第四幕 逃走猫の帰巣本能

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第四幕 逃走猫の帰巣本能

「だから、俺は逃げて、茜から。嘘ついて、卑怯だろ?」  俯いたままぽつぽつと言葉を紡いでいた隆二はそこで初めてマオの顔を見た。そして、 「ちょっ」  慌てる。ぽろぽろと、こぼれ落ちている涙を見て。 「待て待て、何故マオが泣く?」 『だってぇ』  マオは掌で目をごしごし擦りながら、 『隆二、辛かったよね』 「別に俺は卑怯者だから辛いとか」 『そうやって、自分のことまだ許せないでいる。そういうの、辛いよね』  赤くなった目でまっすぐ見られる。 「……俺を許していないのは、茜だよ」  それに耐えられなくて視線を逸らす。 『茜さんは、隆二が逃げたからって隆二を恨むような人なの?』  まっすぐに投げられた言葉に、視線をまたそちらに向ける。 『もし、茜さんがそれで隆二を恨むような人なら、隆二はそれを気にする必要はない、と思う。だっておかしいもん。あたしは、隆二が嘘つきでも卑怯でも今更そんなの気にしない。茜さんは隆二のこと好きなんでしょう? だったら、そんなこと気にしないと思うの。だって隆二が死ななくて、茜さんが人間なこと、茜さんだってわかっていたんでしょう?』  好きなら許せるから、とマオは躊躇わずに言い放つ。 「……そんなに簡単に、決められたらいいな」  愛しているから、恨む。そういう感情を、この幼い居候猫はきっとまだわかっていない。愛していたからこそ、恨まれる。 「でも、ありがとう」  それでも、マオのその言葉が、気遣ってくれているのがわかって、珍しく素直に礼を言った。 『あたしね、隆二のこと、軽蔑、したりしないよ。だって、隆二にとっての茜さんは、あたしにとっての隆二と同じなんでしょう? どうしたらいいかわからない時に、優しくしてくれた人。世界みたいな人。大好きで、大事な人』  小さく首を傾げるマオに、少し躊躇ってから一つ頷く。そうなのか。マオにとっての自分が特別な存在であることは認識していたが、そこまでも、特別で大きな存在なのか。自分にとっての茜ほどに。 『あたし、今もし隆二がいなくなっちゃうとか言われたら、そんなの耐えられないもん。怖くて、どうしたらいいかわからなくなって、逃げちゃうかも。それ、わかるもん』  だから軽蔑したりしないよ、とマオは小さく笑った。 「……うん、ありがとう」  受け止めてくれて。 『でも、どっちにしても隆二が後悔してることに代わりはないんだよね』  もう一度ごしごしと目を擦り、マオは隆二の顔を正面から捕らえた。 『だから、隆二。だったら、茜さんに会いに行こう?』 「……会いに?」 『お墓参り。お墓参りは死者のためじゃなくて、生きている人間が自分を慰めるためにもあるって、テレビでみたよ。隆二、それもまだ行ってないんでしょう?』  そしたらきっと、隆二は自分のこと許せるよ、と屈託なくマオは笑う。  それを見て、すっと腑に落ちた。ああ、誰かにこの話をしたかった本当の理由は、誰かにこうやって言って欲しかったのかもしれない。謝りに行くきっかけを作って欲しかったのかもしれない。 「……一緒に、きてくれるか?」  尋ねた声が小さくてかすれていて怯えていて、自分でもびっくりする。ずっと謝りに行きたかった。ずっとずっと。だけど、一人じゃ怖いから。勇気が出ないから。だから、誰か背中を押して、そして一緒に。 『うん!』  マオは当たり前のように頷いた。 「やあ、話は終わったかい!」  絶妙のタイミングでドアを開けて入って来たのは、京介だった。こいつ、タイミングを測っていたな。どうせ全部聞いていたのだろう。 『京介さん、お買い物は?』  手ブラの京介にマオが不思議そうに尋ねる。 「買い忘れたのは気のせいだった」 『あらら、うっかりはちべーねー』 「本当だよねー」  だからどうしてそんな見え透いた嘘を信じ込んでしまうのか。 「茜ちゃんのとこ行くんだろ? せっかくだし俺も」 「お前は来るな」  全て言い切る前に言葉を被せた。なんで連れて行ってもらえると思うのか。 「隆二、お前、一人で行けるのか?」  少し唇の端をあげた京介が、揶揄するように言う。 「う……」  返す言葉が見つからない。  確かに、過去あの場所に行った時は一人で歩いて行った。だから、そこそこの時間がかかったはずだ。今回はマオも連れているし、それは避けたい。疲れはしないだろうけど、ぶーぶー五月蝿そうだし。  しかし、極度の機械音痴であり、社会にかかわらないで生きている隆二には、交通手段の目安がつかない。新幹線? 新幹線の切符って何処で買うんだ? そもそも、どれに乗ればいいんだ? 「……まあ、電車とか手配してくれるなら一緒に来ても良いけど」  しぶしぶそう言うと、 「おう、まかせろ」  良い笑顔で京介は請け負った。  善は急げとでも言うように、翌日には出発していた。 「……なにもそこまで張り切らなくても」  朝一の電車に乗るために道を歩きながら隆二はぼやいた。 『思い立ったが吉日でしょう!』  隣を浮いていたマオが胸をはって言った。それはそうなのだが。 「せっかく新幹線のチケットとれたしさ」  昨日、俺ちょっとチケットとってくるよ! などと言って京介はあの後すぐに家を出て行っていた。 「でも、もっと遅い時間でも」 「今から出ると十時には着くし。最悪日帰りも出来る時間っしょ。もうちょい後でもいいけど、始発の方がマオちゃん楽でしょ? 人少ないから、隆二も気兼ねしないでマオちゃんに話しかけられるし。これがラッシュ時になると、隆二話さないでしょ?」 『えー、そんなのあたしつまんないっ!』 「でしょ?」 「……意外と考えてるなぁ」 「意外とってなんだよ。それに、はやくしないと、隆二の決心がまた鈍るだろ?」  行くと決めた以上、はやく謝りたい気持ちもある。それでもやっぱり、どこか気が重い。怖い。図星を指されて押し黙る。 『一人じゃないから、平気だよねー?』  マオが無邪気に笑う。 「……ああ」  それに少し心が和んだ。大丈夫。今なら帰る場所もあるし、一緒に行ってくれる居候猫もいる。あと、また別の居候も。  そんなことを言い合っている間に、駅に着く。 『あたし、電車ってはじめてー!』  楽しそうに笑うマオを見て、遠足かなにかと勘違いしてるんじゃないか? という気もしてきたが。  ホームに電車が滑り込む。人はまばらにしか居ない。  椅子に座り、その隣にマオも腰を下ろした。進行方向とは逆方向の隣。それを見て京介が、 「あ、マオちゃん。隆二に掴まってた方が」 『え?』  ドアが閉まる。電車がホームから離れる。ゆっくり動き出す。駅が少しずつ遠のき、 「……そうか、幽霊か」  マオの姿も少しずつ、遠ざかって行く。 『えっ、えええっ!!』  幽霊は電車に乗れない。なぜならば、車両に接していないから。車両は幽霊の体をすり抜けて行く。  慌てたマオが、こちらへ向かおうと必死に手足を動かすが、加速を続ける車両には敵わない。 「あー、だから掴まってた方がいいって」 「わかってたなら先に言ってやれよ、お前」 「隆二が気づいてあげなよ、そこは。せめて、進行方向に座ってれば良かったんだけど」  必死に頑張っているがちっとも姿が近づかない、寧ろ遠のいているマオに向かって、 「次の駅で待ってる」  軽く片手をあげると、 『ひーとーでーなーしー!!』  叫び声が返ってきた。だからそうなんだってば。 『もう、本当、信じられないっ! なんで先に行っちゃうの?』  次の駅で下車し、待っていた隆二達の元に全速力で飛んで来たらしいマオは、着くなり矢継ぎ早に文句を言い出した。 「ちゃんと待ってただろうが、ここで」 『どうにかしてよ! その前に!』 「無理だろ、あの状況じゃ。常識的に考えて」 『もー、本当あり得ない! ひとでなしっ!』  言いながらもマオは、しっかりと隆二の背中にしがみついている。  やってきた電車に乗り込む。しっかりと隆二にしがみついたマオは、電車と一緒に動くことに成功した。 『はー、よかったぁー』 「最後まで気、抜けないな、お前」  手を離したら、あっという間に置いて行かれる。 「まあ、隆二の膝の上にでもずっと座ってれば大丈夫でしょう」  それは果たして本当に大丈夫なのか、色々な意味で。 「でも、この路線、一駅間短くて良かったよね。すぐに追いつけて」 『その、新幹線とかっていうのは、駅と駅が遠いの?』  恐る恐る尋ねたマオに、 「遠いよ」  真面目な顔をして京介が頷いた。 『……気をつけなきゃ』  気を引き締めたらしいマオが、ぐっと手に力をこめた。やめろ、首が絞まる。  そんな、普段なら呆れ返るようなドタバタ道中だったが、今回ばかりはそれに救われた。暗い思考にならなくていい。  新幹線の中、隆二の膝に座り、隆二の首筋に手を回し絞める勢いで力を入れ、隆二にちゃんと自分の腰を支えるように口うるさく注意しながらも、窓の外を瞳を輝かせて眺める居候猫に感謝する。一緒に来てくれて、ありがとう。  久方ぶりに降り立った駅前は、当時の面影を残しているような、全然違うような、不思議な印象を与えた。露骨な高い建物等はないが、前よりは少し活気づいている気がする。  駅前にある花屋で、小さな花束を買った。それを見ていた京介が、 「じゃあ、俺はこの辺りで適当に時間潰してるよ」 『あれ、京介さん、一緒に行かないの?』 「うん、遠慮しとく。終わったら適当に探して」  気をつけてね、と笑って京介は片手を振った。 「……ありがとう」  ああ、なんだ。変な野次馬根性とか、おせっかいとかじゃなくて、本当に心配して一緒に来てくれたのか。それに気づき、小さく頭を下げた。 「暇だしね」  京介はのんびりとそう言うと、どこかに向かって歩き出した。 「……じゃあ、行こうか」  その背中から目を離し、宣言する。気合いを入れる。 『うん』  まだ背中にくっついたままだったマオが頷いた。  記憶を頼りに歩いてく。周りにあるものが変わっても、長い時間が経とうとも、ここでの生活は脳内にしっかり焼き付かれている。道はすぐにわかった。 「そういえば、墓の場所、わかんないな」  記憶の中に寺はあるが、そこかはわからない。もし仮に一条家の方で弔ったのだとしたら、この辺りではないのかもしれない。 『ありゃ、困ったねー。誰かに聞くとか?』  なんて言って聞けば良いんだよ。不審過ぎるだろ。 「まあ、とりあえず家の辺りまで行って、そこから考えてもいいか」  大事なのは茜に謝るということ。この土地で、茜に謝るということだから。どこか二人に関係する場所で謝れればそれでも。  そんなことを思っていると、土手にさしかかる。あの日、初めて茜に出会った場所。  いくらか整備されて綺麗になっているそこに、目を細める。 『あー、これが噂の土手?』 「ああ」  マオの言葉に頷き、 「……あ」  川縁で佇む人影に、視線が固定される。思わず足が止まり、 『りゅーじ?』  不思議そうなマオが名前を呼ぶ。 『どーしたの?』  隆二の背中から離れ、マオが顔を覗き込んでくる。  だけど、人影から視線がそらせない。  肩より少し長い綺麗な黒髪、線の細いシルエット。見覚えのある柄の、着物。 『んー?』  マオも隆二の視線を追うように振り返った。  あれは。あの人影は。まさか、まさか、まさか。 『……幽霊?』  マオが怪訝そうに呟く。  人影がこちらに気づいたのか、ゆっくりと振り返る。 「あか、ね?」  小さく小さく呟く。  振り返った人影は、一瞬少し驚いたような顔をして、それから柔らかく微笑んだ。そして、 『お帰りなさい、隆二』  ぱさり、  手から力が抜け、花束が地面に落ちてばらける。  気づいたときには駆け出して、駆け寄って、茜の腕をつかんで、抱きしめていた。 「ごめん」  腕の中にとじこめた、彼女に向かって謝罪する。 「遅くなって、本当に、ごめん。茜、ごめん」  髪を撫で、腕に力を加えてもなんの感触もしないことに失望する。こんなになるまで待たせてしまった。 『違うでしょ、隆二』  たしめるように言われる。昔と変わらない声色なのに、耳以外の感覚器官で届く声に泣きそうになる。肉声じゃ、ない。 『ごめん、じゃないでしょう?』 「……待っていてくれて、ありがとう」  幽霊になってまで、長い間待っていてくれて。 『約束したじゃない』  茜は少し背伸びして、隆二の耳元で囁いた。 『おかえり』 「ただいま」  遅くなって、本当に、ごめん。  その様子を黙ってみていたマオは、くるりと踵を返すと逃げ出した。それは確かに逃げ出したのだ、と自分でわかった。  彼の想い人は幽霊になってまで彼を待っていた。幽霊になった彼女は、きっとずっと彼の傍にいることが出来る。寿命の問題は解消される。永遠に、一緒にいることが出来る。そして彼女は、自分みたいに厄介な居候じゃない。きっとあの人は、我が侭を言って隆二を困らせることも、人の精気を必要として危険を生じさせることもない。  隆二のあんな顔、始めてみた。あんな泣きそうで、嬉しそうで、愛おしそうで、とにかくあんな表情は絶対にマオに向けられることはない。あの表情を与えられるのはこの世界でただ一人、彼女だけだ。 『馬鹿隆二』  足が止まる。ゆっくりと地面に降りるとその場にしゃがみこんだ。 『あたしはもう居られないね』  あの人がいるならば、自分はあの家には帰れない。自分はもう、居候猫にもなれない。  隆二はゆっくりと体を離す。正面から茜の顔を見る。記憶の中にあるのと同じ笑顔で茜は笑った。 「遅くなってごめん、ありがとう」  額と額をくっつけて、押し殺すように呟くと、彼女はただ首を横に振った。 『私こそ、ごめんなさい』  そういいながら彼女は隆二の頭を撫でる。 『先に死んじゃって。隆二が戻ってくるまで、絶対に待ってようって決めたのに。百でも二百でも生きていてやるって』 「茜……」  なんで彼女はこうなんだろう。恨み言の一つや二つ言ったって、決して罰は当たらないのに。 「一人にして、ごめん」 『先生が一緒にいてくれたから』 「……そっか」  好々爺という言葉がぴったりの茜の主治医を思い出す。 「先生は、やっぱり……」 『年だったから』 「そう、だよな」  生きている、はずがない。 「俺、先生にお礼も言わずに飛び出して来たからな」  なんて不義理なんだろう。なんて自分のことしか考えていなかったんだろう。 「茜にも先生にも、迷惑をかけるだけかけて……」 『気にしてないよ、先生も私も』  とんとん、と子どもをあやすように背中を叩かれる。 『来てくれて、本当に嬉しい』 「うん」 『ありがとう』 「こちらこそ。本当に、ありがとう」  まさか本当に待っていてくれるなんて。  額を離し、代わりにその手をぎゅっと握る。茜もそっと握り返して来た。 『今は、誰かと一緒?』  微笑みながら尋ねられて、一瞬言葉に詰まる。 『誰かに言われないと隆二、あなたここに来る気にはならなかったでしょう?』  くすくすと笑われる。お見通しなのか、全部。 「……ごめん」 『いいの。帰って来てくれたんですもの。きっかけはなんだって』 「そうじゃなくて」  一緒に過ごしている人がいて。人じゃないけど。 『ああ。そっち? それは、いいのよ。だって、隆二、一人はさみしいでしょう? 私も貴方も、それはよく知っているじゃない』  だからいいのよ、となだめるように茜は笑う。 『永遠は長いでしょう? 一人でいるには』 「……そうだけど」  茜を一人にして、一人で待たせて、自分は他の人といたなんて……。 『本当に気にしないで。私ね、』  茜は少し躊躇うそぶりを見せた後、 『覚悟していたから』  隆二を見据えて宣言した。 『いつからだろう? 貴方のこと、好きになってからかな。隆二がいつか、私以外の別の人のこと、好きになること。長い長いときをかけて、覚悟を決めてきたから、大丈夫。だって、それは仕方のないことでしょう? 貴方の世界は長いのだから、一人孤独に生きるよりは誰かと居てくれた方がずっといい。ずっと、安心だわ』 「……ありがとう」  なんだか泣きそうになる。ああ、こんなにも、思われていたのか。 「でも、一つだけ訂正」 『なあに?』 「俺が好きなのは、愛しているのは、今でも茜だけだよ。これからも、ずっと」  茜は驚いたように大きく目を見開き、頬を赤くした。 『やだ、しばらく会わない間にそんなこと言うようになったのねっ』  早口で言われる。ああ、そうか、そういえば、好きってちゃんと言ったこと、なかったかもしれない。 『でも隆二、それじゃあ、今一緒に居る人はなんなの?』 「あれは居候猫」  躊躇わず答える。 「人じゃない、幽霊だよ。それも、研究所仲間」  出来るだけ軽い調子で言うと、茜は少し痛ましげに眉をひそめた。 「そういう顔するな」 『平気なの?』 「ああ。もう、死神もいないしな」 『そう。……その人、女の人?』 「人じゃない」  茜以外の人間と一緒に暮らすなんてあり得ない。 「女だけど」 『……可愛い?』 「まあ、可愛いは可愛いな。それに見てて飽きない」 『……そう』  答えてから茜が頬を少し膨らませたことに気づき、思わず笑う。ああ、可愛い。本当に可愛い。同じ可愛いでも、種類が違う。愛おしい。 「茜の方が可愛い」  手をそっと引っぱり、顔を近づけて耳元で囁くと、 『!』  茜は弾かれたように顔をあげ、 『もうっ、本当にっ、どこでそういうの覚えてきたのっ!』  はしたないっ、と叫ばれる。それがさらにおかしくて笑う。ああ、このやりとりがたまらなく愛おしい。 『笑わないっ』 「はいはい」 『もうっ』  茜は一度頬を膨らませ、 『隆二』  真顔に戻って、隆二を見つめた。 『約束、忘れて』 「忘れてって」 『私、たくさん約束させちゃったでしょう。帰って来て、以外にも』  頷く。全部ちゃんと覚えている。殺してないし、殺されていない。生きている。生きる屍にならないという点は、今はともかくちょっと前まで微妙に守れてなかったが。 『その約束、一旦忘れて。もう十分守ってくれたから。約束にとらわれないで、今度はその人を、今一緒に居る人を守ってあげて』 「でも」  茜との約束を忘れるなんてこと、したくない。 『色々あるのでしょう? 研究所絡みなら』  眉をひそめながら言われた言葉に、 「……ああ。そうだな。わかった」  小さく頷いた。もし今後、研究所がまたマオを求めることがあったら、この前のように誰も殺さずには済まないかもしれない。 『……でも、一つだけ、我が侭、言っても良い?』 「勿論」  間を置かず首肯する。茜の我が侭なんて今まで聞いたことがあっただろうか? そしてそれを、自分が断ることがあるだろうか。 『あのね』  茜は少し恥ずかしそうにもじもじしたあと、耳元でそっと告げた。 『名前、教えないで。あなたの、本当の名前。もう二度と、誰にも』 「……名前?」 『そう。――』  そうして茜は、彼女にだけ教えた彼の本当の名前を呼ぶ。とても、とても久しぶりにその名前を聞いた。 『あのね、私だけ特別って、思いたいの』  照れたように言われた言葉に、迷わず頷いた。 「約束する」  今度こそ。それを守る。絶対に。自分が人間として接した、最後の人間は茜だ。今後も、ずっと。だから名前は、誰にも教えない。 『ありがとう』  茜も頷く。 『……私、そろそろいくね』  そして呟かれた言葉に、心臓が跳ねる。もう? もういってしまうのか。そんな思いが胸を過る。けれども、死した人間がいつまでもこの世に留まることは、本来あってはならないことだ。彼女は長い間、ここに留まっていた。約束を果たせた今、はやくいかせてあげないと。 「……わかった」 『ああ、もう、隆二』  茜が困ったような顔をして、両手で隆二の頬を包む。 『そんな泣きそうな顔をしないで。私、会えて嬉しかったから。本当に本当に、嬉しかったから』 「うん。待っててくれて、ありがとう」 『帰って来てくれてありがとう。ねぇ、隆二。私、貴方が居てくれて本当によかった。一条葵の予備としてではなく、一条茜として楽しいときを過ごせたのは、貴方のおかげよ。本当に感謝している』 「俺だって」  俺だって感謝している。茜に会わなければ、あの死神が現れた段階で消えることを選択していたかもしれない。茜と過ごしたあの日々は、本当に楽しくてかけがえのないものだった。永遠に。これからも。大事な思い出だ。 「感謝している」 『うん。ありがとう。大好き』  両手が頬から外され、背中にまわされる。隆二もそっと、その背中を支えた。 『楽しかった。本当に楽しかった。一緒に居られてよかった。大好き』  彼女の声が少し震えている。腕に力を入れる。 「俺も」  自分の声も震えていた。ああ、これで。今度こそ。本当に。最後だ。 「……茜」 『なあに?』 「もう一度呼んで」  それだけで伝わった。茜は隆二の腕の中、顔をあげ、 『――、愛している』  そっと告げた。 「……うん」 『泣かないで、――』  そう言った彼女の目だって、潤んでいる。 『本当に、もう、いくね。このままずっと、ここにいたくなってしまう前に』 「うん。……茜」  片手を離し、代わりに頬に添える。そっと身を屈めると、彼女も目を閉じた。唇が触れ合う。感触はないけれども、脳が覚えている。  目をあけると、茜が恥ずかしそうに笑った。 『本当にありがとう。大好き』  もう一度そう言うと、彼女は隆二から手を離す。 「こちらこそ。ありがとう。本当にありがとう。愛してる、ずっと」  隆二も素直に手を離した。  茜は一歩、隆二から距離をとると、綺麗に、柔らかく、微笑んだ。今まで見た中で、一番綺麗な顔だ。 『さよなら、――』 「さよなら、茜」  そうして、一条茜の魂はこの世から姿を消した。  茜を見送り、こっそりと目元を拭う。  やっと、約束を果たせた。そのことに安堵する。 「マオ、悪い、待たせた」  そういって出来る限り微笑んで見せながら振り返る。 「……マオ?」  そこに居候猫の姿はなかった。
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