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「一体どういうことなんだ」  同僚との飲みの最中に呼び出された父は赤ら顔。酔いつぶれていなかっただけ幸いだ。  救急病院のロビーで、晴海も涼一も椅子に座ったまま語れず動けずになっていた。 「どうしたんだふたりとも、おい、だまってちゃわからんだろ」  肩をゆすったり顔を近づけたりするがかえって顔をそむけられてしまう。 「晴海のお父さん、ですね」  第三者の早紀が立ち上がった。 「なんだお前は」  早紀に対し、我が子と同じ臭いを感じたのか、いかがわしいものを見るような目をむけた。 「晴海の友人です。現場にいました。ふたりはショックを受けてうまく話せないので、お……私が代わりにお話します」  父は反応のない子供たちを横目にして、仕方ないとばかりに頷いた。  早紀は嘘のないあらすじをのべた。  父は大きく深呼吸して、洟をすすった。  改めて子供たちを眺める。両手を膝の上に置いてうつむいた姿勢の晴海は動きが止まったままであったが、涼一はかすかに立ち上がろうとする気をみせた。 「父さんが……」  病院のロビーに涼一の独り言が染みこんでいく。 「母さん捨ててオカマと一緒になった」  晴海の指がピクンと反応した。 「しかもそのオカマ、頭を下げて、あたしは女として彼と一緒になりたいんです、って。母さんが女のプライドズタズタにされたって号泣した。おれが小学4年のとき。忘れられない」 「それは本当なのか」  驚きの声を上げる晴海の父。 「知らなかったんですか」  思わず早紀が突っ込んでしまったほどだ。晴海の父は頷いて、 「私は、ただ世間体だけを考えて晴海にその格好をやめてくれないと冬木さんには会わせられないと言っていた。まさか冬木さんにそんなことがあったとは」  父の言葉に晴海の両手が握り拳になった。 「あのオカマ。いやがらせもいいところだ。僕らから父さんを盗んだだけでなく、自分は女だから父さんはホモではないことを理解して欲しいとわざわざ言いに来やがったんだ」  その女性のひたむきさは、晴海に似ている。 「母さんは、笹山さんと出会って平静さを取り戻した。だけど1年たっても結婚は約束だけで家族で会おうとしない。おかしいじゃないですか。笹山さんはいつも理由は息子が忙しいからって言う。たかが大学生がどういう理由で忙しいんだよ」  晴海の父は申し訳なさそうにうつむいた。 「それで、晴海の家に行って確かめたんだ」  早紀の言うことに涼一は素直に頷いた。 「こいつだけはどうにかしなくては。母さんが味わった絶望感をこいつにも味あわせなくては。こいつの存在を全否定しなくてはと思いました」 「それで晴海を持ち上げておいて突き落とすようなマネしたと」  気にしない、みたいなことを臭わせておきながら母親に罵声を任せる。晴海のせいで、晴海のお父さんは自分たちのように苦しむことになるのだと。 「つまり、君はその女性に復讐したかったんだ。晴海を使って」  第三者とはいえ、早紀も他人事とは思えない。涼一はうなずくとも首を振るともいえない曖昧な態度。 「なんで仲間引き連れて会いに来たんですか。結婚を断った時点で泣き寝入りしてくれれば母さんには勝利が残って救われた筈なのに」 「勝利して救われたかったのはおまえじゃないのか」 「ちがう。僕は母さんのために計画したんだ。こいつを追い詰めるために」  早紀は残念そうに首を振った。 「母親のことを思っているなら復讐の道具に母親は使わない。おまえが自分の勝利のために追い詰めたのは晴 海でなく母親だぞ」  早紀は涼一の前に仁王立ち。腕を組んで見下ろす。  涼一は歯ぎしりとともに涙をこぼしはじめた。 「あいつが父さん連れ去ったとき。母さんは、心のなかは荒れ狂ってたのに、平静装って『そんなにこの人(夫)が欲しいなら差し上げます』って言った」  ファミレスでの冬木さんは落ち着き払ってお話をしてくれた。あたしのこと理解してくれていると、ひとりはしゃいだ晴海を前にして、当の冬木さんの心は……。 「父さんと女言葉で喋り倒したあいつが去ったあと、母さんは『くやしい』って、荒れ狂ったんだ」  とっさに動いたのは父で、窒息させそうな力で涼一を抱きしめた。 「圭子さんと涼一君は私が守る」  硬直する涼一。晴海の父は酒臭かったと思うが、きっと気にならなかっただろう。 「私は君たちを悲しませることはしない」  早紀は晴海の反応を伺ったが、ただうつむいているだけだった。 「晴海」  涼一の背中を優しく叩きながら、父は部下に指令をだす上司のように我が子に決定事項を伝える。 「お前は二十歳。もう大人だ。好きなように生きていい。かわりに責任をとれ。いいな」  うつむく晴海は髪の毛で表情を読むことができない。 「冬木さんのご家族のかた」  女性看護師が声をかけた。 「奥さまが目を覚まされました」  面会を促している。 「はい」  晴海の父はこれを境に冬木圭子の夫になった。 「涼一、行こう」  涙を手の甲でぬぐい頷く涼一はこの時点でただの高校生になった。もう月明かりに照らされても王子様にはならない。  父と息子は寄り添い、妻の病室へ向かう。  敗者と成り果てた晴海を置いて。  早紀は晴海のとなりに座ってそっと肩を抱いた。晴海の肩は冷たくなっていて、こうしてあげていないと互いに凍えてしまいそうだった。  無音の時間がふたりきりのロビーを流れていった。 「あの、はるたんさんっていらっしゃいますか」  さっきの看護師が遠慮がちに声をかけてきて、ふたたび時間が動き出す。  動くことができない晴海のかわりに早紀は立ち上がって看護師に近づいていく。 「ええ、彼女のことですが」  看護師は首をかしげたものの、必要事項を述べにはいる。 「先ほどの患者さんですが。おふたりの関係は」  みるくのことだ。 「友人ですが、なにか」 「お付き合いをしていた、ということでよろしいですか」  その言い方はなにか微妙だが、いまはそんなことに突っ込んでいる場合ではない。 「みるくはどうなんですか」  看護師はもういちど首をかしげた。 「花園みるくさんとお聞きしましたが、患者さんの携帯でご家族のかたを探したのですが、花園という名字のかたはいらっしゃらないんです。なにか事情をご存じないですか」  長い髪をひっつめて眼鏡をかけた看護師は若いんだかベテランなんだかわからない。年齢をさぐるような目で早紀がみつめたからかどうかはわからないが、看護師は早口になる。 「あの、患者さんと実際お付き合いをしていたのはどちらのかたなんですか」  看護師は晴海か早紀をみるくの恋人にしたいのか。友人ではなぜいけない。そこまで考えて、早紀はアッと思った。虫酸が走るが重箱の隅にこびりついた女の勘がとびだしたのだ。 「妊娠、してたんですか」 「残念ですが赤ちゃんは……しまった、親族にしか言っちゃいけないことなのに。すみません、いまの聞かなかったことにしてください」  看護師の言う後半部分はまったく聞こえない。 「みるちゃんにあわせて」  突如として晴海が隣に立っていたから早紀はさらに目をむいた。 「みるちゃんにあわせて」  迫り来るのは涙でマスカラとファンデーションのはげた女装の男……としか看護師には見えない。 「ひひひっ」 「みるちゃんは、あたしを呼んでいるんでしょ。早く、みるちゃんにあわせて!」 「ははは、はい」  ホラー映画さながらのシチュエーションに看護師は総毛立って頷いた。 「ほかの患者さんはお休みですからお静かにお願いします」  と言い残して看護師は病室を出て行き、晴海と早紀は白いカーテンに囲まれたベッドに近づいていく。  みるくは個室に入れられていた。大部屋が空いていなかった、からではない。病室に向かう間に看護師からいろいろ質問された。そのすべてがふたりには理解できないことばかりだった。 「みるちゃん」 「みるく」  みるくの姿を見て、呼吸が止まるほどのショックは受けないだろう。なんて甘いことをふたりして思っていた。  しかし、目の当たりにして呼吸どころか心臓が止まりかけた。  病院が用意した寝巻きに着替えさせられた腕に点滴がつながれていたが、紫色になっているのは針が刺さっているところだけではない。むしろ白い部分を探す方が難しかった。長袖で隠していた腕、素肌がムラのある紫色。  うなされながら晴海の名を呼んでいたというがいまは眠っている。顔だけはいつものみるくで天使のように愛らしい。  早紀が無言のまま布団の足部分をめくりあげた。ふくらはぎから足の甲にまで内出血が広がっている。静かにふとんを元にもどした。晴海はそんなことしたらダメよと早紀に言うことはできなかった。  ふたりは時間を止められてしまった。みるくの寝顔だけを見ることに精神を集中させた。ほかにすることも話すこともない。  15歳の天使は大学の正門でうずくまって清らかなる心を探していた。  清い心を持つ者は汚れた羽を真っ白に戻してくれる。夢のお告げで神様が言った『おまえの卑しさを消し去るには、清らかさを女の大切なところへ注入して中和するしかない』と。  かくして、堕ちた天使は清らかなる心を持った晴海と出会う。晴海は間違った身体を神から与えられていた。びっくりしたけれど。だからこそ「この人はぜったいに大声で威嚇したりプレイを強要したりヘタクソだと殴りつけたりはしない」と確信できた。晴海の清らかな愛を体内に入れることができれば、汚れた羽はきっと白に戻ると信じた。女の子に生まれてきてよかったという喜びを取り戻すことができると信じた。  晴海がよく口にする信じる心をみるくのなかにいれてもらう。レズビアンとか、心と体が違うとかじゃない。みるくは晴海が欲しい。晴海という人じゃなきゃだめ。一緒にいる時間が増えるごとにその思いは一時の思いではないという確信になった。  冬木さんにも晴海の清らかさをわかってもらいたかった。だけど突き離されてしまった。後方に飛ばされて腰を打った。すぐ立ち上がれると思った。なのにアスファルトに身体が接着して引きはがせない。太ももがひんやりしてきた。おもらし? そのうち下腹部にキリを刺されたような激痛が走った。晴海が名前を呼んで駆け寄ってくれた。  純真な乙女の心を持った晴海。みるくを浄化してくれるのは晴海しかいない。  看護師さんが子供が流れてしまったと囁く。先月、生理がなかったって気付いた。毎月正確じゃないからおかしいなんて思わなかった。  悪魔の行為で宿った子は流れた。大好きな晴海にいろんなことをしられてしまう。こんなみるくにはもう会ってくれない。いい子じゃないみるくをきらいになる。愛想をつかれて捨てられる。泣いて引きつけを起こすみるくの点滴に睡眠剤が追加された。みるくは眠り姫になる。もう起きたくない。闇に飲まれて、さようならするんだ。  晴海と早紀。棒のように突っ立ったまま夜明けを迎えるのか。  みるくの寝顔を前にしての静寂だけど、やがて破られる時が来る。  スライドドアがひらいた。  看護師にしては乱暴だなと思い振り返ったら、そこには髪をぴっちりなでつけたスーツ姿の男性。飛び出しそうな目玉でにらみつけていた。 「なんだお前らは」  いきなりなご挨拶。 「なにって……」 「あんたこそなんだよ」 「お父様、この方々はお嬢さまについていてくださったんですよ」  看護師がそういうってことは、このオヤジはみるくの父親なのか。 「似てねえ」  早紀の素直な感想に晴海はうなずいた。 「出て行ってくれないかなあ~部外者は」  言葉のあとに舌打ちをつけたのを聞き逃す者はいなかった。胸のもやもやがこの男に集結してくる。 「あなた、みるちゃんになにしたの?」  なんの確証もないのに晴海は詰め寄った。『あ~』と伸ばしたあとの舌打ち、自らが犯した悪いことを知られるのを嫌がっているとしか思えなかったから。 「なんだなんだあ~この化け物」  男は片方のくちびるをひきつらせて笑う。晴海は崩れた化粧を直していなかった。いや、直すことを忘れていた。 「てめえが自分の娘になにをしたかって聞いてんだよ」  早紀も晴海にのっかってくれた。沈黙が長かったぶん、ぶつけたい怒りは山盛りになっていた。 「おいおい、なんだこのゲス野郎どもは。看護婦さ~ん、じゃないや、いま看護師っていうんだ、こいつらつまみだしちゃってくれないかなあ~」  インテリぶる芝居をしてすべっている。 「お静かにお願いします、他の患者さんもいらっしゃいますから」  看護師としてはそう言うしかない。  男はまた舌打ちをした。耳の穴に入り込もうとするチッに、晴海も早紀も疑惑が確信に変わった。 「あなたがやったのね」  さらに晴海は詰め寄った。もう涙は出ないと思っていたのに。干からびるまで流れるんじゃないだろうか。 「なに言ってんのこのオカマは。あんたのブサイクのほうが犯罪だろ」  早紀が拳をつくったが、晴海はそれを制した。 「みるちゃんは、あたしに頑張れって応援してくれた。あたしは、自分のことばかりでみるちゃんのこと考えてあげられなかった……」  みるくがいつかメールしてきた『女の子に生まれてよかった?』あれはSOSだったんだ。なのにお母さんとのことしか頭になくて受け流してしまった。早紀の男としての乱暴さをこわいと震えていたのも、理由も聞かずにたしなめてしまった。試着室でせまられて気持ちよくなりかけておいて、自分の都合だけならべて拒絶して、どうして中学生のみるくがこんなに手慣れているのか、どうして女の子である自分とセックスしたいと言い出したのか考えてあげれなかった。 「みるちゃんはあれだけサイン出してたのに。気づくどころか、あたしのことに、みるちゃん巻き込んで」 「気持ち悪い顔でせまらないでくれないかなあ~。なにそんなに怒っちゃってんの」  男はおどけているつもりだろうが、足が震えている。 「それに勘違いしてるよチミたち。ぼく静流とは血つながってないから。静流は再婚した奥さんの連れ子だから」  君たちをチミたちというのがカンにさわる。 「血がつながっていなければいいって問題じゃないのよ」  みるくの全身にひろがるがる痣。まだ暑い季節なのに長袖とタイツで隠して。それなのに、笑顔絶やさずに。 「あたしの大切なみるちゃんをメチャメチャにして」  晴海は顔面と顔面の距離がなくなるほどに近づいて、父親を名乗る男を涙と鼻水をたらしたまま、にらみつづけた。 「なんだイチャモンかよ、離れろブス」  晴海は暴力は振るわない。相手は男。力では勝てないとわかっている。きっとみるくも逆らえなかったんだ。絶対的な暴力に。 「いやよ。ぜったいに離れない、みるちゃんを傷つけた罪を、あたしは絶対に許さない」 「気色悪いって言ってんだろ」  男が晴海を突き飛ばした。早紀が真後ろにいたのでケガすることなく支えられた。 「大丈夫か晴海」 「ありがとう早紀」  ふたりで、正面の男をにらみつけた。 「だいたい、ぼくが静流になにかしたみたいな、ってなにしたっていうんだよ~。やさしくしてやったよ〜」  男のひとり芝居はヘタクソすぎてだれの興味もひくことはできない。 「お静かにお願いします。間もなく警察の方がいらっしゃいますから」  看護師がただならぬことを口にした。焦りの色を浮かべたのはもちろん、やさ男だけだが。 「なんで。たかが看護師のくせに、なに警察呼んじゃってんの」 「これだけの外傷があったら虐待を疑って当然だろ。児童相談所経由で警察が来たってなんの不思議もねえよ」  早紀が追撃。男は追い込まれた野良犬のようにうなり声をあげた。 「いますぐ退院させる。帰るぞ静流」  男がベッドに近づこうとするのを晴海と早紀は両手を広げて防御した。 「どけ、このヤロウ、ぼくは保護者だぞ」 「保護者? 加害者の間違いじゃねえの」 「みるちゃんに指一本触れさせない」  双方のにらみ合いに震え上がった看護師が助けを呼ぼうとスライドドアを開けたとき、廊下にスーツ姿の初老の男性が入って来た。 「警視庁の者です」  看護師に手帳をみせた。晴海たちはにらみ合いを中断して目を奪われた。  病室内を見渡して刑事は気だるそうに言った。 「滑川さん。お話は警察署でお伺いします。お嬢さんは児童相談所に非難させることになりますがよろしいですね」  男は警察署という単語に激しく動揺した。 「刑事さんまで、なんでぼくと決めつけるのかなあ~、警察署までいかなきゃいけない問題?」  おどけるところが道化もいいところ。 「誰が決めつけましたか。私はお話をお伺いすると言っただけですが」  刑事は「やっぱりあんたがやったんじゃないか」という目を向けた。 「ふざけたこと言ってんじゃねえぞ! 親が娘の躾してなにが悪いってんだ!」  いよいよ拳でいうことをきかせようという手段に訴える男であるが、軽くよけられてしまう。 「その辺のことも警察でお伺いしますのでご同行願います」  刑事とはいえジジイだと甘く見た父親は、その手を振り払って病室を飛び出そうとしたのだがスライドドアをあけたとたんに身柄を確保されてしまう。 「ひとりで来るわけないでしょう」  刑事は外に若い部下を置いていた。 「君たちにも話を聞くことになるから。住所と氏名と電話番号教えて」  手際の良さに、晴海が言葉を挟む余地はなく。  これだけの騒ぎのなかでもみるくは目を覚まさなかった。  ひとりぼっちの病室でみるくは眠る。深い眠りにつく。  すべてが狂ってしまったのはお母さんがお父さんを捨ててあの男を選んだから。  お腹もでてて、頬もぽっちゃりしたお父さんは決して二枚目ではなかったけれど、肩車もしてくれたし、わたしが眠れないと絵本を読んでくれた。手をつないで動物園やテーマパークに連れて行ってもくれた。5歳までの記憶しかないけど。お父さんのこと大好きだった。なのにどうしてお母さんはあいつみたいなのと不倫したんだろう。あんなに優しかったお父さんを「つまらない男」の一言で捨てて。お母さんはひとり勝手に出て行ってくれればよかったのに、相手の男が「娘が欲しかったんだよ~。娘と一緒じゃなきゃ結婚しないよ~」と言ったから嫌がるわたしの手を引っ張ってあいつに引き合わせた。「君が娘さんか。かわいいね」と頭に手を置かれたとき大量の糸ミミズが降ってくるような感じがして鳥肌が立った。でもそれは一瞬で、しばらくはあいつも優しいお父さんを演じ、お母さんともよろしくやっていた。  本当のお父さんはわたしがお母さんに連れて行かれるのを指をくわえて見送るしかなかった。お父さん、いまなにをしているんだろ。どこにいるんだろ。  あいつの暴行がはじまったのは、生理がはじまって胸がふくらんでおしりも丸みを帯びてきた中学に入った頃から。眠っていたところをいきなり襲われた。お母さんのことを「40過ぎてつまらない女になった」と言う。お酒臭くて顔をそむけたら殴られた。最初の一発は顔面だった。  ABCを学習しはじめたばかりのわたし。殴られながらパジャマをはぎ取られショーツを引きずり降ろされた。あいつは「調教してやる」とか「お前の為にしてやってる」とかいいながら乱暴に押し込んで来た。なにをされているのかわからない。ただ痛くて、恐ろしくて、ベッドから手をのばし、お母さんに助けを求めた。  だけどお母さんは見ないふり。わたしはずっと「助けて」というまなざしを送ったのに助けてくれなかった。  その日からあいつはことあるごとにわたしの寝室に入り込んで来るようになった。お母さんはわたしと目を合わせてくれなくなった。だからあいつが入れないようにタンスをドアの前に置いたことがある。夜中にドアを叩く音がしたけれど久しぶりにぐっすり眠ることが出来た。さわやかな朝をむかえ、タンスを元の位置に戻してドアをあけたら目を真っ赤にさせたあいつが立ちすくんでいた。髪をかきむしったのか逆立っていて、上着は廊下に叩きつけられていてネクタイをムチのように振り回しながらこう言った。 「倍返しだ」  わたしは悲鳴をあげて、逃げようとしたかったけど、どこにも出口はない。やさしかった本当のお父さんを求めて手をのばしたけれど空を切るばかりで、かわりにあいつの足蹴りが太ももやお腹に命中した。  わたしは無邪気に笑う級友の顔が見れなくなって学校に行けなくなり、アザを隠せる長袖にタイツをはいて、助けてくれる人、本当のお父さんを捜し始めた。あいつが会社に行って帰ってくるまでの間にお父さんを見つける。警察に言ったり、あいつが帰ってきたときにわたしがいなかったら「倍返し」が待っているから、お父さん捜索の時間は限られていた。  身体じゅうの打撲跡が痛くて、疲れきって休んでいたのがあの大学の前。そこに現れたのがはるたん。わたしがはるたんを好きになったのは、はるたんが本当のお父さんに似ていたからなのかもしれない。  浮気が趣味のお母さんは、わたしのそばにいたことなんてほとんどない。本当のお父さんはわたしのお買い物に付き合ってくれたりした。「つまらない男」とお母さんが吐き捨てたのはお父さんに母性本能というか、乙女心があったからかもしれない。そういうところも、はるたんはお父さんに似ていた。お父さんとおんなじ、おひさまのにおいがした。抱きついたらふわふわ浮かぶ雲にのれそうだと思った。  神様が連れてきてくれた運命の人。はるたんに窒息するほど抱きしめてもらえたら。はるたんに傷口を舐めてもらえたら。はるたんに汚れた身体を洗い流してもらえたら。わたしは汚れ落としができる。信じれば、奇跡はおきるって思いたかった。  でも、もうだめ。はるたんに拒否されたうえに、あいつに汚されていたことバレてしまった。今度こそはるたんはわたしのこときらいになる。もうこのまま遠くにいかせて。わたしは花園みるくなんて名前でも天使でもない。暗闇が似合うただのボロぞうきん。 『晴海、風邪なんかひいてないでしょうね、頭が痛くなったら冷やしてすぐ寝るのよ。あと走ったり重いもの持ったりしないでね。横断歩道渉るときは左右の安全をたしかめてね。お願いよ』  型の一致が判明してから移植までのスケジュールは早かった。それだけ切羽詰まった状態。電話口での母の気遣いは消えてしまいそうな命にむかっている。 「ねえ、お母さん」 『なに、なにか欲しいものがあるの』  晴海は受話器を握りしめ首を横に振った。 「あたし、移植手術が済んだらホルモン治療をはじめるわ」  お母さんが疑問符を送ってきた。 「外科手術もする。本物の女の子になって戸籍も変えるわ」  受話器から流れてくる疑問符。 「お母さん、あたしの言っていることわかる」  とまどっているようで返事はない。 「あたし、いろんな薬を飲まなくてはならなくなると思うの。身体も変えるし。だから、あたしから移植できるのはこれが最初で最後になると思う」  受話器から疑問符がたくさんの感嘆符に変化して晴海の耳のなかに入ってきた。 「それをわかってほしいの」 『あなたがそんなことしたらやよいは』 「大丈夫、あの子かなり頑丈よ。信じてあげて。きっと奇跡はおきるわ」  電話線の向こうでお母さんがすすり泣きをはじめた。 「お母さん、あたしのこともわかって欲しいの」 『晴海』  名前を呼ばれても、その続きがあるわけじゃない。 「じゃあ、明日ね」  静かに受話器を降ろした。  みるくが入院してから、お母さんとの電話でいちごゼリーの香りを感じなくなってしまった。胸が高鳴ったり、顔が熱くなることもない。 「出かけてくるわね」  という相手は老犬ポチで、彼女はシッポを振って応えてくれた。  みるくが入院している病室のスライドドアを開けようとしたら花瓶を持った早紀に呼び止められた。 「授業さぼって大丈夫なの」 「お互い様だろ」  ふたり、力無く笑った。この1ヶ月、警察による事情聴取。頭に入らない授業。父との話し合い。移植の日取りが決まったとお母さんからの電話。めまぐるしいなかでもみるくの顔を見ない日はけっして作らなかった。 「ちょっといいか」  早紀は花瓶をスライドドアのそばに置いて晴海を促した。  屋上は入院患者の洗濯物が青空のもと風にあおられているばかり。人のいないところを選んで、ふたりは高いフェンスに寄りかかった。目を焼くような日ざし。 「さっき児童相談所の人が来てさ、母親も逮捕されたって」  みるくが入院したという知らせを受けても来なかった母親。事情聴取という名目で警察署に連れて行かれることとなった。母親はなにも知らない。そんなことはあり得ないとの一点張りであったが、やがて自供をはじめた義理の父親の証言により娘が性的暴行を受けているのを目の当たりにしても見ぬふりを決め込んでいたことが発覚。うつ伏して『私が夫に殴られたくなかった』とか、『娘を生贄にしたのは反省しますから、わたしの罪は重くしないで』と泣きわめいたという。  保護者失格だ。みるくは親戚に引き取られるか施設に入ることになるのだろう。 「みるちゃんには話したの」  早紀は首を横に振った。真上の太陽がじりじり暑い。脳天から焦げてしまいそう。 「児童相談所の人が話したそうだけど。みるくは変わらず無反応だよ」  天使はお人形さんになってしまった。薄く濁った目を開けたまま、自分の力では排泄もできなくてオムツをさせられている。なにも口にしないから悲惨なまでにやせている。点滴のチューブも抜いてしまうから拘束具でしばられて。 「みるちゃん……」  晴海は両手で顔を覆った。早紀が肩に手を置く。 「晴海、心配するな。おまえが移植手術で入院中はおれがちゃんとついているから。もちろんお前のところにも報告に行くから」 「ごめんね。早紀には迷惑かけっぱなしで」 「晴海もみるくもおれには大切な存在だ。迷惑とかごめんとか言うなよ。おれら、そういう仲じゃないだろ」  晴海はなんども頷いた。 「あたしたち、もうただの友だちなんていう関係じゃないわよね」 「で、どうする」  早紀は晴海に確認をとるような視線を向けた。母親が一度も見舞いに来ないまま警察に連行された時点で、それとなく考えていたことがある。 「みるちゃんのところに行きましょ」  ふたりは力強く頷き合った。 「みるちゃん」  ベッドの背もたれは起こされていたが、縛られたお人形さんは声を耳にいれることを拒んでいる。くちびるも動くことがないので栄養は点滴だけ。それでなくても小柄で痩せていたのに。顔色の悪さと頬のこけ具合はこのままにしておけるものではない。  早紀がピンクの薔薇とかすみ草の花瓶をテーブルに置いたが視線も正面を見据えたままで動くことはない。 「早紀ったらいつも薔薇とかすみ草なのね」 「花は薔薇とかすみ草のセットていうのがてっとりばやいんだ」 「女の子に送る花の定番だと思ってるんだ」 「そうじゃないのか」 「う~ん、あたしも薔薇100本リボンかけてプレゼントされたらクラッときちゃうけど」 「で、薔薇風呂にするのが晴海の夢だもんな」  晴海は瞬時に赤くなった。 「それあたし喋ったっけ」 「晴海の考えることなんてだいたい察しがつく」  胸を張る早紀。ホルモン治療もはじめ、鍛えているからどんどん胸板が厚くなっている。この治療と外科手術をすれば女の子に困らない人生が待っていそう。 「もー、いじわるなんだから」  晴海がくちびるをとがらせ早紀は爽やかに笑い返す。  そこまで語り合ってふたりはみるくに目をやった。残念ながら動きはまったくなく、点滴が落ちる速度だけがみるくに命があるしるしになっていた。 「あのね、みるちゃん」  晴海は意を決して、だらりと下がったみるくの手をとった。 「あたし、明日入院するの。やよいに骨髄をあげるときがきたのよ。大丈夫、あたし信じてる。やよいの病気はきっと治るわ。だから、すぐみるちゃんのところに戻るから。そうしたらね……」  みるくは闇に囲まれた部屋でうずくまっている。  濃い霧に肩を抱かれているみたい。これは闇の力。頬に霜がおりる温度がほどよい眠気を誘って気持ちいい。もっと早くここに来ればよかった。  あちこち探したのに本当のお父さんはみつけられなかった。そういえばお母さんが言ってたっけ「そうそう、あんたのお父さん、再婚したってさ。子供も生まれるんだって。くだらない」 「くだらないことなの?」と聞いたわたしに「そんなにあいつがいいなら出てっていいのよ。居場所ないと思うけど」と言った。 『いつも薔薇とかすみ草なのね』 『花は薔薇とかすみ草のセットていうのがいちばんてっとりばやいんだ』  条件反射で顔をあげてしまう。この空間にたてこもってから毎日聞こえてくるふたり組の声だ。そのたび闇が微妙に震えて心電図のような光が走る。 『女の子に送る花の定番だと思ってる』  声が闇に穴をあけようとしている。いい加減あきらめて遠ざかって欲しいのに。 『薔薇風呂にするのが』 『いじわるなんだから』  このふたりは楽しそうなおしゃべりを繰り返す。 (わたしも薔薇のお風呂に入りたい。それでね、お姫様気分を味わうの)  いけない。またふたりの会話に混ざりそうになった。誰も近づけさせない居場所を裏切りそうになった。わたしのすべてがばらまかれて、表に出る資格は失われたのに。  お願いだからふたりとも、わたしとの出会いを忘れて。通りすがりのかわいそうな子と思ってくれるだけでじゅうぶんだから。  だってわたしは、かっこいい男の子に頬を赤らめることよりも先に、どこをいじられれば吐息が漏れるのかを知ってしまったの。男の子の考えていることはわからないのに、どこを舐めれば喜んでくれるのか知っているの。わたしおかしいんだよ。汚れているんだよ。  占いで好きな人との未来を想像してはしゃいでいる同級生とは、住んでいる世界がずれてるの。占う前にひととおり済んじゃったの。ふつうじゃないよね。このまま闇に消えたいの。 『みるちゃん』  みるちゃんってだれ。わたしそんな名前じゃない。それはうそっこの名前だよ。英文科にも通ってないし、学校にだって行ってない。 『あたし明日入院するの。やよいに骨髄をあげるときがきたのよ』  冷えた手にぬくもりがつたわってきた。手袋をかぶせられたみたい。 (さわらないで) 『大丈夫、あたし信じてる』  その言葉を聞き取ってしまうと闇にヒビがはいってしまう。 (おねがい、あっち行って)  手をふりほどいて両耳を押さえて逃げ出したい。わたしみたいな汚い子に近づいたらあなたまで汚れちゃう。 『すぐみるちゃんのところに戻るから』  必死に首を振った。わたしにはどこにも行くところがないの。あなたが戻ってきたところで状況はおんなじ。わたしはこの場所が似合っているの。 『それでね、みるちゃん。早紀とね、じっくり話し合って決めたことがあるの』  ガラスの壁にヒビが入る音。どこ、どこが割れそうなの? はやく修復しなきゃ。声が聞こえてこないように。なにかが入り込んでこないように。 『あたしたち、一緒に暮らさない?』 (いっしょに、くらす?)  光が割り込んできた。だめ、そんなことしたら迷惑だよ。 『一緒に暮らすんだぜ、もう決定事項だ!』 (3人で同じ家に住むの?)  指が糸で吊り上げられたみたいに動いてしまった。 (だめ、わたしにそんな資格ないの)  ばんそうこうはどこ。いま貼れば間に合う。ヒビを隠せる。 『おれがお父さんで晴海がお母さんだぜ』  正拳が闇を突き破って飛び出してきた。砕けたガラス片が落ちてきて後ずさってしまう。ばんそうこうじゃだめだ。ガムテープでふさがなきゃ。 『あたしたちダテに二十歳じゃないわよ。大人だもん。みるちゃんの保護者になれるわ』  いったん拳がひっこんで、こんどはそこから懐中電灯を差し込まれているような大量の光が入ってきた。  ガムテープはどこ。早くみつけないと。穴をふさがないと。ふたりのお喋りから遠ざからなきゃ。 『白亜のお城に3人で暮らすのよ』 『白亜? 白壁のアパートだろ』  すてき、とても楽しそう。なんて考えちゃダメ。ふたりに迷惑がかかる。わたしなんかといたら後ろ指さされる。 『天蓋つきのふかふかベッドにダイブするのよ』 『せんべい布団で川の字だろ』  すてき。夜が訪れるのが楽しみになるね。  そんなこと、ありえないって思ってた。  あわてて首を振る。流されそうになってる。ダメダメ、わたしただのお荷物だよ。 『おれら一緒に暮らしたら、おもしろそうじゃん』 『神様がくれた奇跡よ。きっと笑顔がたえない毎日になるわ』 (えがお……)  胸が熱くなる。一生懸命首をふって追い払おうとしているのに、まとわりついて離れない笑顔という素敵な言葉。 『おれ、みるくと晴海をとことん守ってやるぜ』 『きゃっ、殺し文句』  ガムテープ、みつからないよ。なのに穴がどんどん大きくなっていく。光がどんどん差し込んでくる。  守ってやる、なんて男の人からまっすぐに言われたのはじめてだよ。早紀って、かっこよかったんだね。ごめんなさい、敬遠しちゃってたね。 『あたしだって、みるちゃんのこと全力で守るわ。だってあたしが頑張れたのみるちゃんのおかげだもの』  はるたん。わたしのこと邪魔じゃないの? 『みるちゃん、あたしたち家族になりましょ』  ヒビがすべての闇に広がった。  たいへん。身体で穴ぼこを押さえたいけど、そんなことしたら崩れるの早めてしまう。 『みるちゃんじゃなきゃだめなの』  突然穴から飛び出してきたいちごゼリーにおおわれた。  闇のガラスが粉々になってはじけ飛んだのに。不思議だね。傷ひとつおってないよ。  わずかだけど握り返す感触を得た。みるくに声が届いているのかも。 「……みるちゃんのこと全力で守るわ……」  手のひらにぬくもりが伝わってきた。晴海はみるくのちいさな手に頬ずりをした。 「みるちゃん、あたしたち家族になりましょ」  早紀も身を乗り出すほどにみるくの瞳に色が戻ってきた。 「みるちゃんじゃなきゃだめなの」  そっと、小さなくちびるにくちびるを重ねた。いちごゼリーの香りを感じたから、これがお互いのファーストキッス記念日。  甘酸っぱい、いちごの感触。 「晴海、テメェ!」  早紀の悲鳴に晴海は自分がみるくになにをしたのかに気が付いて、あわてて顔を離した。 「ごめんなさい、あまりにかわいかったからつい」  両手を合わせて滝汗のうえ蒼白。 「つい、じゃねーだろ。ついじゃ、取り決めたばっかだろ。娘に手をださないって!」  あっさり裏切った晴海に対し、早紀が握り拳でマグマ爆発は当然のことである。 「ごめんなさい~」 「5時間かけて話し合ったことを、オメーはっ」 「あのね、冷蔵庫をあけたら目の前にイチゴゼリーがあったのよ。手をのばさないわけにはいかないじゃない」  晴海はぷるるんとした下くちびるを舌でしめらせて上目遣いになる。 「わけのわからない言い訳してんじゃねえよ!」  決して手をださない。どちらかというと晴海のほうが早紀に釘を刺していたのに。 「ごめんなさい〜〜」 「謝って済む問題じゃないぞ」  早紀様の怒りを静めるには、もうこれしかないのか。晴海は決心して瞳を潤ませた。 「わかったわ。早紀にもキスしてあげる」  もはや身をささげるしかない。 「ちがう、そうじゃない! 晴海のくちびるはいらない!」  迫り来るたらこくちびるを引きはがしそうとするが、狭いベッドサイドなうえに全体重をかけて押し倒そうとしてくるので抵抗するのが難しい。 「そんなに嫌がるなんて。みるちゃんだったらいいっていうの。そういう取り決めだったの?」  ひらかれた晴海の瞳は湖のように潤んでいる。 「あたりまえだろ!」  素直な反応に晴海はタコのようにふくれた。こうなったら意地でもくちびるを奪ってやると、みるくの足下に早紀を仰向けにし、心をこめてたらこくちびるを押しつけた。相手は声にならない声で抵抗するが、かまいやしない。 (あら、わりといい感触)  そこではじめて早紀のくちびるは月明かりの王子様並みに薄かったんだということに気が付いた。  好みの薄さとわかると舌までいれてもいいのかしらという気になってくる。でもここは病室なのよという理性もあってふんぎりがつかない。心の葛藤だけキッスの時間が長くなる。えびぞったかたちの早紀は態勢と息が苦しいから暴れてもよかったのだが、晴海のくちびるがぷるぷるのゼリーのようで心地いいことがわかり、このままでもいいかも、という思いがムクムクとわきあがっていた。  このまま。ディープな世界に入ってもいいのかしらとふたりが思ったとき。 「なにしてるの」  天使の声がした。
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