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1
このお話は、今よりも人の目が冷たかった頃の思い出。
今のあたしは、あの頃より幸せだよ。
うん。
胸張って。そう言えるよ。
涙は止めること、できないけれど。
大きな声で、はっきり言えるよ。
あの頃のあたしがいるから、今のあたしがいるってこと。
1
背筋をなぞる波の音。
素足に生ぬるい海水がまとわりついている。
ザザーン。ザザーンって、一定のリズムを刻む波の音を目をとじたまま聞いている。
潮風が素肌にはりついて。
「あらっ?」
なにかおかしい。
だって、あたしは家のベッドで眠りについていたはずよ。家は海辺にはない。あたしが住んでいるのは東京の、市外局番が03ではじまらない郊外、海とは縁遠いところ。
波の音以外に聞こえる音がない。しかも延々真っ暗。
「いやだ、目を閉じたままだった」
眠っている間に瞬間移動したのかしら。それを確かめるために、まずは目をあけなくてはならない。
熱を加えられたアサリのようにパカッと目をあけた。
「すてき」
目に飛び込んだのは堅焼きせんべいのようなまあるいお月様。
あたしは月明かりに照らされていた。
潮の香りがきつくなった感じがする。足首まで湿らす海水がだんだんひんやりしてきた。
「ここは、どこの海かしら」
湘南? 由比ヶ浜? 九十九里? こんなに寂しい印象を与えるところだったかしら。
あたりをみまわしてみる。シーズンも終わりだから海の家もなく、ビーチパラソルのひとつもない。
波と月とあたししかいない。暗闇のなか、ときたま顔を覗かせる白波と打ち寄せる音。
「ひとりぼっち」
そうつぶやいたら涙が頬を伝わった。寒さを感じて両腕で身体を抱きしめる。
「あたし、ひとりぼっち」
船の灯りも確認できない。灯台も埠頭も防波堤もなんにもない。
ここはどこなんだろうという疑問ももちろんあるけれど、潮のにおいとべっとりはりつく肌寒さに気分がすぐれなくなってくる。
こんなところに長くいてはいけない。
「だれかいないの」
恐る恐る声をだしてみたけれど、寄り添うのは闇だけ。声を押し殺してあたしのことを笑っているかのよう。
「だめよ。あたし、こんなところにいたらだめなのよ」
なにかしゃべらないと闇にのまれてしまう。
「あたしは晴海」
自分を確認しないと、この世界から脱出できない。自分という存在を奮い立たせなくては。
「あたしはは・る・み。どこにでもいる女の子よ」
思いを込めればきっと気付いてくれる人がいる。そう信じなきゃいけない。流されたら終わり。あたしはこのまま一生ひとりぼっちになってしまう。
「あたしはひとりじゃないわ。わかっているでしょ、励ましてくれる人だっているってこと」
闇はかたく口を閉ざす。
「なによ、言いたいことがあるならいいなさいよ」
声が小さくなる。目線を素足をくすぐる海水に落とす。足首をつかんで引きずり込もうとしているの?
いけない。これは闇のやり方。こうしてあたしの存在を消し去ろうとしている。負けちゃだめ。あたしが自信をもたなくてどうするの。あたしがここから抜け出そうとしなくてどうするの。
拳をにぎりしめて、こぼれた涙をピンクのネグリジェの袖でぬぐって笑顔を作った。
大きく深呼吸して、いつかのぼる朝日にむかって力の限り。
「助けを待つんじゃないの、自分から歩み寄るの!」
波が大きくなった。
「あたしの思いが波に変化を与えたわ」
こんなふうに世界はちょっとずつ変えられる。あたしはそう信じたい。
そのとき。
「いちご」
いちごの香りがしてきた。お母さんのいちごゼリーの香り。
「お母さん?」
冷蔵庫のなかであたしが幼稚園から帰るのを待っていた。「手を洗ってからよ」となんど言われたろう。
「お母さん、いるの」
もう何年会ってない? いまのあたしをいちばん見てもらいたい人なのに。いじわるな〝やよい〟という名の波にさらわれてしまった。
「お母さん」
あんな大波がさらっていくなんて思わなかった。お母さんは振り返りもせずあたしの前から消え去ってしまった。
せっかくふき取った涙がまたあふれてくる。
(ダメダメ、ネガティブなんてあたしらしくない)
脱水機のように首を振る。嫌な思い出は消え去ったけれど、いちごの香りもどこかへ行ってしまった。
顔をあげて打ち寄せる波の向こうを見つめる。闇と波にのまれるわけにはいかない。信じなきゃ、一生だれにもわかってもらえない。
「お母さんにも会える日が来る。きっと、わかってもらえる」
「甘いな君は」
「きゃっ!」
突然、背中からだれかが抱きついてきた。
「いちごゼリーなみに甘いな」
いままでひとりきりだったのに。いったいだれ。
「本当はわかっているくせに」
とろけるような声。顔をみたいけど振り向けない。それくらい強い力で抱きしめられている。
「なにがよ」
太もものあたりがふるえてる。
「現実は甘くないってこと。いくら君が頑張っても「信じてる」の一言だけでは世界は変わらない」
彼の言うことは否定の塊。あたしをズタズタにしようとしているのはあきらか。負けるものですか。
「離して」
「い、や、だ」
ぬるい吐息が耳に吹きつけられた。ヒザがくずれてしまいそう。なんの魔法なの。
「あなただれ、闇の仲間でしょ」
「耳、感じたのかな」
つかさず彼は耳をやわらかくかじってきた。
「や、やめて。大声だすわよ」
言葉とはうらはらに想定外の攻撃に身体が火照りはじめている。
「なに、もう感じちゃってるわけ」
彼は嘲笑っている。たて続けに耳にふきかけられる吐息。たくましい胸板の感触。あたしは彼を欲してしまっている。
「ちがう、そんなんじゃな」
こんなの恥ずかしい。淫乱だなんて思われたくない。思い切り彼を突き放して早くここから逃れよう。そう思ったのに。彼は強引にあたしを振り向かせ、くちびるに吸い付いていた。
(はじめてなのに、口を開かせるなんて)
焦りと暗闇のせいでまともに彼の姿がみられない。彼もあたしに姿を見られまいとするかのように舌をあたしの口の中に入れる。
(やめて、そんなキス。性欲だけみたいよ。あたし、こんなこと望んでなんか)
彼の舌があたしの歯をこじあけその奥で小さく震えている短い舌にたどり着くのにそう時間はかからない。手をつなぐように互いが触れ合ったとき、あたしのなかの堰はいとも簡単に崩れ去った。
(ああっ)
瞳のまわりに熱が集まりだした。声がでないかわりに歓喜の涙があふれる。
彼は上手にあたしを転がしてくれる。性感帯が舌にまであるなんて、乙女のあたしは知らなかった。
(こんな、恥ずかしいことだったなんて)
そのままふたりは浜辺に倒れ込んだ。彼があたしをおさえつけている。さらさらの黒髪で背が高い若い子。そうとしかわからなかったのは月明かりで逆光だったのと、涙で視界がふさがれていたから。
「おまえが望んでいることだろ」
難しい数学の問題を解答するような口ぶり。
「信じる心を貫いて男とこういうことをしたいんだろ」
彼の手は器用な動きであたしのなかの女に仕掛けてくる。
「やめて」
なんでネグリジェなんかで海辺にいたんだろう。抵抗する時間を与えることができないままパンティをむしりとられてしまう。
「こんなの愛じゃない。あたしの望みじゃない、こんなの違う」
ひんやりした手があたしの大切なところにのびてきた。握られて、もてあそばれる。あたしは涙と一緒によだれを浜辺に流した。
「ほら、ぐっしょりだ」
彼の口がさけるほどにゆがんだ。あたしのパンティはお気に入りのピンクのフリル。足首に絡まっている。
彼の指が乱暴に割れ目に吸い込まれていく。
「えっ!」
あたしは目を見開きよだれをすすった。
「どういうことなの」
「信じればこういうことができるってことだろ」
くちびるをくちびるでふさがれた。質問なんかさせないという意志なの。
(これはいたずらな魔女のしわざ?)
「ああん」
彼の舌はくちびるを離れ引き裂かれたネグリジェのおっぱいに移動していた。Dカップ、いいえFかもしれない。ほんとうにあたしの身体なの? いつこんなことになったの。
「やめて、そんなこと、いや」
「いやなわけがないだろ」
愛なの? 強姦なの? それとも魔法? すべての思考を奪うだけのテクニックを彼は持っている。乳首を吸う薄いくちびる。もみ上げる左手。股間をまさぐる右手。すべてがあたしが欲しいと望んでいたことばかりで頭がどうにかなってしまいそう。
「信じればこんなことさえできるんだろ」
彼はさめた言葉と共に細身のジーンズを引き下ろす。そこにはとても素敵で力強くてあたしを支配したくて仕方がないと暴れている彼がいた。その輝きにあたしは恍惚の笑みを浮かべてしまう。
「ほんとうに、ほんとうに来てくれるの」
あたしは泣き虫。いやいやと首をふりながらも彼があたしのなかに入ってくることを望んでいる。
「いくらでも突っ込んでやるよ。お前が望んでいることだものな」
男の子が、あたしと結ばれてくれる。
生まれたときから夢見ていた。こんな夜が普通に繰り返されることを。
「あたしでいいのね。ほんとうにいいのね」
いきりたった彼は応える。
「お前の願望だろ」
「来て!」
めざまし時計より早く自分の懇願で瞳をあけてしまった。呆然と木目の天井をみつめる。
(もう少しで彼があたしのなかに入ってくるところ……ちがう、そうじゃない)
仰向けのまま股間に手を置いてみた。月明かりの王子様は、じわっと濡れたここに指を突っ込んできた。生暖かいものがあふれていた。
彼のやり方は乱暴で、泣きたくなったけれど奪われたいという気持ちに嘘はなかった。だから夢から覚めても身体が火照っている。
月明かりの王子様。顔はわからなかったけれど、晴海の気持ちをわかったうえでのいじわるな囁き。耳にふきかけられた甘い息はまだ脳のなかをぐるぐるしている。
「あっ」
晴海は現実に引き戻される。
「やだ……」
あわててベッドサイドにあるテッシュに手を伸ばした。
「あたしのバカ」
このままうずくまっていても仕方がないので仕方なく重い身体をベッドから引きずり出した。
「王子様なんて、いるわけないのに」
両腕をクロスさせて汗を吸い込んだネグリジェのすそをつかみ天井にむかって脱ぎ放ち、椅子にかけておいたふわふわタオルで胸元の汗をふき取る。面積のある体を拭くからあっという間に絞れるほどの重みになってしまう。
「やせなくっちゃ」
ブラジャーもつけずにクローゼットを開き、どの服にするか吟味。お花畑のような色とりどりの洋服を眺めるこのひとときに晴海は目を細めて「うふん」と吐息をもらす。
今日はピンクと茶がマーブルな感じのスカートに薄いピンクのキャミに白いレースのカーディガンを重ねることにした。入ったばかりのバイト代で買ったお気に入り。
「ウン、似合ってる」
全身鏡の前でスマイル。
しかし、肩まで伸びた髪が一部分そっくりかえっている。
「寝ぐせ」
あわててドレッサーに戻って寝ぐせ直し剤をふきかけブラッシング。
(王子様に押し倒されて砂浜でいやいやを繰り返したからかしら)
そう思って赤くなるものの、ため息もでてしまう。
(あれは、弱い心につけこんでくる闇なのに)
寝ぐせを直して鏡のなかの自分に「ガンバ」と気合いをいれた。
部屋をでてゆっくり階段を降りると築20年の家はミシミシときしむ。この音を聞く度にそこまでおデブちゃんじゃないのに、とくちびるをとがらせてしまう。
キッチンに入り、冷たいものはないかしらと3ドアの冷蔵庫をあけた。この冷蔵庫も家同様20年もっている。晴海がオギャーと生まれたときから家族を見守ってくれている。
「お前も頑張るね」
思わず声にだしてしまう。この冷蔵庫には思い出がつまっている。小さな晴海が大急ぎで幼稚園から帰ってくると、必ず冷えたゼリーが入っていた。
オレンジだったりメロンだったりいちごだったり。いま思うとインスタントであることは明白だったが子供にそんなことはわからない。ただお母さんの味が毎日のようにそこにあった。
晴海はいちごが好きだった。
魔法の箱。晴海は冷蔵庫をそう呼んでお母さんにしがみついていた。
『お母さん、きょうはいちご味ね』
お母さんはにっこり微笑んでくれた。器にだしたいちごゼリーは、女の子の秘密が透けてみえるようでスプーンを入れてしまうのが惜しかった。そんな食べるまでの余韻も晴海の大切な時間だった。
(お母さん、あたしいまでも街でいちごゼリーを見つけると買ってしまうの。だけど、どれもお母さんの作るものには勝てないのよ)
冷蔵庫のなかにいるのはギンギンに冷えた生ビール。
「生ビール」
晴海のノドが鳴る。水分補給のためにスポーツドリンクを飲もうと思ってあけたのにいきなり目に飛び込むのがお父さんの味だなんて。
冷蔵庫のど真ん中に「どうぞお飲みください」と言わんばかりに生ビールが鎮座している。
「そんな、朝っぱらから」
しかしプルトップになにかメモが貼ってある。目を細めてみると。
『おめでとう』と書かれている。
月明かりの王子様とお母さんの思い出で朦朧としていた意識がハッキリしてくる。
「あたし、今日誕生日だ」
二十歳の。
「お父さん?」
捜すと父はベランダに腰掛け、中型犬に育った雑種のポチにおやつをあげている。ポチは白地にクロのブチでお尻から後ろ足は真っ黒だ。ダルメシアンが入っているのだろうが、変わった柄というか毛色なので近所でも有名なおばあちゃんわんこ。
15年前、お母さんが出て行ってふさぎこんでいた晴海のために父が保健所の譲渡会で連れてきてくれた。ポチは冷蔵庫の次に長いお付き合い。
「お父さん、一緒に飲も」
晴海は500ミリリットル缶を持ち上げてみせた。ポチが「なにかくれるのですか」と言いたげにブンブンと細くて長いシッポを振って笑顔をみせる。
「ポチはだめよ」
父は50歳になる。後から見ると毛髪の薄さがとてもよく目立つ。仕事が経理で人と会うことはあまりないからと、カツラもせず育毛の努力もせずハゲるがままにしている。無理に隠そうとするよりは潔しではあるけれど、晴海としては男の人の頭はたとえフェイクでもフサフサのほうが好みだから少しは努力してほしいのに。
父は後頭部に視線を感じたのかゆっくり振り返った。晴海と目が合うと、がっくり肩を落とした。
「なに、そのリアクション」
晴海はぷくっと頬をふくらませた。
「二十歳になったら、元に戻るかと思ったんだが」
こじんまりした父の背中。
『親不孝でごめんね』と言って欲しいのだろうか。
「元にってなにがよ」
父はだまって立ち上がった。経理部長としての貫禄はそこにはない。ただの小柄で脂肪のついたおじさんだ。
リビングでビールグラスを挟んで向かい合う父と子。
「二十歳、おめでとう」
「ありがとう」
ふたりはグラスを合わせた。成人して初ビール。父と飲める幸せが心地よいのどごしを誘う。
父は一気に飲み干して、その勢いで言った。
「どうしても、ダメなのか」
父の唇には泡がついている。晴海はさらにむくれた。
「もう、それだけは譲れないって言ってるでしょ。お父さんに迷惑かけないって言ったじゃない。治療費だって全部自分で働いて頑張るからって」
父が手酌で二杯目をつごうとしたからあわててついであげる。
「心療内科とか精神科に行ったらどうなんだ」
晴海は溜息をつこうとしてゲップをだしてしまう。鼻がツーンとなった。
「やだ、はしたない」
と手のひらで口元をおさえる。そんな姿を見て父は目頭をおさえた。
「これで可愛ければまだよかったのに」
晴海の額に血管が浮き出た。親だからって言っていいことと悪いことがある。
「なにそれ、ブスは生きる資格がないって言いたいの。第一あたしが小柄でぽっちゃりなのはお父さんの遺伝じゃない」
晴海は眉間に深いシワを寄せて父をにらむが、父も負けじとシワを刻んで晴海をにらんでいる。
グラスにつがれたビールの泡に勢いがなくなった頃、父がテーブルの上にちょっと大きめの箱をだした。大型家電店の包装紙でくるまれている。
なにこれ? と晴海が首をかしげる前で「祝い、二十歳の」と父が言う。
「え、ホントに?」
ぱあっと明るい表情になって丁寧にリボン(色が青なのが気に入らなかったけど)をほどき包装紙をはがす。しかし、でてきた箱がなにかがわかったとたん、晴海の表情は瞬時に玉が切れた電球になった。
「いやがらせ?」
素直な感想が口からもれた。
「必要なものだろう」
「いまは、そうだけど……」
父の反撃に下唇を噛みしめる。
ひもとかれて姿を現したのは高性能ひげそり。シャープな切れ味というキャッチコピーが箱に赤い文字で書かれている。
「そりゃ、いまは必要だけど、でももう二十歳だもん、バイト代もたまってきたし、そろそろホルモン治療はじめるから、そうしたらこんなもの必要なくなるんだから」
父は頭を抱えて首を振ったが、そんな光景は見慣れてしまった。
「もっとお金が貯まったら脂肪吸引もして整形もして綺麗になるって、子豚ちゃんから卒業するって言ってるでしょ」
高校を卒業した日から何度も同じ言葉を言ってきた。もう2年もたっている。大学でもみかけで晴海を嫌う友だちはいない。いたとしてもそういう人は近づいてこない。なのにこの父ときたら。
「それで、おまえはなんのために大学に行っているんだ。オカマがいきつくところはそういう、夜の店しかないだろう」
父のこの台詞も聞き飽きた。
「やめてよ、その差別発言。あたしは女の子なの。神様が間違えておちんちんつけちゃっただけなの。それにやりたいことがあるからいまの大学決めたんじゃない」
「性なんたら障害が流行しているから、おまえはそれに乗っかって現実逃避しているだけだ。おまえの障害は女にモテないと思い込んでいることにあるんだ。どうして気付かない」
「え?」
二十歳になったからだろうか。父は抗議の方針を変えてきた。
「見かけがブサイクになってしまったのは私の遺伝だ。それは心からあやまる。少しでも容姿に母さんに似たところがあったらおまえの人生は変わっていただろう」
父はいつの間にか3缶目をあけていたこれも闇の攻撃なんだと思う。
「私をみなさい。おまえにそっくりだ、でも母さんと結婚できた。それは男は見た目じゃないということだ。自信を持て」
父の目はビールがまわってほどよく血走っている。
「じゃあなんで捨てられたのよ」
15年前、晴海と父を捨てたお母さんがどこへ走ったかといえば、パート先のスーパーの店長で、背が高くて髪の毛もフサフサで、父とは比べものにならないくらい素敵な男。
「それは決して容姿のせいではない」
父は言い切ったがお酒の力を借りないと言えないのかと思うと晴海はゼンゼン信用ができなかった。
「一度カウンセリングを受けろ、奥底に眠っている原因さえ取り除けば元に戻れる。まだ猶予はあるだろ」
元ってなに? 猶予ってなんの? 晴海はビールを流し込んでまた溜息をつこうとしてゲップをだした。
「あたしは、子供のころから女の子で男の子が好きだったのよ」
かわいい女の子になれれば、もっと男の子は自分のことを好きになってくれる。世の中のいじわるでずるがしこい種類の女の子より自信がある。
父は首を横にふるばかり。
いつものパターン。父と子はどう言えば相手に心が伝わるのかがわからなくて互いにだんまりになってしまう。
お母さんが出て行ってから15年。晴海と父はふたりで生きてきた。肉親は互いにふたりきりと手を取り合って生きてきた。
だからこそ。晴海は高校を卒業するまでカミングアウトは我慢していた。満を持して、ためにためていた思いを父にぶつけた。
だけど互いの思いはすれ違ったまま。
(お父さんがなんて言おうとあたしの決心は変わらないのよ)
晴海の頬に一筋の涙。
それを見つめる父が、思い切ったように発した。
「母さんがな」
晴海にとってその言葉は夢と魔法を秘めた言葉だった。
(お母さん)
いちごゼリーの香りが鼻をくすぐる。
「母さんが、会いたいそうだ」
晴海の瞳は大きく見開かれた。
「え」
目の前の古びた居間が輪郭をなくして真っ白になっていく。
父は目を伏せている。
「おまえに会いたいと言っている」
なんで? と聞こうとして口をつぐむ。お母さんは晴海の二十歳の日を覚えていてくれたということではないのか。
お母さんに最後に会ったのは10年前、晴海は10歳だった。あのときは、5歳になるという父親違いの妹がお兄ちゃんに会いたいとせがんだからと言っていたけれど、蓋を開ければきょうだいの仲を深めたいというものではなかった。
「今回はお母さんだけよね、やよいはついて来ないわよね」
種違いの妹はやよいと言った。いろんな意味で存在感のある小娘だった。初対面で二度と会いたくないと思った。
「母さんが、おまえとふたりきりで会いたいと言ってきた」
父は繰り返すように言った。
「ふたりきりで、ほんとうに?」
晴海は両手を胸の前で合わせた。
(お母さんなら、あたしの思いわかってくれる。だって女どうしだもの)
「おい」
「なに」
「今日私は、その、有給休暇ででかけるが、夕飯までにはもどってくる。寿司でもとろう」
高校生までは外の寿司屋さんに行ったのに。真実をさらしたとたん父は晴海と外に出たがらなくなった。
「お父さんが有給なんて珍しいわね」
仕事が休息っていう人なのに。
「私だってたまには、人と会うことだってある」
目をふせる父。
「なあ、本当にどうにかならないのか」
「お父さんしつこい」
「私の身にもなれ」
「あたしの身はあたしのものよ」
それきりだんまりになる朝食の風景。
(きっと、あたしが綺麗になったらこんなぎすぎすもなくなるわ)
お母さんというホワイトナイトが現れたのはきっと月明かりの王子様が運んでくれた奇跡。
(ちがうちがう、彼はただの意地悪男だわ、乙女の心をもてあそんで)
恥ずかしい夢を思い出して体温が上がってしまう。
晴海はピンクのマニキュアを塗った手をおつまみのピーナッツに伸ばした。
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