第六幕 猫の毛並みを確認すると。

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第六幕 猫の毛並みを確認すると。

 ここは、どこだろう?  どこだかわからない。ただ暗い場所に隆二はいた。  視線の先、僅かな光が見える。そちらに向かって歩き出す。 「……?」  視界の先に、人影。目を凝らす。  肩より少し長い綺麗な黒髪、線の細いシルエット。見覚えのある柄の、着物。 「茜っ」  名前を呼ぶ。叫ぶ。  人影は振り返る。隆二のよく知っている笑顔を浮かべて。 「茜っ」  駆け出す。  手を伸ばす。彼女の右手を掴み、 「あかねっ」  その瞬間、彼女は白い骨となり、闇の中へと崩れ落ちた。  喉の奥で悲鳴があがる。 『りゅーじ』  背後から舌足らずな声で呼ばれて振り返る。 「マオっ」  ふわりふわりと、居候猫が浮いていた。  よかった、マオはまだ居た。 「マオ……」  手を伸ばし、マオの右手を掴もうとすると、 『大丈夫だって言ったのに、嘘つき』  淡々とマオが呟き、その姿が掻き消えた。  掴み損ねた右手。 「っ、マオっ」 「帰って来るって言ったのに、嘘つき」 『大丈夫だって言ったのに、嘘つき』 「嘘つき」 『嘘つき』  声が責め立ててくる。  姿は見えないのに声だけが。 「だからちゃんと見とけって言ったのに」  別の声がどこかで囁く。 「京介っ」  声をあげても誰の姿も見えない。 「嘘つき」 『嘘つき』 「嘘つき」  やめろ、やめてくれ。頼む……。 『隆二の、嘘つき』 「やめろっ!」  叫んだ自分の声で、目が覚めた。  跳ね起きる。  体がなんだか重い。  ああ、くそ。嫌な夢を見た。  っていうか、ここはどこだ。  辺りを見回すと、そこは知らない部屋だった。ベッドに寝かされていたらしい。  意識を失うまでのことを思い返し、 「マオっ!」  自分が何をしたのかを思い出し、慌ててベッドから出ようとする。  そうだ、彼女は、無事なのだろうか。  嘘つき、と夢の中で責め立てていた声が蘇る。  違う違う違う。あれは夢で。  いつになく重たい体を動かし、慌てて足を床につけたところで、 「りゅーじ!」  名前を呼ばれる。顔をあげる。何かがドアを蹴破るような勢いであけると、部屋に飛び込んで来た。 「隆二!」  そのままぴょんっと跳ねるようにして、隆二に抱きついてくる。  慌ててそれを支えた。 「隆二! 隆二!」  何度も名前を呼びながら、隆二の膝の上に向かいあうようにして座り、頬をすり寄せて来る。 「隆二! 隆二! ありがとう!」  顔を離して微笑んだのは、まぎれも無くマオだった。 「マオっ、大丈夫か?」  その肩をつかみ、問う。 「うん! ありがとう!」  嬉しそうにマオは頷いて、隆二の首筋に両手を回すと、頬と頬をくっつける。 「そっか、よかった」  安堵の吐息。  無事でよかった。  本当に。  彼女の髪をくしゃりと撫でる。指先に絡み付く、柔らかい髪の毛の感触。  頬に触れる柔らかい感触。  ……感触? 「マオ?」 「んー?」  名前を呼ぶと、どうしたの? とマオが頬を離し、首を傾げてくる。  その頬を両手で掴み、引っ張る。 「い、いたい……」  柔らかい。  ……柔らかい?  マオの体をじっと見る。いつもの白いワンピースだけが見える。その後ろにあるはずの、自分の足とか、床とかが見えない。  ……見えない?  そういえば、こいつ、ドアをあけて入ってこなかったか?  もう一度マオの顔に視線を移すと、ふふふ、っとマオは何かを企むかのように笑った。 「お気づきですか?」  その声は、鼓膜を通して聞こえてくる。 「……もしかして、実体化してる?」  恐る恐る問うと、マオは大きく頷いた。それから耐え切れなくなったかのように、もう一度首筋に抱きついてくる。 「もうね、超嬉しい! 隆二大好き!」 「いや、まてこれは」  説明を求めるがマオは聞く耳をもたず、 「……神山さんが精気を与えたからですよ」  代わりに声がした。いつの間に来ていたのか、ドアの横に赤いシルエット。 「嬢ちゃん……」 「エミリです。不死者の神山さんが与えた、人間で言うところの精気にあたる何かが、なんらかの形でマオさんに作用して、そうなったようです。詳しいことは、まだ調べていますが」  エミリが一つ、溜息をついた。 「まったく、とことん規格外ですね、あなた方は」  溜息と一緒に吐き出された言葉。以前マオのことをイレギュラーだと評された時は不愉快に感じた。しかし今は、規格外の言葉を不快には思わなかった。その規格外の指し示す意味は、実験体レベルで規格外ではなく、存在として規格外だと受け取れた。だから不快には思わなかった。 「……返す言葉がない」  だって、我ながら思う。予想外にも程がある、この展開は。  くすくすとマオが笑う声が、耳をくすぐる。ちゃんと聴覚器官を使って。聞き慣れた声のはずなのに、なんだか違うものに感じる。 「ここは、研究所か?」 「はい、そうです。あのあと、神山さんも気を失われたので運んできました」 「ああ、すまん」 「いえ、運んだのはわたしではありませんので。せっかく来たのですから、力仕事ぐらいはしてもらわないと、本当の役立たずですからね」  そこで一瞬、エミリの唇が皮肉っぽく歪んだ。ああ、運んだのはあの白衣達か。 「……研究バカにそんな力あったのか?」 「大の大人が三人もいるんですよ。それぐらいやってもらわないと。ひーひー言ってましたけどね」  エミリが軽く肩をすくめるから、それに少し笑う。それは少し見たかったかもしれない。 「さて、色々と今後についてなどお話したいことがあるのですが」  そこまで言って、珍しくエミリは口ごもった。  隆二にぴったり抱きついて、頬をすり寄せているマオを見る。 「……あるのですが、あとにします」  僅かに頬を赤くして、彼女は言った。 「……なんか、すまん」  幽霊だったときはなんでもなかったのだが、いざ実体化されるとこうべだべたするのが恐ろしく恥ずかしい。人前でいちゃつく若者みたいだ。俺は何をやっているんだ。 「いえ。マオさんの気持ちが落ち着いたころにまた伺いますね。とりあえず、お二人でお話もあることでしょうし」  エミリは小さく首を横に振ると、隆二をまっすぐ見つめて一言告げた。 「ご無事でなによりです」  それから隆二の返事もまたずに、部屋をあとにした。  赤が視界から消える。  ぱたり、とドアがしまった。部屋には二人だけが残される。 「マオ、離れろ、とりあえず」  エミリと話している間もひっついたままだったマオに声をかける。 「えー」  なんだか不満げな声が返って来た。 「話がしたい。隣座れ」  そう言うと、しぶしぶとマオは隆二から離れた。が、隣には座らず、なぜかベッドに倒れ込む。それからなんだか楽しそうに枕をベシベシ叩き出した。なんなの、こいつ。  例え実体化していたところで、行動は変わらず意味不明なままだ。  そんな隆二を気にすることなく、マオは、 「ねーねー、あたし、戻っちゃうのかなー。どう思う?」  枕を叩きながら問いかけてくる。 「……さあ?」  実体化していることすらも想定外なのだ。その後のことなんてわかるわけがない。 「戻っちゃうなら、それはそれでしょうがないかなーとは思うけど。でも、その前にコーヒー飲みたいな! 隆二いれてくれる?」 「ああ」 「やった、楽しみ!」  マオの浮かれた声。枕を抱きかかえ、ころんっとベッドの上を転がる。 「マオ、本当に大丈夫なのか?」 「うん! なんか変な感じだけど、平気! もうお腹も空いてないし、眠くもないよ!」  よいしょっと、と体を起こしながらマオが笑った。 「そうか」  それに安堵の吐息を漏らす。色々イレギュラーな事態だが、とりあえず彼女が今もここにいてくれることに安心する。 「消えちゃうことはないって、言われた!」 「……研究班にか?」 「ん」  そこでとまどったようにマオは頷く。 「大丈夫だったか? 調べたとか、言ってたけど」  さっきの白衣の姿を見ただけで、取り乱したマオの姿を思い出す。自分の意識がしっかりしていれば、ついていてやれたのに。悔しく思っていると、 「ん、怖かったけど。でも、エミリさんがずっとついててくれたから」  マオが意外なことを言い出した。 「嬢ちゃんが?」 「そう!」  そこでふふっと嬉しそうに微笑む。 「エミリさんがね、言ってくれたの。わたしが一緒じゃない限り、マオさんには指一本触れさせません! って。あのね」  そこで内緒話をするように声を潜める。 「嬉しかった。守ってくれたみたいで」 「そうか」  さっきも庇ってもらったしな。今度改めてお礼を言おう。覚えていたら。  あの少女は破天荒で、ファッションセンスは壊滅的だが、悪い子ではないのだ。 「りゅーじ!」  言いながらマオが背後から抱きついてくる。  いつものことといえばいつものことなのだが、実体化されると気まずいな、これ。ちゃんと感触や体温、というものがあって。  そのまま髪の毛をくしゃくしゃっとなで回される。 「マオ」  咎めるというよりも呆れて名前を呼ぶと、 「髪の毛!」  なんだか楽しそうに言われる。それは知っている。  そのまま手を下ろし、今度は隆二の頬に触れる。指先でつっつかれる。 「……お前、何がしたいの」 「触ったらどんななのかな! ってずっと思ってたの!」  テンションの高い声で返される。  それですとんっと、腑に落ちた。ああ、そうか、彼女にとって触覚というのは、初めての感覚器官なのか。  そう思ったらそれ以上強くは止められず、掴まれた指先をそのままにする。指と指を絡めるように手を繋がれる。嬉しそうに笑う。 「隆二の家の赤いソファー、あれは触ったらどんななのかな、楽しみ!」  そんなに楽しみにするようなものじゃない。もう古いものだし、傷んでいる。それでも彼女はあれに触れてみたいのだろう。 「じゃあ、帰ったら、コーヒーいれてやるから」 「うん!」 「ソファーに座って」 「テレビ見ようね!」  お決まりの台詞は満面の笑顔のマオが引き取った。 「ああ」  頷くと、その頭をくしゃりと撫でた。柔らかい髪の毛が指先に絡んだ。
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