第三幕 彼女が拾った猫との生活

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第三幕 彼女が拾った猫との生活

「くそったれ」  隆二が呟いた言葉は、茜色の空へと吸い込まれた。 「くそ、あのガキ。せっかく助けてやったのに、人の顔を見た途端逃げやがって」  車に轢かれそうな子どもを見たら、咄嗟に体が動いていた。代わりに自分が盛大に車に轢かれた。さらには子どもに逃げられた。そりゃあ、こんなけがで話しかけたら、怖いだろうけれども。それでも礼の一つぐらい言っても罰はあたらないんじゃないだろうか? あんな悲鳴をあげて逃げなくても。 「俺は化け物か、っていうんだ。いや、化け物だけど」  自分で言った言葉に自分で傷ついて、ため息をつく。  怖いのでちゃんとは確認していないが、額は縫う必要がありそうなぐらい切れている気がする。肋骨も数本折れた気がするし、足の骨も心配だ。二、三日もすれば治りそうだが、この状況での二、三日は長い。 「やってらんねぇ」  ため息をついた。  これからどうしよう。頭の片隅で悩みながらも、色々面倒になって、今はもう寝てしまおうかと瞳を閉じかけたところ、 「大丈夫ですか?」  頭上でかけられた声に再び目を開ける。  そこには心配そうな顔をした少女が一人。 「あの、大丈夫ですか?」 「……あんたは、これが大丈夫そうに見えるわけ?」  腕を持ち上げて額から流れる血を拭いながら逆に聞くと、彼女は途端に大きく顔をゆがめた。まるで彼女の方がけがをしたみたいな顔だった。 「そ、そうですよね。……でもよかった、話せるならば見た目よりもひどくないみたいですね」  多分見た目よりもひどいと思う。俺じゃなかったら多分死んでいる。  結局、見つかってしまった。  これからの自分の運命を思うと、ため息しか出ない。化け物として見せ物小屋に売られるか、警察に連れていかけるか、それとも、また研究所に戻されるのか。最後だけは絶対に、嫌だなぁ。  隆二が自分の身の上を悲観的に、だけれどもどこかのんびりと思っている間に、彼女は隆二の傍にしゃがみこんだ。そのまま隆二に異を唱える隙を与えず、自分のハンカチで隆二の額を抑える。 「うわっ、あんた何やってるんだ!?」  いきなりのことで驚いた隆二に、彼女は 「え、一応止血を……」  逆に何を聞いているのだろうこの人は? という口調で言い返した。 「別に、そんなのいいって……」  振り払おうと動かした手を、彼女は片手でつかむとゆっくりと下に下ろさせる。 「おとなしくしていてください。大丈夫、悪いようにはしませんから。それより、動くと傷口が開いてしまいます」 「……あー」  薄倖そうな彼女の意外と力強い口ぶりに驚いて、そしてそれが正論であることは認めなければいけない事実で、結局何も言えずに再び空を見る。 「……この近所に」  彼女がぽつりと言った言葉に、顔をそちらに向ける。 「私の主治医の先生がいらっしゃいます。今からそこに行くつもりだったので、一緒に行きましょう。……あ、でも、そのけがじゃ動かないほうがいいですし、動けませんよね。先生を呼んできますので、待っていてください。いいですか、絶対に動かないでくださいね」  そういって彼女は立ち上がる。 「おい、あんた」 「大丈夫、私も先生も口は堅いですから」 「……そこじゃない。名前」 「え?」 「あんた、名前は」  彼女は、驚いたような顔をしてから、すぐに微笑んだ。 「茜。一条茜です」  そういって、先ほどから隆二が眺めている空の色を名前に持った彼女は、微笑んだ。  それが、一条茜との出会いだった。 「茜」  土手から移された小さな診療所。そこで、初老の医師が渋い顔をして呟いた。 「拾うのは頼むから猫だけにしておいてくれ」 「俺は猫以下かよ」  診療台の上でぐるぐると巻かれた包帯を気にしながら、隆二はつまらなさそうに呟いた。 「そんなこと言われても……。放っておけないじゃないですか」 「いや、確かに人助けは英断で尊いことだが、しかし」 「人助け、ね」  思わず鼻で笑いながらそう言うと、 「何が面白いんだ、お前は」  先生とやらに睨まれた。 「いや、別に。すごいな、あんた」 「おい、」  先生が苛立ったように隆二の胸倉を掴む。歳の割に力強いなぁ、なんて思いながらそれを目を細めて見つめた。 「先生!」  茜の悲鳴を無視して、先生は吐き出すように低く呟いた。 「お前は、一体、何なんだ?」 「俺が一番知りたいね」  誰か教えてくれないだろうか。それは隆二としてみれば真摯な答えだったのだが、おちょくられたと感じたのだろう。先生は顔をゆがめると、隆二を診察台にたたきつけるようにして手を離す。 「先生! 怪我人に対してそれは……」  茜が先生と隆二の間に割って入る。  ああ、純粋で腹が立つ。 「ぴーぴー騒いでんじゃねえよ」  隆二の言葉に振り返った彼女は、裏切られたとでもいうような顔をしていた。せっかく助けてあげたのに? 「放っておけばこんな怪我治る」 「治るわけないでしょう!」 「耳元で騒ぐな、ガキが」  虫を払うように右手を振ると、 「一度しか言わないからちゃんと聞けよ? 俺は人間じゃない。よって死なない。怪我しても放っておけば治る」  早口で言い放った。茜があまりに間抜けな顔をしているので、皮肉っぽく唇をゆがむ。育ちのよさそうなお嬢様には、わからなかっただろうか。 「もう少し端的に言うならば、化け物ということだ」  先生が舌打ちするのが聞こえた。 「とんだ拾いものだな、茜」  茜が未だにぽかんと口を開けたままなので、仕方なしに溜息をつきながら、隆二は右手に巻かれていた包帯をはずした。赤く染まったガーゼがひらりと床に落ちる。その下にあるはずの、さっきまで血を流していた傷口は、綺麗さっぱりなくなっている。 「わかったろう?」  隆二は体を起こし、茜の目を覗き込むと、聞き分けのない子どもに聞かせるような口調で呟いた。 「放っておけば、治るんだ」 「普通の」  先生が口を開き、茜がそちらに視線を向けた。 「普通の人間だったら、死んでいてもおかしくない傷で、出血量だった」  先生がぼそりと呟く。 「そりゃぁ、驚くよな、先生。前に見つかった医者は、悲鳴をあげて卒倒したぜ?」  思い出して、けらけらと笑う。空しくなってすぐにやめたけど。 「驚いたろ、嬢ちゃん。悪いな。先生も」  言いながら、足の包帯を外す。その包帯も、既に用をなしてなかった。 「先生が怖がらずに、適切に処置してくれたおかげで治りが早い。感謝する。二、三日は動けないと思っていたが、これならば明日にはなんとかなるだろう」  きちんと正座し、頭を下げる。 「一晩でいい、泊めてほしい」  そして、ゆっくりと顔を上げると、肩をすくめて唇をゆがめた。 「勿論、こんな化け物にいつまでもいられては困るというならば、追い出してくれて構わないが」  先生が一歩踏み出した。茜の頭を撫でるようにして、少し後ろにおす。 「この子に聞いてくれ。あんたを助けたのはこの子だ」  そういいながらも先生はもう一歩、茜と隆二の間に体をさしこんだ。庇うように。 「そうだな、嬢ちゃんに聞いてみないとな」  そういって唇の片端だけをあげる。どうせ嫌がられるだろうけれども。そう思っていると、 「……茜」  少しの躊躇いのあと、彼女はそう言った。 「私の名前は、嬢ちゃんではなく、茜、です。あなたのお名前は?」  茜は少し震えながらも、一歩前に出て来た。先生が一歩横にずれた。 「……神山隆二」  少し躊躇ったあと、答えた。 「神山さん、ですね」  茜がにっこりと笑う。どこか強張った顔で、それでもは出来るだけ笑おうとしているのが伝わってくる。剛胆なのか、繊細なのか。 「此処をでて、何処か行くところがあるんですか?」 「居場所なんてどこにだって……」 「もし、ないのでしたら」  言葉は遮られ、早口で被せられた。 「しばらくうちで暮らしませんか? 部屋なら余っていますから」 「……はい?」  今度はこちらがぽかんと間抜けな顔をする羽目になった。この娘は何を言っているのか。  先生が小さく、 「茜」  と呟いた。しかし、それは嗜めるというよりも、諦めに似た感じだった。諦めるなよ。  なんだっていうんだ、どいつもこいつも。 「あんた、俺が怖くないのか?」  眉間に皺を寄せて問いかけても、茜はただ笑うだけだった。  沈黙。  茜は小さく微笑んでいた。その斜め後ろで先生が隆二を睨んでいる。隆二は眉根を寄せたまま、それを見ていた。  ふぅっと誰かが息を吐く音が、やけに大きく響く。 「……あんた、馬鹿か?」  それを合図に、半ば吐き棄てるように言った。 「俺の話を聞いていたか? 俺は人間じゃなくて、化け物だ。こんな大怪我を負ってもいきている。そんな人間を傍に置いておくことが、どんなことかわかっているのか?」 「貴方がもしも悪い人なのでしたら、私も先生も殺しているんじゃありませんか?」 「あんた、顔に似合わず、えぐいな」  先ほどとは違う意味合いで、渋い顔をする。 「確かに、正体がばれたら困るんだよ。迫害されるならまだしも、見世物小屋を呼ばれた日にはどうしたらいいものかと」  面倒なことになりかけたことを思い出す。逃げ出せてよかったが。 「だけど、まぁ、あんたたちはそんなことしないだろうし。別に、されてもいいけど」  肩をすくめる。 「正体がばれたからって、ほいほい殺してたらまずいんだよ。変死体が見つかったり、行方不明者がでたりしたら、そっちの方があいつらに見つかるかもしれない」 「あいつら?」  苦々しく吐き出された言葉に、小さく問い返される。  余計なことを口走った。舌打ちすると、 「関係ない」  それだけ吐き棄てた。 「そんなこと言って、怪我が治るまで油断させてるだけじゃないか?」  茜の後ろで先生が呟いた。茜が振り返って先生を睨む。 「そう思うなら、俺を放り出せばいいだろう? わざわざ戻ってきてまで殺すような、酔狂な人間じゃないさ」  そこまで言っておかしな表現をしたことに気づく。 「ああ、人間じゃないけど」  付け足して笑った。 「神山さんは、」  隆二の表情に一瞬眉をあげたものの、茜が微笑みながら尋ねてくる。 「どうして、怪我をなさったのですか?」  言われた瞬間、動きが止まった。目を見開いて茜を凝視する。この小娘、何を訊いてきた? 嫌なこと言いやがって。 「痛いところをつかれた、って顔だな。人でも殺したか?」 「先生。私に任せてくださったのではないのですか?」  茜が咎めるようにそう言った。先生は驚をつかれたような顔をして、それから渋々と、 「まぁ、そうだが」  それだけ言う。  隆二は、それをほんの少し意外に思いながら見ていた。意外とこの小娘は、強いのかもしれない、芯が。 「どうなさったんですか?」  芯の強い小娘は、隆二に向き直ると微笑んだ。その話はもう忘れてくれてよかったのに。  それでも黙っている訳にはいかなくて、我ながらひどく不愉快そうな顔をして、 「笑うなよ」  と、一言前置きをした。  茜が小首を傾げる。 「車に轢かれそうになったがきを助けるつもりが、失敗した」 「……はい?」  全く、想定していなかった答えだ、と言わんばかりに、茜は傾げいてた首を、更に傾けた。  先生も茜と同じような顔をしている。 「貴方は」  しばらくの間のあと、ようやく事態を理解したらしい茜が、傾げていた首を元に戻し、笑んだ。 「優しい方ですね」 「格好悪いだろう」 「何がです? 人助けは立派な……」 「人の何十倍もの身体能力を持っているくせに、車なんぞに轢かれて」  くすり、と茜が笑った。 「笑うなと言っただろうが」  舌打ちした。だから言いたくなかったんだ。 「ふ、」  何か、空気が漏れるような音がして、 「あはははは」  一拍置いて、先生が豪快に笑い出した。 「……てめぇもかよ」  耐えられなくなって二人から視線を逸らす。 「おま、それ、」 「先生、何が言いたいのか解りかねます」  先生は言葉にするのを諦めたらしく、思う存分大笑いしてから、はぁっと深呼吸も含めた呼吸をする。 「気に入った」  息を整え、開口一番にそういう。ぽん、っとひざをはたいた。 「実はな、さっき小僧が来たんだよ。車に轢かれそうになった、ってな」  ちょっと待て、何を言っている? 慌てて隆二は視線を先生に戻す。 「怪我はないのか? と尋ねたら、僕はないという。だが、知らない男の人が大怪我していた、と」  なるほど、そういうことか。片膝を立て、そこに頬杖をついた。とんだ狸だ。 「頭から血をだらだら流しながら、涼しい顔で大丈夫か? なんて聞いてきたとかいうから、半信半疑でな。丁度、その子の親が通りかかったらその子を返して、でもとりあえず、どうにかしなくてはな、と思ったときに、茜がやってきた」 「ちょっと待って、それじゃあ、先生、最初から知っていらっしゃったのですか?」 「この小僧が」 「いや、爺さんよりは長生きしてるぜ、俺」 「その割には人間が出来ていない、青二才じゃないか」  青二才呼ばわりしやがって。小さく舌打ちする。 「この、神山隆二と名乗るやつが、もしかしたら助けてくれた男なのかもしれない、とは思ったな」 「でしたら、なんであんな侮辱するようなことを!」 「だがな、治療しようとして、生き物として何かがおかしいことはわかった。何を考えているかわからない。助けたのとは別の男かもしれない。助けたのにはなにか策略があったのかもしれない。疑いだしたらきりがない。とりあえず、かまをかけてみた」  そういって豪快に笑う。 「呆れた……」  茜が悔しそうに少しだけ唇を尖らせた。 「とんだ狸爺だな、あんた」  先生は何も言わずに、一度にかっと笑った。 「まぁ、面白そうだし、茜に害を加えないのならば」 「だから、加えないって」 「今日だけといわず、暫くいていいぞ。面白そうだから」 「一言余計だな」  ため息をつく。なんでこう、変人なんだ、こいつら。化け物だからってひかないどころが、受け入れるなんて。期待、してしまうじゃないか。 「まぁ、あれだな。俺が助けたがきが少しでも俺のことを気にしていてくれたのは、少しばかり有難いな。助けたのに礼儀のなっていないがきだと思ったから」  なんとなく、救われた気分になる。  さっきからなにを考えているんだろう。救いなんて、きっともうないんだ。人間じゃないんだから。  思いを断ち切るために、思考を強引に別の方向へ持って行く。 「こんな小さな村に車が走っていることが、俺には不思議だがな」  見かけることは多くなったものの、もっと都会で見かけるものな気がしていた。 「あの」  おそるおそるといった風にかけられた声に首を傾げる。 「その、車は、真っ黒なものでしたか?」 「ん? ああ、洒落た服着た爺さんが運転してた」 「神山さん、それ、私の身内です。ご迷惑をおかけして、申し訳ありません」  茜が深々と頭を下げる。予想外の態度に少しだけたじろいだ。 「いや、別にいいんだが……。ひょっとして、あんたいいとこのお嬢様ってやつか?」  育ちは良さそうな気がしていたが、もっと上流階級か。でも上流階級のお嬢様が、なんだってあんなところを一人で散歩してたんだ? 「お嬢様じゃありません、茜ですっ」  少し荒げられた声に、ちょっと驚いた。 「……私はただのこの村に住む娘です。それだけ、です」  茜は落ち着いた声で言い直す。 「ふーん」  納得しかねるな、と思わず呟いた。 「お互い様でしょうに。貴方も」 「隆二」  にやり、と笑う。そちらがそのつもりならば、こちらだってそれに習おう。 「人には名前を訂正させておいて、自分は貴方呼ばわりか? 茜」 「……隆二も、全てを話したわけではないでしょう?」  意外にも彼女の方も呼び捨てにしてきた。なるほど、ただのお嬢様ではないようだ。 「手の内を明かすのならば、お先にどうぞ?」  茜が上品に小首を傾げる。はん、と隆二は鼻で笑った。先生が唇を歪める。  なんだ、化け物を受け入れるそちら側もわけありか。ただの傷の舐めあいか。お互いがお互いの秘密を暴き合おうとして、牽制し合っているなんて。これだけ歪んだ関係なら、安心してここにいることが出来る。少しは、落ち着いて暮らせそうだ。 「これからよろしく、茜」  挑むようにして見つめながら笑うと、 「ええ、こちらこそ、隆二」  同じような顔をして茜も笑った。 「……おまえらちょっとおかしいだろ」  先生が小さくぼやいた。  人間としての生活なんて、期待していないかった。この時は。  一条茜は、小さな民家に一人で住んでいた。小さなと言っても、一人で住むには広過ぎる。なるほど、部屋が余っているわけだ。  こんなところで若い娘が一人暮らしだなんて、ますますわけありのようだ。 「ここ、どうぞ」  何もない一室に案内させる。 「どーも」 「お食事は普通に摂られますか?」 「食べなくても死なないから気にしなくていい」 「……食べることは出来るわけですよね?」 「それはまあ」 「そう」  茜は一瞬視線をさまよわせてから、隆二に戻すと小さく微笑んだ。 「じゃあ、作るんで一緒に食べましょう。たいしたものは、出来ないけれども」 「……なんでその結論になるかねぇ」 「一人の食事は寂しいから」  当たり前のように言い切ると、待っていてと告げて茜はその場を立ち去った。 「……寂しい、ねぇ」  なんとなく呟くと、小さなその部屋に倒れ込む。意地でここまで歩いてきたが、やはりまだしんどい。  目を閉じる。せいぜいのんびりさせてもらうさ。  そこから始まった茜との同居生活は、規則正しいものだった。  毎朝決まった時間に起こされ、食事をとり、掃除を手伝わされ、散歩に連れて行かれ、野良猫に餌をやり、週に何度か先生のところに顔を出す。これの繰り返し。  茜は臆すること無く、隆二を自分の規則正しい生活の輪の中に組み込んでいった。化け物相手なのに。  そんな規則正しい生活も久しぶりだったので最初は楽しかったが、あまりにも単調な生活に一週間で飽きた。一人で不規則な生活をしていたときも特に何か毎日楽しかったわけではないのだが、規則正しい生活はより単調さを際立たせる。 「毎日毎日同じことの繰り返して飽きない?」  ある日、連れ出された散歩の途中、隆二が行き倒れていたあの土手で茜に尋ねた。茜は心底不思議そうな顔をしながら隆二を見上げ、 「どうして? 同じ日なんて一度もないじゃない」  心底不思議そうに答えた。 「……あー、そう」  その答えがなんだかむずがゆくて、隆二は適当に返事をすると頭を掻いた。  訳ありのようだが、心根は素直な娘だと思った。衣食住を提供してくれる変な小娘に、本格的に興味がわきだしたのはきっとこの頃。  でもそのときは、ここまでにしておこうと、そう思っていた。深入りしない方がいい、と冷静に思っていた。もう少ししたらここから出て行こう。同じところにずっといるべきではない。愛着を持つべきではない。  でも、もう少し。もう少し暖かくなるまではここで過ごしてもいいかなぁ。あの時助けた少年をはじめとする子ども達に、明日遊ぶって約束してしまったし、少なくとも明日まではここにいよう。そんな甘えでずるずると、規則正しい生活を送っていた。  よくも悪くも、この生活を変えたのは、二人の死神の存在だった。  いつもどおりの散歩道、件の土手に現れたのが一人目の死神だった。視線の先にその姿を見つけて、隆二は思わず足を止めた。 「どうしたの?」  数歩先で、茜が不思議そうな顔をして振り返る。  赤い着物、長い黒い髪を束ねることなく、風になびかせている。見たことがある。逃げ出そうとしたあの時、最後まで阻止しようと尽力を尽くしていた少女だ。ああ、もう、少女ではないのかもしれない。そんなことはどうでもいい。逃げなくちゃ逃げなくちゃ逃げなくちゃ。  ぐちゃぐちゃになった思考回路から、慌てて今すべきことを引っ張り出す。 「隆二? ねぇ、本当にどうしたの? 真っ青だけど」  茜が心配そうに眉をひそめて近づいてくる。それに合わせるように、二、三歩後ずさる。 「……隆二?」  茜が少し傷ついたような顔をした。 「違う、そうじゃなくて」  思わず言い訳がこぼれ落ちる。茜を避けようとしたわけじゃなくて。言い訳なんてしてどうする。もうここには居られない。逃げなくちゃ。 「だけどごめん」  世話になったのに。いきなりこんな風に消えようとして。早口で言い切ると、きびすを返す。 「隆二っ」  茜の慌てたような声が背中にかかり、 「U078」  遠くから、だけどはっきりと聞こえた声に足が止まった。 「逃げても無駄ですよ」  冷たい声。足が縛り付けられる。動けない。 「……ゆうぜろななはち?」  茜が小さく呟く。  ああ、茜はそれを口にしないでくれ。せめてただの、ただの化け物だと思っていてくれ。 「U078?」  たしなめるような声色で呼ばれて、ゆっくりと振り返る。  心配そうな顔をした茜の後ろに、死神がたっていた。 「ごきげんよう。ご無沙汰ですね。随分と楽しそうな暮らしをしていらっしゃるようで」  死神は淡々と、顔色一つ変えず続ける。嫌味のような言葉だが、恐らくただ事実を評価しただけだろう。この死神が、嫌味なんてそんな人間味のあふれることを言うわけがない。  死神と隆二の顔を見比べ、茜は少し隆二に近づいた。そしてそっと隆二の右手をとる。慈しむように手を握られる。思わず、それに縋り付くように力をいれた。  死神はその光景を見ても顔色を変えることはなく、 「勘違いしないでください。貴方を連れ戻しにきたわけじゃありません」 「え?」  少し、高い声が出る。もしかして、もう許してくれるのか。もう諦めてくれるのか。もう飼われることはないのか。  一瞬浮かんだそんな希望は、あっさりと斬り捨てられた。 「私たちはもう貴方達を兵器としては必要とはしていません。そこで選んでいただきたい。ここで、証拠隠滅のためにおとなしく消え去るか、または必要に応じて我々の力になるかを」  死神が告げる。 「……必要と、していない」  小さく呟くと、死神が頷いた。  ああそうか、もう兵器としてもお払い箱なのか。それでも、化け物としては利用価値があるから、利用出来るならば残しておこう? 「……消滅か、隷属か」  かすれた声が漏れる。  また、隷属? 逃げて来たのに? また? 「……もう、疲れた」  思わず口からこぼれ落ちた言葉に、自分自身で驚いた。ああ、そうか。もう疲れたのか、自分は。化け物として今後も生きていくことに。それならば、もう、ここで終わらせてもらった方が楽なのかもしれない。だって自分は化け物だから。このまま一生、永遠という一生を人間との間に線をひかれて、それを踏み越えることを許されずに、失った人間としての日々を指をくわえて見ていくぐらいならば、 「俺は、もう……」 「隆二っ」  強い声で名前を呼ばれ、右手を引かれた。  はっと我にかえる。  茜がこちらを睨むようにして見ていた。 「ゆうぜろななはち? そんなもの知らない。貴方は、神山隆二よ」  力強く茜が断言する。聡い彼女は、全てはわからなくても隆二が選ぼうとしている道を察し、咎めた。 「……俺は、化け物だ」 「だからなに? もうそんなこと、今更気にしない。あなたが優しい人だってこと、知っている」  意思の強い瞳。だけど、隆二を掴んだ手は小刻みに震えている。  それを大切だなんて、思わなければよかったのに。  でも、思ってしまった。認識してしまった。この震える手を持つ少女を、神山隆二は大切だと思っている。ここでの生活を続けたいと思っている。彼女を悲しませたくないと、そう思っている。 「……わかった」  吐息と共に言葉を吐き出すと、死神に向き直る。 「あんたらの言うことを聞く。だから、ここに居させてくれ」  そう答えた。 「そうですか」  死神は頷いた。 「では、なにかあったらまた来ます。逃げても無駄ですから」  淡々とそれだけいい、すぐにその姿を消した。最後まで、表情をかえることなく。 「……いっ」  死神の姿が消えて、茜が小さく悲鳴のように言葉を漏らすと、へなへなとその場に座り込んだ。慌ててそれを支えた。 「いまのは?」 「……死神だよ」  答えながらも隆二の足からも力が抜ける。  仕方なくそのまま、二人して土手の草むらに腰を下ろした。 「死神?」 「俺にとっては」 「……そう」  怖い人ね、と小さく茜は呟いた。  右手は茜の手を握ったままだった。離すのが躊躇われ、そのままにしておく。茜から手をふり払う気配もなかった。 「……俺さ」 「うん」  川の流れを見ながら、口を開いた。 「元々は人間だったんだ」 「……え?」 「元々化け物として生まれたわけじゃなくて。もう、どれぐらい前かな……。覚えてないけど、人間として生まれて、家に金なくて、俺体弱かったし、売られた。それとも、俺、自分で行くって言ったんだっけな。親と俺、どっちが先に言い出したんだっけ。もう覚えてないや」  とりとめも無くこぼれ落ちる言葉を、茜は黙って聞いてくれた。 「売られたのが、さっきの死神がいる変な研究施設で。戦のための兵器を作るとか言って、色々な子ども集めてて。すぐにはなにもされなかったけど。だけど、そのうち実験はじめて。なにがどうなったのかわからないけど、俺は成功したんだ。成功したから、化け物になった。人より優れた身体能力と、死なない体を持った化け物になった」  隣が怖くて顔が動かせない。茜は今、どんな顔をしているのだろう。だけど、一度溢れた言葉はとめられない。 「U078は、俺の実験体としての番号で。ずっと、そうやって呼ばれてた。あそこでは。殆どの実験が失敗して、成功したのは俺を入れて四人。四人で相談して、逃げた。研究所から。怖かったから。このまま兵器として扱われることが」 「……兵器は生き物ではないから?」  隣から小さい声。 「え?」  思わず隣を見ると、茜が少し心配そうに眉をひそめて、首を傾げてこちらを見ていた。 「化け物は生き物だけど、兵器は生き物ではないから? 兵器だったことが嫌で、ずっと隠していた?」 「……ああ、そうかもしれない」  確かに、化け物だと暴露することは簡単にできたが、兵器だったことはできれば言いたくなかった。 「尊厳もなにもなく、ただ物として扱われるのが怖かったんだな。自分が消えてしまうようで」 「さっきの人、隆二を道具としてしか見てなかった」  ぐっと手に力がこめられる。 「そんな人には、隆二は渡さない」  思いがけない言葉に、間抜けにも口をあけて茜を見つめる。今、なんと言った? 「逃げて、ここまで来たの?」  そんな隆二に気づくことなく、茜が問いかけてくる。 「あ、ああ」 「そう。……ならずっとここにいればいい」  まっすぐに茜が目を見てくる。 「隆二がなんだって関係ない。人間でも化け物でも兵器でも、隆二は隆二だから」  意思の強い瞳に見つめられて、 「……うん、ありがとう」  素直に小さく隆二は頷いた。  人間として生活していくことが出来なくても、化け物としてでもここで生活できるのかもしれない。 「帰りましょう」  茜が微笑んで立ち上がる。握ったままの手を軽く引かれる。その手に掴まるようにして隆二も立ち上がった。  特に会話もないまま、帰路につく。けれども繋いだ手はそのままだった。  会話がないその空気も、悪いものではないと、寧ろ心地よいと隆二は思った。思っていた。  そして、 「茜様」  名前を呼ばれたのは、家が見えたころだった。茜が慌てたように隆二の手を離す。その手をほんの少し、名残惜しいと思った。 「どこにお出かけですか?」  黒い服を着た、老人が立っていた。どこかで見たことがある姿に隆二は眉をひそめ、 「あ、車の……」  思い当たった顔に小さく呟く。  茜に出会った時。あの時轢かれた車の運転手がこの老人だった。そういえば、茜の身内だと言っていたか。 「そちらは?」  老人が隆二を見て尋ねてくる。 「一条には、関係ありません」  震える声で茜が答える。 「茜様。仮にも一条の人間がこんなどこの馬の骨ともわからぬ人間と一緒にいるとはどういうことですか」  ゴミを見るような視線を向けられ、隆二は小さく笑う。 「何がおかしいのです?」 「何もおかしくない」  咎めるような老人の言葉に、笑ったまま答えた。 「俺がどこの馬の骨ともわからないのも、ゴミみたいなのも事実だから。それをわざわざ指摘することに、おかしなところは何もない」  ただ露骨な敵意を向けられることが、おかしかっただけだ。先ほどの死神に比べれば、何も怖くないし不愉快になることもない。寧ろ、かわいいとさえ、思う。 「隆二っ」  だけれども茜は違うようだった。蒼白の顔で悲鳴のように隆二の名前を呼ぶ。 「……すまん」  必死の顔に、思わず謝る。遊んで悪かった。 「一条に、迷惑がかかることをしたつもりは、ありません。第一、葵がいるならば、私は要らないはずです」  真っ白な手を握りしめて茜が答える。老人は軽く眉をあげ、 「立場はわかっていると、そうおっしゃるのですね?」 「……はい」  小さな声で茜が頷く。 「結構」  老人は満足そうに頷いた。 「くれぐれも、一条家の名を汚さぬように」  駄目押しのようにそう告げると、老人は立ち去った。 「……なんだ、あれ」  隆二が小さく呟く。  茜が崩れ落ちるように座り込んだ。 「茜っ」  慌てて近寄ると、 「隆二っ」  すがりつくように両手を掴まれる。 「あれが、あれが私の死神なの。……私が黙っていたこと、聞いてくれる?」  先ほどよりも白い顔で、震える声で、濡れた瞳で問われた言葉に、 「……ああ」  ゆっくり頷いた。お互いがお互いの死神にここで出くわすとは、思わなかった。 「私には、姉が居るの」  家に入り、腰を下ろすと茜がゆっくりと切り出した。 「同い年の」 「血のつながらない? ……いや、双子か?」 「そう、双子。葵って、言うの」  小さく頷く。 「一条は、昔から続く名家で、家柄をとても大事にしていて。だから、双子が生まれたなんてこと、外聞を大事にする一条にはあってはならないことだった」 「……ああ、双子は悪魔の子、とか言われる風習が?」  まったく同じ顔の人間が二人いること、一つの腹から一度に二人生まれること、そう言ったことから双子が忌まわしいものとされることがあると聞く。 「そう。……さすがに、知っているんだね」  弱々しい笑い方をする茜に、何故だか少し苛立ちを感じる。 「だから私は、生まれなかったことにされるはずだったの。……殺されるはずだった」  茜は仕方ないよね、と笑う。唇だけで。 「だけど、一条は代々体の弱い者が生まれることが多くて。私や葵も例外じゃなくて。だから私は、今日までここで、一条から離されたところで生かされている」  泣きそうな目をしているくせに、小さく微笑む。何故だろう。苛々する。 「葵に何かがあったときに、すぐに代われるように。……さっきの人は、一条の補佐を代々している人で、だからだいぶ失礼なことを」 「笑うな」  耐えられなくなって、言葉を遮った。驚いたような顔を一瞬したものの、直ぐに茜は小さく笑う。 「どうしたの?」 「笑うな」  その手をひく。よろけて体勢を崩した茜の頭を両腕で抱え込んだ。 「隆二っ」  慌てたような声がする。 「なんで、泣きそうな顔をしてる癖に笑うんだよ。なんだかとても、腹が立つ」  頭を抱えたまま、低い声で言う。ばたばた慌てたように手を動かしていた茜は、その言葉にぴたりと動きを止めた。 「向こうの都合で勝手に振り回されてるんだろ。怒ってもいいし、泣いてもいいし、それが普通だろ。わかったような顔をして、笑わなくてもいいだろうが」  気づいたら話している自分の声が震えていた。ああ、今自分は、彼女に自分を重ねあわせている。昔の自分にかけたい言葉をかけている。  だからこそ、 「笑わなくて、いいから」  だからこそ、彼女がとても愛おしい。  黙っていた茜が額を隆二に押し付けるようにし、腕をそっと背中にまわした。 「……ありがとう」  小さく聞こえてきた声は、水分を含むものだった。 「ん」  急に照れくさくなって小さく頷いた。照れくさくなったけれども、この手を離すつもりはなかった。  二人の関係が変わったのだとしたら、この日がきっかけだったのだろう。この日を境に、隆二の中でこの家から出て行くという選択肢が消えた。ふれあうことに躊躇いがなくなり、かける言葉に暖かみが増した。  今思い出しても、この時が一番幸せだった時間だ。二人でのんびりと暮らす。ただ、それだけがとても幸せだった時間。  だけど、それが永遠に続くわけではなかったし、そんなこと心のどこかではわかっていた。気づかされたきっかけは、なんでもない一日に紛れていた。  その日も、いつもの規則正しい生活を送っていた。認識してしまうと恥ずかしいことだが、隆二も今やその何気ない規則正しい毎日を楽しいと思っていた。同じように見えて違う。はっきり言ってしまうと、毎日茜の言うことややることは違っていて、それを見ているのがとても楽しかった。  だからその日も、いつもとは違う部分があった。同じではなかった。 「りゅーじにーちゃん、あーそーぼー」  土手を散歩中、子ども達に声をかけられた。 「ああ、太郎たちか」  最初隆二が助けたその少年は、今ではすっかり懐いていた。とはいえ隆二の返答は、 「やだよ」 「ええっ、ケチー」 「ちょっとぐらい、いいじゃない」  呆れたように茜がなだめる。ここまでがいつもお決まりの会話だった。 「仕方ないなー、ちょっとだけだぞ」  とか言いながら、缶蹴りに参加する隆二が、気づいたら大人げなく熱中しているのも、いつものことだった。茜はいつもそれを少し離れたところに座り、微笑んで眺めていた。  ここまではいつものこと。  違うのは、遊んでいる最中に聞こえた小さな小さなうめき声と、何かの倒れるような音。  嫌な予感がして振り返る。 「っ、茜!」  胸の辺りをおさえて、茜が身を丸めていた。  慌てて駆け寄り、体を支える。苦しそうに歪められた顔。子ども達もそれに気づくと集まって来た。 「発作だ」  と言ったのは、どの子どもだったか。 「発作?」 「茜ねーちゃん、心臓弱いって先生が」 「薬は? 持ってないの?」  茜の右手には小さな箱が握られていた。 「飲んだ、から、へいき」  小さなかすれるような声。どこが平気だと言うのか。  一条家は体が弱くて、葵も茜も。だから、先生のところに定期的に通っているのは、ただの世間話ではなかったのか。そもそも最初から主治医と言っていたじゃないか。今更ながらにそんなことに気づいた。自分の迂闊さを呪う。  真っ白い顔。 「少し、我慢しろ」  その頬を軽く撫で、そっと抱え上げた。 「隆二兄ちゃん、どうするの?」 「先生んとこ」  端的に答えると、持ち前の人並みはずれた身体能力で、あっという間に土手からその姿を消した。 「……はえー」  残された子どもが、小さく呟いた。  こんなに目立つことをして、化け物だということがバレて、村から居られなくなるんじゃないか。いつもなら思うことも、そのときは思わなかった。それどころじゃなかった。茜が茜を茜の。茜のことが心配だった。どうにかして助けて欲しかった。  一人、残されたくなかった。 「もう大丈夫」  だから、茜の主治医である先生がそう告げた時、みっともなくも膝から崩れ落ちた。 「おおい、不死者の手当はしないぞー」  のんびりと言われる。その口調に、本当にもう大丈夫なのだと思えた。  眠っている茜は、顔色は戻っていないものの、その表情は穏やかだった。 「ありがとう、ございます」  頭を下げると、先生は少し嫌そうな顔をした。 「お前にそういう態度とられると気持ち悪くてかなわんな」  軽口を叩かれても顔をなかなかあげられない。それほどまでに、感謝している。 「……隆二」  優しく名前を呼ばれて、ゆっくりと顔をあげると、 「そう、情けない顔をするな」  呆れたように言われた。 「あんなに血相を変えて現れて。お前さんの方が倒れるんじゃないかと思った、今もな」 「だって」  抗議の声も、弱くなる。 「俺じゃどうにもできないから」  先生に頼るしかない、と思った。 「それはこっちも一緒さ」  どこか余所を見ながら先生が呟く。 「根本的な治療はできない。ただの、対処療法だ」 「……うん」  その言葉が意味することを受け取り、隆二は小さく頷いた。完治は出来ない。またいつ、発作が起きるかわからない。 「最近は落ち着いていたんだがな」  それはつまり、いつ、彼女が、 「……どれぐらい?」 「わからんなぁ。でも、正直、ここまで保っているのは奇蹟なんじゃないかと、思うことがある」 「……そうなんだ」  それはつまり、いつ、彼女がいなくなってもおかしくないということ。今すぐにでも、彼女がいなくなってしまうかもしれない。 「そうなんだ」  震える指先に気づき、反対の手で隠すようにした。 「出来る限りのことはする。隆二」  先生がこちらを向いて微笑んだ。 「今のは聞かなかったことにして、普通に接してやって欲しい」  そんな無茶なことを! そう叫ぶ心を押し殺して、小さく頷いた。隠し通す自信はなかったが、だからといって茜になんて言えば良いのかもわからなかった。  だから、 「……隆二?」  目を覚ました茜にかけた言葉は、 「ああ、おはよう」  できるだけいつもどおりを意識した、淡々とした挨拶だった。本当は、大丈夫か、心配した、と縋り付きたい気持ちだったけれども。 「……うん」  茜は一瞬の間を置いて、頷いた。 「先生のとこ。今日はもう遅いから泊まっていけって」  いつものようにぶっきらぼうに言う。いつものように。だけど、 「隆二が連れて来てくれたのよね? ありがとう」  優しく微笑まれる。 「びっくりしたよね。ごめんね」  彼女があまりにもいつもどおりに笑うから、 「茜」  耐えられなくなった。やっぱり耐えられなかった。いつもどおりなんて、できなかった。  茜の横に跪き、その手を握る。握ったその手を祈るように額につける。 「隆二?」 「おいていかないでくれ」  子どものように、必死にその手に縋りつく。 「頼むから。もうこれ以上、一人にしないでくれ」  先生との約束を破ったことになってしまうことはわかっていた。茜が困ることもわかっていた。けれども、言わずにはいられなかった。さっきまで感じていた、茜を失うかもしれないという恐怖から脱却なんてできなかった。そいつはまだ、隆二の足を引っ張っている。引きずり込もうとしている。地獄へと。 「茜がいないと、無理だ」  声が震える。一度望んでしまったから、一度手に入れてしまったから、もう失うことを考えたくなかった。怖かった。今、茜がいなくなって、そしたらその先に待っているのは、地獄だ。 「……うん、心配させて、ごめんね」  握ったのと反対側の手で、茜がそっと隆二の頭を撫でた。 「ごめんね隆二、ありがとう」  そっと頭を撫でられる感触。子どもの時のような。 「違う、――」 「え?」 「俺の名前、人間のときの。――っていうんだ」  もう二度と、口にするつもりのない名前だった。捨てたつもりの名前だった。それでも、 「茜にだけは、覚えていて欲しい」  その名前で呼ばれる時、自分は人間だったから。 「ん。――」  久しぶりに聞いた、自分の名前はなんだかとても懐かしくて、泣きそうになった。 「一緒にいてくれ」 「一緒にいるよ」  ここにいるよ、と囁かれた。この手を絶対に離してはならないと、自分に課した。  その後は表面上、何事も無く過ごした。ただ少し、前よりも隆二が茜の体調を心配して、口うるさくなったぐらいで。周りの隆二を見る目が一瞬、奇異なものを見る目になったぐらいで。  だけど、時は止まらない。茜の時は止まらない。隆二ひとりを残したまま、世界の時間は進む。  耐えられなくなった。  それは、本当に、ある日突然来た。  自分がここにきて、どれぐらいの月日が経っただろう? あの小さな子どもだった太郎も、今ではもう缶蹴りで遊んだりしない。  いつのころからか、茜は月日がわかるものを全て家の中から撤去した。そんなものない、とでも言いたげに。それは彼女の優しさだったのだろう。けれども、不明だということが、余計隆二の焦燥感を煽った。  今はいつで、ここにきてからどれぐらい経って、茜は今いくつで。あと、どれだけの時間が残されているのだろう?  永遠なんてないのは知っている。いずれ茜はいなくなる。それまであと、どれだけ残されているのだろう。  おいていかれる恐怖に耐えられなくなった。このままここにいたら、自分はどうなってしまうのだろう。  だから、逃げた。逃げたのだ。  少し行きたいところがある。外の世界を見て来たい。大丈夫、少し旅行するだけだから。  そんな風に告げた自分の言葉の裏の意味を、茜がわかっていなかったとは思えない。もう二度と、戻ってくるつもりがないことを彼女は察していたのだろう。もしかしたら、聡い彼女のことだ。もっと以前に覚悟を決めていたのかもしれない。 「人は簡単に『もの』になってしまう。だから貴方は、誰も殺さないと、自分も殺されないと約束をして」  茜はその時、幾つかのことを隆二に約束させた。 「決して生きた屍にならないで。貴方は生きていて。どんなにめちゃくちゃでもかっこわるくても構わないから、生きていて」  今生の別れのような約束。茜からのお願い。 「それから、」  茜はそこで、微笑んだ。 「私は此処で待っています。ずっとずっと。だから」  茜はよそを向いていた隆二の頬を両手で挟むと、無理矢理自分の方を向かせる。体勢を崩し、片手を畳の上についた。 「だから、絶対に帰ってきなさい。いつになっても構わないから」  告げられた言葉に返す言葉がない。何を言っていいのかわからない。 「……約束ぐらい、しなさいよ」  かすれたような声で言われて、申し訳ない気持ちになる。勝手に振り回されたのだ、怒ってもいいし、泣いてもいい。そんな風に言った自分が、今彼女を振り回している。感情を制御させてしまっている。  「……ああ」  小さく呟くと、茜はそっと隆二の額に唇でふれた。 「約束、だからね」  そのまま、頭をそっと抱え込まれた。抵抗はしなかった。出来なかった。 「……ああ」 「帰って、きなさいよ。待っているから」 「……ああ」 「本当に、わかっているの?」 「……わかっては、いる」  約束はできないけれども、わかってはいる。その言葉に、茜は特に何も言わなかった。意味がわからなかったわけ、ないだろうに。 「……ずっとずっと、待っているからね。ねぇ、――」  そうして、彼女だけには教えた隆二の本当の名前を呼んだ。茜がその名で呼ぶのは、あの時以来だった。最初の時以来だった。  ああ、そうか。これは本当に最後の挨拶なんだ。 「待っているから……」  茜の家を出て、そこから一目散に走って逃げた。はやくどこか遠いところに行きたかった。ずっとずっと走って逃げて、かなり離れたところに行き、そこでしばらく一人で暮らした。一人きりの空虚な生活だった。  一度、心が落ちついた時があった。帰ろうと、思ったことがあった。少し情けない顔をして帰ったら、茜は仕方ないわねと笑って受け入れてくれる、そんな気がした。  離れてわかった。自分が如何に酷いことをしたのかを。茜の心を傷つけたのかを。自分にはやはり茜が必要だと。彼女を看取ることは、きっと心臓を抉られるような思いがすることだろうけれども、自分の知らないところで彼女がいなくなるよりずっといい。そんなことになったら自分はきっと、悔やんでも悔やみきれないぐらい後悔する。少し離れたことで、そう、思えるようになった。  だから、帰ろう。  そうしてまた、あの村に戻った隆二を待っていたのは、 「……隆二兄ちゃん?」  少し遠くで、呟かれた言葉だった。振り返る。遠くにこちらを伺う精悍な顔つきの男が一人。右手で小さな女の子の手をひいている。その隣には、赤子を連れた女性もいた。 「太郎さん、お知り合い?」 「おとーさん?」 「ん、いや、似てるけど。もう何年も経ってるのに変わってないから別人だよね。それに」  本来なら聞こえないような会話も、超人より優れた五官を持つ隆二には届いてしまった。 「茜姉ちゃんを見捨てたあの人が、戻ってくるわけない」  そうして太郎は、小さな声で呟いた。 「一人ぼっちで死んじゃって。可哀想に」  それを聞いた瞬間、きびすを返して村から逃げた。  遅かった。遅かったのだ。  待っています。  彼女の言葉が、耳元で聞こえた気がする。 「……ごめん、茜、ごめん」  嘘をついて、帰らなくて、約束を守れなくて、一人にして。身勝手て。卑怯で。 「ごめんなさいっ」
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