つゆ娘

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 彼自身、彼女のことは知らなかった。  ――なんで、俺の名前を知っているんだ? 「あぁ、ごめん。私、椿くんのこと、ずっと見ていたの。ずっと、会って、話してみたい、って思っていた。」  彼女は、淡々と、笑顔で、恥ずかしがる様子もなくそう言ったが、言われたその内容に、亮は顔を赤らめた。 「な、えっ? 何で? ごめん、君は…誰?」  亮が戸惑いつつも、それを必死に抑えてそう聞くと、彼女は、悪戯っぽく微笑んだ。 「そっか。…知らなくて当然。私、学校あんまり行ってないし」  ――不登校なのか。  それなら、知らなくて当然だ。亮の学年には、四百人もの生徒が居る。クラスの人全員の名前を把握していない彼が、彼女のことを知るはずがなかった。 「でも、椿くんのことは、知ってた。かっこいいな、って思ってた。」  彼女の再びの、淡々としながら、亮にとっては爆弾発言のその内容に、またも、亮は、恥ずかしくなってしまい、顔を逸らした。 「あ……ごめんね。出会って早々、変なこと言って」  彼女はそう言って、ふふふ、と微笑んだ。  彼女の笑顔を見ながら、なんでこの子が、不登校なのか、と、亮にはピンと来なかった。 「……で、その、名前は?」  亮がそう聞くと、彼女は一瞬、あっ、と驚いた顔をすると、あははは! と笑いだした。 「忘れてた! そうだよね、ごめん。私、露川(つゆかわ) 涙(るい)。ロシアの露の川に、涙、って書くの。」  涙、と書いて、るい。  ――笑顔ばかりなのに、そんな名前なのか。  亮は、そう思いつつも、綺麗な名前だと思った。美しい彼女でないと、なかなか似合わない名前だろうと思った。 「良い名前だな。」  亮が素っ気なく呟くと、涙は亮の隣へそっと歩み寄り、 「椿くんの名前も好き。」  と囁いて、顔を上げた。  彼女の一言一言に、いちいちドキドキしてしまっている自分に、亮は動揺していた。  動揺を悟られたくなくて、彼はそっぽを向きながら、 「なんで、俺のこと知ってたの?」  と聞いた。 「え?」 「さっき、俺のこと、ずっと見ていた、会って話がしたいと思っていた、って言ってただろ。どこで俺のこと知った?」  涙は少し、キョトン、としたようだった。少し、顎に手を当てて、考え込むような顔つきになる。 「……そうそう。私が、学校の前まで来て、引き返そうとしたときだった。あなたが、体育の前だったのか、ジャージを着ていて、雨に打たれるのも、構わない、というように、紫陽花を、じっと見ているのを見たの」  亮は顔を赤らめていた。まさか、そんなところを見られていたとは。 「この学校にも、こういう、自然の美しさ分かる人居るんだ、って、感心したのと……椿くんのその時の顔が、とても素敵だったから。覚えてた」  涙はそう言うと、うふふ、と口もとに手を当てて、悪戯っぽく微笑んだ。 「それでね、最近、また学校に来て。名前も知らない……たしか、結衣子とか言う子と一緒に歩きながら、あなたにすれ違ったのをきっかけに、『今の子の名前、知ってる?』って聞いたの。そうして、やっとあなたの名前を知れた」  亮は、彼女の探究心に感心した。牧原 結衣子は、亮が一年生の時、同じクラスだった明るく優しい女子で、女子と話すのが、あまり得意でない彼にとっては、一番仲が良い女子だった。 「牧原か。懐かしいなぁ」  と亮が、のんびりと呟くと、涙は、初めて、少しムッとした顔付きになった。 「どうした?」  亮が気付いてそう問うと、 「椿くん、何で、私が、あなたに会いに来たのか、わかってないの?」  涙は、不満げに、頬を膨らませた。  ――瞬、亮は、彼女を、かわいい!と思った。  が、その気持ちを咳払いで押し殺し、 「え、わかんねぇけど。なんで?」  と問うた。  涙は、ため息を吐いて、 「……言うかよ、まったく。」  と俯きながら、呟いた。 「なんだ、そりゃ」 「とにかく!」  涙は、亮の茶化しをバッ、と避けるように、彼を軽く睨むと、 「私の前で、私以外の女子の話を、嬉しそうにしないで」  と、寂しそうな声で、囁いた。 「……え?」  そこで雨が止んだ。涙は、はっとした顔付きになって空を見上げると、 「……じゃあ、私、雨宿りしてただけだから!また会おうね!」  と言って駆け出した。 「え。ちょっと待って!」  亮がそう言って振り返った時には、  彼女の姿は、もうどこにも無かった。
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