いっぴきめ。

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 家に帰るなり”ゴーレム冒険譚”の一巻を読み始めた花は、 「夕飯、できたわよ。降りてきなさい!」  母親の声に天井を仰いで盛大なため息をついた。壁時計を見ると、いつもより早めの夕飯だ。きっと明日は父親が早めに家を出るのだろう。ゴルフだろうか、釣りだろうか。  手にした一巻は残り二、三十ページで終わりというところまで来ていた。その巻のクライマックスともいえるところだ。  貧民街に生まれた主人公と幼なじみは生き延びるため、幼い兄弟や仲間を守るために窃盗や詐欺を繰り返していた。主人公の前にだけ時々、現れる少女は主人公を助けたり、意味深な言葉を残していく。  青年になった二人は食べるために傭兵となった。あの少女は昔と変わらない姿のまま、時折、戦場に立つ主人公の前に現れた。ある戦いの前に少女はまた意味深な言葉を残していく。そしてその言葉通り、戦いの中で幼なじみが命にかかわる大怪我を負ってしまう。幼なじみの治療費を用意するため、主人公は雇い主の情報を敵である貴族に売ろうとするのだが、それが雇い主にバレてしまう。  雇い主に拷問される主人公の前に再び少女が現れた。少女は幼なじみが死んでしまったこと、自分が魔法使いであることを告げる。そして少女――魔法使いは幼なじみの命を助ける代わりに契約を求めた――。  ――ところまでは呼んだのだが、肝心の契約内容がこれからなのだ。 「先に食べてて! もう少し、もう少し待って!」  花は部屋のドアをノックする音に悲鳴をあげた。契約内容がなんなのか。そこまで読んでしまいたかった。でないと、気になって夕飯に集中できない。 「何、言ってんの! ご飯が冷めちゃうでしょ!」 「もう少し……もう少しだから……!」 「また本を読んでるんでしょ! いいかげんにしなさい!」  五分ほど立てこもっていた花だったが、母親の猛攻撃にあい、あえなく自室から引きずり出されてしまった。一階に下りると先にテーブルについていた父親と兄が渋い顔をしていた。美味しそうなにおいを前にマテをさせられて、だいぶ機嫌が悪くなっているようだ。  手を合わせて食べ始めると、 「夕飯の手伝いもしないで、あんたは本を読んでばっかり……」  早速、母親の小言が始まった。こういうときは反論しないが吉だ。大人しく聞いているフリをして聞き流すに限る。 「花、ちょっとは味わって食べなさいよ」  早く食べ終えて一巻の続きを読もうと、黙々とご飯をかきこむ花を見て、母親の眉間のしわが深くなった。これはちょっと長めにグチグチ言われるかもしれないと首をすくめた瞬間、 「まぁ、いいわ」  母親がにこりと笑った。怒鳴られるより、こういう表情をしているときの方が怖い。本を取り上げられるとか、強制的に明日の予定を入れられるとか。実力行使に打って出るパターンだ。ごくりと唾を飲み込んで、花は背筋を伸ばした。 「花。あんた、明日も家に一日いるつもりなのよね?」  母親の質問の真意が読みとれない。でも、読み始めたばかりの小説を一気読みするためにも家にいたい。 「う、う~ん……」  とりあえず取れる策は、肯定とも否定とも取れる曖昧な返事をしておくことだ。 「へぇ、そうなの」  娘の小賢しい策なんて母親はお見通しらしい。さらに笑みを深くした。でも目は笑っていない。かなり怖い。 「え、っと……明日、何かあるんだっけ?」 「あるわよ。家にいるつもりなら、あんたも参加しなさい」  花が錆びた人形みたいにぎこちない動きで首を傾げると、母親は真顔で、若干、低めの声で言った。 「町内会の運動会――」 「明日、クラスの子と水族館に行く約束してるんだ。ごめん、無理だわ」  食い気味に言う娘の顔を、母親は疑惑のまなざしで見つめた。しかし動揺する必要はない。まだ行くと返事をしていないだけだ。嘘をついているわけじゃない。 「出不精のお前が水族館? 本当かよ?」 「久しぶりだなぁ、水族館。すっごく楽しみだなぁ」  兄と母親が向ける白い目を耐えきって、花は何とか白を切り通した。  花は部屋に戻って一巻を読み終えると、スマホを取り出して電話をかけた。相手はもちろん羽住くんだ。 『気が変わりましたか?』  開口一番、そう言う羽住くんに花は思わず眉間にしわを寄せた。 「知ってたわけね、羽住くん」 『このあたりの町内会が合同で行う運動会ですからね。母親の反応も似たようなものではないかと推測しました』  悪びれた様子もなく告げる羽住くんに、花は深々とため息をついた。 『運動会に出るよりは、休日で人の多い水族館の方がマシだと思いませんか?』 「マシだよ、大いにマシだよ! でもそこまで読まれてることに若干、腹が立つ!!」 『自分に当てはめて考えただけで、真隅さんの行動を読んだわけではないですから。そんなに怒らないでください。むしろ感謝してほしいくらいです。逃げる口実を作ってあげたんですから』 「はいはい、ありがとうございますぅ!」  電話口でくすくすと笑う声が聞こえた。一見すると人が良さそうだけど、よく見るとうさんくさそうな羽住くんの笑顔が簡単に思い浮かぶ。 「それで。明日は何時にどこ。制服で行くから! 行ってやるから!」 『八時五十分に駅の改札前で。制服はやめてくださいね。目立ちます』  だよね、と思いながら額を押さえた。何を着ていくか考えないといけない。 『ため息をつかないでください』 「おっと、聞こえちゃった? 失礼」  わざとらしい口調で言うと、また電話口で笑い声が響いた。 「それにしても中途半端な時間だね」 『西谷くんと九重さんが九時に改札で待ち合わせなんです。隠れて二人が来るのを待とうかと思っています』  どこからそんな情報を、とは、もう聞かない。どうせちょっと聞こえたとしか答えないだろうから。 『それじゃあ、明日。楽しみにしてますね』 「はいはい、私も楽しみにしてますよ~」  花はおざなりな返事をして電話を切った。スマホをベッドに放り投げて、腕組みした。中学に上がってからは制服と部屋着で大体、済ませられてきた。制服のありがたみをしみじみと噛みしめながら、 「本気で……何、着ていこう」  ニシキアナゴとチンアナゴのシールがペタペタと貼られた洋服タンスを開けて、深々とため息をついた。
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