いっぴきめ。

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 羽住くんに手招きされて、花は正門前から引き返して体育館へと向かっていた。体育館の入口付近ではストレッチやウオームアップをしている生徒がいた。たぶん、一年生だ。これから外周を走りに行くのだろう。体育館の中からはボールが弾む音が聞こえていた。いくつもの足音も。二年と三年は中で練習を始めているようだ。 「恋愛もよくわからないけど、授業以外でも運動しようだなんていう人の気持ちもよくわからないかも」 「そういえば真隅さん、部活モノとかスポーツモノの小説もあまり読まないですよね」 「何か一つのことに情熱を燃やすっていう点についてはギリギリ共感できるから読めるけど……授業以外でも運動しようだなんていう人の気持ちはよくわからないからね」 「二回も言うなんて大事なことなんですね。好きなものは人それぞれですよ。まぁ、俺も真隅さんと同意見ですが」  少しの間のあと、揃って自嘲気味な笑いをもらした。羽住くんも花も体育の成績は壊滅的だ。恋愛モノの研究はしても、スポーツモノの研究をする日は一生、来なさそうだ。 「裏にまわりましょうか。表だと人の出入りが多くて邪魔になってしまいますから」  羽住くんに言われて体育館の裏手へとまわった。体育館の周囲はリヤカー一台が通れるくらいの幅がコンクリートで固められている。体育館の裏に焼却炉が設置されているからだ。さらに校外側はなだらかな坂になっている。背の低い植木、さらにその奥に背の高い広葉樹が植えられている。梅雨が明け、日が照り始めた今の時期は葉の青色が鮮やかだ。 「で、何をどうするわけ?」  恋愛の研究をするなんて言われたけれど、具体的に何をするとは聞いていない。恋愛に疎い花に想像がつくわけもない。癪だけど、大人しく羽住くんに尋ねるしかない。  半歩、先を歩く羽住は仏頂面で尋ねる花を見て、くすりと笑みを漏らした。 「反復練習というのでしょうか。実例をあげて、そのときの感情と行動の意味を説明する。それを繰り返して、パターンを覚えれば感情的に理解はできなくても読み解くことはできるようになると思うんです。真隅さん、読解力はあるようですから」  褒められているのか、けなされているのか、よくわからない。花は大人しく口を噤んでおくことにした。 「すでに両想いの二人でもいいですが、初心者の真隅さんには難しすぎるかもしれません」 「お、ケンカを売ってる?」  秒で前言撤回。大人しく口を噤んでおけなかった。でも羽住くんは動じない。 「ただベタベタされても恋愛モノを読むための研究としては不十分です。かと言って他に好きな人ができたんじゃないかとか、二股をかけてるんじゃないかとか、ましてや別れ話なんて気まずいシーンに遭遇しても困るでしょう?」  羽住くんはにっこりと笑って、なかなかにひどい例えをあげた。確かに、それは困る。花は深々と頷いた。 「と、いうわけで。ちょうどいい感じに両片想いの二人がいるので、その二人を例に研究をしましょう……と、いうわけです」 「張り込みみたいだね」 「早速、恋愛脳からかけ離れた発想ですね。探偵モノか刑事モノになってませんか? 恋愛モノに持っていってほしいんですが」 「そこはちょうどいい二人とセンセー次第でしょ」 「責任重大ですね」  体育館の裏には両引き戸の扉が二つあって、それぞれに外に下りるための三段の階段がついている。体育館内からはボールの弾む音が聞こえる。ボールが飛び出していかないようにだろう。重い両引き戸は二つとも、ピタリと閉まっていた。これでは中をのぞくことができない。  だが、羽住くんは奥の扉の階段に腰かけると、 「ここ、カーテンが破けてるんでのぞけるんですよ」  体育館の下の方に付いている横長の窓を指さした。羽住くんに促されて階段の二段目に腰掛けた花は、その窓から中をのぞきこんだ。他の横長の窓には目隠しの暗幕が掛かっていて、中はのぞけない。でも羽住くんが言うとおり、その窓にかかっている暗幕はカーテンフックを通すための穴が破けていて、半分ほどが落ちてしまっていた。隠れつつ、体育館の中をのぞき込むにはちょうどいいスペースだ。  手前に立っている人たちはスポーツシューズと足首ぐらいまでしか見えないけれど、体育館の中央より奥なら充分に全身が見えた。中で練習しているのは男子バスケ部と女子バレー部のようだ。男子バスケ部も女子バレー部も練習試合をしていた。試合に出ていない生徒たちはステージの段差に腰掛けたり、体育館を二つに仕切るために天井から下がっている緑色のネットの足下に体育座りをしたりしている。  男子バスケ部側の得点ボードの横には友達のこのみもいた。手を振ってみたけど、このみは が花に全く気付かない。他の部員たちも、それぞれの部の練習試合に集中していて花たちには全く気が付いていないようだ。 「そういえば、その”ちょうどいい二人”っていうのは誰?」 「俺のクラスの西谷くんと、真隅さんのクラスの九重さんです。知ってますか?」 「西谷くんと、九重さん……?」  花はオウム返しに聞き返した。  西谷 悠。  九重 ほのか。  二人とも運動神経が良くて、明るくて。人気者で、学年の中心的存在だ。本ばかりに気を取られて、二クラスしかない同級生の四分の一も覚えられていない花でもさすがに知っている。特に九重さんのことは――。  窓をのぞきこんで二人を探すと、西谷くんと九重さんは緑色のネット越しに背中合わせで座っていた。  西谷くんは短めのスポーツ刈りで元気いっぱいの男の子だ。ただでさえ垂れている目尻をさらに下げて陽気に笑う、お調子者な雰囲気だ。  九重さんは黙っていたら美人と言われる顔立ちだけど、明るい笑顔の方が印象が強い子だ。教室では結わずに下ろしている髪を、今は高い位置で一つに結っている。教室にいるときも背が高くて大人びて見えたけど、今はもっと凛とした印象に見えた。 「見ての通り、二人は男子バスケ部と女子バレー部に所属しているんですが、二つの部活は体育館を使用する日が同じなんです」  羽住くんの声に花は窓をのぞくのを止めて背筋を伸ばした。不思議そうな顔をする羽住くんに、花は続けて、続けてと全力で首を横に振った。センセーの話は真面目に聞かないといけない。羽住くんはしばらく花を見つめていたけれど、この状況を面白がっているだけなことに気が付いたらしい。苦笑いで説明を再開した。 「九重さんが西谷くんのことを好きらしい、というのは、前から女バレの人たちが話しているのを耳にして知っていたんです」  そう言って、羽住くんは体育館の窓をのぞきこんだ。 「でも最近、西谷くんも九重さんのことが好きらしいとクラスの男子たちが話しているのを聞きまして」 「ほう、羽住くんが人の話を盗み聞きしまくっているという話だね」 「そこはスルーしておいてください」  否定はしないらしい。にっこりと笑う羽住くんに、花は呆れたようにため息をついた。 「呆れていないで、ちゃんと見ていてくださいね。真隅さんのための研究なんですから」 「はいはい」  羽住くんに促されて、花は再び窓をのぞきこんだ。  西谷くんと九重さんはそれぞれ自分の部のコートに顔を向けていた。でも時々、言葉を交わしているようだった。西谷くんが何かからかうようなことを言ったのだろう。九重さんが肘鉄を食らわせたりしている。 「羽住くん、展開があったらちゃんと教えてね」 「当人たちからしてみたら今、この瞬間も恋愛モノが展開し続けてるんですが」 「そんなバカな……」 「真隅さんが恋愛モノが苦手なのは、わかりやすくて大きな事件が起こらないせいもあるかもしれませんね」  窓から思わず目を離して愕然とする花を見下ろして、羽住くんは困り顔で微笑んだ。と、――。 「真隅さんにもわかりやすい事件が起こるかもしれませんよ」  羽住くんが窓を指さした。花がのぞきこむと緑色のネットのそばに体育座りしていた西谷くんの姿がいなくなっていた。 「コートです」  羽住くんに言われて男子バスケ部のコートを見ると、西谷くんが走り回っていた。中学二年生としては平均的な体つきだ。ただ周りにいる男子バスケ部や女子バレー部の部員がみんな背が高いせいで、どうしても小柄に見えてしまう。それでも身軽な動きでボールを奪い取るときれいなフォームでバスケットゴールにシュートを決めた。ずいぶんと離れた位置から放ったのに、バスケットゴールはガシャンと音を立てることも、ピクリと揺れることもなかった。  一瞬の静寂のあと、ホイッスルが響いた。どうやら試合が終わったらしい。西谷くんのシュートを見ていたのだろう。女子バレー部のコートからも歓声があがった。 「スリーポイントで逆転勝利、ですね」 「練習なのに頑張るね。私なら試合でも頑張りたくない」 「真隅さん、恋愛の研究をしにきたってわかってますか? 今、思い浮かべるべき感想はそういうことではないです」  身震いする花に、羽住くんは真顔で言った。諭すような目に花は首をすくめると、そそくさと窓をのぞき込んだ。  西谷くんは自分よりも背の高い部員たちに頭を撫で回されてもみくちゃにされていた。顔をくしゃくしゃにして笑っていた西谷くんは、ネットの方に目をやるとはにかんだ微笑みを浮かべた。  花は西谷くんの視線の先を追いかけた。 「そりゃあ、まぁ……」  花の背中越しに窓をのぞきこんでいた羽住くんが、ため息の混じった声で言った。 「好きな人が見てますから。練習試合でも力が入ってしまうんでしょう」  西谷くんと目が合った瞬間、手を叩いていた九重さんが顔を赤くして目を逸らした。男子バスケ部の人たちがからかうようなことを言ったらしい。西谷くんは顔を真っ赤にしたかと思うと誤魔化すように笑って、隙をついて部員たちの腕から逃げ出した。 「西谷くんと九重さんはお互いがお互いのことを好きだって気づいてないのかな」 「当人よりもまわりの方がよく見える、ということは多いですから」  鬼ごっこを始めてしまった男子バスケ部員たちを、女子バレー部員たちは緑色のネット越しに応援したり怒鳴ったりしている。声援を送る九重さんの目はコート内を走り回る西谷くんを追いかけていた。 「二人が直接、話したらすぐに解決しそうな事件なのに」 「全く気が付いていないということもないと思うんですが。しり込みして直接、聞くことができないというのもあるんでしょう」  花はふーん、と呟いて羽住くんの顔を見上げて、目を丸くした。 「一度、口にしてしまえばなかったことにはできません。今の関係が壊れてしまう可能性もありますから」  羽住くんは窓をのぞいて、眉間にしわを寄せていた。困っているようにも、辛そうにも、泣きそうにも見える表情だ。羽住くんがどうしてそんな表情になったのか。花はもう一度、窓をのぞきこんだ。と、――。  九重さんと目があった、気がした。  九重さんは驚いたように目を見開いたあと、すぐに視線を逸らした。でも、その一瞬前。花の視線に気付く直前には笑みを浮かべていたように見えた。西谷くんに向けていたはにかんだ笑顔とは違う。何か含みをもった微笑み。九重さんの目は花の方を見ていた。でも花が窓をのぞきこむよりも前から、こちらを見ていた気がする。  花はチラッと羽住くんを見上げて、 「好きな子と目があって、微笑み合うような大事件。羽住くんも遭遇したことがある?」  尋ねた。羽住くんは目を丸くして花を見返した。だが、すぐに、 「さぁ、どうでしょう」  そう言って、にっこりと笑った。羽住くんのうさんくさい笑顔に、花はそれ以上、聞くのは諦めた。今の花の経験値では聞き出せる気が全くしない。 「真隅さんはないんですか。そういう大事件は」 「さぁ、どうでしょう」  うさんくさい笑顔のまま聞いてくる羽住くんに、花は真似をしてにっこりと笑顔を返した。でも――。 「どうしてそんな見え透いた嘘をついたんですか」  でも耐えきれず即座に顔を覆ってしゃがみ込んでしまった。花を見下ろして、羽住くんは楽し気な笑い声をあげた。そんな大事件を経験した記憶があるなら、こんな研究をしたりはしていないのだ。  ***
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