つゆ娘

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 次の日から、試験期間に入って、亮は、涙に会わなくなった。  一応、亮は、難関国公立大学志望のため、今年から、受験クラスで、結構勉強をしなければならないのだった。  寮の部屋で、勉強をしながら、たまに窓に目を移すと、雨が降っていて、涙のことを思い出した。  そんな思いの中、勉強をする試験期間は、亮にとって、とても長く感じた。  そして、テストが終わった、七月七日。  空は雨模様で、クラスの女子たちの、 「織姫と彦星、会えなそうだねぇ」  という会話を、耳にしつつ、亮は、静かに教室を出た。  久々に、亮は、橋の下に行くことにした。  橋の下まで来てみると、そこでは涙が待っていた。  涙は、亮の姿を認めると、ぱあっと笑って、こちらに向かって、走り出した。  そして、そのまま、亮に抱き付いた。 「ちょ……何、急に」  言いながらも、亮は、抱き付かれるまま、何も出来なかった。 「テストお疲れ様、亮……会いたかった。」  涙は、そう言って、顔を上げると、眉をひそめて、 「私、学校に来た日は毎日、ここで待ってたのに……亮は、私よりも、勉強が大事なんだねぇ」  と、少し不満げに呟いた。 「いや、そんな……」  亮があたふたとするのを見ながら、涙は、亮から一歩離れ、 「いいよ、無理しなくて。八組だもんね、勉強大事なはずだよ」  と言って、微笑んだ。 「……」  彼女の言葉に、亮は、何も言えなくなってしまう。 「それより……言わなきゃいけないことがあったから。聞いてほしいの。」  涙が、改まったように、そう言ったので、亮は、キョトンとする。 「こないだ、私が、何者か、知りたい、って言ったよね」  彼女の言葉に、亮は、ビビビッと固まった。 「……あぁ」  ――雪女と同じような、雨女なのだろうか。  と心の中で考える亮。 「私は……そうねぇ。何て言ったらいいのかなぁ」  涙は、顎に手を当てて、少し考える。そして、言うことがまとまったのか、こちらを振り向くと、 「私は、あなたが好きだから――あなたに逢うために生まれてきたの」 「……えっ!?」  思いもしない、話の始まり方に、亮はそれしか言えなかった。 「私は本当は、人間じゃなくて……」 「雨女?」  亮の言葉に、涙は、少し、吹き出すと、 「まぁ、近いかな。私はね、雨の露から生まれたの。」 「……!」  今度は、驚きのあまり、何も言えなかった。 「ごめん、変な話で。去年、降ってくる雨として、私は、空から降りてきて―私は、紫陽花の葉の上に乗った露になった。そこに、あなたが来て……あなたの優しい瞳に、私は、恋をしました。それで……私は、蒸発して雲に戻る前に、空に、お願いしたの。『あの人と、恋が出来るように、私を人間にしてください』って」  亮は、相槌も打てないまま、しかし真剣に、彼女の話を聞いていた。 「そしたら、空から、声がして。『いいでしょう。あなたをこの学校の女子高生にしてあげます。ただし、彼と両想いになるまでです』 って……私が人間になるのに、周りの露たちが、たくさん力を貸してくれた。人間の体の60パーセントに値する数の、露たちが」  涙は、そこで話を切った。 「言ってみればそうね……私は、梅雨に、露から生まれた、つゆ娘、ってところかな」  そう言って、涙は、舌を出した。 「……まるでファンタジーだな」  亮は、言葉を選んで、声をやっとのことで絞り出して、そう呟いた。 「ファンタジーにしては、必要な水の量が現実的だけどね」  涙がそう答えると、なんとなく、沈黙した。 「これ、全部、本当のことだよ……私のこと、嫌いになった?」  涙が、不安そうに尋ねる。  亮は、彼女の顔をじっと見つめたあと、 「いいや」  と、首を横に振った。 「ありがとう。言いたくなかっただろうに、本当のこと言ってくれて。ありがとうな」  亮が、優しい表情でそう言うと、 「亮……本当の私を、受け入れてくれるの?」  涙が泣きそうな声でそう問うた。 「もちろん」  その答えに、涙は、ぽろぽろと、目から涙を溢れさせた。 「……良かった。あなたを好きになれて、本当に良かった……あなたに逢えて、恋が出来て、本当に良かった」  そう言って、涙を流す涙を、亮は、微笑ましく見つめていたが、  ――あれ……?  亮は、目をこすった。  やっぱり、涙の体が幽霊のように、うっすらと、透けているように見える。 「涙、お前、なんか、薄くなってないか?」  亮の問いに、涙は、しばらく黙って、自分の体を見つめた。 「亮……今、私のこと、好きになってくれた?」  突然の核心を突いてくる質問に、亮は、顔を赤らめたが、 「……あぁ」  と、あたたかく、ゆっくり噛みしめるように、涙の言葉を肯定した。 「嬉しい……でも。だからだ……」 「え?」 「両想いになれたから、雲に戻らなきゃいけないんだ。」  と言って、悲しいんだか、嬉しいんだか、分からない、くしゃっとした顔で、涙は、亮と目を合わせた。  亮は、心に、ポッカリと、穴を空けられたような気持ちになった。 「どうして……」 「それが、空との約束だから。『彼と両想いになるまでです』って。」  涙は、仕方ない、と言うように、そう言った。 「……ありがとね、亮」  涙はそう言って笑うと、亮にパッと手を差し出した。  亮は、顔を、ふるふる、と、震わせると、涙を零した。 「亮……」  亮の様子に、出した手を下げる涙。 「……なんでだよ。なんで、両想いになったら、空に戻んなきゃいけねぇんだよ! そんなのって……悲しすぎる」  珍しく感情的になって、そう呟いた亮を見て、涙は、 「亮……」  と呟いた。  亮の、涙への思いが募れば、募るほど、彼女の体は薄くなっていく。  涙は、その、ほぼ実体のない、透明になってきた体で、亮を抱きしめた。 「……亮。悲しくなったら、思い出して――私は、いつでも、あなたの側に居る。」  亮は、静かに泣きながら、 「どこだよ。側って」  と問うた。涙はゆったりと微笑んだ。 「わからない。海かもしれないし、川かもしれない。また雨になるかもしれないし、あなたの飲む水かもしれない。そうして、あなたの体の中に、入るかもしれない。そうやって、あなたの涙や、あなたの血となって、あなたを支えるかもしれない……そんな風に、めぐりめぐって、あなたの生きる助けになれれば、私は、それでいい」 「……涙」 「忘れないで。私は、いつでも、あなたの近くで、あなたを守っている。味方だから」 「……ありがとう。あ、そうだ。これ」  そう言って、亮は、鞄から、紺地に花柄の傘を取り出した。 「これ、ずっと渡せなかったけど、プレゼント。いつも、傘持ってないみたいだったから」  涙は、目を輝かせて、 「ありがとう! 覚えてくれてたんだ!」  と声を弾ませた。  ――それが、彼女の最後の言葉だった。  彼女の体は、金色に輝き、空へと蒸発して、消えていった。傘も一緒に消えた。  ――やっぱり、あの草創期の先輩が会ったのも、彼女のような、つゆ娘だったんだ。  と考える。だが、たった今、心の底から、好きになれた、女の子が、目の前から、消えてしまった、という事実を思うと、やはり泣けて泣けて仕方がなかった。  橋の下で、しゃがみ込んで、なみだを流す。  と、 「見てー! ようこちゃん! 虹!」 「うわぁ! 本当だー」  という、小学生の声が聞こえた。  その言葉に、亮は、顔を上げる。 「お兄さんも、めそめそしてないで、見てごらんよぉ」  と、小四くらいの声の高い男の子に肩を叩かれ、亮は立ち上がる。  その虹を、亮は、なぜか、今まで見た中で、一番美しい虹だと思った。  虹を眺めていると、涙の顔が浮かんだ。  ――きっと、あの虹が、涙なんだ。  そう思えて、亮は、笑顔になれた。 「良かったぁ。お兄さんの元気が出て。」 「あ、晴れたから、織姫と彦星、会えるねぇ」  小学生の会話に、亮は、優しく、 「そうだな」  と答えた。 「じゃあねぇ、お兄さん。もう、一人で泣いちゃダメだよぉ。」  思いがけない、小学生の優しさに、亮は、笑いだしてしまった。 「あははは。ありがとう。じゃあな」  小学生に手を振ると、亮は、続けて、虹に向って、 「ありがとな、涙」  と呟き、亮は涙を拭いて、寮へと歩き出した。
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