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暗い部屋にはライトアップされた水槽がいくつも置かれていた。天井からぶら下がった球状の水槽。高さの違う円柱形の水槽。壁に埋め込まれた丸い水槽。
水槽の中を泳ぐクラゲの形や色も様々だ。小さくてころころとしたもの。長い糸のような触手をなびかせて泳ぐもの。青や紫、ピンクにライトアップされた水槽の中をクラゲたちはゆったりと漂っていた。
西谷くんと九重さんはアシカショーが終わると、屋上から館内に入った。青い空の下から、薄暗い部屋へ。黒くて重いカーテンをくぐった先に現れたのが、この幻想的な光景だった。
「きれいですね」
羽住くんの言葉にこくりと頷いて、花は近くの水槽に歩み寄った。ころころとした丸いかさに短い触手。青や白の半透明の身体は宝石みたいだ。ちょこちょこと忙しなく動き回る姿がかわいらしい。カラージェリーフィッシュという名前のクラゲらしい。水槽脇のプレートに書いてあった。
花は小さなクラゲたちにスマホのカメラを向けた。画面には小さな宝石たちと、奥に西谷くんと九重さんの姿が映った。シャッターを切って、花はゆっくりとスマホを下ろした。水槽越しに見える二人の背中をじっと見つめる。二人が言葉を交わしているようすはない。首を傾げて、もう一度、カメラを構えた。
「何を撮っているんですか?」
スマホを水槽にくっつけて、クラゲが映っていないタイミングでシャッターを切っていれば、不思議にも思う。羽住くんは花のスマホと視線の先にいる二人を交互に見て、不思議そうに尋ねた。花は今、撮った画像を開いて拡大した。
「見て。――見てない!」
スマホを羽住くんの眼前に突き出す。近過ぎたらしい。仰け反りながら、羽住くんは眉をひそめた。
「……見てますよ?」
「そうじゃなくて……写真! 西谷くん! 九重さんと喋ってるわけでもないのに、クラゲを見てないんだよ」
花は羽住くんに突き出していたスマホを下ろして、もう一度、表示してある写真を見つめた。羽住くんも花の手元をのぞきこんできた。
糸のように細長い触手をなびかせて泳ぐクラゲの前に、西谷くんと九重さんが並んで立っている。水槽のライトで逆光になっていて、九重さんの姿は完全にシルエットだ。西谷くんもほとんどがシルエットなのだけど、顔だけは横を向いていて表情がぼんやりとだけど見えた。
そう、横を向いているのだ。
九重さんは水槽の中を漂うクラゲを、黙って見上げているのに。西谷くんはクラゲを見ようともしないで、九重さんの方に顔を向けているのだ。
「水族館に来てるのに魚を見てないって、どういうこと……」
悲し気に呟く花を黙って見下ろしていた羽住くんは、
「冗談だろ、そこまで重傷かよ。……あ、失礼」
長い間のあと、真顔で言った。慌てて謝っても後の祭りだ。声に出てるし、聞こえている。
「ずいぶんな口調でずいぶんなことを言い切ったあとで謝られてもね!」
「……すみません。つい」
花が涙目で叫ぶと、羽住くんは引きつった笑みで謝った。意地悪でもお子さま扱いでもない。本気の感想と本気の謝罪だ。だから一層、花の平たい胸に突き刺さった。
西谷くんと九重さんが歩き出すのを横目に見て、羽住くんが歩き出した。ゆっくりとした歩調で。そのあとを花もトボトボとついていく。
「魚を見ることを主目的として、水族館に来ている男女は少ないと思いますよ」
壁に埋め込まれた水槽の中をのぞき込みながら、羽住くんが苦笑いで言った。
白いライトに照らされた水の中を、ころころとした形のクラゲが泳いでいる。カラージェリーフィッシュに似た形をしているけれど、白い水玉模様が入っている。このクラゲもかわいい。花は写真を撮ろうとスマホを構えて、画面の右端に表示されたサムネイルを指でつついた。直前に撮った、西谷くんと九重さんの写真が拡大表示された。
水槽越しに映る二人の距離は、手と手が触れ合うくらいに近くなっていた。水族館に入るまでは腕二本分くらいの距離があった気がするのに。いつの間に、こんなに距離が近付いていたんだろう。全画面表示された写真を、さらに拡大してみる。九重さんを見つめる西谷くんの横顔には、柔らかな微笑みが浮かんでいた。
「なんで、見てるんだろう」
「さぁ。……好きな人だから、じゃないですか」
「なら、羽住くんも九重さんのことが好きってことになるけど」
木曜の放課後から数えて三日間。九重さんと西谷くんを観察したり尾行したりしているのだ。花はにやりと笑って羽住くんを見上げた。
「もしかしたら西谷くんのことかもしれませんよ」
羽住くんは目を細めて笑った。完全に面白がっている。それともあしらわれたのだろうか。嘆息して、花は再びスマホの写真に目を落とした。
カフェでの二人のやり取りは何となく落ち着かなくて、耐えられなくて、目を逸らしてしまった。写真に映っている二人の距離と西谷くんの表情を見ていると、やっぱりむずむずしてくる。でも同時に胸が温かくなって、いつまででも見ていたい気持ちになった。
「真隅さんもクラゲを見るのをやめちゃったんですか? そんなに真剣に見てると、西谷くんのことを好きになってしまったんじゃないかと心配になってしまいます」
「それ、仕返しのつもり?」
花はぶすりとほほを膨らませ、羽住くんを睨み付けた。同意するか、意地の悪い大人びた微笑みを浮かべて一笑に付されるんだろうなと思っていたのに。
「そんなことないですよ。結構、本気で言ってます」
羽住くんはゆらゆらと水の中を漂うクラゲを見上げて言った。目にも口にも微笑みはない。ただ、じっとクラゲを見上げていた。羽住くんが浮かべている表情がどういう感情のものなのか。花にはよくわからなかった。考えて、額を押さえる。花がわからない、疎い感情というのなら――。
ふと入学式の日の。羽住くんと、羽住くんをのぞきこむ九重さんの心配そうな横顔が頭をよぎった。
「羽住くんも好きな人がいるの?」
それなら羽住くんの表情は恋愛感情から来るものかもしれない。そう仮説を立てて聞いてみた。弾かれたように花を見た羽住くんは、正解だと言われるのを期待して目を輝かせる花に薄く微笑んだ。
(あれ……?)
落胆。花にも今度ははっきりと、羽住くんが浮かべた表情がどういう感情のものかわかった。ただ、何に落胆したのかはわからなくて、花は眉間にしわを寄せた。そのしわを指でつついて、
「行きましょうか」
羽住くんが言った。
「次の部屋にはニシキアナゴとチンアナゴがいるみたいですよ」
言葉の意味を飲み込んで、理解して、花は身震いした。
「行こう! 早く、行こう!」
「……重症だな」
「何? 何が!? いいから早く行こう!」
不機嫌そうに何事かぼやいていたようだが、ニシキアナゴとチンアナゴに会えるという事実の前ではどうでもいい。一旦、保留だ。花は羽住くんの背中をバシバシと叩いて急かし、入るときと同じように黒いカーテンをくぐって幻想的なクラゲの部屋を出た。
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