35人が本棚に入れています
本棚に追加
序章
「これ、良かったらどうぞ」
そう言って傘を差し出してきた彼から、目が離せなかった。
ざざぁ、ざぁ。
電車に乗ってる最中に降り出した雨が、本格的に音を立てている。駅前で灰色の空を見上げた天野祐希は、分かりやすく溜息をついた。
天気予報を見て傘を持ち歩くという当たり前のことができる人をすごいと思う。出来るなら持ち物を減らしたい祐希は、あさ晴れていたら傘を持たないし、学生鞄に入っているはずの辞書も高校に置いてきている。
濡れて帰るか。そう決めて黒髪の頭部に鞄を乗せて走り出そうとした瞬間——
「これ、良かったらどうぞ」
頭上から声が掛かり鞄をズラして見上げると、背の高い男が立っていた。ゆるめのパーマをあてた茶色のショートヘア、耳には翡翠のピアス。カッターシャツを着崩した格好は、学生服を着込む祐希とは対照的だ。全く面識はないが年は同じか、少し上くらいだろうか。
真黒な折り畳み傘を差し出して、緩くほほえむ表情の儚さに、祐希の胸がざわついた。
「や、大丈夫。あんたが濡れる方が風邪引きそうだし」
「そこに住んでるから傘なくても平気だよ」
彼が指差した先は高層マンションが立っていた。駅から雨をしのぐ屋根が伸びている。どうやら駅直結のようだ。
だが見ず知らずの人に傘を借りるのは気が引ける。
やんわり断ろうとしたが、それよりも先に手が重なり傘を握らされた。祐希は驚いて目を瞬かせる。
「明日、同じ時間にここで待ってるから。その時に返してくれればいいよ」
「え、あ……じゃあ、お言葉に甘えて」
強引に傘を渡されて、返す日時まで指定されては歯向かう余地がない。卒の無い言動に戸惑いながらも「ありがとう」と頭を下げる。まるでホッとしたように笑う彼に心臓が音を立てた。
どくん、どくんと早くなる鼓動。頬に熱が集まっていく。
「それじゃあ、また明日」
片手を振ってマンションに向かう彼を呆然と見送り、祐希は受け取った傘を見つめた。
どくん、どくん。心臓の音がうるさく鳴り響く。ただ傘を貸してくれただけなのに、繊細な顔立ちが忘れられなくて、胸元をぎゅっと握りしめた。
——何だよ、これ……
周囲は次々と傘を広げて雑踏に姿を消す中、祐希はしばらく動けずにいた。やがて我に返ったように軽く首を振ると、借りた傘を広げる。地面の水をぱしゃりと跳ね上げて、その場を走り去った。
最初のコメントを投稿しよう!