世界は佐々岡すずで満たされた

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 駅構内の個室トイレに駆け込んだぼくは、便座に座った瞬間、張りつめた緊張から解放された。  ま、間に合った〜。  いきなり汚い話しで申し訳ない。でも生理現象なのだから仕方がない。大学への通学途中、満員電車のなかでぼくは腹痛に襲われた。そしてトイレに行きたくなった。目的の駅まではあとひと駅だったから、なんとかなるだろうと考えたが、予想に反して事態は切迫した。それで駅に着いた瞬間、人ごみをかき分けてトイレに駆け込むことになった。  とにかく、ぼくは事なきを得た。  朝から変な汗をかいてしまった。  水を流して個室から出ると男子トイレには誰もいなかった。そのことになんとなく安堵する。学校で大をして大騒ぎするガキじゃあるまいし、外出先で個室を利用したってなんの問題もないと思うのだが、まだ他人の目が気になるというか、落ち着かなくて抵抗があった。  トイレで手を洗い腕時計を見る。まだ1限に間に合う時間だ。腹痛も治まったようだし、憂鬱な通学もなんとか乗り切れそうだった。  ぼくは男子トイレを出た。利用客の多い東京都心の駅、しかもこの時間帯だから外は人で溢れている。  溢れているのだが……。  そこですぐ、異常に気がついた。 「え?」  その声に反応したかのように周囲の人たちは一斉に立ち止まり、そしてぼくに向けて微笑みながら同時に言った。 「おはようございます、あきら先輩。こんなところでお会いできるなんて、運命ですね」  大量の佐々岡すずに、ぼくは取り囲まれていた。  この春、田舎の高校を卒業したぼくは、上京して東京の大学に通い始めた。佐々岡すずというのは、ぼくが通っていた高校のひとつ下の後輩で、現在は高校3年生。だから今日も授業があって、こんなところにはいないはずだ。いや、問題はそこじゃない。問題はその佐々岡すずが、大量発生しているということだ。 「今日も素敵ですね、先輩」 「先輩、これから大学ですか?」 「わたしもついていっていいですか?」 「先輩の講義を受けている姿、わたしも見たいです」 「寝てしまっても大丈夫ですよ。わたしのノートを見せてあげますから」 「先輩と一緒にキャンパスライフ……。とっても楽しそう」  佐々岡すずたちがそれぞれに言った。彼女らは同じ背丈、同じ顔で、しゃべり方や仕草も彼女のものだったが、みんな違った格好をしていた。スーツを着た佐々岡すず、ゴスロリな佐々岡すず、ランドセルを背負った佐々岡すず、海外セレブみたいな佐々岡すず、ロックミュージシャンみたいな佐々岡すず、駅員の制服を着た佐々岡すず……。まるで佐々岡すずのファッションショーかコスプレ大会を見ているようだった。ひとりひとり違った格好の佐々岡すずがぼくに迫ってくる。その人だかりはどんどん大きくなっていく。ここにいる人だけじゃない。駅に現れる人すべてが佐々岡すずなのだ。  とつぜん現れた大量の佐々岡すずに圧倒され、ぼくは男子トイレの個室に逃げ込んだ。ぼくはパニックになる一歩手前だった。いったいどうなっているんだ。ふと思いついてスマホを取り出した。この現象についてニュースになっていないかネットに目を通す。実業家の佐々岡すずがぼくのための新サービスを開始すると発表し、注目を浴びていた。5人組アイドルグループがアルバムを発売して世界的に大ヒットしているというニュースがあったが、グループメンバーは全員佐々岡すずだった。首相の佐々岡すずと大統領の佐々岡すずが会談をして、ぼくの平和のためにより一層連携を強化することで意見が一致したと語っていた。要は佐々岡すずがどうしたというニュースばかりで、佐々岡すずが大量発生していることにはまったく触れられていなかった。まるで佐々岡すずが世界中にいるのとうぜんであるかのように。  ニュースをチェックして愕然としているぼくに追い打ちをかけるようにSNSのアプリの通知が届いた。アプリを開いてみるとぼくの何気ないつぶやきが2億「いいね」されていた。見ているあいだにもその数はどんどんふくれあがっていく。それと同じようにフォロワー数も増え、瞬く間に3億を突破。そのアカウント名をざっと見てみると、すべてが佐々岡すずだった。  ぼく以外の全人類が、佐々岡すずになってしまってしまったのか?  そんな考えが頭をよぎった。  ぼくは個室を出た。相変わらず男子トイレには誰もいない。鏡を見て自分の姿を確認する。ぼくの姿はどう見てもぼくのまま、矢代あきらのままだった。  意を決して男子トイレから出ると、先ほどと同じ光景が広がっていた。大量の佐々岡すずによる出待ちだ。みんなそれぞれぼくに話しかけてくる。ぼくがここにいるという噂が広まったのか、さっきよりも人が多い。すでに駅構内は、佐々岡すずで埋め尽くされていた。 「ちょ、ちょっと聞いてくれ」  ぼくがひとこと言うと、騒がしかった佐々岡すずたちが一斉に静かになった。みんなの熱い視線がぼくに注がれる。 「えーっと、ひとまず解散してくれないか? っていうかそれぞれ仕事とか学校とかあるんだよね? だからぼくに構わず自分の予定をこなすこと。街でぼくを見かけたりしても今みたいに集まらないように。みんなにもそう伝えておいて。えーっと、わかった?」  これだけの佐々岡すずを相手にしたことがないので不安だったが、ぼくがそう言うと彼女らは一斉に、 「はい、あきら先輩」  と答え、ぼくの前から移動を始めた。どうやら基本的にはぼくに従順という姿勢も佐々岡すずと同じらしい。しかしこれだけ佐々岡すずが多いと全員がはけるまで時間がかかる。そのあいだにぼくは一番近くにいる佐々岡すずに声をかけた。 「ごめん、悪いんだけどきみだけ残ってくれない? ちょっと聞きたいことがあるんだけど」  その佐々岡すずは女の子らしい清楚な格好で、元の佐々岡すずのイメージに近い印象だった。 「わかりました。あきら先輩に声をかけてもらえるなんて、うれしいです」  その佐々岡すずは恍惚とした表情で言った。  集まっていた佐々岡すずがはけて、全人類が佐々岡すずということ以外は日常の光景が戻ったころ、ぼくは声をかけた佐々岡すずと一緒に駅を出た。佐々岡すずと歩きながら佐々岡すずとすれ違う。道行く人はすべて佐々岡すず。ビル壁面の広告にも佐々岡すず。スクランブル交差点に並ぶ人も佐々岡すず。車を運転している人も佐々岡すず。街灯ビジョンの映像にも佐々岡すず。  やはり世界は、佐々岡すずで埋め尽くされているようだ。 「どうしてこんなことになったんだ?」  ぼくは隣を歩く佐々岡すずに訊ねた。 「こんなこと、とは?」 「なんで佐々岡さんがこんなにたくさんいるのかってことだよ」 「そんなの、愛の力に決まっているじゃないですか。あきら先輩に対するわたしの愛に世界が反応して、わたしの願いを叶えてくれたんですよ」  そう答えると佐々岡すずは「ふふっ」と笑った。 「この現象は佐々岡さんがやったの?」 「そうでーす」 「今すぐ戻しなさい!」 「そんなの、嫌に決まっているじゃないですか」  自分で言うのもアレだから言わなかったが、佐々岡すずはぼくのことが好きらしい。高校で出会ってからというもの彼女からは熱烈なアプローチを受けている。その好意自体はぼくもうれしかった。だけど、彼女の愛は重すぎた。彼女はぼくのためならその身を捧げてなんでもするといった具合で、さらにどこで仕入れたのかぼくの情報を1から10まで知っていた。あまりに把握しているのでストーカーや盗聴を疑ったくらいだ。そういう恐ろしさもあって、彼女とはラブコメみたいなドタバタとした日々を通してそれなりに仲良くなりつつも、先輩後輩という関係のままぼくの卒業という形でひと区切りがついた。まあ彼女ほうは「あきらめませんから」と宣言していたが……。  それにしたって。  いくら愛があったって。  こんなことするか、ふつう!? 「めちゃくちゃだ……」 「でも、これはとっても素敵なことなんですよ? わたしは嫉妬深くて、あきら先輩が他の女と話していたらその女を消したくなっちゃいますけれど、全人類がわたしならその心配もないでしょう? みんなわたしなんですもの。わたしだけがあきら先輩と話すことができる。わたしだけがあきら先輩に見つめられる。なんてすばらしいことでしょう」 「そんな恐ろしい理由で全人類を佐々岡すずにしちゃったのか!?」  っていうか、女の人どころか男の人まで全員消しちゃってるじゃん。  ぼくたちはそのまま歩き続け、ぼくの通っている大学にやってきた。講義に出席してみると、佐々岡すず教授による「あきら先輩と日本文学」という講義が行われていて、教室にいる佐々岡すずたちがそれをノートに取っていた。 「でもこの世界は、あきら先輩にとってもメリットがあるんですよ?」  隣に座った佐々岡すずがささやいた。 「どんなメリットだよ……」ぼくは恐る恐る訊ねる。 「だって、全人類が佐々岡すずということは、全人類があきら先輩を愛しているということです。そしてわたしはあきら先輩のためならなんだってできる。これがどういうことかわかりますか? あきら先輩は世界を思い通りにできる、ということです」 「思い、通りに……?」 「はい、やりたい放題です」  佐々岡すずはにこやかに言った。  2限の講義を終えて学生食堂に行った。佐々岡すずで込み合っている学生食堂はしかしぼくのために道が開けられ、すぐに料理を受け取ることができた。それから「こちらにどうぞ」と佐々岡すずに案内されると、そこにはテーブルがぼくのために用意されていた。落ち着いて食事ができるように周囲には十分なスペースが設けられている。そのテーブルにさきほどから話しを続けている佐々岡すずと一緒に座った。 「どうですか、あきら先輩」と佐々岡すずが言った。「あきら先輩のためにちょっと手を加えてみました。もちろんこんなのはまだまだ序の口です。あきら先輩のためなら電車に先輩専用車両を作ることもできますし、学食だって食堂が嫌なら個室を作ることもできます。ゼミのコンパだって断っても何の問題もない。アルバイトだってうるさい店長や細かいことに文句を言う客は、もういません。みんながあきら先輩にやさしくします。みんながあきら先輩を許します。みんながあきら先輩のことを思って行動します。だって全人類がわたしで、全人類があきら先輩を愛しているんですもの」  佐々岡すずはあきら先輩のもので。  佐々岡すずはあきら先輩の一部です。 「すべての佐々岡すずがあきら先輩の思い通り。だから世界はあきら先輩のものなんです。すばらしいでしょう?」 「世界がぼくを中心に回る……」 「佐々岡すずの愛の力でね」  佐々岡すずは立ち上がり、ぼくの後ろに回り込んだ。  そしてぼくを後ろから抱きしめ、耳もとでささやく。 「だから、あきら先輩。わたしの愛を受け取ってください」  脳が痺れるような甘い声だった。  学生食堂にいる佐々岡すずたちがぼくを取り囲み、ぼくに触れ、ぼくに微笑みかける。  ぼくの意識がとろけていく。  このまま佐々岡すずに包まれて、溺れてしまいたい。  やわらかくてあたたかくて、体がふわりと浮かび始めた。  そのときだった。  バンッ! というテーブルを叩く音でぼくの意識は正常に戻った。 「そこまでです。あきら先輩」  見慣れた制服の女の子が、テーブルに手をついて立っていた。 「きみは……?」 「本物の佐々岡すずですよ?」  佐々岡すずは微笑んだ。  自称本物の佐々岡すずに手を引かれてぼくは大学を出た。そのまま最寄りの駅に向かって歩いていく。もちろん街では、大量の佐々岡すずがおのおのの行動を続けていた。 「きみは本当に本物の佐々岡さんなの?」 「はい、はるばる東京までやってきた本物の佐々岡すずです。証明しろと言われたらちょっと面倒ですけどね。でも、他の佐々岡すずと違うということだけは、なんとなくわかりますよね? ね?」  その佐々岡すずは彼女が通っている高校の制服を着ていた。そして他の佐々岡すずと違うこともなんとなく理解できる。言葉にするのは難しいけれど、自分の考えや意思を持っている感じがするのだ。 「きみが本物の佐々岡さんだとして、何をしにここに?」 「そんなの決まっているじゃないですか。佐々岡すずだらけのこの世界を元に戻すためですよ」 「元に戻すって……。この現象は佐々岡さんが引き起こしたんじゃないの? 愛の力とかなんとかで……」 「それは違います。わたしがこんな世界を望むわけないじゃないですか。だってわたし、わたしに対しても嫉妬するんですよ? もしも本当にわたしで世界が満たされたら、今頃あきら先輩をめぐって戦争になっています。先輩を愛するわたしはわたしひとりで十分。そこが先輩の勘違いです」 「じゃあこの現象は、どういう……」 「理屈はわかりません。でもこの世界の願い主だけは確信があります。まあ、わたしじゃなかったらあとはひとりしかいませんよね。この世界を望んだのは、あきら先輩です」 「ぼくが……?」 「はい」  ぼくたちは電車に乗って、ぼくが一人暮らしをしているアパートまで移動した。この部屋に人を入れるのは初めてだったが、まさかそれが佐々岡すずになるとは思わなかった。  佐々岡すずとの話しは続く。 「この世界はあきら先輩に都合良くできています。なんせ全人類があきら先輩を愛してくれるんですからね。世界を思い通りにできる。悪の組織の夢、世界征服の達成です」 「いやでも、ぼくはそんな大それた願いなんて持ってないよ」 「そうでしょうか? 人間、脳内なら何でもできますし、自分でも気づかない秘めた願いというのもあります。自分で自分を誤解することもあるんですから、簡単に決めつけないほうがいいと思いますよ? それにわたし知ってます。あきら先輩は今、大量の他者で満たされた東京という海で溺れているんですよね? 電車に乗っても、街を歩いても、大学に行っても、バイトをしても、人、人、人、知らない人だらけ。どうしてこんなに人がいるのか。どうしてこんなに知らない人と、こんなに近くにいなくちゃいけないのか。特に通勤ラッシュ。見ず知らずの他人とゼロ距離での密着。パーソナルスペースなんてあったものじゃない。そのことに先輩は多大なストレスを感じている。だから満員電車に乗ってよくお腹を壊してますよね? 今朝もトイレに駆け込んでいたようですし」 「どうしてそのことを!?」 「愛の力です」  かわいく微笑んだ佐々岡すずは、話しを続ける。 「そこであきら先輩は願ったんです。他者のいない世界を。全人類が自分のことを知っていて、自分のことを愛してくれて、自分のために行動してくれる世界を。そのイメージが具現化したのがこの、全人類が佐々岡すずになった世界、というわけです」 「そんなことが……」  と言いつつも否定しきれない自分がいた。それが本当ならなんて幼稚な願いだろう、とも思った。だからこそ自分の願いではなく、佐々岡すずの願った世界ということにしたのか。自分は自分を誤解する。弱い自分を見ないようにして、なおかつ自分の願いを叶えた世界。それがこの歪んだ世界の正体なのか。 「自分のこと、それにこの世界のことがわかりましたか、あきら先輩?」 「にわかには信じられないけれど……。でもだったらどうすればいいんだ? どうすればこの世界は元に戻るんだ?」 「あきら先輩の願いでできた世界です。あきら先輩が願えば元に戻るんじゃないですか?」 「そういうものなのか……」 「わたしはけっこう自信あります」佐々岡すずはなぜかドヤ顔をした。「それよりもあきら先輩、元の世界に戻すってことは、また他者で満たされたあの空間に戻るってことです。先輩にその覚悟はあるんですか?」  覚悟……。  ぼくはうつむき加減に考えながら言った。 「覚悟って言われてもよくわからないよ。東京にきてからわかったことだけれど、佐々岡さんの言う通り、知らない人に囲まれた生活は思った以上にぼくの心身にこたえているみたいだ。正直に言うとホームシックにもなっている。なんとなく憧れて東京にきたけれど、本当はもう逃げ出したいのかもしれない。でも」  とぼくは顔を上げて言った。 「逃げるにしたってこんな世界に逃げちゃダメだ。この世界には何もない。この世界にいても、たぶんぼくは空っぽになっていくだけだと思う。だからぼくは、元の世界に戻りたい」  かっこよく言うつもりだったけど、思ったよりも弱々しかった。だけどぼくなりに決意を固めたつもりだった。オセロがひっくり返るみたいにもう大丈夫とは言えないけれど、少なくとも大丈夫じゃない自分と付き合っていこうと思った。 「そうですか。それならきっと元に戻りますよ」  そう言って佐々岡すずはイタズラっぽく微笑んだ。  そういえば、佐々岡すずは案外ぼくを甘やかしてはくれなかったなと、ぼくはそのとき思い出した。 「あきら先輩、起きてください」  肩を揺すられて目を覚ますと、ぼくの部屋に佐々岡すずがいた。 「どわあっ! 佐々岡さん、どうしてここに!?」 「嫌だなあ先輩、寝ぼけているんですか? 昨晩泊めてくれたじゃないですか」 「えっ?」  ってそうだった。昨日あのあと「この現象が終わるまで先輩のそばにいます」とか言われて(脅されて)、結局ずっと一緒にいたんだった。なんか久しぶりにラブコメみたいなやり取りをした気がする。まるで高校生に戻ったかのように。  ちなみにベッドは佐々岡すずに譲ったので、ぼくは床の上での起床だ。 「それよりもあきら先輩、見てください」 「うん?」  見るとテレビがついていた。朝の報道番組だ。番組内では本来のキャスターやコメンテーターがよく知らない政治家について話しをしていた。ぼくは慌てて外に飛び出してあたりを見回した。佐々岡すずは見当たらない。道行く人はみんな、赤の他人だった。 「戻りましたね」とあとからやってきた佐々岡すずが言った。 「ああ、戻った」  始まりがとつぜんなら、終わりもとつぜんだった。  まるで夢から覚めたかのように何事もなく。  そこは知らない人で満たされた、本来の世界だった。  世界が戻ったので佐々岡すずは約束通り帰ると言った。妙なところで律儀なやつだ。新幹線で帰る彼女を見送るため、ぼくは東京駅にきた。  佐々岡すずの乗る新幹線がホームに滑り込む。 「それではあきら先輩、お元気で」 「ああ」 「ご飯はちゃんと食べるんですよ。一人暮らしだからって夜更かしせずに規則正しい生活を心がけること。お金に困ったら言ってくださいね、できる限りで仕送りしますから。それから……」 「おまえはおかんか!」 「冗談ですよ」佐々岡すずはカラカラと笑った。 「いや、まあ。今回は助かったよ。ぼくひとりじゃどうなっていたか。だからその……、ありがとうな」 「わたしのこと、好きになっちゃいました?」 「礼を言っただけだろうが」 「もう、あきら先輩はそうやってすぐはぐらかす。でも」  佐々岡すずは新幹線に乗ってから振り返り、発車を知らせるアナウンスに負けないよう、通る声で言った。 「でもそうやって余裕こいていると、わたしだって他の人に目移りしちゃうかもしれませんよ?」 「え?」  そのときをまるで狙ったかのようにドアが閉まった。小さな窓から手を振り、微笑む彼女。やがて新幹線は駅を離れた。  そっちこそどうやったらそんな余裕が持てるんだよ。っていうか、実はぼくのことは好きでもなんでもなくて、単にからかって遊んでいるだけなんじゃ……。  そんな考えが頭をよぎった。  他人の考えていることはわからない。よく知っていると思っていた相手でも知らないところはたくさんあるし、少なからず変化もしていく。  それはぼく自身も同じだ。この先どうなるかはわからない。自分の知らない自分になるかもしれないし、何も変わらないかもしれない。  だけどまあ、ひとまずは。 「さてと」  人で溢れる東京をぼくは再び歩き始めた。
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