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彼女が盗みに来たもの
静まり返る空間は心臓を握りつぶす。
十八平米程の仕事部屋兼寝室で、ワーグナー、ニュルンベルクのマイスタージンガー第一幕を大音量で流しながら、一向に進まない仕事を前に僕は天を仰ぐ。部屋の片隅に積みあがった何日分かの洗濯物の山が目に入る。家事はやり甲斐を感じないのでやらない。
掃除も洗濯も誰がやったって同じ結果じゃないか。
料理に限ってはたまにする。
一般の味付けから自分好みへと創意工夫して唯一無二のオリジナルを作り出す。うまくいけば達成感も美味な食事も得られるが後片付けが面倒なので滅多にしない。第一幕への前奏曲が終わる頃、来客を知らせる呼鈴が鳴り、僕は玄関先へと目を向けた。
普段は使いもしないが故に綺麗に片付いたように見えるリビングルームに来客を通して紅茶を出すと、二人掛けのソファーに遠慮がちに腰かけていた彼女が「あ、すいません」と頭を下げた。
ニッコリ笑いかけて、僕は彼女の向かい側のソファーに腰かける。目の前の自分用の紅茶越しに、緊張しているのか縮こまって見える彼女を見やる。提出された履歴書を広げて僕は暫し彼女の経歴を眺めた。
「街田紗世子さん」
何の気なしにつぶやくと彼女は律儀に「はい!」と返事をした。『さよこ』という名の響きがよくお似合いの小柄で色白で肘まで纏った漆黒の髪と大きな黒い瞳。
大人しそうである一方でその大きな黒目と黒髪の内側には他者の侵略を決して許さない静かに燃える聖域を感じさせる、美大卒の二十三歳の女性。
なるほどね、と僕は胸中で頷く。一流の美大を出ていながらフリーターで、二十八歳の男の一人暮らしの家に家政婦のアルバイト面接に来るのは、目先の金銭目的でも将来の安泰目的でもない。見えないものを盗みに来たのだ。
彼女が僕から盗みに来たもの。
才能だ。
だが残念ながら、それは盗めるものではない。
勉強や努力で手に入るものでもない。最初から持っているか、そうじゃないかだ。世間では僕は絵画の貴公子と称されて『持っている者』とされている。
大学時代、卒業間際に描いた一枚のシュルレアリスムの油絵が僕に地位と名声と財、そして画家の肩書を与えた。
そのおかげで僕は世俗の鎖から解放された。
世俗、つまり世間。
『普通』であることを至上主義とする人たちの世界。
その世界で生きる絶対条件は『みんなと一緒』であること。
もしほんの少しでもそこから外れようものなら容赦なく即刻死刑だ。
本人尋問などありはしない。
例えあってもまともに聞いてはもらえない。
頭から否定され『みんな』のサンドバッグになるだけだ。
そんな修羅の世間から、僕は運よく絵画の世界に逃避することができた。
たった一人で想いを巡らせ、たった一人でそれをキャンバスに具現化する。
ここの住人であれば世間との接触を最小限に抑えることができる。
『みんな』と違っていても責められない。
僕は一枚の油絵を片道切符に『他人』との決別を果たした。
それでいい。
わかってもらえないのなら、こちらから遮断する。
「美大を出てるんですね。それも凄く良い大学」
「画家になりたいんです。一流の講師から絵を学びたくて猛勉強してなんとか入学できて上京しました。四年間必死に勉強して、卒業してからもずっとアルバイト暮らしで生計を立てて毎日毎日勉強して描いて。それでも、なれません」
消え入りそうに語尾を震わせながら、彼女は膝の上の手を握り締めて俯いた。
僕は自身の推論を確信して彼女の履歴書をテーブルに置く。
弟子を取る気はないし、そんな身分でもない。
だけど彼女の黒目の奥が無性に気になる。
見えないものを探す瞳。
そして魔が差した。
体内の奥底に沈み込めていた性質が疼きだすのがわかる。
久方ぶりに接触してみようか。だめならまた切ればいい。向こうから切られたとしても痛手をくらうような関係ではない。
ローリスクなら試してみようか。
「街田さん、住み込みではいかがですか?」
彼女が「え?」と聞き返しながら顔をあげる。
「僕はどうにも家事が面倒で。それならいっそ家政婦を雇おうと思って今回はじめて募集してみたのですが、現在のお住まい、ここから結構遠いですよね?」
僕は机上の彼女の履歴書に目を落とす。
「もし問題がなければ、うちの空いている部屋をお使いいただいて、住み込みで働いていただくわけにはいきませんか?」
彼女は逡巡しているようだ。
選択権は彼女に委ねているが僕には結果はわかっていた。
この境遇にしてこの性格。弾き出される答えは明白だ。
無論、うら若き女性に男の一人住まいへの住み込みを提案することが非常識なことはわかっている。が、疼き始めた性質は最早どうにもならない。
「あ、の」
「部屋代は必要ありませんよ。僕がお願いしているんですから」
ダメ押しでニコリと微笑むと彼女は戸惑いながらも承諾してくれた。
こうして僕と彼女の同居生活がはじまった。
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