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 その夜。キルネに向かう小型船がヒトスキ政府より用意された。  日本で言えばフェリーをふたまわりくらい小さくしたサイズだが船内外装備は全宇宙機械工業が設計し、工業惑星ウルで製造されたというだけあって、火山が噴火して溶岩が飛んできても装甲は傷一つくらいのもの、エンジンフル回転で振り切れるという代物だ。  全宇宙機械工業といえば人工惑星スクウォーに本社を置く、全宇宙よりすぐりの天才科学者が集まる全宇宙立工業株式会社。アッと驚く新製品は必ずといっていいほどここから産まれる。  井ノ原が着用している黒いトレンチコートも全宇宙機械工業製で、そこで働く長兄がデータ取りたいから着てくれ。そして大発明の広告塔になってくれといういわくつきだ。  話を戻す。  今回カウの行動は『お忍び』なだけに、漁船も眠っている夜中と早朝の間の出航となった。  よって見送りもごく少数の議員と護衛のみ。閣僚たちは体がいうことをきく年齢ではないので欠席である。 「お気をつけて」  頭をさげる若手議員たち。といっても40~60代。  誰もカウのキルネ行きを反対などできず、船まで用意するハメになったヒトスキ政府である。 「どうしても行かれるというのですか」  と思いきや、桟橋でまだそんなことを言う人物がいた。 「だったらシースも一緒に来ればいいじゃない」  意地悪な神様がにっこり笑う。 「い、いえ、私は」  露骨に後ずさるシースの顔には『キルネにか? 悪魔の島キルネにか?』と参考書よりわかりやすく書いてある。 「ミ、ミリガン。カウ様にもしものことがあったら、ヒトスキ全国民が許さないぞ」  ミリガンは「わかっています」とはっきり口に出した。 「じゃあ行ってくるね」  大きく手を振るカウに見送り隊は深々と頭を下げた。 「カウ様の身は私たちが必ずお守りします」  キルネまで同行するのはミリガンとギイルをはじめとするヒトスキ人ではない護衛官十数名。さらに数名の護衛官が別の船で並行することになっている。 「頼みます」  と若手議員代表がミリガンの手をかたく握りしめた。  天空の星だけをたよりに船はキルネに向かってすべりだした。  高温多雨というヒトスキであるが一行を歓迎しているかのように天気がいい。 「明日の早朝にはキルネに着きます。航海は操縦ロイドに任せておりますので、みなさんお休み下さい」  船のことをよく知るミリガンが仕切りにはいる。 「嬉しいなぁ。こんないい船に乗せてもらえるなんて」  元から嬉しそうな顔をしているので、その言葉が本心かお世辞か嫌味かわからないロンである。  ヒトスキ政府は大切な船にキルネ人を乗せることを決して快く思わなかっただろう。しかし昼間の一悶着でカウを泣かせたからお詫びにと妥協したのだ。 「さすが、全宇宙工業製と工業惑星ウルの共同開発は違いますね。まったく揺れがない」  自分はしばらく船を見学しますと船内に消えるロン。宇宙規模の文明とはまったくといっていいほど縁のないキルネ人にとってはじめてパソコンに手をふれる子供くらいに心ときめくときなのだ。 「ちょっと勝手に動かれては困り…、ギイル彼について」  ミリガンの指示に黙って頷きギイルも船内に入っていった。 「カウ様、風邪をひいてはいけません。なかにお入りください」  1年中あたたかなヒトスキとはいえ、夜の甲板は鳥肌がたつ。 「もう少し風にあたりたい」  カウは地上に降りた星のように蛍光している。どんなに深い闇の中でも『迷わないで』と進むべき方向を教えてくれているようだ。  井ノ原は思う。迷宮に堕ちたとき彼を見つけられたなら、きっと出口の存在を信じることができるだろうと。 「きれいね」  素直な感想を述べてしまうエリカにオスカーも頷いた。  井ノ原も素直な感想を述べる。 「まるで蛍だな」  地球人しか知らない生き物の名前に全員が井ノ原に注目した。 「絶滅寸前の地球の昆虫です。綺麗な水辺にしか棲めない繊細な生き物です」  井ノ原はそのサイズを親指と人差し指で測りながら説明した。 「見てみたいな」  そういうのは発光もとの本人である。 「機会があったら案内しましょう」  お尻だけでなく全身が発光しているカウが井ノ原の手をとって絶対だよと声を弾ませた。手を取られたのはハナツバキでの握手以来だが、また心に溜まっていた老廃物を取り除いてもらった感じがした。ストレスは溜めないタイプと思っていたが自分が思う以上に疲れていたのかと目を見張ってしまう。 「カウ様、お休みになってください」  2度目の命令には逆らえず、カウは「繊細ってところがぼくにぴったり」と言い残しミリガンと共に船内へ消えていった。  カウを見送った井ノ原はふたたび物言わぬ夜に視線をはわせる。並行して走る護衛廷の甲板にはヒルメーロ星から目にしていた女性が「不穏な行動をとればすぐさま手にした光線銃を撃ち込みます」という意思表示をみせている。  いまだヒトスキ政府に信用されていないのかなと井ノ原がうなだれ気味になったとき。 「かわいい女の子が操縦しているから天才児なのかと思ったら、それが操縦ロイドだそうですよ」  甲板に戻ってきたロン。あとからギイルもでてきたが出入り口に体がつっかえている。  しばらくしてミリガンが戻ってきた。 「みなさん、6時間後には到着します。キルネには平坦な道はないという話ですから少しでも眠っておかないともたないかもしれませんよ」 「そうですね。村に着くまでに干上がってしまうかもしれません」  笑顔は崩れないロン。 「そうだな」  とエリカを促し、オスカーは素直に船内に入っていった。 「わたくしも先に休ませていただきます」  ミリガンも船内に戻っていった。 「井ノ原先生」  甲板に残ったのは井ノ原とロンだけになった。  ほかに誰もいない夜の甲板ツーショットといえば作品内ではこれからのストーリー展開における重要な伏線が盛り込まれる場面。 「ご自分が誘われた理由はハリヤ氏からお聞きになりましたか」 「理由?」  地球人を連れてきて欲しいとキルネ側がいっている。そんな台詞しか聞いていない。 「地球人であるあなたに是非ともお願いしたいことがあるんです」  井ノ原がわかっていないことをロンは察したようだ。 「本当は長が言うことなのですが、病気で動くこともできないので」 「かまわないよ」 「長は命の火が消える前にもう一度地球人に会いたいといっているのです。それで、ハリヤ氏に信頼と知名度のある地球人を連れてきて欲しいと頼んだわけです」 「もう一度?」 「僕も生まれる前の話ですが。キルネに上陸して神の茶、キャラ茶と我々は読んでいますが。を初めてキルネの地で飲んだ異星人が地球の男性だったそうです」 「キルネに上陸した地球人…」  海をみつめるロンは深く頷いた。井ノ原も並んで海を眺めることにする。 「その地球人が名付けたaフラッシュというのが全宇宙に広まってしまったんです。長はどうしてもそれが納得できず、同じ地球人の口からあれは間違いで神聖な神のキャラ茶だと訂正を全宇宙にむけてして欲しいと願っています」 「ふむ」 「これはすべてのキルネ人の願いです」  一瞬ロンの顔から笑みが消えた。 「えっと、なぜその地球人はaフラッシュと名付けたのかな」  それはずっと知りたかったこと。 「その地球人がキャラ茶を飲んだときの第一声が『これはエエお茶や』というところからはじまったそうです。地球の言葉では『いいお茶』ということらしいですね」  エエお茶→エー茶→a茶→aフラッシュ  幻ハンター暁金之助と相棒の銀狼が金と銀のタキシードを着て「エエフラッシュ!(腕を十字にして光線発射のポーズ)」「そうじゃないだろ!」と漫才をはじめてしまうほどの理由だった。  井ノ原はめまいをおぼえた。 「キルネにとっては神聖なお茶なのです。井ノ原先生の力でお詫びと訂正を」  井ノ原は暗い海をただただ見つめ。出発前に出版社の若社長サニーが語ったことを思い出した。 『おじいさまも変わったお茶を飲まされ、あれはエエお茶やったとは言ってたけど』 (それか、まさかのそれなのか……)  口に出して言うことなどできなかった。  その夜は夢にまで暁金之助と銀狼が「エエお茶だから〜」「必殺技! aフラーッシュ!」という漫才をはじめ、しかもそれがおもしろかったので目覚めたとき井ノ原はほくそ笑んでいた。 「番外編でも書くか」  という気になっていた。  先ほど操縦ロイドからあと1時間半で到着するから起床して食事にして下さいという船内放送があった。  上陸すれば即登山という。井ノ原は船で用意された寝巻きから登山スタイルに着替えはじめる。黒いシャツに黒皮ズボン、靴は銀座の街をウォーキングに見える。まるでカジュアルレストランにでも行くような感じだがこれも全宇宙科学工業製のすぐれものなので登山仕様なのである。ロングコートは当たり前のようにはおり、必要な荷物はすべてマイクロ化して黒いリュックにつめた。  はっきりいって、いままでと変わらないいでたちである。 「井ノ原先生おはようございます」  食堂でカップのコーンポタージュを手にしたところで声をかけられた。  ノーマルな登山服姿のオスカーであるが後ろにひかえているエリカと堂々ペアルックであるあたりハナツバキでの買い物もさぞかし楽しかっただろうと推測される。  正面に座るふたりにサービスロイドがすぐさまトレイに載った洋風朝食セットを持ってきた。 「おはよう」  登山の王道といったスタイルのふたりに優しい微笑みをむける井ノ原につかさずエリカが。 「本格登山スタイルでなくて大丈夫ですか」  と聞いてきた。キルネは全宇宙でも希少価値な非文明地帯で山登りも貴族様の趣味ではすまされないほどけわしいとされている。 「これでも登山仕様ですから」 「でも、靴は重要ですよ。足をとられたら進めませんから」  エリカはハンドルを握るとアドレナリンがフル分泌されるドライバーのように鼻息を荒げている。 「エリカさんは登山に詳しいんですか」 「はい。大学のサークルも登山部でした。地球の山も登ったことあります。富士山とチョモランマ」  エリカの大きく開かれた目からお星様が飛び散っている。よほど山が好きなのだろう。井ノ原は大昔の地球人の台詞である『そこに山があるから山に登るのだ』という言葉を思い出していた。  正面に座るオスカーがパンに手をつけたとき、ロンが井ノ原の隣に腰かけた。 「みなさんおはようございます。ちゃんと食べておいたほうがいいですよ」  早起きのけだるさとは無縁のニコニコ顔である。 「ロンさんはそんな軽装で大丈夫なのですか」  首相官邸に現れたときとまったく変わらない。麻に似た素材のTシャツに同素材のダボついたズボンから黒い尾をだしている。 「僕は産まれたときからこういう格好ですから」  余裕なんだか普段どうりなのか。運ばれた食事に舌鼓を打ってにこにこしている。 「美味しいなぁこのパン」  人の倍ジャムを塗りほおばる。ストレートティーをノドをならす勢いで飲む。 「お茶はキルネ産が一番だけど」  天井を仰ぎ勝ち誇る。 「それは楽しみですね」  この井ノ原の言葉にはオスカーも頷いた。 「早く神聖なるキャラ茶を飲んでいただきたい」  ロンは井ノ原にむかって『昨夜のことは忘れてはいないでしょうね』と認め印を押すような言い方である。 「そうですね」  井ノ原も天の川書房の受付嬢を悶絶させる笑顔できり返す。  種類の違う笑顔のぶつかり合いに理由がわからないオスカーとエリカは突っ込むまいとパンを口に運んだ。 「みんなおはよう」  大きなあくびとともにカウがミリガンとギイルを従えて入ってきた。あくびひとつでさえシャッターチャンスのキュートさだ。 「興奮しちゃってろくに眠れなかったよ」  初めて目にする故郷まであとわずか。期待と不安に胸ふくらむのはよくわかるので照れ笑いを浮かべるカウにオスカーとエリカは『ほんとうの笑顔ってこういうものだよね』と口には出さなかったが確実に以心伝心でハートをあたためた。  腹ごしらえが済めば上陸するのみである。 「みなさま、キルネが見えてまいりました。甲板にお上がりください」  親切な操縦ロイドのアナウンス。全員が狭い階段を押し合いへし合いでのぼり、船が目指す前方に視線を流した。 (幻ハンター暁金之助の世界ならこうだ) 「あの島に幻のお茶があるんだ」と銀狼。 「幻の茶は幻獣が守っている、か」と金之助。  ふたりが瞳を輝かせている。危険や困難を予告されればされるほど血気盛んになる。そんな奴らだ。 「爺さん。身の為だ。船で待っていてくれて構わないんだぜ」  謎の老人は自分の身代わりになっている友達を助けたかった。自分の代で宇宙規模の大会社が潰れることになろうとも。それだけの恩が彼にはあった。 「なにをいうか。わし自身がやり遂げなくてはわしは一生恩がかえせん」  老人の瞳はひるむどころか熱を増し今にも炎を吹き出しそうだ。 「まだまだお前らには負けん」  目の前の島のてっぺんからは火山活動が盛んな証拠に真っ白な噴煙がタバコを吐く息のように排出されている。 「これがラストチャンスなんじゃ」  老人の目に決意の光。 「え、ラストなの」  自作設定に井ノ原驚愕。作家の妄想にはよくある現象だ。 (ということはこの老人、以前にも挑んだことがあったのか。ふって湧いた設定とはいえこれは作者もビックリだ) 「う〜む」  現実の島に目をむける。カモメに似た鳥の団体が紙飛行機のように舞うなかにたたずむ。 (にしても驚いたな。老人は過去に、そうだ一人で幻の茶に挑んでいたのだ。しかしその困難さに逃げるように帰ってきてしまい、一人ではどうすることも出来ないことがあることを知り、助っ人を捜していた。自分の目でこいつならと思える者を協力者である謎の美女とともに一刻も早くぅうううううう) 「う~む」 (早急に頭を回転させたせいか設定が先走ってきた。少し置いてから練り直したほうがよさそうだ) 「海岸にだれかいる」  手のひらを額でかざすオスカーが言う。 「出迎え?」  エリカが尋ねる。 「あぁ…」  とロンが溜息をつく。嬉しいというより困ったと言いたげな。 「要注意人物ですか」  カウを守らねばならないミリガンがそう尋ねるのはもっともなことで、とっさにギイルがカウの前に立った。 「ギイル、島が見えないよ」  と主が不満を言っても身をもって壁になるのが使命である。それに気付いた護衛船のメンツもそんなに乗船してたっけ? というくらいの人が甲板に押し寄せ島に向かって武器を向けにかかった。 「待ってください、そんなんじゃありません」  慌てたのはロン。笑い顔のまま両手を大きく振って制止を呼びかけた。 「大丈夫ですただの出迎えですから」  ミリガンがその言葉を信じて部下たちを下がらせた。  だんだん、その人物が腕を組んだままこちらをジッと見つめていることや、4人の子供がまとわりついているのが見えてきた。 「女性ですね」  乱視用コンタクトレンズ使用の井ノ原でも人物が見える距離になった。その女性はロンと同じ素材の布をビキニスタイルにして腰に短剣を下げている。均整のとれた3サイズに非常に似合っており、罪なくらいの露出度とも思えた。  子供たちは高校生くらいの女の子と中学生くらいの女の子と小学校低学年に見える男の子と女の子で、船が近づくにつれ女性の後ろにかたまって顔だけ出しているような状態だ。  泳げば陸までたどり着けるという距離にきたとき船は停止。ここからは浅瀬になるのでボートをだして砂浜まで行くのである。  ボートの準備が待てないロンは先に行きますと海に飛び込んだ。  同胞がこっちに泳いで来るというのに女性はポーズを崩さず今にも槍を投げつけてきそうな目つきで上陸用のボートをおろす船をにらみつけている。 「ネネ、わざわざ出迎えてくれたんだ」  岸にあがったロンに真っ正面に立たれ、視界を遮られたネネという女性は扇型に広がった髪をブンと振り両目を露骨に細めにかかる。 「邪魔」  額を貫く一言である。慣れているロンでなかったら「このアマァ!」と拳が出かねない生意気さ。  ロンは溜息をついて後ろに隠れている子供たちを見た。 「あたしたち、よその星の人をこんなに見るのはじめて!」  13歳のミミがはりきって答え、小さい二人が頷き、15歳のユユはネネの腕をつかんで息を飲んだ。 「まさかと思うけど、客人に襲いかかったりしないでくれよ」 「笑いながら言うのやめて」 「地顔なんだけど」 「お姉さま、人が大勢来ます」  ユユがこわごわ指をさす。彼らから100メートルほど離れたところで訪問者が上陸をはじめたのである。ネネたち島から出たことのないキルネ人にとって、はじめての異文化交流のときが訪れたのだ。  ホラー映画が始まるような空気。怪物がやって来たわけじゃないんだけどな、と外にでる機会の多いロンは先行きに不安を覚える。 「そんな堅くなるなよ。なかにはハリヤ・マリアさんの息子さんもいるし」  それにはネネが目を吊り上げる。 「ハリヤさんはおじいちゃんの友達で来るときはいつもひとりでしょ……じゃないわ。なんでハリヤさんが来ないのよ」 「ハリヤさんは病気になって代わりに息子さんが」 「ちょっと待って」  ネネはロンの言葉を遮った。  ネネと子供たちの顔から警戒心が掃除機の威力で吸い込まれていく。逆光ではっきりしなかったが、大男(ギイル)の肩に乗っているのは話でしか聞いたことがなかった神様ではないか。  姿をとらえただけだというのに6秒間声も出せなければ指一本動かすこともできなかった。 「うわぁ。あれが神様なんだ」 「人じゃないみたい」  幼いふたり組がようやく素直な感想を述べる。 「彼はほんとうにキルネ人なの?」  ネネは無性に胸が熱くなった。  針金のようなキルネ人の髪が風に流されることがあるだろうか。風が吹いただけで紙のように飛ばされるキルネ人がいるだろうか。  両手に水桶を持ち、空いた足で野ネズミを蹴飛ばす脚力があの少年にあるのか。ただ色が白いだけの突然変異で自分らとなんら変わりはないのだと聞かされていたが、大人は嘘つきだと開いた口から出すことも出来ない。 「たいして僕らと変わらないじゃないか」 「ロン、あなた眼科医に診てもらった方がいいわね」  重力を無視しスローモーションで砂地に降りる光のかたまりにネネの足は砂に埋まりそうだった。 「信じられないわ。めまいがしそう」  呆然とする隙をついて、ひとつの影が動いた。素早いのはキルネ人の得意技ではあるが、たましいを抜かれていたネネはカウに向かって走るミミを捕まえることができなかった。 「ミミ! 待ちなさい! あっ、フフもレンも!」  子供たちはなにも恐れない様子だ。  動けないのは大人であるネネだけであった。  しかし、先頭を走るミミは足がもつれて、スライディングのように倒れてしまい、つられて幼いフフとレンもコケそうになる。  それをみて、ユユも走り出した。 「綺麗な砂だ」  砂に光る成分が入っている。透明なガラスに入れて砂時計にしたら夜食のカップ麺がさらに美味しくなるに違いない。なんてことを井ノ原は思った。 「子供たちがこっちに来るわ」  気付いたのはエリカだった。矢印が伸びる勢いでキルネの子供たちがこっちにむかって走って来る。  井ノ原は盛大にズッコケて、顔から砂に埋まるように倒れた女の子におもしろ味を感じた。 「ドジッ子かな」 「みんな、油断しないで!」  子供といえどなにをしでかすかわからない。ミリガンは瞬時に十数名の護衛官をカウの前に立たせた。船上に残る護衛官も警戒態勢である。ゴール死守といったところか。  しかし、ムクリと立ち上がり、砂を払う女の子。  まとめるのがむずかしいボリュームのある髪を頭の高い位置でふたつにわけてゆわいている彼女は鉄壁のゴールなど恐れないといわんばかりにまっすぐ走ってくる。  ほかの子供たちもあとをまっすぐ追ってくる。 「止まりなさい!」  ミリガンの制止の声も聞こえないのか。 「どいてどいて!」  しかも護衛という職業の方々の仕事内容を無視する発言。ミミはボーリングのピンに挑む鉄球だ。 「元気な子だな」  井ノ原は笑いすらこみあげてきた。 「こんにちわ! あたしミミ」  人々の輪にたどり着いたミミは晴れ晴れとした自己紹介を繰り出す。  満面の笑みでミミはカウの前に立っていた。  え、いつの間に? である。  間をすり抜けられたことを護衛たちは気付くことができなかったのである。驚愕する彼らの胸の内には『護衛官失格』というプライドが崩れる音が響いたに違いない。 「すごい身体能力だな」  感心する井ノ原。  前にでようとするギイルであったが。 「大丈夫だよ」  制止してカウは女の子を見つめた。 「カウです、こんにちわ」 「あたし、神様見るのはじめてなの」 「ぼくだって同じ年頃の仲間を見るのは初めてだよ」  ほほえましく握手を交わした。  いまここに、神様故郷に帰る、開幕である。  といったところ、だったのだが……。 「え」  とたん、瞳の奥に閃光が走りめまいを起こしたカウである。 「危ない!」  ギイルがいたのでちゃんと支えられたが。 「え、え、え?」  目があらぬ方向に泳いでいる。  びっくしりて腰を抜かしているようにもみえたし、空気が抜ける音がして魂が抜けているかのようにも見える。  一方のミミは目をまん丸に見開いてキョトンとしている。なにがおこったのかわからない、といった様子だ。 「おい、大丈夫か?」  と井ノ原がどちらとともなく声をかけても状況は変わらない。  ほかの子供たちがミミの腕を引っ張ったりして、ようやくミミが叫んだ。 「あたし、なにかしちゃったの?」 「なんだ? なにがあった?」  周囲がざわつきはじめた。 「ミミ!」  息もきれぎれのユユがようやく到着した。 「なにやってるの! こっち来なさい!」  ユユの叱責にようやく目がさめたように見えるミミであるが。 「ユユ姉ちゃん、なんか、わからないの、握手したらカウが倒れちゃって」  ユユはミミの頭をなでて、周囲の護衛たちに頭をさげた。 「ごめんなさい。許してあげてください」  頭をさげるユユの背後でネネに厳重注意をされているミミ。しかし、なにかをした覚えがないからミミもどんな顔をしたらいいのかわからないでいる。 「カウ様! お怪我はありませんか」  とんできたミリガンに何故か真っ赤になるカウは。 「ぼくは、まったく、大丈夫、なにも気にしていないから、ミミをしからないでください」  ようやくといった感で声をだせた。  それを横目にしたミミがとたんに青くなる。 「ごめんなさい!」  やはりなにかしてしまったんじゃないかという不安でいっぱい。そんな顔になっている。 「ほら、はなれなさい」  ネネに腕を引っ張られてしまい、ほかの子供たちもあとにつづいた。 「いや、そうじゃなくて、そのっ、あああ」  目をまわしてだれに向かってなにを言っているのかわからない。 「カウ、大丈夫か?」  さすがに井ノ原も心配になるが。  ただ激しくうなづくだけのカウである。  さて、一悶着が落ち着いて。 「出迎えありがとうございます。わたくしカウ様の護衛兼専属医師のミリガン・パウアイと申します」  話を元に戻そうとミリガンはネネに手を差し出した。 「ネネです。子供たちがたいへんなご無礼を」 「いえ、子供は元気がいちばんですから」 「ありがとうございます。村まで案内させて頂きます」  ネネも笑顔でその手をとった。  ミリガン、ギイル以外に護衛官は10人ほどつけ、残りは船に残してキルネの村に向かうことになった。  幼いフフとレンは元気よく山道を駆け上っていく。夏休みにおじいちゃんの田舎ではしゃぐ地球の風景みたいだ。  ネネの話では村までは、なだらかな山道を2時間ほどという。 「もっとかかるのかと思いました」  しかも足をひっかけるのも困難な崖を登ったりするのかと思っていた。 「嫌だなぁ。村まではたいしたことはないですよ」  井ノ原にロンは笑って返した。  一行が進む道は深い木々に囲まれているおかげで思っていたより涼しいし、坂道も階段を上る程度のもの。海岸との行き来も多いようで幅もあるし道らしき道になっている。中学生レベルの遠足コースである。 「井ノ原先生が思っているような山道は明日経験することとなりますから」 「明日?」 「採りに行くんですよ。キャラ茶」  とにかくキャラ茶という単語に力を込める。よほどaフラッシュという名前が気に入らないのだろう。 「井ノ原先生にはキャラ茶のすべてを知っていただき、間違いを訂正して頂かなくてはならないのです。茶摘みには参加してもらいますよ」  嫌な予感を与えてくれるロンのニコニコ顔である。  その真後ろで。 「ミミちゃんはいくつなの」 「13歳です……」 「そう、お茶にはくわしいの?」 「キルネ人は、お茶とともに生きてきましたから……」  エリカと話が弾んでいるようだったが。 「そんなに気にすることないわよ」  さきほどのことをミミはかなり気にしている様子だった。出会いの時の元気が半分以下になっている。 「あたしの手、汚かったかな……」 「この宇宙に汚い女の子の手があるものですか」  エリカは鼻息を荒くした。 「エリカさん……」 「神様といっても女の子に免疫なさそうじゃない。きっとミミちゃんの手がやわらかくて暖かだったからびっくりして気絶したのよ」 「えっ!」  それは考えてもいなかったからか。ミミの頬がほんのり赤くなる。 「かわい〜」  お姉さんらしい感想をもらしてしまうエリカである。その隣でオスカーがため息をついた。    さらにその後方で。 「ギイル、降ろしてくれる」  炎天下のハイキングコースを歩いてまた倒れられてはかなわない。ミリガンの命令でギイルの肩に乗せられているカウである。 「降ろしてよ。これくらいの道自分で歩けるんだから」  ギイルは無言である。  嫌でも前を歩くミミの背中が目に入ってしまう。かといって目をつぶるわけにもいかない。 「こんなはずじゃなかったのに……」  本当ならやっと足を踏み入れた故郷の地に感動の涙ひとつでもこぼしたいところだった。 「なんでぼくにはこんな能力あるんだよ」  カウはミミと握手した手をじっと見つめる。穴があくほどに。 「あの、ほんとうにごめんなさい」  ギイルの巨体で隠れていたので、声を出されるまでミミの姉であるユユが近くにいることに気づかなかった。 「ミミは物心ついたときから遠慮知らずというか、図々しいところがあって、だから無礼を許してあげてください」  ギイルの歩く振動で震え上がっている。対照的な姉妹だ。 「初めて見る神様や大勢の異星の方に興奮しているだけなんです。あなたが帰ればきっと忘れてしまいます」  登山中でなかったら手をついて頭を下げる勢いだ。 「いや、それは、そんなこと……」  カウはなにか言いたかったが、適切な言葉がみつからない。 「どうしたらいいんだろ、ぼくは」  ただうなだれる。  先頭を歩くのは道案内のネネと隣を歩くミリガンである。 「よくそんな格好で歩けますね」  ネネが言うとおり、ミリガンは登山用ビジネススーツに登山用ヒールを履いており、見かけは普段とまったく変わりがないいでたちだ。  登山用スーツはビジネスマンの必需品ともいわれているが、キルネの誰に向かって名刺を差し出すというのだろう。 「慣れていますからご心配なさらず」  アップにした髪も楕円形の眼鏡もそのままである。ネネには宇宙規模の常識はまったく理解できない。  しばらくの沈黙の後ネネがきりだした。 「アタシとカウは親戚なの」 「は?」 「カウの母親の父親とアタシの母さんが兄妹なの。で、その父親、つまりアタシのおじいちゃんがキルネの長」  近いような。遠いような。つまり、ネネとカウの母親が従兄弟ということか。 「そうなんですか。ヒトスキ政府は、そういったことは?」 「しょぼくれの集まりにそこまで教える義理はないわ」  本来ならネネはもっと速いペースで歩く。後ろのノロノロした人たちのためにゆっくり歩いてあげているのだ。それだけでストレスが蓄積されていく。 「ミミのせいでカウに親戚だって言うタイミングを逃してしまったわ」 「まぁ、タイミングはこれからありますよ」  しばらくの沈黙の後。ネネがつぶやいた。 「彼は綺麗ね。あれじゃあアタシたちが悪魔と言われてもなにも言い返せない」 「そのような大昔からの呪縛が明日には解けることを願いますわ」  ミリガンは、道の先を見つめながら返した。  それから1時間後。長い長い木のトンネルを抜けたらそこはキルネの村だった。 「おかあさーん!」  ミミがゼンマイを巻かれたように駆けだす。木陰の暗さから外へ。光の中に吸い込まれていくような錯覚を与える。  村は学生時代に見た歴史の教科書のイラストに似ていた。と井ノ原は思う。 「高床式住居だ」  広場の中央には井戸があり、それを取り囲むように木のはしごが垂れる木の家が放射状に並んでいる。木材はヒトスキ首相官邸と同じものだ。屋根に使われているのは山道に売るほど棲息している、この地特有の大人の背丈もある楕円形の葉っぱ。 「高いところに住居を造るのはネズミよけの為です」  井ノ原の呟きにロンが理由を語ってくれた。 「島のネズミは下半身デブだから高いところは上れないんですよ」 「へぇ、見てみたいな」  ロンは左方向を指さした。木の下に熟しすぎた洋なしが…と思ったらつきたてのお餅のように左右にゆれた。後ろを向いていた尻尾のないネズミは「呼んだ?」と振り返ったつもりなんだろうがお尻についた贅肉が邪魔してかろうじて鼻先が見えるだけ。人の気配をやっと感じてボテボテと逃げ出した。 「食欲だけは旺盛なんです」 「なるほどね」  なんて話をしているうちに家々から人が出はじめた。老人と女子供が多いのは男は集落の裏にあるという茶畑で新芽を採りに行っているからとロンがいう。  人々がおっかないものに近づくように慎重なのは、おそらく島から出たこともなければ外からの訪問者にも慣れていないからであろう。  キルネのみなさんにまじまじと観察され、じょじょに囲まれていく異星人一同。皆それぞれに身をかたくするが、キルネ人たちの目によその星の人間など映っていなかった。 「神様」 「神様が来たよ」 「なんて神々しい」  カウに興味を持っていかれるのは当然だ。誰だって凍える雪山で、あたたかな光を見つければ意識せずとも足を向ける。しかもここは神様の産まれる聖地でもある。  キルネ人たちの歓喜を文章にして読者に伝えるには井ノ原をもってしてもあと30年はかかるだろう。  地にひれ伏し祈りを捧げる老人まであらわれ、人だかりはギイルとミリガンに挟まれたカウのまわりに集中し、井ノ原たちはいつの間にか輪の外にはじき飛ばされていた。 「井ノ原先生、我々はどうしたらいいんでしょうか」  と聞くオスカーに。 「一緒にカウを拝みますか」  と笑いをこぼす。  輪から引き離されていく他の護衛官たちが顔を見合わせ頷き合い、この人垣に突入を決めた。 「どいて」とか「離れなさい」とかわめいているようだがやっと帰郷を果たした神様への敬意や愛情や感動のるつぼに、よそ者はつぎつぎとはじき飛ばされフッ飛ばされていく。 「恐るべし地元パワー」  これは一段落するまでどうすることもできないと井ノ原は思った。カウが故郷に帰りたがっていたように、人々も神様に帰ってきてほしかった。その迫り来る感情のなかによそ者が入れるわけがない。 「どいて!」  ところが、一喝で人垣がパックリ左右に割れた。それほどネネという長の孫娘は権力を持っているのか。  ネネの隣には女性が立っている。なにかの作業中だったのか白い三角巾にマスクにエプロンをしたまま。 「カウ!」  と女性は叫んだがすぐさまネネに「母さん、マスクぐらい取ってよ」と突っ込まれる。 「あらやだ」  あわててマスクと三角巾をとる女性はネネの20年後を思わせる風貌だ。村のおばさまたちが涙をぬぐいながら「ムムさんそそっかしいんだから」と大爆笑になる。 「カウ、私はあなたのお母さんのお父さんの妹で……この場合なんていえばいいのかしら」  ネネの母親ムムはすでに泣いている。 「つまりアタシら、あんたのリアル親戚よ」  ようやく言えたネネである。  駆け寄るムムに抱きしめられるカウの表情は状況をまったく飲み込めずに気を失っているように見えた。 「会いたかったのよ、ずっと会いたかったの」  カウにしがみつくムムはあっという間に人垣に囲まれてしまい、ふたたび井ノ原たちは蚊帳の外となった。  病気の長は熱が下がらないというのですぐ面会というわけにはいかず、昼間はカウとキルネ人たちの空白の時間を埋めるためだけに費やされた。  井ノ原たち異星人は祖国に戻れた神様の感涙シーンを見守る観客であったが、ムムおばさんにことあるごとにぎゅっと抱きしめられているカウををみるのはなんとも和む風景である。  笑い合うキルネの人々とカウの間に一体なんの隔たりがあるのだろう。  ここにきてはじめてカウが普通の少年に見えた。いつかこの不思議な感覚を文章に出来たらと井ノ原は思う。 「こんな元気なカウ様ははじめて見ます」  ミリガンが涙ぐんだのが印象的だった。  が、井ノ原はミミの姿を追う割には目が合いそうになるとあわてて顔をそむけるカウのほうが気になっていた。  それにともない、さみしそうなミミ。 「男として、これはよろしくないな」  と思う。  その夜。  主賓席に縁起物らしく座らされた神様の前では歓迎の大宴会がにぎにぎしく催された。  そのノリというのがまるで地球におけるサラリーマンのお座敷忘年会のようで、主賓を楽しませるというよりは自分さえ楽しければ皆楽しいはずだ。という信念のもと進行している。 「大変だね、おねえさん、その若さで神様の護衛官長なんてさ」  お酒でいい気持ちになっている男性が酌をしてあげようとミリガンにせまる。はじめはかたく「仕事中ですので」と言っていたが相手の「おねえさん」の一言で「じゃあ一口」が災いし、紅茶酒のとりこになってしまった。 「ミリガン、飲みすぎないでよ」 「大丈夫よ、わたくし学生時代ミス酒豪だったんですから」  知らなくてもよかった過去を聞いてしまい余計カウは不安になった。  見渡せば本当に飲めない3人を除いて護衛官は全滅しているといっても過言ではない。鋼鉄の精神を持っている筈の護衛官がキルネの方々と肩寄せ爆笑するまで飲まされてしまうとは、常識が非現実に染まっていく様を見せつけられているようだ。全宇宙から厳選なる審査の上選ばれたエリート護衛官たちが紅茶酒と地元のノリに、こうも簡単に負けるとは。  ヒトスキ政府のおじちゃんたちが見たら卒倒のうえ全員クビ間違いなしだ。 「よかったよ、ギイルが飲めなくて」  ギイルは小さく頷いた。陽気ということが発覚したキルネ人であるが、無口な大男ギイルは無理に酒は勧められなかったようでカウにとっては大変助かることである。 「まぁ、みんな楽しそうだからいいんだけど」  ギイルはふたたび頷いた。 「ごめんカウ。おじいちゃんまだ寝てるんだ」  ネネがおじさんたちのおだて攻撃で浮かれまくっているミリガンを押しのけて隣に座った。 「本当ならすぐ会わせてあげたいんだけど、病気で昼間まで熱出してたし、ようやく落ち着いて寝てるところ起こしたくないし」 「いいよ。仕方ないもの」  長いまつげを伏せるカウをネネはまじまじと見つめに入る。寄り目になりそうな勢いである。 「なに?」  カウに言われるまで見とれていたことに気付かなかったくらいだ。 「あ、ごめんなさい」  あわてて離れるも頬が朱に染まるのは、はしたないことをしたという羞恥心。 「あのさ、アタシ一人っ子だからなんていうか、嬉しいのよねカウの存在が」 「ぼくも。お姉さんって思えるよ」  瞬間、ネネの耳からすべての雑音が消え去った。自分たちのなかから希少な確率で産まれる奇跡が隣で微笑みかけているのだ。 「おねいさまカウをひとりじめしないで」 「そーだそーだ」  さらに間に入ったのは幼いフフとレンである。間に2人入ったおがげで陽気なミリガンがさらに遠くに流されていく。 「子供はあっちいってなさいってなんど言えばわかるの。カウが迷惑するでしょ」 「おねいさまこそロンにいちゃんのとこ行けばいいじゃない」 「だ、誰がそんな!」 「みんなしってるもん」 「そーだそーだ」 「あんたたちねぇ!」  大人と子供といえども女の火花は散らせるものであった。 『…昔昔おじいさまとひぃじいさまがキルネに潜入したらひぃじいいさまは記憶がなくなるくらい謎の液体を飲まされグデングデンになって、子供だったおじいさまも変わったお茶を飲まされ、あれはエエお茶やったとは言ってたけど…』  サニーの真剣な顔が浮かんで消える。 「残念ですが飲めないんです」  井ノ原の周りにはおばさまが酌をしたがって大騒ぎである。 「んまぁ、色男が酒の一口も飲めないでどうするの。キルネの紅茶酒飲んだら酒嫌いもなおっちゃうわよ」  ユユとミミの母親であるぽっちゃり型のセセはお酒でできあがっているせいか、やたら肩や手に触ってくる。  井ノ原は酒嫌いじゃなくて、体質的に飲めないんだけどなと困りつつも、どのような言葉を紡いだら上手く断れるかを思案中。 「お兄さん小説家なんですって。お願いしますよ、aフラッシュじゃなくてキャラ茶ですから」 「ええ、その話はロンから聞きました」  全員一致で頷くおばさまたち。 「お兄さんそんなもの羽織っててよく汗かかないわねぇ」  別の奥様がこの場でも脱ごうとしない黒いトレンチコートに突っ込みを入れた。 「コートを着ているほうが涼しいんです」  と簡潔に答えると奥様たちは宇宙には不思議な物があふれているのねぇと口々にはやし立てた。 「お兄さんおひとり?」  おばさまたちは話題を切り替えるのが早い。 「といいますと」 「いやねぇ、いい人いるのかってことよ」  雑誌のインタビューでも初対面の大作家にこのような質問はしない。とはいえ外からの情報を得る手段のないキルネの人たちにそんなことを諭してもしょうがないことのように思える。 「妻ならいますが」 「井ノ原先生結婚されてたんですか」  仰天はちょっと遠くから聞こえてきた。紅茶酒で真っ赤な顔になっているオスカーである。 「子供も2人いるんだけど」 「ウソッ! 全然生活臭がないから独身貴族だと思ってた」  彼氏と同じ量飲んでいるのに顔色一つ変わっていないエリカも仰天している。  アルコールの香りに包囲され、どう答えていいかわからない井ノ原におばさまたちも「遊び人にみえるわよねぇ」「女100人は泣かせていると思ってたわ」と囁きあうから、井ノ原は結婚指輪だってしているのにと自分のイメージについて頭を抱えるハメとなる。 「だったらロンに女性の口説き方教えてやってよ」  ミミユユ姉妹の母、セセが手を握りしめにきた。 「ロンたらネネに気があるくせにオクテで全然ダメなのよ」  おばさまみんな肯定の目を向けているので事実なのだろう。 「へぇ」  女性の口説き方。  告白とは、男らしさ披露のとき。女性の待ちこがれるロマンス。ふたりの気持ちが合致したとき成立する愛の鐘。小説ならば設定を考えるのはかなり楽しい作業だが。 「どうなんです。先生はどうやって奥様を口説いたんですか」 「プロポーズの言葉は?」  しかし自分自身のこととなるとどうだっただろう。井ノ原は学生時代の記憶の扉をノックしては開けまくった。  結果。 「妻を口説いた記憶がないな」  おばさまたちの動きが一斉に止まった。別の周囲のドンチャンが浮き彫りになるほど静かになった。 「いやねぇ、こういうことは若いふたりに聞いた方が楽しいじゃない」  セセの言葉でおばさまがたはアツアツのオスカーとエリカのほうに移動を開始。  井ノ原は取り残されてしまった。 「ふ〜、助かった」 「女性たちがうるさくてすみません」  ウワサをすればでロンが隣に座した。 「いいえ、楽しいですよ」  ニコニコにこちらも笑顔で返す。 「本来なら長に会ってもらうところなのですが」 「私はいいのですが、皆潰れそうですよ」  あちらこちらでお酒による笑いが爆発している。  何気に視線を感じる。主賓席のカウが心細そうな顔でこちらを見ていた。その隣でネネがミミの腕を引っ張って「あんたたち仲直りしなさい」とか言っているのが見えたので軽く手を振るにとどめた。 「なんか、イイ感じじゃないですか」  とロンが言う。 「なにがです?」  と井ノ原。 「握手のときから互いを意識してるよね」  ロンは大変嬉しそうなのかふざけ笑いなのかわからない。 「あー、ロンさんもそう思いますか」 「こういう場合、気付いてないのは当人たちだけなんですよね」  あまりにロンがニコニコするので。 「ロンはネネさんが好きなのかい」  聞いてみた。 「誰がそんなことを?」  素早い反応だ。宴会の騒ぎにかき消えるほどの呟き声だったのに。 「皆言っている」  ロンはそばにある紅茶酒を木の器に入れ、一息に飲み干す。 「不安になるんですよ。彼女を見ていると。父親に早く死なれ、長が病気になってから自分が代行を務めるというのはいいんですが、島が沈むというのにヒトスキ政府の世話にはならないと言い張って」 「でも君は新天地移住のためヒトスキ政府の力を借りようとしているわけだ」  ロンは2杯目を手酌しながら頷いた。 「どうしてもヒトスキ政府の力は必要になるのです。キルネ島以外の土地はすべてヒトスキ政府の管轄ですから」  勝手な移住はしたくない。互いにしこりが残らないよう移住を済ませたい。 「ネネはいよいよとなったら船で脱出してから別の島を捜せばいいと言うのです。年寄りは過去の迫害を持ち出してどこに住もうが政府に文句は言わせないとネネを支援している」  その裏でロンたち有志が好意的なヒトスキ市民と手を組んで移住先を検討している。 「穏便に移住したいのです。そうしないとわたしたちはふたたび悲惨な過去を繰り返してしまう」  2杯目も一気に飲み干すが、この酒のアルコール度数はいくつなんだろうか。幻ハンター暁金之助も相棒の銀狼も酒は強い設定だからこれくらいでは決して潰れないが。 「移住が終わるまで告白なんか考えられないですよ」 「かっこいいな」  井ノ原はノンアルコールティーの入ったグラスを目の高さにあげた。ロンが3杯目の器を合わせてふたりは一気に飲み干した。  オレンジがかった水色は渋みもあるが後味はサッパリする。日本食に似た芋の煮っ転がしやキルネニワトリのタマゴサラダにも充分対応する。フルーティーな香りも噂以上のキルネ紅茶。これだけでもここに来た甲斐があった。 「オスカーさんエリカさん。明日は半端じゃない登山ですからあまり飲み過ぎないようにお願いしますね」  そういうロンもかなり飲んではいないかと井ノ原は思うが、飲めない者の余計な心配だろう。 「はいはいは~い」  オスカーは飲むと笑い上戸になることがわかった。ハリヤ氏は知っているだろうか。 「そうですね、今日はこれくらいでやめときましょう」  いたって冷静なエリカ。登山のためなら酒も食事も8分目にとどめる精神力がある。 「大丈夫大丈夫、おれに任せろエリカ」  お山を甘く見ているわよとおばさまたちに爆笑されているオスカーである。  井ノ原は改めてロンに尋ねた。 「ところでa……キャラ茶はどういう場所にあるのです」 「火山付近の断崖絶壁に棲息する野生木の新芽です」  この期に及んでも笑みをたやすことがないロン。 「だから幻なんです。命がけですしね」  井ノ原の瞳に『まじで?』という文字が刻印された。  aフラッシュ…もといキャラ茶が標高1300メートル以上というの高地に育つことは想像していたが、島のど真ん中に位置する火山付近の断崖絶壁に棲息している天然木とは。どんな生え方をして、それをどうやって摘むというのだろう。  一方。 「じゃあ、あたしでも一生勉強すればカウのいる惑星の学校に入れるのかな」 「無理に決まってるでしょ。全宇宙レベルの学校なのよ」 「おねいさま、あたしの人生にダメダメ言わないでよ。キルネ出たら外の世界が待っているのよ」  自分に逆らう子供などいなかったのに、ここのところミミには向上心が芽生えていてネネはムッとする。 「島を出たらヒトスキの学校にはいるの。そこで一番になって、さらに外の学校に行くわ。宇宙中の人と仲良くなりたい」 「無理にきまって……」  自分を尊敬していたはずのミミが反逆の目でにらんでいる。 「あたしたちは、島をでるの。おねいさまも意地はらないで納得して」 「生意気言わないで。子供のあなたになにがわかるの」  険悪な空気が漂ってきた。 「やめてよふたりとも。ミミの努力次第じゃないか」  カウがもっともなことを言って止めに入ったとき、正面に白いエプロンが仁王立ちした。 「カ~ウ~」  白い三角巾にマスク。今度は丸いサングラスまで着用している。  ネネが額を抑えた。 「やめてよ母さん、ウケ狙いで昼間と同じことするの」 「あらヤダ、ばれた」  サングラスとマスクを外すとネネの数年後、ムムの顔が現れた。 「お父さんが起きたわ。あなたに会いたいって」 「おばちゃんおもしろい!」 「ミミちゃんたら、かわいいんだから」 「母さん」  こめかみに血管が浮くネネ。 「まったくこの子はお堅いんだから。カウ来てちょうだい」  やれやれといった感じで立ち上がるカウ。 「あの、ひょっとして長のところへ行かれますか」  ミリガンさえ大爆笑しているというのに、へっちゃらな足取りで近づいてきたのはエリカであった。 「本当ならオスカーが渡すべきなんですけれど、あの通りなので」  次期紅茶王は、すっかり酔いがまわっておばさまたちのアイドルになっており、営業スマイルを投げ売っていた。その隣では井ノ原とロンが男二人でよろしくやっている様子。 「これを長に渡してください。ハリヤ・マリア社長からです」  倒れる前にしたためた封書である。 「はい、確かに。あなた、お酒強いわね」  受け取るムムに「よろしくお願い致します」と付け加えるエリカ。 「エリカさん大丈夫なの」  結構な勢いで飲んでいたとお見受けするがと言うカウにエリカは恥ずかしそうに。 「私、学生時代ミス酒豪だったんです」  と返した。
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