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真夏日だった。
そこいら中で鳴いている蝉の声が、じわじわと脳髄にまで滲みてくるようだ。近く、遠く、さざ波のように揺らぐその大合唱が、思考すら攪乱していく。するりと音もなく、首筋を汗が滑り落ちた。日陰になるような場所はどこにもなく、人々は直射日光にじりじりと灼かれながら、電車の到着を待つしかない。世間は夏休みであるらしく、黒々と日焼けした子供たちが、リュックサックを背負って内緒話をしている。各駅停車しか停まらないこの駅に、人はまばらだ。
右手を握る妻の指に、また力がこもった。長い爪が肌に刺さる。自分の手を見ると、三日月のような凹みがいくつもいくつも刻まれていた。彼女は、白いレースの縁取りのある日傘を差して、少しだけ俯くようにしている。何十年と連れ添って同じだけ年を重ねたはずの指先が、まるで詰問するように皮膚を圧迫し続けていた。宥めるようにその手を指の腹でそっと撫でる。妻は、ちらともこちらを見ない。ただ、ほんの僅かだけ彼女の指から力が抜けた。
ふと、視線を感じて顔を上げる。頭上のスピーカーからは、快速電車が通過する旨のアナウンスが、蝉時雨に押し戻されそうになりながら零れてきていた。視線の主を探して首を巡らせる。と、プラットフォームのずっと向こう、ここからはちょうど逆光になるあたりに、見知った青年が佇んでいた。
日の光を受けて殊更に明るく見える茶色の髪が、風にそよいでひらひらと輝く様は、まるで今際のきわにいる昆虫の、あやうい羽ばたきを思わせた。
……健吾くん
彼の名を呟いてしまったのは、まったくの無意識だ。
その直後、突然、妻が恐ろしい力で右腕を掴んだ。
声をあげる間もない。
強く引っ張られて、逆らうこともできず前のめりに倒れそうになる。
その身体を支えようと足を踏み出してから、「あっ」と思ったが遅かった。
もう、彼女の力に抗うことはできない。
妻は、通過しようとする快速電車に、ためらいもなく駆け寄っていく。
待ち受ける愛しの人の胸に、飛び込んでいくがごとくに。
うっすらと微笑んだ横顔が、
その首筋に張り付いた後れ毛が、
純白のブラウスが、
輝いて見えた。
すべての動きが、まるでスローモーションのように緩慢だ。
耳の奥でキインと高い音が響き、視界が急速に狭くなる。
暑さなど、もはや感じなかった。
ごうっという風圧が全身を包む。
恐怖は感じない。
痛みすら。
ただ、陽光の中できらきらと微笑む彼女が、
あまりにも美しくて、
目を離すことができなかった。
一瞬にも永劫にも思われた暗転。
急速に意識が浮上していくまま、まぶたを上げる。肩をぐっぐっと押さえつけている手を辿っていくと、眼鏡越しにこちらを覗き込んでいた瞳が、大きく見開かれたところだった。彼の名を呼ぼうとしたが、喉がひりついて上手く発音できない。
どうやら、線路に横たわっているようだ。敷石がごつごつと背中を圧迫していたが、痛みはまるで感じなかった。なぜかすぐに起き上がらなければならない気がして、身体に力を込めようとした刹那、右脚に激痛が走って息が詰まる。呻き声さえ出てこない。そこでようやく、呼吸が上手くいかないことに気付く。
「……足から落ちたので、頭は打たれていないはずですが、一応検査を受けてくださいね」
秋津健吾は、そう言いながらポケットからゴム手袋を取り出し、パチンと音を立てて両手に嵌めた。
その視線を追ってみて、息を飲む。自身の右手首をしっかりと掴んでいるのは、まぎれもなく妻の左手だった。しかし、肘から先がない。途中から折れた白い骨が剥き出しになって、引きちぎられた皮膚が布きれのようにぶら下がっていた。薬指に、シルバーのリングが鈍く光っている。
彼は、その指を一本ずつ丁寧に広げていきながら「おれを見てください」と言った。
「高野さんには、おれから連絡しておきますから。ともかく病院へ……」
秋津が何かを言っているのはわかる。その眼鏡越しの瞳は、ほんの微かの動揺も見せない。彼は、まるで凪のように静かに、平庭(ひらにわ)の手首から指を剥がす作業に集中していた。
「おれを見ていて」
視線を泳がしかけた平庭に、強く秋津が言う。
「聞こえてますか? ゆっくり呼吸をして、まわりを見ないでください。目が回りますよ」
何だ、何を言っている?
声は聞こえているのに、彼の言葉が理解できない。耳が詰まったようになっていた。まるで水の中にいるようだ。
ふと見上げた秋津の頬を、幾筋も汗が滑り落ちていくのが見えた。今日は真夏日だったはずだ。あんなに照っていたはずの日光を感じない。自分の心臓の音が全身に反響していた。頭が痛い。締め付けられるようだ。
これ以上、目を開けていることができなかった。まぶたを降ろしてしまうと、秋津の指がぎゅっと右手を握る。
「外れましたよ」
何が、とは言わなかった。ずっと遠くの方からサイレンの音が近づいてくる。そのけたたましい音が突然止むと、何か周囲がざわざわとしはじめた。秋津の手が離れる。追い掛けようとして宙を掴んだ指を誰か別の力強い手が引き受けた。まぶたを上げてみても、まるで磨りガラスを通しているようで、景色が判然としない。かけ声と同時に、身体が浮いた。ストレッチャーに乗せられたようだ。ぐるりと視界が大きく動いて、頭がぐらぐらする。
霞んで満足に機能しない眼球がまず捕らえたのは、線路の上に投げ出され、ぐちゃぐちゃに変形した真っ白な日傘だった。ずっと遠くの方で停止している電車。ブルーシートを掲げた人々。こちらをじっと窺っている、いくつもの好奇の視線。
深い深い穴の底から覗いているような彩度の低い風景の中に、彼を見つける。縋るような思いだった。その腕を掴もうとしたが、指先がほんの僅かに掠っただけだった。なぜだか、大きな落胆が全身から力を奪う。瞬間、ふっと意識が途切れそうになる。その指を、不意にぎゅうと握られた。酷く重いまぶたをようやく薄く開けた先で、彼がこちらをじっと見つめている。
蝉時雨が、再び聴覚を支配した。
* * *
ガラスの扉を開けると、じんわりと水分を含んだ熱気が、外の世界を充満していた。押し戻されてくるようにさえ思える扉を、ぐいと外側に開いて背中で押さえる。
「暑いですなぁ」
恰幅の良い常連客。パイプの直しが仕上がったので受け取りに来店したのだが、彼は他に紙巻き煙草を二カートンほど購入した。確かに、最近ではパイプを喫えるところも少ないだろう。紙巻き煙草でさえ、淘汰されかけている時代だ。
「また、一雨来るでしょうね」
「もうじき梅雨入りかな。降る前に駅に潜れれば良いが」
はは、と笑う彼に、紙袋を差し出す。大きな宝石入りの指輪を嵌めた、太い指がそれを受け取った。自分の指の貧弱さに、ほんのわずかばかり胸元がざわりとする。年ばかり取ってしまった。そんな思いが、ここのところじわじわと広がりつつある。
「では、社長。また」
「ああ、ええ」
社長、と呼びかけられると自然と背筋が伸びた。別に看板への責任だの覚悟だの、そんなまっとうな理由ではない。単に、誰かに叱られたときには、こうする癖がついているだけだ。
「くれぐれもご自愛を」
潜めた声だった。下げかけていた頭を、思わず上げてしまう。わかっていますよ、と言った風な彼に、どう返したものだか見当も付かない。おかしな表情になってしまっただろう。何とか微笑を取り繕うと、彼は何も言わずに立ち去ってしまった。その背中に一礼して、やれやれと肩を揉む。まさか、あのことが漏れたわけでもあるまい。気にしすぎだとは思ったが、どうしようもなかった。つくづく隠し事には向かない性質だと顧みる。
先日受けた健康診断で、心臓に僅かな不安を警告されていた。今すぐ命に関わるものではないから一旦観察となったが、これまでさしたる大病もしたことのなかった身には気掛かりだった。いたずらに心配をかけさせまいと、妻にも知らせてはいない。知っているのは秘書の高野だけのはずだが、彼がもし細君に話していたとしたら、もうとっくに噂は広まってしまっているだろう。
そのことに、何か不都合を感じるわけでもなかったが、どこかほっとしている自分を見つけたときにはさすがに驚いた。当初はたいしたことではないと思っていたのに、いつの間にか気掛かりの塵がうっすらと積もって、いくらか気弱になっていたらしい。ため息でそれらを追い出して、苦笑する。
そして店内に戻ろうとした、その時。奇妙な臭気が、鼻腔をかすめた。
思わず振り返る。と、そこに立っていたのは、一人の青年だった。Tシャツにジーンズという出で立ちで、黒のデイパックを肩に引っ掛けている。眼鏡の向こうで、人懐こそうな瞳が二度まばたきをした。見慣れぬ青年ではあったが、どうやら店に用があるらしい。客なら歓迎したいところだっだが、彼が一歩こちらに近づくたびに強くなる臭気には、とても黙っていられなかった。
彼の方に手のひらを向けて制止し、あの、と声を掛ける。青年は、「待て」と言われた大型犬のように行儀良くその場で立ち止まった。見る限り、不潔そうな身なりではない。どことなく柔和そうな面立ちに無精ひげはアンバランスなようだったが、決して不快さはなかった。何の臭いなのか、まるで想像もつかない。だが、通りすがりの人々でさえ顔を顰めていくほどだ。
「何か、入り用ですか」
これでも老舗の煙草屋である。商品のうちには臭いの移りやすいものもあるし、このまま入店されてはたまらない。その意図は正しく伝わったようだった。彼は一瞬きょとんと目を丸くしてから、すぐに「ああ」と苦笑する。それから、Tシャツの襟元を引っ張ってひょいと首を傾げた。
「やはり、臭いますか」
よく鍛えられた分厚い胸板を、Tシャツの布地がさらりと撫でて波打つ。やはり、という言い草が気に食わなかった。入店を嫌がられると承知だったとみえる。不意に、みぞおちをぐいと押されたような嫌な感じがした。
「私がお持ち致します。何をご所望です?」
「煙草を切らしてしまって」
煙草屋に来たのだから、そんなことくらいわかる。バカにしているのか? 胸の辺りがチリチリと灼けるようだ。
「銘柄は?」
思いがけず冷たい声になってしまった。突き放すように吐き捨ててしまったのに、青年はにこにこと笑っている。その上、「JPSを二つ」などと言うものだから少しばかり面食らった。
お待ちください、と告げて店内に戻る。パイプや葉巻の愛好家を相手にした商売を主にしているもので、輸入の紙巻き煙草を所望されると、突然心許なくなってしまう。ちょうど、奥から秘書の妻である高野(たかの)エリが顔を出したところだった。呼び止めて、JPSの在庫はあったかと尋ねれば、彼女は「はいはい」と言いながら頬に指を当てた。
「あまり、あれは出ませんもので」
「置いていなかった気もしたんだがね」
「いえいえ、ございますとも。ちょっとずつしか入れないから、逆に覚えているんです。どなたが?」
見る限り、店内に紙巻きを好みそうな客はいなかった。カウンターで秘書の高野が、新規らしい客にパイプを勧めているきりだ。
「いま、外にね……」
「まあ、暑いでしょうに。ご案内致しますよ」
「いいんだ」
ガラス扉の向こうで所在なげに佇んでいる彼を見て、店内に招き入れようとする彼女を引き止める。その声が、存外に響いてしまった。カウンターの向こうからこちらを見る高野に、何でもないと首を振ってみせる。
「エリさん、二箱くれますか。私が持って行きますから」
少しばかり潜めた声で言うと、エリはそれ以上何も聞かず「はいはい」と微笑んで二階の売り場へ上がって行ってしまった。しばらくして、黒地に金文字で「JPS」と印刷された箱を、きっちり二つ持って降りてきた。それを受け取って、再び店の外に出る。
室内との温度差で、一瞬暑いのだか涼しいのだかわからなくなった。相変わらずの纏わり付くような湿度。そして、あの臭い。青年は、またあの大型犬のような懐っこい瞳で、まっすぐにこちらを見つめてきた。この臭いこそなければ好ましくさえ思えるのだが、と思いながら煙草を手渡す。近くに寄ることも憚られるほどのものではあったけれど、いつまでも大人げないマネをするわけにもいかない。煙草と引き換えに受け取った紙幣と硬貨を数えてみると、ちょうどきっかりの金額だった。
「……ありがとうございます、お気遣いを」
「こちらこそ」
短い会話の間、彼の顔を見ることはできなかった。そのまま購入の礼を言うことさえ忘れて、ガラス扉を開ける。と、その視界の端で、青年が煙草の封を切ったのが見えた。
「ちょいと」
何か考えるより先に声が出てしまった。店内から、高野の視線がこちらに刺さる。面倒はごめんだ。扉を閉めて、ガラス越しに「なんでもない」と首を振ってみせると、高野は一瞬訝しむようにこちらを見たが、それきりすぐに接客に戻った。一方の青年は、紙巻きを一本取り出そうとした姿勢のままで固まっている。
「まさかそこで吸うのかい、営業妨害だよ」
無礼な物言いになっている自覚はあった。喫煙者にとっては肩身の狭い時代だ。せめて喫煙具店の店先で少し嗜むくらい許されてもよかろうと、隣近所にも理解を求めて店の前に喫煙所を設えたのだ。今この店で確かに煙草を買った彼には、当然そこで一服する権利がある。だが、彼が今纏っている得体の知れない酷い臭気は、煙草の煙で燻した程度でごまかせるとは到底思えなかった。
「……裏に従業員用の喫煙所がありますから、そっちに回って頂けませんか」
「よろしいんですか?」
「そこに居られるよりはマシだからね」
肩を竦めながらそう言うと、青年は声を立てて笑いながら紙巻きを箱の中に戻す。その笑顔を見て、なぜだか悪い気はしなかった。裏を使わせるとなると、自分も一緒に行かなければならないことにはすぐに気付いたが、少しの間くらい高野夫妻に店を任せてもいいだろう。
「どうぞ、気にせず使ってください。私もすぐに参りますので」
「ありがとうございます」
受け答えがきちんとしている。彼に対して抱いた二番目の印象はそれだった。年の頃でいったら、これくらいの息子がいてもおかしくない。そう思うと、どこか気安く感じられるのだから不思議なものだ。
いったん店内に戻って、JPSの代金をエリに預ける。しばらく裏にいる旨を告げると、彼女は「はいはい」とのんびり微笑んだ。眉を下げ、目元にしわのできる彼女の微笑には、慈愛という言葉がよく似合う。と、カウンターの方から、高野が鋭くこちらを睨んできた。
よほど話しの長い客らしく、まだ何やらの蘊蓄を聞かされているらしい。彼は相当に苛立っているとみえて、視線を合わせてやるとぎゅっと眉間に皺を寄せた。まるで接客中の態度ではない。不機嫌な瞳にそっと微笑み返して、首を横に振る。
「……エリさん」
小声で呼ぶと、彼女はひょいとこちらに身体を傾けた。そんな仕草も、まるで小動物のようで愛らしい。
「伸介くんと代わってやって貰えますか」
耳打ちすると、エリは夫の方を見て「まあ」と声を上げた。
「いやだわ、もう」
呟いて、ころころと笑いながらカウンターの方に行ってしまう。高野は、ばつが悪そうにしながらも、いくらか肩の力が抜けたようだった。今、他に客はいない。商談の予定もないはずだ。しばらく離れたところで大丈夫だろう。
もう一度ぐるりと店内を見渡してから、裏へと続く扉を開ける。倉庫代わりの廊下を通り過ぎて事務所に入ると、そこは照明が落とされて暗く、蒸し暑かった。休憩室としても使っているので、昼を過ぎれば誰かが冷房を入れるのだが、この時間ではまだ昨夜からの熱気がこもったままだ。
応接セットをよけながら事務所を横切り、奥に設えてある簡易キッチンの暖簾をくぐると、すぐに勝手口がある。建て付けの悪いドアを押し開けて顔を出すと、先刻の青年が咥え煙草でスマートフォンを弄っているところだった。従業員用の喫煙所とはいっても、裏手の道路に面したガレージに灰皿を置いただけのものだ。彼なりの遠慮があるのか、身体が半分敷地からはみ出している。
「あ、どうも……」
会釈しながら、もうすっかり短くなってしまった紙巻きを灰皿に押しつけ、スマートフォンをしまう。煙草の匂いと例の臭気が混じって、なんとも言いがたい有様だったが、今更邪険にもできない。平庭は、勝手口から出て近くに歩み寄りながら、もう少し中に入れとジェスチャーした。
「誰かに注意されませんでしたか」
「いいえ、誰も」
大人しくこちらの指示に従いながら、首を振る。その素直さを見て、悪い気はしない。
「それなら良かった。口うるさいのもいるものでね」
胸ポケットから煙草の箱を取り出しながら、そういえば名乗った方が良かろうと思い当たる。「平庭です」と言って会釈すると、彼はほとんど反射のように「秋津です」と返してきた。
「もしかして、社長さんですか」
店の看板を見たせいだろう。「社長さん」という言い方が可笑しくて笑うと、彼はぱちぱちとまばたきをして首を傾げた。
「まあ、そんな大層なものじゃありませんがね」
そう、たいした話しではない。ただ、代々続いた商売を継がないわけにはいかなかっただけだ。「社長」と呼ばれることには抵抗と恐れしかないが、それでもその肩書きを持つことを選んだのは、紛れもなくこの手なのだった。まるで枯れ枝だ。さっさと朽ちてしまえばいいものを、この老木はまだ長らえるつもりらしい。それにしても。
「……それにしても、何の臭いですか。ずいぶん酷いですね」
もはや、言わずにはおれなかった。身の上を思って鬱々と滅入るのは若い時分からの特技だったが、それを許さぬほどの臭気だ。時間が経てばいくらか和らぐものではないのかと思ったが、一向にその気配がない。だが、彼の方はそう言われるのにも慣れているのか、ただ笑うばかりだった。
「仕事柄、暖かい時期はたびたび……。実はこのせいで家内も出て行きましてね」
「……ほう」
まるで、固く閉じた箱の中身を、前触れもなく曝け出されたような心持ちだった。つい先刻見知ったばかりの相手に、家庭の事情などそうやすやすと話せるものだろうか。平庭がそれへ何と答えたものかと思案している間、秋津は雲の増えてきた空を気にするように、じっとガレージの外を見ていた。話しの続きを促していいものやら。
初めに問うたことの核心を避けられたような気もするし、それとてただの思い過ごしかもしれない。じっと彼の横顔を見つめていたと気付いたのは、ふい、と流れた秋津の視線が、ぴたりとこちらを射たせいだった。短く吸い込んだ空気が、喉の辺りでつかえる。なにか、胸元が痛んだ気がして、それを押さえつけるように手を当てると、秋津は首を傾げて笑いかけてきた。
「どうしました」
「いえ」
「もう一本いいですか」
「ああ、ええ。どうぞ」
言ってしまってから、失敗したなと思う。一本吸ったなら満足かろうと、追い出すのが正しかったのではないか。居着かれても困るし、何より会話が続かない。かといって、従業員でもない彼をここに一人残していくわけにもいかないが、ここを高野に見つかっても面倒だ。まあ、今更もう遅いか。と、開き直ってショートピースを唇に挟む。愛用のジッポで火をつけて緩く吸い、煙を吐き出す。と、それはいくらか秋津の臭いを打ち消していくようだった。
ふと、視線を感じて顔を上げる。その瞬間、バチッと火花が散った。思いがけず交わった視線が痛くて、慌てて目を逸らす。ふ、と笑われたような気がして秋津の方を盗み見ると、彼は煙草を咥えたまま前の通りを眺めていた。
柔らかそうな茶色の髪。顔立ちはどちらかというと童顔だ。目が大きくて透き通っている。正面からまっすぐに見つめてくる瞳は、何か表皮の奥を探ってくるような鋭さがあって、彼と視線を合わせることには、いっそ本能的な危機さえ感じた。口元から顎にかけて生やした無精ひげは、もしや童顔を隠すためのものだろうか。だとしたら、思うより年はいっているのかもしれない。身体は良く鍛えているようだった。ティーシャツの生地が突っ張るほど発達した胸筋は、おそらくそうしようとしてトレーニングしなければ得られないものだろう。何の職に就いているのか見当も付かない。不思議な青年だ。
と、勝手口のドアノブをガチャガチャとやる音で我に返った。どうやら見つかってしまったらしい。ようやく開いたドアから顔を出したのは、妻のきみこだった。彼女は、すぐに鼻と口を片手で覆って、汚らしいものでも見るように秋津を睨みつける。それへ、彼がにっこりと笑いかけるものだから、どうにもばつが悪くて咳払いをすると、秋津は煙草の煙を吐き出しながら小さく笑ったようだった。
「……どうしましたね」
きみこ、と声を掛ける。彼女は、団子にまとめた後ろ髪をちょっと手で弄りながら、ゆるゆると首を横に振った。責めるように。
「高野さんが探されてございますよ。いつまでも油を売ってないで仕事に戻ってくださいまし」
「ちょっと一服のつもりだったんだ」
「それがあなた、長いんですよ」
きみこの眉間には、深々と皺が刻まれたままだ。彼女は、白のブラウスに黒のベストとタイトスカートを纏っている。女性従業員の制服だった。何も社長夫人たる彼女まで制服を着なくともよかろうと言ったものだが、彼女なりにこの出で立ちを気に入っているらしい。首元に光る華奢なネックレスは、いつぞやの誕生日にプレゼントしたものだった。
「そちらさんは?」
「……うん?」
ぼうっとして聞き逃した。きみこは、ますます表情を険しくして「そちらはどなた様ですの?」と一語一語きつく発音してみせる。気分を害していやしないかと秋津の方を見るが、彼は変わらずただにこにこ笑っているきりだった。
「いや、なんだ。ご新規さんでね」
嘘ではない。だが、それ以上彼を紹介する言葉も出てはこなかった。
「……すぐに戻ると高野さんに伝えてください」
ここはもう、観念してサボっていたことを認めるよりない。きみこは、大仰にため息をつき「本当ですよ」と言い残して中に戻って行ってしまった。
「……嫌われましたかね」
ぽつり、と秋津がこぼす。視線を合わすと、彼は短くなった煙草を持て余すようにしながら、薄く笑んでいた。
「ああ、いや、彼女は誰にでもああでして……」
言い訳じみた言葉が舌先でつかえる。
「失礼を申しました」
煙草を消しながら詫びると、彼は「とんでもない」と応えて笑った。これで最後とばかりにフィルターに口をつけ、浅く吸った煙を吐き出す。
「……では、そろそろ」
灰皿で火をもみ消しながら言う彼に「ええ」と返すと、秋津はまた真正面からこちらの目を覗き込んできた。
「助かりました」
「……また、おいでください」
「もちろん」
つい、言っただけのことだった。にっこりと笑いかけてくる秋津の瞳があまりにもまっすぐで、視線を逸らせない。秋津は、そんな平庭の様子を見て、すっと目を細めた。ぎくりとする。一瞬、その瞳の奥に何か光のようなものが閃いた。それが何なのか、確かに知っていた頃が平庭にもあったのだが、にわかには思い出せない。
いや、それを思い出してはいけないのだと押し殺す。触れるほど近くから見つめてくる彼の瞳は、薄いレンズに隔てられてなお、こちらに熱さえ与えてくるかのようだった。秋津がふいと身体を起こすような動作をして、彼がずいぶんこちらに身体を倒していたことに気付く。あ、というかたちに口が開いてしまったが、すんでのところで声は上げなかった。秋津は、そんな平庭に肩越しに笑いかけ、するりと路地裏を抜ける猫のように、ガレージを立ち去っていった。
* * *
「また一段と酷いな」
勝手口のドアを身体全体で押し開けながら言う平庭を、秋津の軽快な笑い声が迎えた。
「業界ではこの季節の風物詩ですよ」
「鼻が曲がりそうだ」
思い切り顔を顰めてみせても、彼はただほんの少し首を傾げるだけだった。ここの風景にも随分と馴染んだものだ。
あの夜から二週間が経っていた。その間にも、三日に一度はこうしてここで煙草を吸っていく。彼が訪れる時間に決まりはなかった。一般的な会社勤めではないようだ。先日はほとんど開店と同時だったし、今日などまだ昼過ぎである。尋ねても答えないから、もはや追及することもやめてしまったが、彼の日常について想像を巡らすのもまた楽しかった。
煙草を咥える口元が、うっかり笑みのかたちに歪んでしまう。
「なんです?」
「ん? いや……」
彼はめざとい。最近は平庭に対して遠慮がなくなってきたようだ。ちょっとしたところを突っ込んでくるので、どうにも油断ならない。時間稼ぎのつもりでゆっくりと煙草を取り出し、ジッポで火を付ける。ゆるく吸って吐き出した煙は、じんわりと湿気を帯びた空気の中へとけだるげに溶けていった。
梅雨はいつの間にか明けていた。だが、ここ数日の空はどんよりと分厚い雲に覆われている。今日も気温はさほど上がらないようだ。風が心地良い。ただ、行き場をなくした湿気だけが、梅雨の名残を思わせる。もうじき、夏が来るのだ。
「ずいぶん甘い香りのする煙草ですね」
秋津の声が、平庭の意識を引き戻す。何を言われたのか咄嗟に理解できず、呆けたようになってしまった。目が合うと、秋津は笑みのかたちに歪めた唇から、細く煙を吐き出した。
「……バニラの香りがする」
「吸ってみるかい」
言ってしまってから、自分のとんでもないしくじりに気付く。
「じゃあ、一口だけください」
言うと思った。実に愉快そうにこちらを窺ってくる彼は、間違えなく確信犯だ。断っても良かったが、ここで拒否して何か意識していると思われるのも癪だった。仕方なく手を伸ばして、秋津の口元に吸い口を近づけてやる。と、秋津はためらいもせずにゆっくりと一口吸い込んで、ふうっと煙を吐いた。
「わ、本当だ。フィルターも甘い」
「チョコレートのもあるんだよ」
「甘党でしたっけ?」
「甘いものは好きだがね、食べ過ぎると身体に良くない」
「煙草の吸いすぎも身体に毒ですよ」
尤もだ。あまりにもまともな指摘に、思わず笑ってしまう。
「こういう煙草は吸わないかい」
「得意ではないですね」
「おや、じゃあ消そうか」
「お構いなく。お互い様ですから」
お互い様、というのが何のことか理解するまで、少し時間が掛かった。やがて、それが秋津の纏っている悪臭のことだと気付く。たしかにな、と呟きながら、なかなか釈然としない。冗談で言ったのだとわかっていたが、笑って良いものだろうかと一瞬考え込んでしまった。
そういえば、と思う。彼の放つこの悪臭をさほど気にしなくなっている自分に、何かそぐわない感じがしていた。慣れれば慣れるものだ。口元に苦笑がのぼる。
「そういえば」
「うん?」
なんとはなしに顔を上げて、はっとした。少し離れたところでJPSをふかしながら、秋津がこちらを見つめている。彼は、少しも笑ってはいなかった。
「あなたの唇も甘かったな」
「……また、きみはそういうことを」
「怒りますか」
潜めた声だった。嫌な予感が胸を衝く。そんな風に言うべきではない。そんなことぐらいわかっているだろうに。
「怒りはしないがね」
そう、怒りはしない。
「ただ、きみ、気をつけなさいよ。口説かれていると勘違いされて、困るのはきみの方です」
「……つれない人だな」
「言いましたよ」
遮る声の強さに驚いたのか、秋津が顔を上げる。だが、驚いたのは平庭も同じだった。こんな風に言うつもりではなかった。誤魔化すように、煙草を一口吸う。ほんの軽口だとわかっているはずだった。こちらも軽口で返せていたはずだ。それなのに。秋津が、こちらを探るように見つめているのがわかる。けれど、目を合わせることなどとてもできなかった。
「……それで、」
何か、言葉を繋がなければ。気まずい空気を追い払いたくて、深く深く煙を吐き出す。
「その臭いのまま電車で帰るんですか」
「ああ、いや」
どうやら、何を言われるのかと身構えていたらしい。秋津は、ほっとしたように苦笑して首を振った。
「最近、早川先生のところで風呂を借りることを覚えましてね。確か、お知り合いとか」
意外な名前が出た。秋津の言うとおり、早川医師のことはよく知っている。知り合いで片付けるのはいささか適さないような気もした。
早川医院は、先々代から続く地域のお医者様で、このあたりの零細企業が大抵そうであるように、平庭商店もまた従業員の健康に関して一任している。なにしろ先代からかかりつけなので、余計な説明の要らない気軽さから世話をかけ続けているが、そのせいで彼にはまったく頭が上がらない。
「きみから早川先生の名を聞くとは思わなかったな」
率直な感想だった。秋津が、ふっと吐息のように笑う。
「仕事上の付き合いですが、随分懇意にして頂いています。モルフォ蝶の標本を譲ったよしみでね」
「ははあ、きみも昆虫博士のたぐいか」
「あの方には負けますよ」
言いながら、秋津は短くなってしまったJPSを灰皿に押しつけた。ざり、ざり、と火の消えた煙草で灰を集め、その山をまた潰す。しばし無言でそうする秋津の横顔は、どこか思案に暮れているようにも見えた。
「……では、今日はこれで」
どうかしたのか、と尋ねかけた唇を引き結ぶ。秋津は、それを知ってか知らずかにっこりと微笑み、また電話しますね、と片目を瞑って見せた。そのおどけた仕草に、肩の力が抜ける。
「早川先生に、どうぞよろしく」
言うと、秋津は軽く会釈をしてすぐに立ち去ってしまった。
なんとなく、その背中が通りの向こうへ折れていくまで見送って、すっかり火の落ちてしまった煙草を灰皿に投げ入れる。どうも、良くない。平庭は、眉間を親指で揉みながらため息をついた。
少しだけ、焦ったのだ。どこかで彼は遠くからの来訪者で、よそ者だと思い込んでいた節があった。それが、存外にずっと近くにいたことを自分が知らなかっただけなのだと知って、少しだけ動揺したのだろうと思う。
すん、と鼻をすするようにすると、まだあの臭いが残っているような気がした。たいてい、秋津が去ってしまえば程なくして臭いは消える。そうでなかったら、もっと徹底的に高野やきみこに追い立てられていただろう。あれは、腐臭だ。考えないようにしていたが、もはやこれ以上無視し続けることはできそうにない。早川医師が警察嘱託医も兼業していることも考えれば、おのずと秋津の生業は絞り込めてきてしまう。
だが、なぜかいつもここで彼に関する推理は中断された。半端に途切れた思考の残滓が、ぼんやりと目の前に舞っているような気がする。平庭は、それを払うように首を振って、勝手口のドアノブに手を掛けた。そろそろ仕事に戻らねば、また迎えが来てしまう。
建て付けの悪いドアをなんとか押し開けて室内に戻ると、慣れた事務所の匂いに包まれて安堵した。冷房が良く効いている。わずかに汗ばんだ首筋が、ひんやりとした。暖簾をくぐって事務所に戻る。
と、気配を察してとっさに顔をかばった腕を、重い衝撃が襲った。どさっと床に落下したのは、きみこの愛用しているハンドバッグだ。
「もういい加減にして!」
絶叫が、室内にうわんと響いた。きみこ、と呼びかけようとしたが、声にならない。妻は、薄暗い事務所の中程に立って、恐ろしい形相でこちらを睨みつけている。
「仕事場を放り出して、裏口で若い男と逢瀬ですか」
地の底から湧き上がるような声だった。こんなにも激しい憎悪を目の当たりにするのは久しぶりだ。
「……そんな言い方はよしなさい」
「いやらしい! おかしいと思っていたんですよ!」
ようやく絞り出した声も、きみこの金切り声にかき消されてしまう。
「ご新規さんですって! あなたが直々に何時間もお相手なさる客じゃないでしょうに。もっとずっと以前からご贔屓くださっている常連さんを差し置いて一体どういう了見ですの? ご自分の立場がわかっておいでじゃないのね。アルバイトにも示しがつきやしない!」
正論だった。とても言い返せない。ガタ、という物音に視線を上げると、事務所の扉を開けた高野がそっと入ってくるところだった。おそらく、ずっと外で聞いていたのだろう。店の方にまで響いていないか心配だ。
「おわかりになったら、もうあの男を二度と店に近づけないでくださいまし」
「そんなことはできないよ、お客さんだ」
「なぜよ!」
なぜ。問われても答えなど出てこない。きみこは見開いた瞳に涙を溜めて、唇を咬み絞める。小さく震える肩が、あまりにも憐れだった。今何を言ったところで、彼女の怒りはおさまらない。けれど、彼女の秋津に対する憎悪は、いくらなんでも理不尽だとしか思えなかった。
「私に、友人ができてはいけないのかい」
「友人!」
吐き捨てるように繰り返す。つい言い返してしまったことを、後悔しても遅い。きみこは、じわじわと口角を上げ、まるで鬼女のように平庭を嘲った。
「私を責めるのね」
「……そうじゃない」
「お客さんだの友人だのと、まあ白々しくよく言えますこと」
ようやく動かせるようになった足を一歩踏み出す。と、きみこは口元を引き攣らせて後退った。
「近づかないで。あなたは嘘つきよ」
「きみこ」
「やめて! 触らないで! 穢らわしい!」
伸ばしかけた手を、きみこの爪が引っ掻くように叩き落とす。手の甲に痛みが走った。それでも構わず距離を詰めて、彼女の手をそっと取る。
「拒絶しないでくれ、ちゃんと話し合おう」
「話し合うですって? 一体何を?」
「きみこ」
「離しなさいよ!」
絶叫と共に振り払った手が頬に当たった。彼女の長い爪が、肌を僅かに抉る。きみこは、自分の手を押さえてこちらを睨みながら、数歩後退った。平庭の顔を見た高野が、意を決したように動く。
「……奥様」
間に割り込んできみこと目を合わせ、高野はゆっくりと首を振った。
「いけません」
「何よ、あなただって知っているでしょう!」
高野に楯突かれたと思ったようだ。きみこのこめかみに血管が浮いてくる。
「この人は、女なんて生きている価値もないと思っているくせに私と結婚したのよ!」
そうじゃない、と言い返しかけたが、高野の視線に留められた。火に油を注ぐだけだとわかっていたが、息苦しさのあまりため息が漏れてしまう。胸の辺りがムカムカして仕方なかった。
「あなたなんか……ッ!」
「まあまあ、何の騒ぎ?」
唐突に、事務所内の蛍光灯が灯った。こちらに何事か怒鳴ろうとしていたきみこが、動きを止める。
「きみこさん、どうなすったの?」
のんびりと入ってきたのは、高野エリだった。にこにこと微笑みながら、こちらに歩み寄ってくる。そんな彼女を見た瞬間、きみこの瞳からぼろりと大粒の涙がこぼれ落ちた。子供のようにわっと泣き出したきみこの肩を、エリがそっと抱いて平庭から引き離す。そのまま応接用のソファに座らせ、優しく背中をさすりながら、エリはこちらに微笑みかけてきた。
助かった、という思いと共に、肩から力が抜ける。高野が床に落ちたハンドバッグを拾いあげ、そっとテーブルの上に置いた。きみこは、エリに抱き締められたまま、何事か震える声で訴え泣き続けている。それに柔らかく相づちを打ちながら、エリはそっと平庭と視線を合わせた。出て行ってくれ、という言外の訴えに、二度、三度頷く。その背中を、高野の手のひらが緩く押した。
そっと忍び足で事務所を出る。背に添えられた高野の手は、酷く熱かった。倉庫は人気がなく、薄暗い。店内からの冷房が届いていて、事務所よりもだいぶ涼しいようだ。ようやく気道が開いた気がする。いくら吸っても一向に酸素を取り込めないようだった息苦しさは、いくらか和らいでいた。
ふと頬にやりかけた手を、高野が掴む。見ると、彼は感情のまるで読めない石ころのような瞳を、じっとこちらに向けていた。
「……血が出ています、触らない方が」
「ああ」
「すぐに救急箱をお持ちします。お待ちください」
言いながら、指を握り込んでくる。その手の熱さと吸い付くような湿った感触に、腹の底が冷えていくのを感じた。こちらを捕らえているはずの眼球は、まるで何も写していないかのように虚ろだ。
「……いや」
平庭は、なかば振り払うように高野の手を外させ、その肩を二度叩いた。
「今日は家で仕事をするよ。しばらく店を任せるから、何かあったら電話をください」
ふ、と気が抜けるように高野が肩を落とす。平庭は、彼の返答を待たずにくるりと背を向けてその場を立ち去った。
* * *
『壮市』
平庭を呼ぶのは、女の声だった。
おそるおそる開こうとするまぶたを、細く白い指が覆ってしまう。
『……壮市、あなたは本当に綺麗ね』
くすくすと楽しげに笑う声。
口の中に詰め込まれた布きれが、唾液を吸ってじっとりと重く喉の奥まで圧迫していた。
吐き気がする。
あまりの苦痛で、涙がぼろぼろと零れた。
女の声が、吐息が、指先が、平庭を苛む。
硬い麻縄に絡げられて畳に転がった少年時代の自分。
憐れっぽく嗚咽するが、赦しはいつまでも訪れない。
唐突に、ああ、これは夢だ、と思い当たった。でも、それならどちらが夢だったのだろう。どっちも夢だったらいいのに。そんな願いは、突然訪れた激痛の前に霧散した。押し入ってくる熱い塊が、そこを切り裂いていく。脱力していたはずの指がぎゅうと収縮して、真っ白な拳を作った。まるで、天井から他人の肉体を見下ろしているような錯覚に陥る。
ハッと浅い息を吐くが、口の中には何も詰められてはいなかった。あれは、昔の記憶だ。ずっと奥の方に追いやって封印してきたというのに、今になって引きずり出して来られるとは。しかも、この男に。いや、彼だったからこそか。
* * *
よろしくお願い致します。 あけち拝
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