8,

1/1
前へ
/13ページ
次へ

8,

 金曜日の夜、オレは会場近くの土手につくなり、自分の考えが甘かったことを思い知らされた。  とんでもない人ごみ。  この中から、誰かにひとりを見つけ出すなんて、かなりの至難の技だ。  それに、頑張って仕事を早く終わらせて退社してきたとはいえ、時刻は、八時すぎ。  そもそも、彼女が来ているという保証すらも、どこにも無かった。    ただ、オレは、花火がはじまる前、あと30分の間に、どうしても彼女を見つけたかった。  オレは会場を駆け回って、必死に彼女を探した。    そして、信じられないことに、沢山人が行き交うあの土手の上の道で、彼女を見つけた。    (······っ。あ!!)  心のなかで思わず声が上がった。  彼女はオレと反対方向へ歩いて行こうとしていた。  オレはすれ違いざま、雑踏のなかに紛れた彼女の姿をはっきりと見つけ出した。  「··········っ」  オレは慌てて進む向きを変えた。  彼女がどんどん人ごみにまぎれていく。  だけど、進行方向には流れのようなものがあって、オレのまわりは、完全に彼女の進む向きとは逆方向に流れていこうとしていた。  そこから抜け出して彼女を捕まえるのは、並大抵のことでは無かった。  だめだ。  見えなくなる。  もう見えなくなる。  行かないで。  オレは出来ることなら彼女を呼び止めたかった。  だけど、名前も何も知らなかった。  必死な思いで見つけだしたのに――ー。  どうやって、呼び止めたら。  どうやって、呼び止めたら。  「―――カイヅカさんッ」  咄嗟に叫んだオレの言葉で、彼女が振り向いてくれたのは、本当に最大級の奇跡だった。    たぶん、突然大声がしたから、それで振り向いただけなのだというのは、分かっていた。  ―――行かないで。  オレは、もう一度呼んだ。 「あのっ!突然すみません!待って!待ってください!」  真っ直ぐに彼女の目を見つめながら。  どうか伝わってくれ、と心の底から祈った。  彼女が足を止めた。  オレは、息をきらしながら、必死に人ごみを掻き分けて、もう一度その名を呼びながら、彼女のもとへ駆け寄った。   「カイヅカさんッ」  オレは、懸命に呼吸を整えて彼女の顔を見下ろした。 「すみません。人違いですよ」  彼女は少し困ったような顔で、至極まともなことを言った。  オレは慌てた。  呼び止めたは良いものの、何と言って声をかけるかという肝心なことを、何一つ決めていなかったのだ。  とりあえず彼女がどこかへ立ち去ってしまわないように、とそう思って咄嗟にこう言ってしまった。 「あっ、いえ!人違いではないんです!」  すると彼女はぷっと吹き出した。   そして言う。 「違うんですか?あれ。私、カイヅカさんじゃないですよ」 「あ、いえ、あの·····そうじゃなくて」 「なに?新手のナンパ?」  彼女は、どこか面白がっている。    焦ったオレは、右手で左の耳たぶを触り、その拍子に、現在時刻が何時であるかということに気がついてしまった。  午後八時二十九分。  ―――――まずい。 「あ、いや、そんなのは全然違うんです、あの―――――」  彼女が怪訝そうな表情でこちらを見ている。  まずい、不審者認定される。  しかも、時間がない。  オレには、打ち上げ花火を見ることが、絶対に出来ない。  事態を打破するために、ポケットに手を入れる。  しょうもないガムが何個かと、昼間仕事で使った付箋紙が入っていた。  それで、どうにかするしかなかった。  きゅううぅ······―――  ドオォン!  花火が打ち上げられた瞬間、オレは本能的に目をぎゅっとつむって。  まずい――――。  このままここにはいられない。  だけど、やっと見つけた彼女をどうしても手放したくない。  気がつくと、オレはスマホケースに付属してつけていた小さなペンで付箋紙にメモを書き、それを咄嗟に、花火に見惚れている彼女の右肩に張り付けた。  そして、激しい頭痛と吐き気を感じながら、逃げるようにその場を後にした。  家に帰って、頭痛が、落ち着いてから、ようやく我に返ったオレは、死ぬほど落ち込んだ。  ずっとずっと、好きだった子に、なんて不気味な真似をしてしまったんだろう―――――と。      
/13ページ

最初のコメントを投稿しよう!

51人が本棚に入れています
本棚に追加