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墓場の花鳥風月の中で
一切の寄る辺を失くした心にも空はいつもと変わらない。
無情に感じていた日々もあったがそれも今ではどうでもいい。
宝石のような朝露を纏った草木や花々を墓石を背にして座り込んで描き、ほんの僅かに口元が綻ぶ。
ここにあなたが立ち寄った時、あなたの愛する色とりどりの花鳥風月があなたを迎えますように。
そんな願いを込めて描いた風景画は今日で四十九枚目に達した。
最後の一枚が完成したとき、墓場の砂利を踏みしめる音と共に濃厚な朝靄の中から汚れた運動靴が現れた。
砂利の上に座り込んでいた僕は視界の隅に入ったそれに目を向ける。
泥だらけであちこち綻んだ靴から視線をあげて、僕は思わず立ち上がった。膝にのせていたスケッチブックと持っていた緑の色えんぴつが音を立てて地面に転がる。
目の前のその人が一瞬驚いたような顔をしたあと訝しげに眉根を寄せた。
矢も楯もたまらず僕はその人に走り寄り抱きついた。
「え?ちょっ……!」
狼狽している様子のその人をよそに僕は背にまわす腕に想いを込めて力いっぱい抱き締める。
「なんだよ、あんた!」
突き飛ばされて我に返った。
動転しているのか、その人はハァハァと呼吸が乱れている。
黒髪のショートカットに、学ラン……、汚れた運動靴。
「人の母親の墓の前で何やってんだよ!いきなり抱きついてきて、あんた変質者か!」
気の強そうな黒い瞳。
「……こう、き?」
彼の眉がピクリと動いた。
「なんで……」
間違いない。
水野光輝、麻里子の息子だ。
眼球の奥がジンと痛んで視界が滲んだ。
それを捉えた彼の挑戦的に睨んでいた目が僅かに見開き僕は居たたまれずに背を向けて彼の目の前から逃げ去った。
あんなに愛した、麻里子の息子の前から。
高校の美術室は今や誰も寄り付かない。
心中事件にまで発展した美術教師と美術部の生徒の密愛の場。
僕はひとりパイプ椅子に腰かけて窓台に頬杖を突きながらぼんやりとグラウンドを眺める。
大量の睡眠薬をのんで秋の海で二人で入水心中したのに、麻里子は死んで僕だけが生き残った。
名門私立高校はこのスキャンダラスな事件の一切をもみ消した。
既婚者で子持ちの教師水野麻里子は家庭と教職に疲れてのただの自殺。
僕のも高校三年生が大学受験のプレッシャーによるただの自殺未遂。
荒唐無稽な釈明会見で強引に終結させられた前代未聞の心中失敗から今日でちょうど四十九日が経った。
約束を果たせなかったあの日から描きためた風景画も四十九枚。
スケッチブックも色えんぴつも墓の前に置いてきてしまったが、
あれは麻里子のものだからそれでいい。
今日のこの日に彼と出会ったのも何かの定めだろうか。
「……生き写しだったな」
「俺が?」
ビクッと体が反応して突如降ってきた声に振り向いた。
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