7,

1/1
前へ
/13ページ
次へ

7,

 俺の毎朝の楽しみは、彼女に会うことだった。  彼女は、平日の毎朝、かならず決まった時間のバスに乗ってやって来た。  ぎゅうぎゅうの車内で、いつも誰の邪魔にもならないように、はしっこにいる。  少し身長が小さいからつり革に届かないのか、車内の至るところにある様々な突起に上手に掴まって、体勢を安定させている。  彼女の寝顔がこの上なく可愛いことに気付いたのは、たぶんオレの人生で最も価値のある発見だった。  朝の通勤時間。  大体みんな、スマホを見ているか、寝ている。  オレはスマホ派だった。  いつものようにバスに乗り込んで、ポケットからスマホを取り出した2年前のあの日。  それは突然に訪れた。  オレは目の前に、信じられないくらい安らかな表情で、すやすやと眠る天使を発見してしまったのだ。  衝撃的だった。  こんな愛らしいものは、見たことが無かった。  オレは、スマホの画面を見るふりをしながら、こっそりその延長線上にある彼女の寝顔に、ずっとずっと馬鹿みたいに見惚れて。  永遠に見ていられた。  なんでこんな気持ちになるのか、分からなかった。  彼女が目覚めたら、気持ち悪がられるかもしれない。  ああ、でも可愛い。  どうしようもないくらい、可愛い―――。    そうして、その日、オレは生まれて初めて、降りるべきバス停を降り過ごした。  彼女のことをカイヅカさんと呼び始めたのは、彼女が乗ってくるバス停が「貝塚一丁目前」だったからだ。  そして、オレは毎朝必ず同じバスに乗るようになった。  安らかな彼女の寝顔が見える位置に陣取って、早朝のささやかな時間で、その至福の寝顔を堪能した。  こんなことがばれたら、「変態」だって言われるかもしれない。  ただ、弁解するとすれば、本当に、今までこんな風な人に言えない趣味を持ったことなんか、ただの一度もなかった。  運命が変わったのは、つい4日前。  木曜日の夜のことだ。  いつものように会社帰り、バスに乗り込んだ。  終業が遅かったせいか、いつもよりバスの乗客は少なかった。  ラッキーだな。  これは座れるかもしれない。  そんなことを考えて、何気なく後部座席のほうへステップを上がった。  そして、彼女を見つけた。  (嘘だろ·····起きてる!!!)    彼女と出逢ってから2年の間、どうしてか帰りのバスが一緒になることは、絶対に無かった。  彼女は黙ってバスの窓の向こう側を見つめている。  疲れているのか、どこか物憂げで、怠そうな表情。  それなのに、やっぱり可愛いな、と、そう、思ってしまった。  奇跡的だったのは、彼女のとなりの席があいていたことだ。  そして、それ以外の座席も、すべて片側には誰かが座っていたので、―――オレは何気ない風を装って、彼女の隣に座った。    28歳にもなって、何をやってる?  情けなさはあったが、あいにくオレは彼女の隣に座るという誘惑に勝てなかった。  そして、腰を下ろして気が付いた。  彼女の足元に置かれたバッグ。  開けっ放しのそのバックの中に、ちらりと見えたチラシ。  それは、今週末の金土日で開催される、このあたりでは有名な、大規模な花火大会の公式チラシだった。  (·······まじか)  実は、そのチラシは、オレにとってすこし特別なチラシだった。  そんなこともあって、ほんのすこしバッグからのぞいていた隅っこの部分を見ただけで、それが花火大会のチラシだと分かったのだ。    彼女はずっと横を向いたままだ。  心の中で考えずにはいられなかった。   誰と行くんだろう。  友達かな。  会社の同僚とか。  ―――――それとも、彼氏。  もやっとした感情が、胸の奥に広がる。  そんなことを考えているうちに、俺の降りるべきバス停が近付いた。  他に降りる乗客がいなかったせいで、俺は、降車ボタンを押す必要があった。  俺は、彼女に言おうとした。  すみません、それ押してもらえますか。  ――――――と。  「あ。降りますか? すみません」  オレが声をかけるより早く、彼女がオレの異変に気付いて、そう言った。  ピンポン、と降車ボタンの音が、あっけなく車内に響き渡った。  結果、オレは馬鹿みたいに腑抜けた顔で、「ありがとうございます」と言った。  彼女はにこっと笑った。  たぶん、愛想笑い。  そしてオレは一人、バス停に降りたって、その瞬間、決意した。  ――――花火大会に、行ってやる。  彼女が彼氏といちゃついてたら、一旦諦めよう。  だけどもし、友達とか、同僚とか、そんな人たちと一緒に居たら·······。  絶対に声をかけてやる。  オレはやるときはやる男だ。  なぜか、心のなかで、そんなうすら寒いセリフを呟いて、オレは静かに金曜日の夜を待った。  
/13ページ

最初のコメントを投稿しよう!

51人が本棚に入れています
本棚に追加