子供の頃見て見ぬふりしてきたおわびも含めて、彼女のためにできることをしたいんです」
「ひとりで闘った……」
晴海は溜息まじりになる。
「そうですよ。中傷とかいじめとか、プライドではね飛ばしてきたんです」
「プライド」
「外田さん「あたしの存在を否定するやつらには絶対に負けない」そう言ったんですよ。晴海さんなんとも思わないんですか」
「なんとも、って?」
飯田君がじっと見ている。悟ってよと言われているようだ。
「晴海さんだって、人になに言われようと貫くんでしょ、その、オカ……ニューハーフ?」
疑問形になっているのが可笑しくて吹き出してしまった。飯田君はまっすぐ晴海の目を見ている。とても真剣で、熱意を感じる目。
「いろんな酷いこと言われてきたんじゃないんすか?」
言われて浮かんだのが、冬木母子だったことが晴海を悲しくさせた。
「オカマとかニューハーフという言葉じゃないの。あたしは間違えて生まれてしまっただけよ」
飯田君は言葉の意味を分析しようとしているのか目を宙におよがせて。
「あたしは生まれたときから女の子なのよ」
と補足してあげたら、頭の上で電球が点灯したのか、
「やっぱり外田さんの血筋っすよ、自分の信じる思いを貫いているじゃないっすか。晴海さんもカッコイイっすよ」
晴海は目を見開いた。ちゃらちゃらした少年という印象は飛び散って、彼に想われているやよいが憎たらしい、と思えてきた。
「ありがとう」
自然に晴海の口から感謝がこぼれ落ちていた。
「なに言ってんすか、お礼言いたいのはこっちなんですよ。外田さんから告白の返事もらってないんです。このまま永遠の別れなんて絶対ダメなんす」
飯田君のまっすぐな瞳に、やよいが周囲の冷たい目から闘ってきた日々が映し出されているようだった。
晴海にお礼を言うという目的が果たせた飯田君は午後の授業に出ますと言って帰っていった。なんども振り返って大きく手を振って飛び跳ねていた。晴海は小さく手を振る。
飯田君が改札に消えていくのを見送ってふと見上げたら空が青いことに気が付いた。
海が広がっているみたいだ。雲の形はカモメやヨット。こんなお洒落な天気が続いていたのにずっと下をむいていた。
(こんなに綺麗な空を見逃していたなんて、なんて勿体ないことしてたんだろ)
病院に入るとロビーでハンカチに目を当てるお母さんの姿があった。それは悲しみの涙ではなくて希望に輝くきらきらした真珠。
お母さんが晴海に気が付いた。嘘の格好をしているけれど、中身は晴海。そのまんまの晴海。
「お母さん。やよいはあたしが治してあげるわ」
お母さんは元の顔がわからないくらい目は腫れあがってくちびるも厚ぼったくなっている。でもちっとも悲しそうじゃない。だって、晴海を見る目に棘がないのだから。
「もうだいじょうぶよ」
声をかけるとお母さんは小刻みに何度も頷いた。
「晴海、ありがとう、晴海」
お母さんが倒れるように晴海の胸の中に飛び込んできた。真上から見てはっとする。
(お母さんに白髪が生えるなんて)
記憶のなかのお母さんの髪の毛はつやがあって黒々していたのに。
そっと細い肩に手をまわしたら、すっぽり包み込むことができてしまって晴海は胸がドキドキした。
「お母さん小さくなったね」
「晴海が大きくなったのよ」
大きくなりすぎちゃったのは悩みの種なんだけれど、今はどこかに置いておこう。お母さんと会話ができた。それだけで晴海の心はじゅうぶん満たされた。
今回は血液を採るだけでは終わらなくて、心電図やらレントゲンやら、晴海が正真正銘の健康体でドナーとして本当に的確なのかを徹底的に調べあげられた。
問診で「いまなにか薬を常用していますか」と聞かれたとき、ホルモン治療のことが頭に浮かんだのだが、それはやよいへの移植が終わってから、と言い聞かせて身体を変える予定があることは言わないでおいた。検査で苦しかったことといえばそれくらいだ。
すべての検査が終わったとき再びロビーで待っていたお母さんと対面した。
「ほんとうはやよいに会って欲しいんだけど。変な意地を張って移植を受けないと言い出したら困るから、やよいにはあなたのことは話していないの。ごめんなさい」
そう切り出されて晴海は首を振った。
「いいの」
「本当にごめんなさいね」
お母さんは深々と頭をさげた。お母さんとやよいのためにはそれがいいんだろう。飯田君に会わなければ素直にそうは言えなかっただろう。
「ドナー適格性検査の結果がわかったらまた連絡するわ。そうしたら、もうすぐにでも移植だから、病気とか怪我とかしないでね。血液をきれいなままにしておいてね」
お母さんの瞳には晴海が写っている。お母さんがきれいという言葉を使うと、いちごゼリーがの香りが鼻をくすぐる。
「きれいなままでいるわ」
いつでも、どんなときでも。透明ないちごゼリーのままで。
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