989人が本棚に入れています
本棚に追加
あれは外出先から帰社する電車の中での事だった。
電車に揺られながらしていた仕事の話やら世間話が途切れたタイミングで、
「ところで今日仕事はどんな感じ?何時頃終わりそう?」
田中さんはさらっと聞いてきた。
それがあまりにも自然で、思わず『早く帰ろうと思えば帰れます』なんて言ってしまいそうになる。
どうしよう……
これは私の返事次第できっと食事に誘われる。
「今日は……ちょっと遅くなりそうです。結構仕事溜まっちゃってるんですよね」
まだ誘われた訳でもないのに、さりげなく忙しいアピールをしてみる、自意識過剰な私。
鋭い田中さんのことだから、遠回しに断っている事におそらく勘付いているだろう。
「そっかー。忙しいんだね」
「やってもやっても終わらなくて……」
何となく田中さんの目が寂しげに見えて、ヘラヘラと笑ってごまかした。
「○○課って社内でもブラックだもんね。あれだけの仕事量をよく捌いてると思うよ」
お世辞かもしれないけど、私には褒め言葉に聞こえてしまう。
「全然ですよー。いつも期限ギリギリに焦って何とか間に合わせてるって感じで。きっと要領が悪いんですよねー」
笑いながら冗談っぽく返し、田中さんの言葉を軽く否定してみるも、
「そんな事ないって!アヤちゃんは仕事が丁寧だし早いと思うよ。ウチの課の人達だって『佐藤さんの書類はすぐ出てくるし、わかりやすい』って言ってるよ」
更に嬉しくなるような言葉を重ねてきた。
でも多分、それは田中さんのお世辞だな。
だって**課の人達、『もうそろそろ出る?』ってしょっちゅう督促にくるもん。
「それはね、アヤちゃんなら早く出してくれるってわかってるからだよ。ウチの課って自分達が中心で会社が回ってるって思ってるところがあるから、みんな甘えちゃってるんだよね。まっ、オレも他人の事は言えないんだけど」
それはうちの課の人達も一緒。
田中さんの所属する**課とは職種は違えど、ある種のライバル的な部分がある関係。
自分達が会社を背負っているというプライドを、それぞれの課が持っているような雰囲気はある。
私自身さすがにそこまでは思っていないけど、私は課の中でも若い方で経験も浅いし、きっと言いやすいのだと思う。
ただ、私はまだまだ力不足で迷惑をかけてしまう事もあるし、依頼された事は少しでも早く返すよう心がけている。
「**課の方には助けていただいてばっかりなので、せめてそれくらいとは思ってるんですけどなかなか……」
「そういう謙虚で一生懸命なところがアヤちゃんのいいところだよね」
思いがけない褒め言葉にドキっとさせられ、田中さんの顔を見上げると、優しい目をして微笑みかけてきた。
もう、そんな顔をして褒めないで。
そんな風に褒められたら、どんどん気持ちが持っていかれてしまう。
「そんなことないです……」
どう反応したらいいのかわからず、目を逸らしたまま首を振るので精一杯だった。
さらにそんな会話をしている最中、電車が緊急停止をしたらしく、車体が大きく揺れた。
危ない、転ぶ!
咄嗟に手摺りに捕まろうとしたその時、田中さんが私の身体をガッチリと抱えて支えた。
その瞬間ふたりの目が合い、時が止まった。
「あっ、ごめんっ。大丈夫?」
田中さんは慌てて私から手を離す。
「大丈夫です…ありがとうございます……」
私も恥ずかしくて目を逸らした。
身体どころか、心まで掴まれてしまった。
これはもしかすると恋の入り口なのかな……
田中さんはこの後もっと大胆になっていき、私の気持ちもどんどん加速する。
最初のコメントを投稿しよう!