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夏のある日、私は切り出した。
「そろそろそうちゃんのところに行きたいし、会社に退職するって言おうと思うんだけど……」
年度途中で退職するにあたり、秋の定期異動を控えた今が私の後任を入れてもらえるちょうどいいタイミングだと思った。
ところがそうちゃんは
「もう少し続けもいいんじゃない?慌てて辞めることはないよ」
と言い出した。
「私、仕事になんて全然未練ないよ。やっぱりそうちゃんと一緒にいたいし…」
「でも結婚だってまだ先なんだから、続けられるだけ続けたら?遠距離ももう慣れたし」
えっ?慣れたの?
私は全然慣れないし、早く一緒に暮らしたい。
「私の仕事のことを気にしてるなら心配しないで。本当に続けるつもりはないんだから。
それに、そうちゃんだってこの話を最初にした時についてきてって言ったでしょ?」
「そうなんだけど……今は自分の事でいっぱいいっぱいで、正直、アヤちゃんとの生活の事を考える余裕もないんだよ。本当にごめん……」
今まで大丈夫だと言い張っていたそうちゃんの口から「いっぱいいっぱい」「余裕がない」と聞いて驚いた。
もし本当にそうだとしても本来の彼なら私に気を遣い、そんな風にはっきりとは言わないはず。
いつもとは違う彼に驚いた。
「私が引越しの準備も新居の手続きも全部やるから大丈夫だよ。一緒に住めば身の回りのこともやってあげられるし、そうちゃんは自分の事だけに集中できると思うんだけど……それでもダメ?」
「うーん……そうなんだけど……でも今本当に余裕がなくて、生活のリズムを変えたくないんだよ。ワガママ言うけど、このまましばらく仕事の事だけに集中させてもらえないかな?」
そうちゃんは言いにくそうではあるけれど、その言葉から強い意思を感じる。
こんな風にはっきり言うなんて、よっぽどなんだ……
私が近くにいるときっと集中できないんだ。
本当は彼のそばにいたいけれど、それはワガママなのかもしれないと思ったら何も言えなくなってしまった。
彼がこれから先、ビジネスマンとしてステップアップしていくことは私の願いでもある。
今は今後を左右する大事な時期。彼の意思を尊重するしかない。
ワガママを言って困らせてはいけない。
そうやって遠慮する余り、それが彼の本心ではないことにも気づかず
「わかった……もう少しこっちで頑張るね」
そう答えるしかなかった。
でもこんな大事な話、電話ではなくちゃんと面と向かって話すべきだった。
そうしたら、私はきっとすぐ彼の本心に気づけたはず─︎─︎─︎─︎─︎
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