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 お母さんと別れて晴海は病院をあとにした。 (あとは、冬木さんね)  とはいえ、どうしたらいいものか。住所をたよりにアパートの近くで待ち伏せようと思っているけれど。母子の態度を思うと溜息も重くなる。 (ううん。ダメよ弱気になっちゃ) 「晴海か?」 「はるたんなの?」  早紀とみるくの声がしたけれど考え事をして歩いているから空耳だろう。 (やよいの病気がよくなる。それでお母さんが元気になってくれた)  信じれば奇跡は起きるんだ。これからもずっと。 「別人だな」 「お化粧してなくても肌きれい」  吐息まで伝わってくる。なんてリアルな幻聴なんだろう。 「おいおい、どこ行くんだよ」 「はるたんてば」 (こんどはお父さんを元気にしてあげなきゃ……?)  晴海は立ち止まり、ゆっくり振り返った。晴海の普段とかけ離れた姿を真剣に見入っている早紀とみるくが並んでいる。 「まぼろし?」  つぶやく晴海にふたりは首を横に振った。 「……うそ……」  足のつま先から体温がなくなっていく。顔面にまで氷のような冷たさが到達したとき。 「キャーッ!」  晴海は羞恥のあまり逃走した。驚いたのはもちろん早紀とみるくである。 「おい、こら、待て!」  毎朝のランニングを欠かしたことがない早紀にお腹の脂肪が気になる晴海が勝てるわけがなく、50メートル走にもならないところで肩をつかまれてしまった。 「イヤーッ! 見ないでーっ!」  両手で顔を隠す晴海の全身からいろんな意味の汗が噴き出した。 「今更なに言ってんだよ」  早紀があきれ顔をみせたところにみるくが追いついてきた。 「はるたんノーメークでもかわいいから恥ずかしくなんかないよ」  これぞ天使の一声。 「え?」 「うん、つやつやしてて白くてぽにゅぽにゅしてる」  晴海は顔面を隠していた両手を頬に移動させた。 「ほんとうに?」  みるくは笑顔でうなずいた。 「ちょっぴりびっくりしちゃったけど、みるくはお化粧してないはるたんも好きだよ」 「みるちゃん」  晴海とみるくは瞳をプラネタリウムのように輝かせながら見つめ合った。そんなふたりを目を細めて見つめる早紀が皮肉を込めて言う。 「お熱いところ申し訳ないんだけどさ」 「そんなんじゃなうぃあ」  晴海は舌がもつれた。  みるくが恨めしそうに見つめている。 「ちょ、ちょ、そうじゃないわよ! どうしてふたりがここにいるのよ!」  晴海は悲鳴をあげた。  今度はみるくと早紀がちらっと目をあわせた。 「会いたいってメールしたのにレスがなかったから。すごく気になって早紀を問いつめたの」  電車でみるくからメールをもらったのにレスを忘れて、飯田君と話し込んでしまった晴海。 「ごめんなさい、時間がなくて」  必死にわびたがみるくはくちびるをとがらせている。 「悪い。冬木親子に会いに行くって喋った」 「いやだ、なんで言っちゃうの。みるちゃんには内緒って約束したじゃない」  地団駄を踏むあまりお腹のお肉がゆれてしまうのが晴海には悲しかった。 「みるくのうるんだ瞳の問いつめに勝てるわけないじゃん。それにひとりで抱え込むなって言ったろ」 「病院の前にいればつかまえられるだろうって意見が合って、来たの」  早紀の言葉をみるくがつなぐ。 「ふたりとも……」 「おれらも付き合う」 「一緒に冬木さんのところいこ。はるたんがすてきな女の子だってこといくらでも話すから」 「でも、ふたりには関係のないことよ」 「あるよ。晴海の問題はおれの問題だ」 「みるくも。大好きなはるたんが苦しんでいるのを無視できない」 「あなたたち……」  洟をすする。やっぱり今日は晴天だ。1日じゅうお日様に照らされて、雨が降ることなんて絶対にない。 「ごめんね、心配かけて」 「そういうときは、ありがとうって言うんだぜ」 「はるたんはひとりじゃないんだよ」  晴海はなんどもうなずいた。 「つーわけで、買い物に行こうぜ」 「え?」  ニヤッと口を大きくゆがめる早紀。 「みるく渋谷に素敵なお店知ってるの」  みるくも浮き足立っているみたいだ。 「なに? どうしたのふたりとも」  首をかしげる晴海に早紀とみるくはたたみかけるように言い出す。 「納得できねえよ。嘘100%で会いに行くのは」 「ほんとうの自分をわかってもらいたいなら、ほんとうの姿で向き合うべきだと思う」 「その格好で行っても冬木親子の感情が変わるとは到底思えないし、よけい感情がこじれれると思う」 「はるたん、正面からどかんとぶつかっていこ」 「女なんだから仮装なんかすんなよ。痛いんだよそういうの」 「冬木さんと涼一君がびっくりするほど綺麗にしてあげるから」  ああ。どこまでも空が青い。雲が白いことを忘れてしまいそう。 「不愉快に思われないかな」 「おれに言わせれば、その姿のほうが不愉快だよ」 「嫌われないかな」 「はるたんらしくないよ、そんな言葉」  晴海は足のつま先を見つめた。焦げ茶のひも革靴。ベージュのチノパン。無地の水色シャツ。どれもお母さんが選んで買ってくれた。決して安いものではない。  ちゃんとした格好。どこに行っても恥ずかしくない姿。 「そうだね。そうだよね」  お母さんとだって、いつかは女の子として自分とデートしてもらうんだ。なのに新しい家族に嘘の格好で向き合おうなんて。  謝る気もないのに「ごめんなさい」と言っているようなものだ。  3人で洋服を選んでいるとき、いちばんはしゃいでいたのはみるくだった。  次から次へとハンガーにかかったフリルを持ってくるから店員に注意される始末で、晴海も早紀も口をぽかんと開けっ放しになるほど。 「みるく、はるたんの着替え手伝うーっ!」  しまいには試着室のなかに飛び込んできた。 「みるちゃん、せまいわよ」 「だいじょうぶだもん」 「外に出て待ってて」 「いや」  みるくは晴海の広い背中におでこをくっつけるようにしてもたれかかってきた。  小さな体温が染み渡ってくる。 「みるちゃん?」  狭い空間に洟をすする音。ハイテンションが終息したのはいいけれど、違う不安が襲いかかってきた。 「みるちゃん、どうしたの?」 「はるたん好き」  囁くように言われた。 「あたしもよ」 「そういう意味じゃないの」  背中に頭を振っている感触がする。  女の子に対して、そういうことに関心のない晴海。みるくがなにを言おうとしているのかわからない。 「みるちゃん、あたし着替えができない……」 「みるく、はるたんとしたいの」 「え? なに、なにがしたいの?」 「ちがう、そうじゃないの、みるくははるたんが欲しいの」  息遣いと熱っぽさでわかってしまう。これは晴海が月明かりの王子様に対して抱いているのと同じ感情。 「みるちゃん、どうしちゃったのよ」 「はるたんは男じゃないし汚れてない、だからみるくのよごれを浄化することができるの」  みるくが腰に手をまわしてきた。 「みるちゃん、なにを言っているの?」 「はるたんが好きなの」 「みるちゃん、あたしレズビアンじゃないのよ」 「ちがうの、そういうんじゃないの、みるくははるたんがほしいの」 「みるちゃん、冗談はやめようね」 「ここでして」  みるくの小さな手が腰から股間に移動してきた。じわじわとカエルを追い込む蛇のように。 (みるちゃん、指の這わせかた慣れてない?)  これが月明かりの王子様だったら、そう思うだけで晴海は意識が遠のきそうだった。 「はるたん、みるくをきれいにして」 「みるちゃんは、そのままで、きれいよ」  こうも簡単に息があがってしまう自分が恥ずかしい。 「最初から、はるたんしかいないと思ってたの」  みるくの手が晴海の晴海をを包み込んで軽く握った。 「はるたんは、女の子に生まれて幸せ?」  前に同じ質問をされたような。答えてあげたっけ。 「みるくはつらいよ。女の子に生まれたことが」  耳元にかかる熱い吐息。パンティのなかにまで手は伸びようとしている。 「みるちゃんそんなことしちゃだめ。あなたは天使さんなのよ」  ならば抵抗すればいい。ヤメて! と突き飛ばせばいい。 「みるく、天使なんかじゃない」 (みるちゃんを突き放すなんてこと、できないわ)  処女の晴海には快楽から逃れる術がみつからない。 (ああん、どうしたらいいの) 「お~い、着替えまだか~」  カーテンの外から早紀のでっかい声。 「早紀!」  記憶喪失の人がすべてを思い出すのはこういう感覚なのかしら、というほどハッとした。 「みるちゃん、ここまでにしましょう」  今のは勘違いということにしよう。晴海は静かにみるくの手を離してあげた。 「そういうことはできないけど、みるちゃんのことは大好きよ」  みるくの目が赤い。自分がみるくをこんな顔にしてしまったのだろうか。晴海は自らの手を胸に当ててしまう。  みるくが声を振り絞った。 「ごめんなさい。みるくのこときらいにならないで」  小型犬のように震えるみるくをどうして嫌いになれよう。 「あたりまえでしょ」  ハグしてあげたらみるくは鼻の頭を赤らめたままうなずいて試着室を出て行った。  みるくが選んでくれた服で全身をかためた晴海は念入りにお化粧もしてもらった。  女の子に戻った晴海を見てみるくは、なにごともなかったかのようにはしゃいでくれた。  密室での行動はなにかに取り憑かれていたんじゃないかとさえ思えてきた。 「みるくも信じてる。頑張れば道はひらけるって」  みるくの瞳にはプラネタリウムのように星がまたたいていて、晴海はたくさんのキラキラをもらった。 「うん。ありがとう」  晴海はみるくの思いにめいっぱいの笑顔でこたえた。あたたかな陽差しがスポットライトのようにあたっている。 「さあて、乗り込むか」  拳を鳴らして早紀が目を光らせた。 「やだ、早紀ったら任侠映画じゃないのよ」  ふたりの受け答えにみるくがプッと吹き出して、それが伝染して早紀も晴海も笑いだした。  ありがとう。その言葉しか晴海には思い浮かばなかった。  冬木母子の住むアパートはすぐ見つかったけれど二階の窓は日も傾いているのに灯りもついていなければカーテンもひかれていない。 「まだ帰ってないみたい」  電信柱のかげから覗きこむ派手な3人組。思い切り通行人に怪しい目を向けられている。 「晴海、何時頃帰ってくるかわかってんのか」 「わかってたら待ち伏せなんかしないわ」 「そう、だよな」 「涼一君も遅いんだね」 「きっと部活なのよ。彼ならどんなスポーツしててもかっこいいわ」  涼一がバスケやサッカーやバレーボールや野球をしている姿を想像して額から湯気がでてしまう晴海。 「はるたんのばかっ」  みるくはあからさまに腹立たしげ。 「みるちゃん、そうじゃないのよ」 「いや、そうだろ」 「早紀はだまっててよ」 「だったらゆでタコみたいに赤くなってんじゃねーよ」 「え、ウソ、そんなに赤い?」 「はるたん気付いてなかったの」 「なにしてるの、あなたたち」  警察を呼びますよ。そう続く声がして3人は同時に振り返った。  そこには生ゴミにたかるハエを見るような目をした冬木圭子。スーパーで買い物を済ませてきたようで片手にエコバッグをさげている。 「消えてちょうだい」  なにも言っていないのに苛々をぶつけられた。 「こわい」  みるくがしがみついてくる。 「冬木さん」 「え、このおっかないおばさんが?」  早紀の感想は間違っていなかったが冬木の怒りを倍増させてしまうこととなる。 「こっちはあんたのせいで幸せの灯が消えたのよ。あんたの顔なんか見たくない」  最初に会ったときは穏やかで笑顔のたえない人だった。同じ人とは思えない般若がいる。 「冬木さん、どうして」 「なれなれしく呼ばないで」  アスファルトにツバを吐く勢いだ。 「どうしてそんなに怒るんですか。あたしのなにが嫌なんですか。教えてほしいんです」  晴海はひるまなかった。いや、ひるむことができなかった。 「あたしが嫌いなんですか。それともなにか失礼なことを言ったんですか。最初に嘘の姿でお会いしたことなら謝ります。ほんとうにごめんなさい」  頭をさげるのと同時に冬木さんはわざと足音をたててアパートに向かっていく。  頭をあげたときには、手を伸ばしても届かない距離。 「待って、冬木さん!」  歩みを止める気配がないどころか冬木さんは走りだした。晴海もあわててあとを追うが、脂肪が邪魔をして追いつけない。 (走れない) 「まかせろ」  涙目の晴海の脇を早紀が駆け抜けた。 「待てって言ってんだろ」  晴海がゼイゼイ言ってる間に早紀はアパートの階段に足をかけた冬木さんの二の腕をつかんでいた。 「なんですかあなたは、大声だしますよ!」  という声がすでに大声。 「お願い、はるたんはおばさまのことが大好きだから来たんです。いやがらないで、お願い」  あとを追ってきたみるくも涙ながらに訴えた。 「仲間なんか連れてきて、やることがいちいち卑怯なのよ」  冬木さんは髪を振り乱し、目に狂気の色が宿りはじめた。 「これではっきりしたわ。あんたたちは絶滅したほうがいいのよ。あー、せいせいした。よかった。入籍前にわかって。あやうく騙されるところだったわ」  薄いくちびるからつばきが飛ぶ。 「冬木さん」 「近寄らないで!」  晴海は足を止められた。 「あんたもいつまで人の腕つかんでんのよ!」  早紀も手を思い切り振りほどかれた。異常なまでの剣幕に早紀は返す言葉が見つからない。 「なんで。どうしちゃったの冬木さん」  晴海は豹変というものを目の当たりにして、感情というものが見つからない。 「警察呼ぶわよ!」  悲鳴をあげる冬木さん。  それを見て、晴海の援護射撃を開始するみるく。 「はるたんは心がきれいで、やさしくて、家族思いで、冬木さんはとてもおだやかな人で、涼一君はかっこいいって言ってて、家族ができることとても楽しみにしてるんです。みるくははるたんのこと大好きだから、きっと冬木さんもはるたんのこと好きになるよ。会えば会うほどはるたんの好きなところが増えていくんだよ」 「あなたはなんなの、学校は? 中学生じゃないの」  冬樹さんに言われて、みるくは青ざめながらも首を振る。 「ちがうもん、みるく英文科だもん!」 「そんなわけ、ないだろ」  そのとき。晴海の耳元をくすぐる声が脇を通り抜けていく。 「こいつらが通ってるの薬科大学。英文科なんてないよ」  涼しい声はなにを喋っても晴海の五感をくすぐる。 「どうみたって登校拒否の中学生。ばれてないと思ってんのは君だけだよ」  ほくそ笑む品行方正優等生が学校から帰ってきた。 「涼一君」  名前を呼ぶだけで下半身に血液が集中してしまう。 「涼一助けて。この人たちがお母さんを馬鹿にするの」  しかし冬木さんがわんわん泣きながら涼一君にしがみついたから、ふしだらな感情にとらわれてはいけないと思い直す。  そんな晴海の気持ちを読んでいるかのように涼一が目を細めて熱いビームを放ってきた。晴海はハートを射抜かれ時間を止められてしまう。 (ああっ、そんな目で見ないで。おねがいよ) 「あなたがたは、なにをしにいらしたんですか」  母親を抱きかかえたまま上からものを言う。 「晴海」  早紀がいまが絶好のチャンスだとうながすけれど、なにを言いたかったのか忘れてしまう。 「晴海さん、あなたは中学生の手を借りないとなにもできないんですか。二十歳なんでしょ? 大人としてどうなんでしょう。ますます嫌になりましたよ」  涼一の勝ち誇ったような笑い。いやらしくて、そんな顔似合わないって言いたいのに。体中の神経が針金でぐるぐる巻きにされてしまったみたいになっている。これが月明かりの王子様に与えられた闇の魔法。 「あなたのお父さんには申し訳ないですけど。すべてあなたのせいだという自覚を持って人生歩んでください。二度と会いません。今度見かけたら不審者として警察呼びます」  冷えた海から救出されたようになっている冬木さんを抱えながら涼一が去っていこうとしている。 「涼一君、待って」  蚊の鳴くような声。のど仏にまで針金が絡みついている。 「せめて理由を言ってくれ。納得できないんだよ。どうしてそこまで嫌悪するのか。外見だけでものを言ってんなら、てめえらの言ってることはただの差別だぜ」 「はるたん! なにか言って。家族になるんでしょ!」  早紀が冬木母子に。みるくが晴海に。それぞれ役割を果たす言葉をぶつけた。 「差別ですか」  仕方ないなと肩をすくめるように涼一はもう一度立ち止まった。  晴海も勇気をだしてゆっくり冬木母子にむかって歩を進めた。 「涼一君、あのね」 「いけませんか、差別しては」  向かい合うかたちの両者の息がこんなふうにピッタリ合った。  涼一は可哀相な母親を抱えたままくちびるを動かした。 「おとなしく男でいればいいものを」 「ちがうわ。涼一君は誤解してる。おとなしくしていられないからこそ、あたしは女の子を通すことになったの。それは、とても自然なことなのよ」 「そういうお気楽な思考が腹立たしいんですよ」 「いますぐ間違った性別を理解してとは言わないわ。少しずつあたしという個人をみつめて欲しいの」 「あなたのお父さんも不幸ですね」 「冬木さんと涼一君。新しい家族ができるのにどうしてお父さんが不幸だなんて言うの」 「あなたの存在で幸せを逃した」 「意味がわからないわ。どうしてあたしのせいにしたがるの。お父さんが嫌いになったわけじゃないんでしょ」  あまりに平行線だからか、涼一は呆れたように溜息をついた。 「晴海さん、女性にもてないから現実逃避なんでしょ。精神科でカウンセリングはしたんですか。女性でいるほうが他人の注目を集められて孤独感から解放されると思い込んでいる可能性もありますね。幼年時代になにかあってトラウマになっているのかな。どうですか?」  晴海はすべての項目に対し首を横に振った。そして冬木母子にむかってさらに歩を進めていく。 「涼一君は信じることを拒否しているわ。あなたは最初からそういう考えをしていたの? なにかきっかけがあったんでしょ。あたしはそれが知りたいのよ」  涼一の能面にはじめてヒビが入った。額から鼻の頭に向かう亀裂から優等生の顔がボロボロと剥がれ落ちていく。 「うるせえんだよ。母さんをこんなにしやがって」  現れたのは憎しみの塊。  そこへ早紀が突っ込む。 「そう言うってことは、なんかしら嫌な目にあわされたってことだよな」  涼一は凶暴さを帯びた目を早紀にむけた。つまり図星か。 「その様子だとダメージ深いのはお袋さんだな」  涼一が歯をくいしばっているのを見て、晴海は地面がぐにゃりと曲がったような感覚に襲われた。 「涼一君、教えて。あたしと同じような人に、なにかいやなことをされたの?」  怒りを放出したまま否定しない涼一の腕のなかで冬木さんはぬいぐるみのようにぐったりしている。もはや怒ることにも疲れたように。  騙されたのか。捨てられたのか。裏切られたのか。傷は深く、どす黒い。 「おまえらは存在だけで悪なんだよ」 「そんな」  晴海は首を横に振る。涙と汗が飛び散った。 「ちがう!」  叫んだのはみるく。 「はるたんは、悪いことなんかしない。みるくより綺麗でピュアなほんものの女の子だよ。ぜったい、ぜったいみんなを幸せにしてくれる」  みるくはいまにも地に伏しそうな冬木さんの支えになろうと走り寄った。 「お願いします。はるたんを信じてください」  目一杯の笑顔を浮かべて冬木さんの顔を覗きこんだ。  同時に。 「さわらないでよ!」  冬木さんはため込んでいたエネルギーを一気に放出してみるくを突き飛ばした。  後ろから支えていた涼一まで3歩下がらせる勢い。 「子供のくせに、こんな人の肩を持つからよ」  スーパーのエコバッグを地面に叩きつけるように振り回し、ライオンと闘ったかのように肩で息をする。  アスファルトに倒れ伏したみるくは身体をくの字に曲げた態勢のまま動かない。 「みるく」 「みるちゃん」  冗談なのか。おどかそうとしているのか。頭を打ったように見えなかったからなにか動きがあるはずだ。  泣き出すのか、笑い出すのか、突然立ち上がって怒り出すのか、暴れ出すのか、冬木さんにつかみかかるのか。いろんな選択肢を晴海も早紀も、涼一までもが考えた。  なかなか動き出さないみるく。本人もどしようか迷っているのだろうか。 「みるちゃん」 「みるく」  晴海と早紀はもう一度声をかけた。動いてくれないと不安になる。 「なんなのよ……」  攻撃相手にリアクションがないことで冬木さんが暴れるのをやめた。闘争心をなくす狙いなのか。それにしては動かなすぎる。  晴海は目を見張った。倒れたみるくのスカートのなかから、水道を細く出しているみたいに、真っ白なストッキングに赤い筋。 「みるちゃん!」  晴海は走り出し、早紀が救急車と叫んで涼一にここの住所を言えとつかみかかり、内太ももが赤く染まるみるくの様を目の当たりにした冬木さんも意識を失い路上に倒れる。すべてがスローモーションのようだった。
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