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   突然デスクに呼ばれて、所長から一枚のチラシを渡されたのは、木曜日の朝のことだった。  「ほら。これ、お前にやるよ」  所長は無造作に、私の手元に一枚のA4サイズの紙切れを渡してきた。  森口早奈子。  27歳。  何年か前から地方のとある都市にある、小さな建築設計事務所で事務員として働いている。    物心ついたときから、色んなことを割り切って、効率的に生きてきた。  「何ですか?所長」  私は心底嫌そうな表情で、そう尋ねた。  余計なものはいらない。  私の人生は、私のもの。  鬱陶しく感じるものは、私にとって不必要なもの。 「明日から、花火大会があるらしいじゃん。お前、行ってこれば?」  所長が吸い終わったタバコの先端を、デスクの灰皿にぐりぐりと押し付けながら、いかにも適当な思い付きで言ってくる。  咄嗟に、ああ、面倒なのが始まった、と分かった。 「花火はいいぞぉ。夏だし。なんかせつなくて、きゅんきゅんするからなぁ」  私はしばらく黙って、そしてこう言った。 「行くひとがいません。だから、いいです。大体音がうるさいし、人多いし」 「お前、人と行動すんの苦手なんだろ。―――逆にいいじゃん。たまには一人で行ってみれば?」  すっかり古くなったクーラーから、冷気が吐き出される機械音が、事務所内に単調に響いている。 「一人で···って、花火大会にですか?」 「うん」 「そんな。······花火大会に一人でうろついてるのなんか、野犬かテロリストくらいなもんですよ」 「そう言うなって。三日間もあるんだぞ。たこ焼き食って、のんびりしてこい。オジサンが千円やるから。とりあえず行け。じゃなきゃクビだ」 「····えぇ?」  突然横暴なことを言い出す。  何と言って諦めさせるか、私はしばらく迷った。  こうやって、たまに所長は、思い付きでとんでもない方向に突っ走り出す。  とりあえず、私は所長のデスクの上に、さっき渡されたチラシをそっと置いた。 「意味わかんないですよ。所長に関係ないです。金曜の夜くらいゆっくりさせてください」  だけど、返したはずのチラシは、すぐズイッと私の方へ突き返されてしまった。 「おい」  こちらへ身を乗り出すような体勢になった所長は、眼鏡の隙間から、上目遣いで、探るように私を見つめる。 「別にどうせいつもすることなくて、ゆっくりしてるんだろ。花火は夏の風物詩なんだから、それくらい楽しむ余裕を持てや」  私はため息をついた。 「やりたくないことはやらない主義です」 「行け。そして写真でも取ってこい」 「····聞いてます?私の話」 「夏がお前を待ってる。スイカと花火とワンナイトラブ。それがお前のミッションだ」 「···········他に用がないなら席に戻りますけど」 「やってみりゃ、何か変わるかもしんねぇだろ。お前、そんな生きてるか死んでるか分かんない顔して」  つくづく余計なお世話だ。  私は私の見つけた道を、間違えないように、慎重に歩いていくので、精一杯なのだ。  
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