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銀座からバスで15分ほど海方向へ進むと晴海埠頭がある。1000年も昔は地球の海を行き来する外国船が停泊していたり、大きな倉庫でイベントごとが行われていたりもしたが、今では立派な宇宙船ターミナルになっている。
ドーム球場2分の1個ぶんという自家用機から100個ぶんという大型旅客機、貨物機までが晴海埠頭で長旅の疲れを癒し、次の星を目指して飛び立っていく。
井ノ原はバスの終点である9第ゲートからターミナルに入った。トレンチコートの内ポケットから身分証明PCカードをだし、入り口に設けられたカードチェッカー(鉄道の自動改札機のようなもの)に軽くタッチさせてターミナル内に入る。これをやらないと身元不明の侵入者とみなされ、どこからともなくあやしい光線をお見舞いされ、警察官が駆けつけ全宇宙警察に連行される。これは宇宙船ターミナル警備の基本中の基本である。
井ノ原が搭乗手続きカウンターに向かって足を進めるとどこからともなく琴の音が聞こえてきた。音の方に顔を向けると異星人たちが山になっている。おそらく初めて目にする惑星地球日本国の民族衣装である振り袖と伝統楽器の音色にほれぼれしているのだろう。
惑星地球、日本国の入り口である晴海ターミナルは『ようこそ日本国へ』というイメージを異星人に与えるため、舞妓さんが出迎えて観光の国、日本をアピールしていたり甘味屋があったり全宇宙でその味を絶賛されている日本蕎麦屋があったりしてグルメの国を強調。異星の方々に日本をわかってもらおうと努めている。
異星人用のサービスに足を止める純粋日本人はあまりいないので。井ノ原はそのままエスカレーターに乗って3階へむかった。
搭乗する旅客機は宇宙船の製造技術では右に出る星はなく、1000年以上昔から地球にも灰皿状の宇宙船でふらふら訪れていたという由緒と歴史ある工業惑星ウルの豪華客船ハナツバキ(ウルの言葉で貴族の意)である。
全宇宙を(停泊日を含め)約半年かけて1周する船だけあって、通常の豪華客船の倍という大きさも自慢だ。搭乗手続きを済ませたら海底シャトル鉄道に分乗って晴海埠頭から東京~新横浜くらい離れた搭乗口に行かなくてはならない。
「間に合うかな」
井ノ原の口から誰に語るでもない言葉がこぼれる。エスカレーターのベルトにもたれかかるようにし、高い吹き抜けの天井を眺める。
ターミナルは人種のるつぼだ。エスカレーターですれ違うなかにもお初にお目にかかる異星人がいたりする。宇宙の広さを味わう瞬間。
搭乗手続きカウンターは銀座の人口ほどの語源が飛び交い、乗務員と客、または客同士、異星間の習慣や考えかたから起こるトラブルもたえない。そんなどさくさに紛れての窃盗や密入国、裏取引など。犯罪の数も宇宙で一番多い場所といえる。それゆえ出入国管理、民間機の搭乗手続きは厳しいものがあるので搭乗手続きは余裕をもって行いましょうという教訓は全宇宙ターミナル協会でコマーシャルも流しているくらいだ。
「お客様、身分証明書とパスポートを拝見いたします」
厳しいとはいえカウンターの搭乗受付嬢に言われるまま従えば手続きは済むのだが。
井ノ原はトレンチコートの胸ポケットから先ほどゲートをくぐるのに使用したPCカードともう1枚、黒に青い蛍光ラインの入ったカードを差し出した。受付嬢はその2枚をカードリーダーに通す。ピーッピッというホイッスルのような弾んだ音が耳に入る。と同時に接続されたモニターに乗客の顔写真と搭乗データが映し出される。
「カードをお返しいたします。大門源五郎様。搭乗船『ハナツバキ』惑星ヒトスキまでおひとり様1等室でよろしいですね」
はいと言えばここでチケットが発券される。地球人の受付嬢が慣れきったブラインドタッチでキーボードをたたくと発券機から偽造不可能と言われる地球製の紙を使用したチケットが出てくる。
「チケットの内容を御確認ください。ボディチェックのあと、ご搭乗はその先のシャトルに乗っていただき、5番線が搭乗ゲートとなります。よろしいですか」
初めての宇宙旅行でなければこれ以上の説明は不用である。
「お荷物はお部屋に届いているのが確認されました。なにかご質問はございますか」
いいやと笑みを見せればこれにて搭乗手続きは終了である。
「ありがとう」
軽く右手を挙げて奥のボディチェックに入る。礼儀正しい紳士に受付嬢は後ろ姿まで見送ってしまう。
ボディチェックといっても長さ2メートルの真っ白なトンネルをくぐるだけである。ただこの間に危険物の所持や変装(特に異星人に化ける犯罪者やいわくつき人物が多い)が発見されたら危険人物、または身元不明の侵入者とみなされ、あやしい光線を一発お見舞いされ、全宇宙警察に連行される。これも宇宙船ターミナル警備の基本である。
井ノ原哀理がペンネームであること以外に怪しいことに覚えがない宇宙規模作家はトンネルを出ると『異常はありません』というコンピューターのOKをもらい、またその奥のシャトル乗り場に足を進めた。
シャトルの中は船の離陸時間があとわずかなだけあって数人しか乗り合わせていない。
「ふむ」
井ノ原はまばらな乗客の中に女性がいないことが不満に思えた。作品のなかならば、すでに〈幻ハンターシリーズ〉主人公、の冒険ははじまっている。
(金之助なら空いていてもシャトルの座席には座らないな。ドア側のポールにもたれかかりうつむいたままだ。そこへ感じる視線。誰かが自分を見つめている。誰だ? 顔をあげると美しい女が見つめている。金之助は思う『こんな美人ににらまれる筋合いは…あったかな(笑)』)
「(笑)はないだろう」
訳のわからない独り言に隣に座っていたナメクジに似た軟体系異星人がびっくりして体のサイズが一瞬ひとまわりしぼんでしまったが、井ノ原は自分の世界に入っているのでおかまいなしに独り言を大放出している。
『次は5番線……5番線』
車内アナウンスが降車駅を知らせ、無意識に「よいしょ」と言って立ち上がる井ノ原を座ったまま見上げる軟体系異星人は元のサイズに戻っている。
腕時計を見ると離陸まであと15分である。
5番ゲート前で「こんにちわ。ようこそハナツバキへ」と頭を下げる客室乗務員にチケットを渡す。チケットリーダーにチケットを通しつつ「お急ぎください」と、まもなくの離陸を促され動く歩道になっているチューブ(これもボディチェック機能付き)をつかって船内へ。
「こんにちわ。ようこそハナツバキへ」
すぐ案内係がチケット拝見と手をさしのべる。
「こちらの客室はAブロックになりますので左にお進みいただいて左手にありますエレベーター1番から3番にお乗りいただき3階になります」
「ありがとう」
この船は初めてなので説明は大いに助かる。軽く右手をあげ左に進んだ。
(幻ハンター暁金之助なら1等室には泊まらない。金之助が選ぶのは3等個室か4等団体部屋だ。団体部屋の場合は情報を得やすかったり、初めて会う異星人の特性を観察できるという利点がある。そこで知り合う異星人も冒険のいい脇役に設定することができる。金之助はどんな人物に出会うのだろう。男か女か子供か年寄りか)
井ノ原の頭脳が高速回転を始め目の前に創作の世界が広がっていく。
(出会う人物の設定は? 誰かから逃げるため、もしくは陰謀に巻き込まれやむなく少年に変装していた美少女か。調子のいい商売敵を登場させてもいい)
「いや待て平凡すぎる」
(誰でも考えそうな展開だ。それにシャトルで視線を感じた女の立場は? この案は却下だ)
溜息とともに部屋番号を確認、カードキーを通せば自動ドアは真横に開く。旅マニアなら一度は乗ってみたい豪華船の1等個室。
まずは入ってすぐやりたい部屋探索。
足を踏み入れると自動的に電気がつく。足下の感触が廊下とは違うことにハッとさせられる。これは、優秀な編集者であるヒイラギ嬢の母星である惑星セイセイの伝統工芸の絨毯だ。なにを床にこぼしてもすべてをはじき、決して汚れることがないとうたわれている。井ノ原の家でもフローリングの居間にラグをひているからすぐにわかった。
足を進めるとミニバー付きのリビング。有名どころの星のアルコールが棚にずらっと並んでいる。この部屋の人間なら飲み放題ということになっているがあいにく井ノ原はアルコールが飲めない。
「お茶はどこかな」
カウンターの上にコーヒーメーカーとティーポットも置いてあり、その真下のカウンター収納をあければけっこうな星々のブランド茶が陳列されている。惑星ヒトスキの茶もあるがさっき購入したファーストフラッシュはさすがに用意されていない。
「買ってきてよかった」
トレンチコートの胸ポケットから買ったばかりの袋を取り出し、カウンターに置いておく。
隣のベッドルームに移動すると宅配便で送ったボストンバッグが置いてあり。ふかふかなベッドがダブルサイズなのは地球人に合わせて設計されているわけではないことを表している。
井ノ原はバンザイ体勢で思いきりベッドにお尻を落としクッションを確かめた。バネっぽくない感触。ウォーターベッドのようだ。立ち上がって何事もなかったかのようにベッドの隣にある書斎スペースを確認する。
デスクの上にパソコンが設置してある。身分証明にもなっているPCカード一枚あれば旅しながらメール送受信や仕事を進めることができる。
井ノ原はおもむろにデスクに腰掛けた。椅子の座り心地が恐ろしくいい。空気に腰掛けているかのようだ。これは長時間座っていても尻が痛くなることがないだろう。どこの製品か検索して即注文だ。
パソコンの電源を入れると3秒で『PCカードをお通しください』というメッセージが青地に白抜き文字で出た。
トレンチコートの胸ポケットからカードを取り出しリーダーに通す。画面に『しばらくお待ちください』という文字が5秒でたあと『認識されました。スタートします』という画面のあと、一度真っ黒になってから再起動。登録さえ済めば次からは2秒で立ち上がる。
『お客様へ申し上げます』
そこへ船内アナウンスが流れ込んだ。接続されたパソコン画面とリビングに設置されているテレビに強制的に映し出される案内係の女性。ハナツバキはウル星の宇宙船なのでウル人乗務員が画面に出ることになっている。
ウル星人は1000年以上も昔からイメージされていた宇宙人の姿、しゃもじのような頭にアーモンド型の目、線の細い体をしている。ただし服はちゃんと着ているし頭髪もある者にはある。
『ハナツバキへのご搭乗まことにありがとうございます。当機は予定時刻より8分遅れてただいま離陸体制に入りました』
これから離陸に関してのうんちくが始まる。緊急時の対処の仕方はどこの宇宙船も共通のはずなのでテレビの前で正座をして見入ることもないのだが。この船は初めてなうえに旅客機としては最大級なので緊急避難口は覚えておいたほうが身のためだ。
『救命具はクローゼットの中にございます』
あとで確認しよう。
『このように自動で空気が入らない場合は管を引っぱり出し、このようにふくらませてください』
宇宙服を着込んだウル星の客室乗務員が左右の胸元からでている管に口で交互に空気を送り込んでいる。
続けて次の星までの飛行時間と到着予定時間のお知らせ。船の総合案内が入る。食事、ショッピング、娯楽施設に病院まで。さらには専門店からプレゼントのお知らせなど、お得な情報満載のインフォメーションだ。
『それでは宇宙の旅をお楽しみくださいませ』
一瞬尻がソファーから浮くような感覚。垂直上昇が始まったようだ。テレビの裏側に窓がついているので立ち上がって確認に走る。
巨大な灰皿型旅客機はすでに垂直上昇を続けており、みるみる晴海が、銀座が、東京都が、日本が、地球が小さくなっていく。
『…セージを2件お預かりしております』
小さくなっていく地球に気を取られていたらパソコンが画像メール受信を知らせている。
『メッセージを2件お預かりしております』
「はいはい」
メッセージは船内はもちろんどこの惑星からも入れることができる。井ノ原はパソコンの前に座ると画面に表示されたメールマークをクリック。画面に青地白抜き文字で『発信・番号を入力ください』『受信・メッセージ確認』の2つの文字が現れる。
受信をクリック。
『1件目 5月2日 午前5時分 全宇宙連合加盟人工惑星スクウォー 大門順次様からの、画像メッセージです 再生いたしますか』
(兄貴? なんだろう)
滅多なことでもない限り連絡などしてこない人物からのメッセージである。画面の『はい』をクリックしてから肘掛け付き椅子で足を組む。
『おいゴロー、おまえ大変なことになったな』
全宇宙のエリートやVIPが集まる人工惑星スクウォーの全宇宙学園中等部の全宇宙歴史教師をしている兄がかぶりつきで迫っていた。
『まさかおまえが同行することになっていたとはなぁ』
顔が赤い。ハイテンションに滑車がかかっているのは兄の大好きなアルコールのせいに違いない。
『いいか、くれぐれも無礼や危害を加えるようなことはするなよ』
井ノ原は鼻息の荒い兄を肘掛けに腕を載せたまま椅子を左右に振って鑑賞。
「なんのことだ?」
『詳しいことはエリカちゃんに聞いてくれ。じゃ伝えたからな』
そこでメッセージは終了した。再び青い画面に『このメッセージに返信しますか』という白抜き文字が表示された。
「エリカちゃん? 誰だ? 返信しますかと言われても」
なにをどう答えればいいというのか。
返信は却下して『次のメッセージを観る』に移った。
『2件目、5月3日 午後4時分 ハナツバキA―113号室 エリカ・シュー様からの画像メッセージです 再生いたしますか』
つい5秒前に聞いたばかりの名だ。
『ミスター井ノ原、初めまして。惑星ヒルメーロ、マリア・ティールーム専務、オスカー・マリア第2秘書を務めておりますエリカ・シューと申します』
井ノ原は足組みをほどき前傾姿勢になった。エリカという紅い髪が特徴のヒルメーロ星人が重役秘書にしては容姿に凛としたものがみられないというのに意表をつかれたのもあるが、それが社長であるハリヤ・マリア氏の使いではなく、社長の息子である名ブレンダーと謳われるオスカー・マリア専務の関係者だったから。
ハリヤ氏は電話でこの旅行は息子にも内緒なのだと語っていたのに。
『お兄さまから連絡があったかと思いますが、今回の旅について大切なお話があります。離陸1時間後にロイヤルティールームへおこしいただけないでしょうか』
画面のエリカは素人がテレビにでたかのように唇を真一文字に結び、うつむき気味。テレビ電話が苦手だという人物を井ノ原はたくさん知ってはいるが、秘書という職業がこれでいいのか。しかも宇宙最大手マリア・ティールームだというのに。
「人手が足りないのかな」
そして井ノ原は気付いた。エリカに秘書らしさが感じられないのは書類の山よりショートケーキが似合う童顔に無理矢理楕円の銀縁メガネをかけて長い髪を後頭部にひっつめているからだ。いくら形からといっても無理しすぎてはいないだろうか。
『このメッセージに返信しますか』という文字が画面にでているので『はい』をクリックし、文書メールで「了解しました」とだけ打ち込んで返信した。
作品の中でならいくらでもこのようなハプニングは用意できる井ノ原だが、現実の取材旅行で謎の事態がおこるなんて初めての経験かもしれない。
井ノ原がトレンチコートを着たまま1等室専用喫茶&軽食スペースであるロイヤルティールームへ向かうとダークグレーのスーツを着た女性が立ち上がって軽く手を挙げた。
「ミスター井ノ原」
専務秘書、エリカ・シューだ。
全体像を見ると小柄な彼女はますますスーツが似合わない。ハイヒールで立ち上がっただけでよろけているあたり、足が豆だらけで歩くのが辛いのではなかろうか。
(これが幻ハンター暁金之助の世界だったなら、秘書という職業の女はダイナマイトボディーのお色気系か、かっちりしたスーツとハイヒールが似合う知的美女という設定にしたい。いや待て、金之助の場合3等個室か4等団体部屋だ。ハイソなロイヤルティールームでは女と会うことはできないな。となるとやはりバーで飲んでいるときに声をかけられそうだ。ここでひと暴れあったほうがいい。金之助に接触する機会をうかがっていた謎の美女。やはり主人公としては彼女を助けなければならないだろう。そのとき彼女に絡んでいた悪党が最後まで金之助と女につきまとい、襲いかかる。美女には襲われるだけの理由がある。となると、4等団体部屋での第3者との出会いは却下か? いや、あとでなにか案が浮かぶかもしれない。謎の美女となにかつながりがあるとか)
「保留だな」
「えっ?」
正面で現実の専務秘書が目を点にしている。人と会っているというのに創作世界に旅立ってしまった。作家の悪い癖だ。
「すみません。なんでもありません」
ウエイターに出されたメニューに目を通す。喉が渇いていたので地球産の茶葉でアイスアールグレイを注文。エリカの前には先に運ばれていたストレートティー。
「それの銘柄は」
「ヒトスキ星シーアのファーストフラッシュです。贅沢してしまいました」
注文してよかったという満足の花を咲かせる。可愛いらしい女性だ。
「あっ、すみません。大切なお話があるのに私ったら」
「美味しいものの前で頬がゆるむのは当たり前のことですよ」
井ノ原は当たり前のことを歯に光を称えて語っただけなのだが、エリカはびっくりしたように顔をあげた。
「なにか?」
「そう言ってくれたの井ノ原先…ミスターでふたりめです」
「いいよミスターはなくても」
「すみません。ヒルメーロ星ではブレンドやテイスティングは仕事ですから、ふやけた顔をするのは真剣味がないと、普通なら同僚や上司に怒られるんです」
「ひとりめは好きな人ですね」
会話のリズムで口走ったが、エリカはとたんに赤くなって慌てだした。
「そんなことより、大変なことになってしまったんです」
これでも一生懸命仕事をこなそうとまっすぐ井ノ原の目を見てきている。しかも涙ぐんで。
「大変なことって?」
「社長が倒れたんです」
「ハリヤ氏が」
アフタヌーンティー的なごやかムードが一瞬にして吹っ飛ばされた。と同時にハリヤ・マリア氏の息子の使いが現れた理由もおおまか想像ができた。
「申し訳ありません、社の都合でお伝えするのかギリギリになってしまいました」
「それでハリヤ氏は」
「幸い命に別状はなかったのですが、心臓の発作なので絶対安静です」
「なんてことだ」
「病院で、社長は息子である専務にキルネ行きのことを告げたのです」
やはり。深い溜息をついたとき、井ノ原の前にアイスアールグレイが運ばれた。背の高いグラスに氷も同じ紅茶で製氷されている。
「キルネでaフラッシュを井ノ原先生と賞味しに行くと聞かされた専務はたいへんお怒りになりました」
消え入りそうな声でエリカは語る。
茶に関わる仕事をする者なら当然といっていい反応だ。しかも父親が跡取りである息子ではなく、異星人の作家を連れて幻の銘茶を愛飲しにいくところだったのだ。激怒しなかったら普通の神経ではない。
「でも、社長は専務に事実を告げたあと代わりに行ってくれと頼み込んだんです。それで急遽私が先回りしてこの船に乗り込み、お迎えにあがったのです」
旅を中止にしてもよかったのにと井ノ原は思ったがその判断は自分がするものではない。
それにしてもさすがは豪華客船の1等室専用喫茶室。ベルガモットの香りが脳に覚醒作用をもたらしてくれる。いい茶葉を使っているのがわかる。
「中止にできなかった理由があるんです」
「理由?」
片手で持ち上げていた背の高いグラスを静かにコースターの上に戻す。その間にもエリカは肩をすぼめながら語っている。
「お兄さまからお聞きになっていませんか」
酔っぱらい教師からのメッセージのことか。
「社長は井ノ原先生にも伝えていなかったとおっしゃっていました。実は、同行者がもうひとかたいらっしゃるのです」
「なにも聞いていないな」
そういえばあの兄は同行という単語を使用していた気がする。
「その人物はスクウォーから乗船したわけですね」
ハナツバキは地球の前に全宇宙連合の友愛の印で造られた人工惑星スクウォーに着陸している。
エリカは両手を膝の上に置き、唇を真一文字に結んでキツツキのように小刻みに頷いた。
「紅茶、さめますよ」
どうもエリカは過剰に緊張している節がみられる。
「失礼します」
井ノ原のすすめに素直に従い、右手で白いティーカップを持ち、深呼吸をするように香りを神経細胞に送り込み、静かに1口、2口と乾いた体に潤いとリラックスを与えていく。
「はぁ」
カップをソーサーに置いたエリカはプレゼントをもらった子供のような笑みをみせた。
「はっ、すみません、私たら仕事中なのに」
いまさらあわてても遅い。というか、美味しいもの前では素直になるべきじゃないか。
「いいですよ。ぜんぜん」
雨上がりの虹の笑みに二十歳そこそこのエリカの頬はピンクに染まった。
「あの、ここではお話できませんので、私と一緒にその人物のいる部屋に来ていただけませんか」
この船がスクウォーに停まった段階で迎え入れたのだろうが、ティーラウンジにも来ないで部屋で待っているとは。
「その人はVIPですね」
エリカは首を縦に振る。小動物のような仕草が担当編集のヒイラギ嬢に似ていると思う。
「それは急ぎですか」
「VIPとの、面会ですか」
「勿論」
「先生をお連れするお約束の時間まではあと20分ありますけれど。なにかご都合が」
「ではまだ時間がありますね」
「え、はい。VIPルームは5分もあれば行けますから」
「ではだされたお茶を愉しみましょう」
「え」
「あと15分もある」
エリカはカップのお茶をみつめた。このままさめたら渋みが増してしまうだろう。しかもせっかくの新茶である。ポットにある2杯目もそそいであげなくてはもったいない。
「そうですよね。残したらばちがあたりますよね」
意見が一致し、宇宙規模作家と紅茶製造販売会社重役秘書は残り15分を紅茶にささげる決意をかためた。
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