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帰りのホームルームが終わっても、花はすぐに席を立とうとはしなかった。あと数ページで最終巻が読み終わる。読み終えてから図書室に向かうつもりだった。
最後の一行を読み終えて、短く息を吐いて、しおりをカバンにしまった。本を抱えて席を立つ。
いつものように一つ下の階に下りて、奥の非常ドアを開けようとして、手を止めた。なんとなく開けにくくて、花は廊下を引き返した。帰りのホームルームが終わってから、ずいぶんと経っている。階段も、図書室前の廊下もガランとしていた。
図書室のドアを開けると、中はしん……としていた。羽住くんはいないようだ。
「あら、いらっしゃい。遅かったのね。今日は来ないかと思った」
図書館司書の小林さんののんびりとした声に、花は頬を緩ませた。
「今日も本を読んでく? ちょっと職員室に戻りたいんだけど、しばらく席を外しても大丈夫?」
花がこくりと頷いて、小林さんは書類を抱えて図書室を出て行った。貸出カウンターのイスに座って本の返却作業をしようとして、バタバタと近づいてくる賑やかな足音に顔上げた。羽住くんではない。羽住くんなら、もっと静かに歩いてくる。それこそ気付かないうちに背後にいたりするくらい。小林さんの足音でもない。花は図書室の前で止まった足音に、ドアをじっと見つめた。
「いるか、ハナ!」
いきおいよくドアを開けて現れたのは西谷くんだった。静かな図書室に、西谷くんの声は良く響いた。そして足音も。西谷くんは賑やかな足音を響かせて貸出カウンターの前までやってきた。
「本当に毎日、図書室にいるのな、お前」
「部活はどうしたの?」
Tシャツに短パン姿だから、あるにはあるようだが。
「中休み! 部活始まる前にも来たのに、いないんだもん! 帰ったかと思ったじゃん! それよりも……悪い!」
正面にやってきた西谷くんは、パン! と手を打ち合わせると深々と頭を下げた。あまりにも勢いよく頭を下げる西谷くんに、花は目を丸くした。
「な、何……?」
「変なうわさが流れてんだろ、俺との。そういや色々と馴れ馴れしかったかもって反省したんだよ。ハナにも何か迷惑かけちゃったんじゃないかって……本当にごめん!」
もう一度、勢いよく頭を下げる西谷くんの後頭部を、花はきょとんと見下ろした。西谷くんの後頭部を見るのは、これで何度目だろう。そう考えて、花は吹き出していた。
「気にしなくていいよ。西谷くんが悪いわけじゃないし。すぐに立ち消えるだろうし」
「でも……!」
「西谷くんが悪いってことになると、私も悪いってことになっちゃうと思うんだけど?」
食い下がろうとする西谷くんの目をのぞき込んで、花は困り顔で微笑んだ。下の名前で呼ぶことも、西谷くんが言うところの馴れ馴れしい態度も、花は特に止めたりしなかった。周りからどういう風に見られるか、全然、考えていなかったのだ。と、いうかそんな風に見られるとも思っていなかった。これも恋愛ごとに疎いことによる弊害かもしれいない。花は自嘲気味に乾いた笑い声を漏らした。
それに花には誤解されて困るような相手もいない。そういう意味なら花の方こそ西谷くんに謝るべきだ。
(誤解も……解かないままにしちゃったし)
西谷くんはというと、パッと笑顔を浮かべると、花の肩をバシバシと叩いた。
「ハナ! お前って、本当にいいやつだな!」
花は痛さともうしわけなさに、あいまいな微笑みで頷いた。
「そうだよな! こんな根も葉もない噂、長続きしないよな! 花には話したら、なんかすっきりした! じゃあ、部活に行くから! またな、ハナ!」
ぶんぶんと手を振りながら図書室を出て行く西谷くんに、花はひらひらと手を振り返した。ドアが閉まって、西谷くんの足音が遠退いて行って、ようやく図書室にいつもの静けさが戻って来た。
「……にぎやかだなぁ」
しんと静まり返った空間で苦笑いして、花はうつむいた。羽住くんと九重さんのことを西谷くんが知ったら、どう思うのだろうか。
貸出カウンターを出て、窓際の背の高い本棚に向かう。しゃがみこんで人魚姫の絵本を取り出すと、ひざの上に乗せて最後のページを開いた。幼い子供の頃には滅多に開かなかったページだ。
人魚姫が海の泡となって消えたあと、それを知らないはずの王子さまとお姫さまが泣きながら抱き合っている挿絵。でもそれだけじゃなくて、そこには人魚姫の姿が描かれているのだ。泣くのではなく、微笑んで。抱き合う二人の額に祝福のキスを落としている。
挿絵の人魚姫は微笑みを浮かべていた。大切な人も命すらも失ったというのに、穏やかで見惚れるくらいきれいな微笑みだ。花はつられて頬を緩ませた。と、――。
「一応、恋愛モノですね」
絵本を取り上げられた。顔をあげると羽住くんだった。羽住くんはいつも通りの微笑みで、
「こんにちは、真隅さん」
と、言って絵本に目を落とした。
「恋をすると恋愛に関する曲を聞きたくなったり、物語を読みたくなったりするそうですが……どんな心境の変化ですか。研究の成果でしょうか。それとも……」
最後まで言い切らず、羽住くんは絵本を閉じた。花の手に返すと、窓際の背の低い本棚へと足を向けた。まるで昼休みの、九重さんとのことなんてなかったみたいな態度だ。きっと触れられたくないのだろう。
(それなら、きっと聞かない方がいいよね……)
秘密にされるのも、嘘をつかれるのもさみしいけど――仕方ない。花は心の中で頷いて、微笑みを浮かべた。
「図書室の前で西谷くんに会いました。西谷くんと、ずいぶんと仲良くなったんですね」
「そうかな」
低い本棚の前にしゃがんで、羽住くんは本を取った。あの魔法使いが出てくるシリーズだ。
「昨日も廊下で話をしていたでしょう? それもすごく楽しそうに。どんな話をしていたんですか」
「どんなって……秘密?」
九重さんとのことを秘密にしている羽住くんに、小さな仕返しのつもりだった。でも言ってみて、花は苦笑いした。秘密にするほどのことなんて、何もないのに。
「秘密、ですか。そういえば恋愛モノでは秘密の共有が恋愛感情を抱くきっかけや二人の仲を進展させるきっかけになったりするんですよ」
「どういうこと?」
羽住くんは口元にだけ笑みを浮かべた。
「いいえ、ただ西谷くんと仲良くなったきっかけを邪推してみただけです」
羽住くんの含みのある言い方と言葉に、花はじっと羽住くんを見返した。
西谷くんから水族館の計画のことを聞いてから、ずっと気になっていた。体育館裏でのことも水族館でのことも。羽住くんはどうしてそんなまわりくどいことをしたんだろう、と。好きなら、いっしょに行きたいだけなら、ただ素直に誘えばいいのに。九重さんと二人で計画を立てて、西谷くんまで巻き込んで。そんなまわりくどいことをしなくてもいいくらい、仲がいいように見えたのに。でも――。
(秘密の……共有)
もしかしたら今、羽住くんが言ったことが答えなのかもしれない。秘密を共有することで、二人の仲を進展させたかったのかもしれない。
「水族館のこと、西谷くんたちが話しているのを聞いたって言ってたの、嘘だよね?」
花たパッと顔をあげると、羽住くんは目を丸くした。
「西谷くんから聞いたんだ。あ、西谷くんを怒らないでよ?」
「えぇ、怒りません。……はい、水族館のことは最初から知ってました。と、いうか、ほのかに頼まれて、ほのかと俺で立てた計画ですから。嘘をついていました。すみません」
そう言って、羽住くんは頭を下げた。羽住くんのつむじを見つめながら、九重さんのことを”ほのか”って呼んだな、とぼんやりと思った。九重さんと話すときには名前で呼んでいたようだけど、花と話すときにはずっと”九重さん”だった。呼び方も二人の秘密、の一つだったのかもしれない。
「どうしてそんなことを……って、西谷くんに聞いてからずっと思ってた。秘密の共有。そうか。恋愛にはそういうのもあるんだ。なんだか探偵モノとかスパイモノっぽいね。そういうのなら私も読めるかも」
お道化て笑ったけど、羽住くんは黙って微笑んだまま。答えない。
「計画は、うまくいったの?」
「どうでしょう。水族館に行くところまでは、おおむね上手く行っていたんですが。西谷くんと真隅さんが鉢合わせてしまったというのは想定外でしたから」
羽住くんは自嘲気味に微笑んだ。花はきょとんと首を傾げた。西谷くんのことが好きな九重さんにとっては、悪い意味で想定外だったかもしれない。でも羽住くんにとっては、そしてこの先の二人にとっては――。
「きっと、それは良い意味での想定外だったよ」
花が笑った瞬間。今まで自嘲にしろなんにしろ微笑みを保っていた羽住くんの表情が一変した。すっと真顔に戻ったかと思うと眉間にしわを寄せ、みるみるうちに険しくなった。
「どういう意味でしょうか」
羽住の低くかたい声に、花の心臓が跳ね上がった。なんだか怒っているみたいだ。
「だって私と西谷くんが仲良くなったって九重さんが勘違いしたから、昼休みの……」
言いかけて、花は慌てて口を噤んだ。昼休みのことは触れないようにしようと思っていたのに。羽住くんの鋭い視線に、首をすくめた。
「なるほど。そういうこと、ですか」
羽住くんはぴしゃりと言い放つと、花から目を逸らして黙り込んだ。長い、長い、沈黙。
「……告白、するの?」
耐えきれずに思わず尋ねて、花はすぐに後悔した。
「念のために聞きますが、誰が、誰にですか?」
にこりと、しかし冷ややかな微笑みを浮かべる羽住くんに、花は小さく首を横に振った。九重さん、と、とても答えられる雰囲気ではなかった。羽住くんは鼻で笑うと、ツイとあごをあげて花を見下ろした。
「いい推理でしたが残念です。肝心なところが間違っています」
「肝心なところ?」
花が聞き返すと、羽住くんは苛立たしげに前髪をかき上げた。乱暴にメガネを外したかと思うと、額を押さえてうつむた。噛みしめた唇が震えている。口を開きかけて、飲み込んで、また開いて。それを何度か繰り返したあと、
「もし俺とほのかが付き合うことになったら……真隅さんはどうしますか」
羽住くんは絞り出すような声で言って、微笑んだ。
心臓がトクンと跳ねた。どうするだろう。花はうつむいて、額を指先でなでた。
そうだ。まずは西谷くんをなぐさめないといけない。それから――。
このみは男子バスケ部の先輩と付き合うようになってから、花にメッセージをくれる頻度が減った。きっと羽住くんも九重さんと付き合いだしたら図書室に来る頻度が減るだろう。本の話をする機会も減るかもしれない。それは少し、寂しい。寂しいけど――。
花は胸に抱えた絵本をぎゅっと抱きしめた。
人魚姫は、王子さまとお姫さまに微笑んで祝福のキスを贈った。キスはちょっとハードルが高そうだ。
「笑って、おめでとうって言うと思う」
自分なら、これぐらいが精一杯だろう。にこりと笑って、花はそう言った。
「そう、ですか」
羽住くんはさっきよりも深くうつむいて、前髪をくしゃくしゃとかき混ぜると、
「少しは期待したのに」
ぽつりと。吐き捨てるように呟いた。
「あのとき……俺とほのかを見たとき。真隅さんは泣き出しそうな顔をしてた。だから、もしかしたらって……期待してたのに」
苛立たしげに言ったかと思うと、羽住くんは顔を上げて花を睨みつけた。
「馬鹿みたいだ」
羽住くんの冷ややかな声が、やけに近くで聞こえた。目を閉じているわけでもないのに、視界が暗い。唇に触れた冷たい感触。それが羽住くんの唇なのだと。キスされたのだと気が付いて、ゆっくりと遠のく羽住くんの顔を花は呆然と見上げた。
そして羽住くんの表情に、息を飲んだ。
「……っ」
羽住くんの方も息をのんで、花を見下ろしていた。羽住くん自身も自分の行動に驚いたようだ。メガネ越しじゃなく直接、見える目が大きく見開かれていた。
羽住くんは本を抱えたまま。花が止める暇もなく図書室から駆け出して行ってしまった。
「貸出手続き……」
ドアの閉まる音にぽつりと呟いてみたけれど、すでに図書室を出て行ってしまったあとの羽住くんに聞こえるはずもない。
花は唇に、そっと触れてみた。まだ感触が残っている。
「どうして……」
羽住くんはあんなことをしたんだろう。考えてみてもわからない。
でも考えているうちに一つ、思い出した。人魚姫の絵本を見ていた花に、ラストシーンについて言い放った男の子の顔を。花の表情を見た瞬間。あのときの羽住くんもポロポロと大粒の涙をこぼしていた。
今の羽住くんと同じように――。
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