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7,
俺の毎朝の楽しみは、彼女に会うことだった。
彼女は、平日の毎朝、かならず決まった時間のバスに乗ってやって来た。
ぎゅうぎゅうの車内で、いつも誰の邪魔にもならないように、はしっこにいる。
少し身長が小さいからつり革に届かないのか、車内の至るところにある様々な突起に上手に掴まって、体勢を安定させている。
彼女の寝顔がこの上なく可愛いことに気付いたのは、たぶんオレの人生で最も価値のある発見だった。
朝の通勤時間。
大体みんな、スマホを見ているか、寝ている。
オレはスマホ派だった。
いつものようにバスに乗り込んで、ポケットからスマホを取り出した2年前のあの日。
それは突然に訪れた。
オレは目の前に、信じられないくらい安らかな表情で、すやすやと眠る天使を発見してしまったのだ。
衝撃的だった。
こんな愛らしいものは、見たことが無かった。
オレは、スマホの画面を見るふりをしながら、こっそりその延長線上にある彼女の寝顔に、ずっとずっと馬鹿みたいに見惚れて。
永遠に見ていられた。
なんでこんな気持ちになるのか、分からなかった。
彼女が目覚めたら、気持ち悪がられるかもしれない。
ああ、でも可愛い。
どうしようもないくらい、可愛い―――。
そうして、その日、オレは生まれて初めて、降りるべきバス停を降り過ごした。
彼女のことをカイヅカさんと呼び始めたのは、彼女が乗ってくるバス停が「貝塚一丁目前」だったからだ。
そして、オレは毎朝必ず同じバスに乗るようになった。
安らかな彼女の寝顔が見える位置に陣取って、早朝のささやかな時間で、その至福の寝顔を堪能した。
こんなことがばれたら、「変態」だって言われるかもしれない。
ただ、弁解するとすれば、本当に、今までこんな風な人に言えない趣味を持ったことなんか、ただの一度もなかった。
運命が変わったのは、つい4日前。
木曜日の夜のことだ。
いつものように会社帰り、バスに乗り込んだ。
終業が遅かったせいか、いつもよりバスの乗客は少なかった。
ラッキーだな。
これは座れるかもしれない。
そんなことを考えて、何気なく後部座席のほうへステップを上がった。
そして、彼女を見つけた。
(嘘だろ·····起きてる!!!)
彼女と出逢ってから2年の間、どうしてか帰りのバスが一緒になることは、絶対に無かった。
彼女は黙ってバスの窓の向こう側を見つめている。
疲れているのか、どこか物憂げで、怠そうな表情。
それなのに、やっぱり可愛いな、と、そう、思ってしまった。
奇跡的だったのは、彼女のとなりの席があいていたことだ。
そして、それ以外の座席も、すべて片側には誰かが座っていたので、―――オレは何気ない風を装って、彼女の隣に座った。
28歳にもなって、何をやってる?
情けなさはあったが、あいにくオレは彼女の隣に座るという誘惑に勝てなかった。
そして、腰を下ろして気が付いた。
彼女の足元に置かれたバッグ。
開けっ放しのそのバックの中に、ちらりと見えたチラシ。
それは、今週末の金土日で開催される、このあたりでは有名な、大規模な花火大会の公式チラシだった。
(·······まじか)
実は、そのチラシは、オレにとってすこし特別なチラシだった。
そんなこともあって、ほんのすこしバッグからのぞいていた隅っこの部分を見ただけで、それが花火大会のチラシだと分かったのだ。
彼女はずっと横を向いたままだ。
心の中で考えずにはいられなかった。
誰と行くんだろう。
友達かな。
会社の同僚とか。
―――――それとも、彼氏。
もやっとした感情が、胸の奥に広がる。
そんなことを考えているうちに、俺の降りるべきバス停が近付いた。
他に降りる乗客がいなかったせいで、俺は、降車ボタンを押す必要があった。
俺は、彼女に言おうとした。
すみません、それ押してもらえますか。
――――――と。
「あ。降りますか? すみません」
オレが声をかけるより早く、彼女がオレの異変に気付いて、そう言った。
ピンポン、と降車ボタンの音が、あっけなく車内に響き渡った。
結果、オレは馬鹿みたいに腑抜けた顔で、「ありがとうございます」と言った。
彼女はにこっと笑った。
たぶん、愛想笑い。
そしてオレは一人、バス停に降りたって、その瞬間、決意した。
――――花火大会に、行ってやる。
彼女が彼氏といちゃついてたら、一旦諦めよう。
だけどもし、友達とか、同僚とか、そんな人たちと一緒に居たら·······。
絶対に声をかけてやる。
オレはやるときはやる男だ。
なぜか、心のなかで、そんなうすら寒いセリフを呟いて、オレは静かに金曜日の夜を待った。
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