第二幕 Who's she? The cat's mother?

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第二幕 Who's she? The cat's mother?

 ここは、どこだろう?  どこだかわからない。ただ暗い場所に隆二はいた。  視線の先、僅かな光が見える。そちらに向かって歩き出す。 「……?」  視界の先に、人影。目を凝らす。  肩より少し長い綺麗な黒髪、線の細いシルエット。見覚えのある柄の、着物。  心臓が跳ねる。  まさかまさかまさか。 「茜っ」  名前を呼ぶ。叫ぶ。  人影は振り返る。隆二のよく知っている笑顔を浮かべて。 「茜っ」  駆け出す。  会いたかった。ずっとずっと。会って謝りたかった。だから。  手を伸ばす。彼女の右手を掴み、 「あかねっ」  その瞬間、彼女は白い骨となり、闇の中へと崩れ落ちた。 「っ」  声にならない悲鳴をあげて、飛び起きた。 『うひゃっ』  跳ねるように上体を起こした隆二に、小さな悲鳴。 『あぶなっ』  すぐ間近に、居候猫の顔があった。 「マオ……?」 『もー、びっくりしたぁ』  確認するように名前を呼ぶと、彼女は膨れた。  手に触れる、慣れた感触。赤いソファー。ああ、ここは、茜と別れたあと暮らしはじめた、自分の安いアパートだ。  あっさりとその現実を受け入れて、ため息をついた。  もう一度会えるなんて夢みたいなことあるわけなくて、どうせあれは夢だったのだ。夢ならもっと、いい夢を見させてくれればいいのに。  唇が皮肉っぽく歪む。 『ちょっとちょっと』  声に顔を上げる。 『なんだか一人シリアルになってるところ悪いんですけどね!』  目の前で膨れるマオ。 「……つーか、お前、何してるの」  よく見たら、彼女は隆二に馬乗りになっていた。近過ぎる顔に、少し身をひく。 『隆二が! うなされてたから! 心配して見に来てあげたんでしょうっ!』  デリバリーのない人ね! とマオは眉尻を吊り上げて言う。 「デリカシーな、運んでどうする」  幾分冷静さを取り戻すと、突っ込んだ。それから多分、さっきのシリアルもシリアスとかそういうのだ。 「あと、そういうときは、横から覗き込もうな」  なんで馬乗りになって上から見るかね。  片手をはらってマオをどかすと、ソファーに座り直す。 「京介は?」 『夕飯の買い物』 「あー、そう」  時計を見ると、夕方の五時過ぎだった。 「あー、そろそろテレビ付けた方がいいか? ミチコじゃなくて、なんだっけ。ほら、あれがはじまるだろ」  膨れたままのマオの機嫌をとろうと尋ねると、 『いい』  冷たく言われた。 「は?」 『富子はいいの』  ちょっとまて、マオが七転八倒富子を見なくていいだと?  なんとなくデジャヴュを覚えながらも、尋ねる。 「どうした? そんなに怒ってるのか? 心配してくれたのに悪かったな」 『違うっ』  マオがますます膨れた。  一体なんだっていうんだ。うんざりしながらマオの次の言葉を待っていると、 『……茜って、誰よ』  吐き出されたのは思いもしない言葉だった。  一瞬、どうやって反応したら良いのかわからなくなる。 「……なんで」  かろうじて呟いた言葉は、思ったよりもかすれていた。 『寝言。……誰?』  緑の瞳が睨んでくる。  一瞬言葉に詰まる。なんとなく、後ろめたい気持ちになる。が、すぐになんで自分が罪悪感を抱えなければならないのか、その理不尽さに気づいた。 「知り合い、昔の」  端的に答える。 『知り合い?』 「ああ」 『カノジョ?』  拗ねたような瞳に辟易する。なんでたかが居候猫に、そこまで答えなきゃいけないんだ。 「何だっていいだろ」  突き放すように答えると、有無を言わせず立ち上がり、テレビの電源を入れた。 『隆二っ』  咎めるように名前を呼ばれる。 「マオには関係ないだろ」 『……関係ない?』 「ああ。俺の過去の知り合いのことなんて、居候には関係ないだろ」  知らず声が大きくなる。 『……そっか』  マオが小さく呟いた。  その言い方にしまった、と思う。やばい、泣かれる。 「マオ」  慌てて名前を呼ぶと、マオは俯いていた顔を上げた。  泣いてなかった。怒ってもなかった。 『詮索してごめんなさい』  ただ小さく唇を噛んで、彼女は告げた。 『……散歩行ってくる』  そしてそのまま、窓を抜けて外へ出て行った。  隆二は声をかけられず、それを見送った。  テレビから、場違いに明るい音楽が流れてくる。  一つため息をつくと、ずるずるとソファーに座り込んだ。  あんな言い方はなかった。それは認める。反省する。  確かにマオには関係ないことだが、だからといってそのまま関係ないなんて告げる必要はなかった。適当にお茶を濁しておけばよかったんだ。マオの好奇心については、前々からわかっていたのだから。マオにとって自分は辞書のような存在なのだから。  ただ、なんとなくマオに問いつめられて後ろめたい気持ちになったのは事実だ。マオに対して疾しいことなんて何もないのに。  あるとしたら、茜に対してだけなのに。  言いたくない。言えない。  自分の心を傷つけたくない。  だから、マオを、傷つけた。  そして結局、言えない理由なんて、全部隆二自身の問題なのだ。  スーパーの袋片手に、のんびり道を歩いていた京介は、 『京介さん』  頭上からかけられた弱々しい声に足を止めた。 「マオちゃん、お散歩?」  微笑みかけても、彼女は笑わない。いつも楽しそうな彼女らしくもない。 「どうしたの? そろそろ、富子始まるんじゃない?」 『……今、いいですか?』  なんとなく事情を察して、京介は頷いた。 「いいよ」  近くの公園のベンチに京介は腰を下ろした。隣を指差されて、マオに素直に隣に座る。  隆二と違って、京介はマオが外で話しかけても拒絶したりしない。最初に声をかけてきたときからそうだった。だから、居辛くて家を飛びだした後、京介の姿を見かけて迷わず声をかけた。  ただ、その後どうやって話を続けたらいいかわからない。  視界の端で京介が煙草に火をつけるのがわかった。 『……ここ、禁煙だよ』  小さく呟くと、京介が笑ったのがわかった。 「やっぱり、マオちゃんはマオちゃんだねぇ」  なんだか納得したように呟くと、名残惜しそうに煙草を携帯灰皿に押し込んだ。 『……あたしはあたし?』 「真面目で素直でいい子ってこと」 『……いい子じゃないよ』  全然、いい子なんかじゃない。 「隆二と喧嘩したの?」  のんびりと聞かれる。  喧嘩? 『ううん』  首を横に振った。 『喧嘩じゃ、ない』  隆二はマオと喧嘩したりしない。マオがどんなにむちゃくちゃを言っても、ちょっと呆れるだけだ。マオはバカだなーって、いつものちょっと呆れた顔で笑って、それで終わりだ。  彼が本気で怒ったのなんて、あの時、マオがエミリのところへ戻ると言い出したときぐらいだ。  さっきだって、怒っていたわけじゃなかった。少し苛立っていたけれども、怒っていたわけじゃなかった。それよりももっと、冷たいものだった。  どうでもいい、そんな感情だった。突き放された。そう、思った。 『喧嘩じゃないよ』  もう一度呟く。  わかっていたことだ。自分が隆二にとって、ただの居候でしかないことなんて。 『隆二はあたしと、喧嘩なんかしない』  居候が身分もわきまえずに家主にたてついたから。改めて、距離感を正されただけのことだ。  京介は少し目を細めて、 「何があったの?」  優しく尋ねて来た。 『京介さんは、茜って人、知ってる?』  足元を睨みながら尋ねると、 「茜ちゃん?」  意外そうに言葉を返される。 『……知ってるんだ』  知らないのは自分ばっかり。 「なんで、マオちゃんが茜ちゃんのことを? あいつが、自分から言うはずはないと思うけど」 『……寝言』 「ああ」  京介は苦笑し、 「女々しいねぇ」  ぽつん、と呟いた。揶揄するわけでもなく、ただぽつんと言葉が宙に投げ出される。 「仕方ないか。そうなってるだろうとは、思ってたし」 『そうなってる?』 「引きずってるってこと」 『……茜っていう人は隆二の』 「恋人だよ」  京介はさらりとそう答えてから、 「あー、いや、そういえば、本人からそう聞いたわけじゃないけど。見た感じ」 『会ったことあるの?』 「少しだけね」 『……いつ』 「もう、かなり前だよ」 『……その人は今』 「亡くなったよ」  顔を上げて京介を見る。彼は淡々と呟いた。 「もう、随分前だ」 『……そうなんだ』 「元々体弱かったらしいからね。なんでもなかったら、まだ生きていたかもしれないけど」  仕方ないことさ、と京介は続けた。 『……隆二にとっては』 「うん?」 『仕方なくないことだよね』 「そうだねぇ」 『……そうだよね』  ワンピースの裾をぎゅっと握る。大切な思い出に、土足で入り込もうとしたから拒まれた。 『……帰らなきゃ。謝らなきゃ』  立ち上がる。 『隆二にちゃんと謝る。居候のあたしが何にも知らないのに無神経に訊いてごめんなさいって』  何も知らないから迷惑ばかりかけている。 「誰だって、最初はなぁんにも知らないもんだよ」  のんびりと、だけど真剣に京介が呟いた。それに思わず振り返ると、彼はいつもと違う、真面目な顔をしていた。 「教えられていないことは知らなくてもいいんだよ。知らないことを最初から知っているなんてことできないんだから。勘違いしちゃいけない。マオちゃんが知らないことを知りたがるのはなんの問題もないんだよ。知らないことを知りたいと思うのは、当たり前のことなんだから」 『だけど……』 「知りたいことはちゃんと尋ねれば良い。尋ねていいんだよ。まあ、隆二にだって訊かれたくないことも、教えたくないこともあるだろうけど」  教えたくないことは色々な意味で色々あるだろうしなぁ、となんだか含みをもった笑い方をする。 「だけど、訊いたことそれ自体をマオちゃんが気に病む必要はない」  京介は優しげに微笑んだ。 「遠慮しなくていいんだよ。マオちゃんにとって隆二は特別なんだろう? 特別な、社会との窓口なんだから」  マオは京介の顔をじっと見つめ、 『……よくわかんない』  悔しそうに唇を噛んで、首を横に振った。 『バカだから』 「マオちゃんはバカじゃないよー。まあ、天然だとは思うけどね。俺の言ったこと、今はわからなくていいよ。だけど、覚えていて」  京介が優しく言うから、マオは小さく頷いた。 『……うん』  京介は満足そうに笑う。 『……でも、やっぱり、謝らなきゃ。拗ねてでてきちゃったし、隆二困っただろうし』 「確かに。自分で酷いこと言ったくせに、いざマオちゃんが出て行っちゃうと、家でうろうろと落ち着かなさそうにしてる隆二が目に浮かぶね」  京介のおどけた言い方にくすりと笑う。そのとおりだ。 『それに勝手に京介さんに色々きいちゃったから』 「ああ、それについては俺も怒られるから。口止めっぽいこと言われてたんだった」  喋った方も同罪でしょう? と笑い、マオの頭を軽く撫でた。 『やっぱり、京介さんと隆二は全然違うよね』 「え?」 『……ううん』  撫でられた頭を右手でそっと触れる。  隆二の同族で、マオに触れる二人目の人。隆二以外にマオに触れられる人が居るということに、本当は少しがっかりしていた。隆二だけが特別だと思っていたから。  でもやっぱり違う。隆二は特別だ。京介は京介で隆二じゃない。頭の撫で方も外での対応も、なにもかも違う。  だから、帰ってちゃんと謝ろう。これからも一緒に居たいのは京介じゃなくて隆二だから。  赤いソファーに座り、本を読む。それは隆二のいつもの行動だった。ただ、違うのは、 「……遅いな」  視線が本と時計の間を行ったり来たりすること。寧ろ、ほぼ時計固定になっている。  マオが出て行って、あんな言い方をする必要はなかったと反省したものの、そこからどうこうする気は起きなかった。マオに問いつめられたことが不快だったことは事実だし、また意味も無く後ろめたい気持ちになった自分も嫌だった。  どうせすぐ帰ってくるだろう。いつもみたいに。そう結論付けて本を読みだしたものの、内容は頭に入ってこない。  付けっぱなしにしていたテレビは、今はニュースになっている。結局、富子放送中には戻って来なかった。あんなにいつも、楽しみにしているのに。  やっぱり探しに行った方がいいだろうか。  もう何度目かのその回答を導き出し、でもそれもどうだろう、もう戻ってくるかもしれないし、もう何度目かの躊躇いをみせる。  そうこうしているうちに、 「たっだいまー」  能天気な声と共に京介が戻って来た。  お前に用はない。 「玄関、鍵あけっぱなし危ないよー」 「鍵もってないだろ」  冷たく言葉を返す。  合鍵なんてもっていないため、どちらかが必ず家にいることにしていた。 「そんなことより京介、マオ見なかったか?」  ソファーから立ち上がり尋ねると、 「見たよ」  あっさり言われた。 「どこでっ」 「ん」  京介が自分の後ろを指差す。京介の影で、マオがドアからほんの少し顔を生やしていた。 「マオっ」 『ひっ』  思わず名前を呼ぶと、マオが顔を引っ込める。 「逃げるなっ、怒ってないから」  のんびりと買った物を袋から出している京介の背後を抜けて、玄関へ向かう。 『……本当?』  顔だけをドアから生やしてマオが尋ねてくる。 「悪かった。無神経な言い方して」 『……あたしも、ごめんなさい』  マオもいつもよりも素直に頭を下げる。 「とりあえず、中入れ」  右手を差し出す。  こんな玄関で、ドアから首を生やした幽霊とでは、まともな会話は望めない。 『ん』  マオは頷くと、隆二の手に素直に自分の手を重ねた。  その手をひっぱり、いつもの位置、赤いソファーまで戻ると、マオを座らせた。自分もその向かい、畳の上に腰を下ろす。  京介は鼻歌なんか口ずさみながらキッチンに立っていた。あれのことはひとまず無視しよう。 『あの、本当にごめんなさい』 「いいって。俺も、いらついて悪かった」 『それもそうだけどそうじゃなくて』  マオが隆二の言葉を遮ると、ちらりと一度京介に視線をやる。嫌な予感がした。 『話したくないこと、無理に聞こうとしたこともごめんなさいなんだけど。あたし、京介さんに、聞いちゃったの……。勝手に。茜っていう人のこと。だから、ごめんなさい』 「京介っ」  マオの言葉を最後まで聞く前に怒鳴っていた。茜のこと言うなって言っただろうがっ。 『あ、あの、あたしが無理に聞いたから京介さんは悪くないよ?』  マオが庇うような発言をするから、それにもまた少し腹が立つ。 「そういう問題じゃないっ」 「もー、隆二は五月蝿いなぁ。カルシウム足りてないんじゃん?」  京介はのんびりとそう言うと、皿を片手にこちらにやってきた。 「はい」 「……なんだこれ」 「煮干し」 「それは見ればわかるんだよっ」 「カルシウム、摂った方がいいよ」   隆二に煮干しを手渡すと、京介はまたキッチンに戻る。そもそもこの煮干し、よく見たらダシとったあとのやつじゃないか。喰えっていうのか、これを。 『あ、あのね』  くたった煮干しを睨む隆二に、おそるおそるマオが声をかける。 『京介さんも、あの、さっきは、一緒に謝るからって。ん? 謝るだっけ? 怒られる? 忘れちゃった。でも、ええっと、あの、勝手に喋ったのも同罪だからって言ってたから、その。悪気があるわけじゃないっていうか』 「今、直接、謝らなきゃ意味ないだろうが」  溜息混じりにそういうと、煮干しをとりあえず畳の上に置いた。  まあ、おかげでマオとのことに関しては冷静になれた、かもしれない。 「マオは悪くない。マオだけが悪いんじゃない。俺も悪かったし、京介はもっと悪かった。だからもう、謝らなくて良い。こっちも悪かった」  気を取り直してそう告げると、マオは少し安堵したようだ。肩から力が抜ける。 『あのね』  そのまま、いつものような口調でマオが言った。 『あたし、隆二に隠し事されたのが嫌だったの。あたしは隆二に、もう隠し事ないのに』 「それは」  マオの言葉に咄嗟に何か弁解しようと口を開くと、マオが片手でそれを遮った。 『でもね。考えてみたら、あたしには隠すようなことないだけだったの。だって、発生してすぐにここにきて、ずっと隆二と一緒にいるんだもん。あたしよりももっともっともぉっと長生きしてる隆二には、内緒にしたいこともあるよね』  あたしにはよくわかんないけど、と小さくつけたした。 『だから、無理強いしてごめんなさい』  ぺこり、ともう一度だけマオは頭を下げた。 『あたしは、今の隆二と一緒にいられればいいや』  そして笑う。屈託なく、無邪気に。  眩しくて、見ていられない。 「……だって言ったら、軽蔑するだろ」  その笑みから逃れるように視線を逸らし、言い訳のように呟く。 『え?』 「話したら、マオは俺のこと、軽蔑するだろうから」  どうしてもマオに茜の話ができなかった本当の理由が、今のでわかった。  茜のことを改めて話して、自分で自分の傷口を抉るのが嫌だっただけじゃない。  マオに約束を破る卑怯者だと思われたくないのだ。約束を破って、愛する人を捨てた卑怯者だと。この無邪気な居候猫に思われたくなかった。  マオは眉間に皺を寄せて難しそうな顔をし、何かを悩むようにしばらく沈黙した。  テレビの音と、キッチンから何かを刻む音だけがする。 『よくわかんないけど、隆二が嫌なら本当に話さなくていいよ』  しかめっ面のまま、ようやくまとまったかのように慎重にマオは告げた。 『だけど、あたしが隆二のことけーべつしたり、嫌いになったりすることはないよ、絶対』  隆二の目を見てしっかりと告げる。 「……嘘つきの卑怯者でも?」  呟いた声は思ったよりも弱々しくて、自分でも驚いた。情けない。 『だって隆二は元々出会った時からひとでなしじゃない。あたしもだけど。あたしのこと最初無視したりするし、でもずっと家においてくれてるし、冷たいけど優しいし。どっちも本当なの知ってるから、今更嘘つきでも卑怯者でも驚かないよ?』  そして小さく微笑んだ。 『あたしにとって隆二が特別なの、それは絶対変わらないもの』  そんなマオを隆二はしばらく見つめ、 「……ありがとう」  小さく呟いた。  本当は誰かに、話したかったのかもしれない。絶対に自分のことを否定しない誰かに。 「京介、あのさ」 「おおっといけない。買い忘れたものがあった!」  キッチンに向かって声をかけると同時に、芝居がかった声がした。 「ちょっと再び買い物に行ってくる。少し遠くまで! 夕飯は遅れるが笑って許せよ!」  そう早口で告げると、京介は家を出て行った。  なんだかんだで、根はいいやつなのだ。あいつも。 『……あんなに買ってたのに、何忘れたんだろう』  マオがぽつりと呟く。  ああもう、だから純粋だというんだ。この居候猫は。 「マオ」  名前を呼ぶと、不思議そうに玄関を見つめていたマオがこちらを向いた。 「あのさ、聞いてくれるか?」 『……うん』  マオは少し表情を引き締めて頷いたものの、 『あの、でも、本当にいいの? 無理してない? 嫌だったらいいんだよ?』  心配そうな顔をして隆二を見る。 「いいんだ」  それを見て少し微笑んだ。  マオならきっと、ちゃんと聞いてくれる。 「あんまり楽しい話じゃないけど、誰かに聞いて欲しかったんだ」  本当はずっと。  そうして隆二は、思い出の箱を開いた。
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