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あの日は丸一日田中さんと一緒で、さらに取引先の担当者に捕まってしまい、予定よりも随分と遅くなってしまった。
疲れた……
今日はもうこのまま帰宅しようと思っていたちょうどその時、
「今日はキツかったねー」
やれやれと言いたげに田中さんは苦笑いする。
「本当ですねー。お疲れ様でした」
「アヤちゃんこそお疲れさま。ところでこの後予定ある?何か食べて帰らない?食べたい物ある?」
今からだとどこが空いてるかな……と独り言を言いながら、左腕の某高級時計を見ている。
私は、男性が腕をすっと伸ばして曲げながら時計を見るあの仕草が好きだ。
いけない。
またクラっとしそうになった。
「すみません。今日は急ぎの仕事が残っていて、会社に帰らなきゃいけなくて……」
本当は嘘。
仕事は山のように残っているけど、今日帰社したところで終わるはずもなく、明日以降に回しても何ら問題はない。
「そっか、無理に誘ってごめんね。じゃあまた今度」
その声は少し沈んでいるように聞こえる。
そして、口元は笑っていても伏し目がちになっていた。
たとえパフォーマンスだとしても、そんなに残念そうな顔をしないで。
嘘をついているという罪悪感で苦しくなるし、気持ちが抑えられなくなって、“やっぱり行きましょう” と言ってしまいそうになる。
頑張れ、私。
「すみません……」
私はその言葉で、迷う気持ちを精一杯振り払った。
いつもの私なら「ぜひお願いします!」と言ってしまったと思う。
こうやって距離を置いていけば私も冷静になれると思っていた。
ところがそうも簡単にはいかなかった。
私が距離を取ろうとすればするほど、田中さんは少しずつ思わぬ行動に出始めた。
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