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ネオンサインとリボン
.1
新宿。
銀座のように上品でなく、六本木のように尖ってもいない。さりとて渋谷のように若くもない、あらゆる年齢、国籍、性別を受け入れ、飲み込む雑多な街。人間の欲望全てが上空に渦を巻いているような、そんなエネルギーがこの街にはある。
純然たるオフィス街であり、高級ホテルも存在するここは、昼間ははじけんばかりのエネルギーで人を迎える。ここにくればなんでも手に入るような錯覚をしてしまうほどの、明るく力強い街だ。だが夜の帳が街を包み込むと、その顔は一変する。エネルギーに満ち溢れていることには変わらないが、昼間のそれとは違い、妖艶な悪魔が見せる欲望のエネルギーに変貌する。物欲も性欲も出世欲もなにもかもが夜の新宿にはある。魔物がちらりと見せる舌に絡みとられたら最後、この街に飲み込まれ、這い上がることは難しい。
だからこそ欲望を抱える男も女も新宿にやってくる。もてあますように燃え盛る欲望の炎を、ネオンの明かりでごまかすために。この街の空気は彼ら彼女らから零れ落ちた野望で息苦しいほどに熱気に満ちている。
新宿駅におりると、いつもその空気に眩暈がする。
帰ってきた。
思わずそんな言葉を口にしてしまう。
東口の人込みをすり抜け、新宿通り、靖国通りを越えると、そこが歌舞伎町だ。ここは、新宿の中でもまた独特の空気を持つ。いや、新宿が新宿たるゆえんは、この小さな空間にあるのかもしれない。
俺の仕事場はここにある。
狭苦しい雑居ビルのエレベーターに乗る。チン、と音がして五階でドアが開く。三つしかないオフィススペースの一番奥が、俺の仕事場だ。
「コスモシティファイナンス」
怪しげな会社の名前をドアのすりガラス部分にシールで主張している、この事務所に来るのは一年ぶりだった。
「よう」
ドアを開け、中にいる男たちに手を上げて挨拶する。
「部長! おかえりなさい」
中で新聞を読んだり爪を研いだりしている男たちの容貌はどれも、いかにもヤクザ、といったものだ。粗暴さを奥に秘め、表面はデキるビジネスマンを装っているが、いざその瞬間がくれば獰猛な牙をむく。そこまでを一瞥しただけで感じ取らせる男たち。それが俺の部下。
闇金融といわれる金融屋が、俺の仕事だ。
勤めた銀行を辞めてから十年以上、ここで俺は金と人間の欲望を扱ってきた。地方にもう一軒店舗を構えるというので、その立ち上げを手伝いに一年行っていて、今日、また帰ってきた。
「変わりないか?」
座りなれたソファでくつろぎながら、俺は訊いた。
「ええ。人間のやるこたァ、そうそう変わらないですよ」
俺の右腕としてここを取り仕切る、有能な営業マンだ。
「違いねェな」
顧客名簿や帳簿関係をチェックするために、俺は右腕と共に奥の部屋に移動した。名簿をぺらぺらとめくっているうちに、ふと気になる顧客情報を見つけて目を留める。
ハタチの女の情報だった。
うちのような店に来る客は、ブラックリスト顧客や、何件もの店で借金を重ねた多重債務者だ。そうでもなければ、普通は闇金など足を踏み入れたいとも思わないだろう。
だがこの女は違った。突然やってきた女には、いくら調べても他での借金は見つからなかった。
男にダマされでもしているのかとプライベートも調べたが、下町にある小さな工場に事務員として働いていて、男っ気はまるでなし。ブランド品を買いあさるなどの浪費癖も見当たらない。
一体なんのためにうちで金を借りたいと言ってきたのか、まったく不思議な女だった。
だが、貸してといわれてダメということもない。今の給料ではそのうち火の車となっていくに違いないと思ったが、そこはそれ。ハタチの女なら、なんとでもなる。
見た目は、田舎から出てきた「イモ姉ちゃん」そのもの。黒い髪の毛をひっつめにして、大きな眼鏡をかけ、ほっぺたはりんごのように赤い。だが、眼鏡の奥から上目遣いにこちらを伺う怯えた瞳、震える唇、ぎゅっとハンカチを握りしめる細い指は、磨けば光るかもしれないと思わせるものがあった。
コゲつきゃあ、風呂屋にでもいってもらいましょう。
右腕はそう言ったが、女はコゲつくどころか、毎週きっちりと金を返しに事務所へやってきた。
なにもうちで借りるこたァないんですがねえ。右腕も首をかしげるほど、女の返済はしっかりしていた。しかしおかしなことに、もうすぐで返済が終わる、という頃になると、事務所に来て俯いて言うのだ。
「もうお金ありません。また貸してください」
結局、残りわずかな金額をジャンプして、また大金を借りていく。そしてまた毎週事務所へやってくる。そんなおかしな顧客だった。
「この女、まだやってたのか」
「ええ、ですが、ちょうど部長が地方行ってしばらくしてくらいから、マジメに返さなくなりましてね」
今では借金は、数百万に増えていた。マジメに返そうが返すまいが、こうなることは目に見えている。たとえ借りた分の金を全て使わずにとっておいたとしても、利息分はしっかり上乗せされているのだ。ジャンプした分の金額には更に利息が膨らんでいく。それらの利息分を返すためには、事務員の給料ではいつか限界がくる。さてそろそろ最後の仕上げ、という段階にきているところだという。
「面白ェな。仕事場、どこだっけか」
「部長自らがいくこたァねえっスよ?」
「いい女がいるかもしれねえだろ?」
冗談めかしていうと、右腕は手を振って笑った。
「数人、若い女はいますけど、ほとんどがオヤジとババアの、典型的な下町の工場ですよ」
「ま、復帰戦がてらに、ちょうどいいんじゃねえか?」
またまたあ、という右腕の声を背中に、俺は事務所を後にした。
.2
そろそろ返し始めないと、さすがにまずいかも。
ロッカールームで制服に着替えながら、わたしは頭の中に預金通帳を思い浮かべた。
わたしがあの闇金でお金を借りたのには訳があった。いや、訳というほどのこともない。
恋をしたのだ。
道ですれ違っただけの、言葉すら交わしたことのない男に。
その男に会うためだけに、わたしはお金を借りた。月に一度、振り込んでくれればいいよと言った営業マンに、毎週持ってきますと思わず答えていた。
そうじゃないと使っちゃうから。そんな下手な言い訳をしながら、わたしは毎週事務所を訪れた。事務所に彼がいれば、そこでお金を返す。いなければ、今日はないからまた明日くる、と言っては呆れられた。デスクの向こうでじっと客と部下を見つめているその視線を、わたし個人に向けてくれればいいのにと、何度願ったことか。
けれど結局一年間、ただの一度も会話すらせずに、わたしは毎週彼の姿を眺めるだけだった。それだけで幸せだった。
だけど、そんな幸せも一年前に終わってしまった。突然いなくなった彼の姿を求めて、わたしは日参に近い頻度で事務所を訪れた。そしてようやく、地方へ行ってしまったのだと聞きだした。
もう、お金を返す気にも、事務所に行く気にもなれなかった。彼がいないのなら、闇金の事務所など、怖いところでしかなかったからだ。
そうこうしているうちに、あっという間に借金は膨らんだ。もう、どうしていいのかわからなかった。
制服に着替え、いつもと同じ仕事をこなす。うきうきとしていたあの頃に比べ、なんと味気ない生活だろう。もう、借金を苦に自殺してもいいような気がしてきた。
でもその前に。会いたい。一目でいい。前と同じように、会話を交わすことがなくていい。ただ、彼の姿を見たくてたまらなかった。
夕方、もう少しで定時になるという頃。他の事務員の女性はみなそわそわとし出す時間。デートの約束、コンパの予定。そんなものに縁のないわたしは逆に、いつ、どうやってお金を捻出して持っていこうかと、気ばかりが重くなっていっていた。
そんな時、事務所のドアが開いた。営業マンが帰ってきたのかと、入り口を見たわたしは息を呑んだ。
見るからに高級な生地と仕立てでできているスーツ、ネクタイ。ココからでは見えないが、きっと靴も同じように高級で、そしてピカピカに磨かれているに違いない。さりげなく覗かせているポケットチーフに、袖から見える腕時計までが、キラキラと光って見える。
まるで芸能人のようなオーラを放ちながら、エリートビジネスマンの格好をした彼が、そこにいた。
女性陣はみな唖然として、ドアの前に立つ彼を見つめている。おじさんたちも燦然と輝いている彼を、ただただ眺めている。
「い、いらっしゃいませ」
ようやく、受付当番の女性が上ずった声で彼に言った。
「お約束ですか?」
彼女の熱い視線をものともせず、彼はカウンターごしにわたしの名前を呼び、微笑みかけた。
「ええ。彼女と」
全員の視線が、今度はわたしを射るかのようにわたしに向かってきた。
定時がもうすぐだと言うと、彼は「新宿のいつものところで会おう」と言った。それはつまり、事務所へ来い、ということだ。
彼が、わたし個人に会いにくるわけがない。返済が滞っているわたしを威嚇するために、仕事場にきたのだ。それが分かっていても、わたしは胸が高鳴った。
再会できただけではない。初めて。初めて会話を交わせた。それが嬉しくて、舞い上がるようにしてわたしは定時までを過ごした。
女の工場から事務所へ戻り、俺は右腕とふたり、帳簿を囲んで今後のことを話した。
そうこうしているうちに日は暮れていき、事務所の連中みんなで、俺の復帰祝いをしてくれるということになった。なんということはない。単に飲む口実が欲しいだけなのだが、その口実に使ってくれる心遣いが嬉しかった。
若い連中を先に帰し、俺は事務所を閉める役目を請け負った。まだもう少し、店の内情を把握しておきたかったからだ。
「じゃあ、先に行ってます。早くきてくださいね、部長」
「ああ、わかった」
全員が事務所を出ていき、俺はまた書類に意識を集中させた。
やがて気づけばすでに日はとっぷりと暮れており、夜の闇が街を覆っていた。小さく背伸びをし、ブラインドの隙間から街を覗く。夜になってから、この街は本来の姿を見せる。けばけばしいネオン。耳を塞ぎたくなるほどの喧騒。男と女の欲望と情熱が、ネオンに照らされて露わになる。そんなところは、確かに一年前と変わっていない。
ぞくぞくするような喜びを覚え、俺は書類を片付けた。そろそろ店に向かわないと、と思ったからだ。
その時、街には似つかわしくない空気をまとった女が、このビルを見上げているのが見えた。あの女だった。しっかりとカバンを胸に抱いて、女はビルの入り口に吸い込まれた。
俺は事務所のドアの正面にあるカウンターに座り、煙草を取り出して待った。女は、煙草が半分まで減ったところでやってきた。
小さなノックが聞こえ、俺は煙草をくわえたままドアを開けてやる。ぺこりと女はお辞儀をした。ドアの隙間を塞ぐように俺は立ち、女に向かって言った。
「何しにきた? もう、あんたに貸す金はねえぞ」
「かっ、返しに……。返しにきました」
「ほう……。なら、入んな」
女を事務所へ招き入れる。ドアを閉めてから俺は応接セットのソファにどかりと座った。女はおそるおそる俺の前のソファに腰掛ける。
これを、とカバンから取り出したのは、銀行の封筒。中を見れば綺麗に揃った福沢諭吉の束だ。もったいぶって俺はその枚数を数える。
「百か。あんた、それでもまだ全然足りねェって分かってるか」
「ハイ。だけど、これで元金は半分――」
「バカ言っちゃ困るな。こっちは毎回耳揃えて貸してやってんだ。なら、返す時も全額まとめてだろ。元金を全部きっちり持ってくるんなら元金分にあててやってもいいが、そうじゃないなら受け取るわけにはいかねェねな。これは、利息分に当てとくよ」
女は俯き、スカートをぎゅっと握り締めた。
「で? また前みたいに、毎週いくらか持ってくるつもりなのか? もうあんな金額持ってきたって、焼け石に水だぜ。まあ、ないよりはマシだがな」
さっきまで吸っていた煙草を灰皿でもみ消した。すると女が突然立ち上がり、きゅっとこちらを向いて俺を見つめた。磨けば光るかもしれないと思った、綺麗な瞳だった。
「わ……。わたしを……。わたしを買ってください」
かけていた眼鏡を外してテーブルに置き、髪をほどいた。おあつらえむきに、エアコンの風で黒い髪が女の肩のあたりで泳いで、俺を誘う。
「身体で、払います。払いきれない分は――身体で。わたしの身体で払いますから
言いながら女は俺のほうへ寄ってくる。俺は黙って女のすることを見守っていた。
女は俺の前で、ブラウスのボタンを外してスカートを床に落とした。地味な洋服とはアンバランスな派手で色気のあるレースの下着が、女の身体を僅かに覆っていた。
恐らくまだ誰も触れたことがないであろう胸は、人並みより少し大きめ。大きな尻に、くびれた腰。股間を隠すレースの下からは濃い茂みがのぞき、その更に奥のことを想像させる。
「だから――抱いてください」
そう言うと、女はかがみこんで、俺の唇に自分の唇を重ねてきた。震える小さな声を発する、赤いふっくらとした唇だった。
キスをしたこともないのか、女の口づけはただ単に唇を重ねるだけだった。俺が小さく口を開くと、はっと気づいたように舌を差し入れてきた。
「んっ……。んん……」
女のあえぎ声と、唾液が絡み合う水音が、薄暗い事務所に響く。ぎこちない、慣れていない舌と唇の動きに、俺の下半身が僅かに疼いた。
.3
わたしは少ない知識を総動員して、彼の唇を吸い、口の中を舌でまさぐった。彼は口を薄く開いた以外、何も反応を示さない。思い切ってわたしは彼のベルトに手をかける。
恐怖と興奮とで震える手で、わたしは彼のベルトを外し、スラックスの前を開いた。
ブラジャーの留め金を外して、胸を彼の前にさらけ出す。そうしておきながら、わたしは彼の下着の上から、彼の男根に触れた。触れたそこは下着の中でゆるやかに硬さを持ち始めていた。硬くなる、というのはこういうことなのかと、初めて自らの手を通して感じて知る。これ以上のことがあるのかそれともこれで終わりなのか、まったく見当がつかない。わからないなりに必死でわたしは続けた。
彼の首に手を回して、自分の胸を顔に押し付ける。彼の薄い唇が乳房に触れて、わたしの身体に刺激が走る。
だが、彼はそれ以上何もしてこない。わたしは身体を離し、彼の膝に乗ってもう一度口づけた。口づけしながら彼の股間に手を寄せて、硬くなりつつある彼の男根をさする。
わたしの手の中で徐々に固さを増し、大きくなっていく彼の男根。彼の中でそこだけが、わたしに反応してくれていた。ふと下半身に目をやれば、下着の上から見えている赤黒い先端が、てらてらと光っていた。初めて見るそのモノに、おもわず息を呑んだ。
すると彼はわたしの腰に手を回して、ぐっと引き寄せた。
彼のシャツごしの肌が、わたしの身体に触れている。そう思うだけで、わたしのアソコは濡れてきて下着を汚した。
「抱けってか?」
耳元で彼の声がした。こくりとわたしは頷いた。
「抱くのは構わねェがな」
彼の男根をさするわたしの手を止めて、彼は続けた。
「あんたがどれだけ俺の上で腰振っても、俺には一銭も落ちてこねェってことは、理解してるか?」
硬さを増していたはずの彼の男根が、元に戻っていく。触れていたはずの肌が、わたしの身体から離れていく。
「身体で払う覚悟ができたってんなら、それなりの店、紹介してやるぜ。そこで客相手に腰振って、稼いで、返してくれ。俺に股ァ開いても、あんたの借金はビタ一文、減らねえんだ」
彼は腰に回していた手に力を入れて、わたしを膝から下ろした。
「服、着ろや。俺が客と、営業時間外にこんなことしてるなんて知れたら、部下どもがうるせえ」
「客……」
ほら、とわたしが脱ぎ捨てた下着や服を手渡してくれながら、彼は頷いた。
「ああ。あんたと俺は、金融屋の店長と客って関係だ。それ以外の何ものでもない」
のろのろとわたしは下着を身につけた。初めてつけたこの下着の派手さが、自分の愚かさと浅ましさを表しているようで、惨めでたまらなかった。
彼はソファから立ち上がり、いつも座っているデスクに腰だけ乗せて、煙草をくわえてわたしを見ていた。服をようやく着終わったわたしに、彼がデスクにあった手鏡を差し出した。受け取って、髪を軽く整える。返す時に触れた彼の手の温もりに、胸が震えた。
「すみませんでした」
手鏡をデスクに置いた彼が、ぐいとわたしの手首を掴んだ。
冷たい彼の手の平が、わたしの手首にあった。ごつごつとした指がわたしの腕にくいこみ、そこが熱を持つ。わたしの神経もそこに集中した。もっと触れて。もっと触れていて。もっと強く、もっと優しく。
「あんた、家族や親戚はいないのか」
はっと気づくと、彼が話しかけていた。急いで頭を回転させて、答えた。
「両親は田舎にいます。親戚も」
「二本だ。二百万、親や親戚に頭下げて借りてこい。今日のその百に足しゃあ、あんたの借金の半分になる。それで勘弁してやる。その代わり、今月中だ。あと二週間のうちに、三本まとめて持ってくるんだ」
彼の言っていることの意味が分からず、わたしはぽかんとして彼を見つめた。
「あんたの綺麗な裸に免じて、半額で許してやろう。間違っても他の金融なんかで借りてくるんじゃねえぞ、いいな?」
煙草を灰皿に捨てた彼が、掴んでいたわたしの手を持ち上げ、手の甲に小さくキスをしているのが見えた。自分の手にされているのだと、気づいたのは一瞬後だった。
「分かったか?」
頷くと、彼はふっと口元に笑みを浮かべて、じゃあ帰れ、と言った。再び頷くと、わたしの手首を掴んでいた彼の手が、離れた。
宙に浮いた腕をやっとのことで自分の身体に引き寄せて、わたしはソファに置いてあったカバンに手をかけた。慌てていたためか、カバンの中身を床にばら撒いてしまい、わたしはそれを拾い集めた。その間彼はわたしを見つめていて、恥ずかしさで頬がかぁっと熱くなるのがわかった。
彼はテーブルの上のお金を封筒に入れなおして、わたしのカバンの中に入れた。
恥じらいもなく彼の体に触れ、口づける淫らな女だと思っただろうか。抱く価値もない貧弱な体を見せて、汚らわしいと思っただろうか。けれど彼は何も言わない。打ちのめされた気分を引きずって、わたしはドアに向かった。
彼は後ろをついてきて、ドアを開けてくれた。
「あの――」
「返済が終われば、あんたはもう俺の客じゃなくなる」
ありがとうございました、と礼を言おうとしたわたしの言葉を、彼は遮った。
そうだ。返済が終わる時は、わたしが彼に会えなくなる時でもある。なんのためにこんなに借金を重ねてきたのか、結局、わたしは恋のひとつも実らせることができないままに、両親を泣かせることになる。
バカみたいだと、わたしは自嘲した。彼を見るためだけに、計画的に借金をしていたはずなのに。借金がなくなるのは助かるし、嬉しかった。けど、もう会えなくなってしまう。
「客じゃないってことは、俺とあんたの関係も、男と女になるってことだ――待ってるぜ、あんたが借金返し終わって、ひとりの女になるのをよ」
じゃあな、気をつけろよと彼はわたしの頬をひと撫でして、額に軽くキスをしてくれた。呆然としているうちに、彼はドアを閉めていた。
それからわたしはエレベーターに乗り、ドキドキと高鳴る一方の胸を押さえて街に出た。いつもは怖いと思う街の喧騒やネオンの光が、何故か今日は心地よかった。
わたしは携帯電話をカバンから取り出し、実家の番号をメモリーから呼び出した。
.4
彼女が出て行った後の事務所には、女の匂いが漂っていた。それを消そうとして俺はまた煙草をくわえた。
「部長」
ドアが開き、右腕が現れた。
「おお、遅くなって悪ィな。今出るところだ。あと、あの女――」
「ええ、立ち聞きするつもりはなかったんですが、聞いてました。三百なら、いいんじゃないんですかね。どうせ元は百にも満たないんですから」
なかなかつかないライターを苛立ち紛れにゴミ箱へ放り投げると、右腕が近づいてきてライターの火を貸してくれた。俺はそれに顔を近づけて煙草に火をつける。
「部長、女の趣味、変わりました?」
冗談めかして右腕が笑いながら言った。俺はふっと煙を吐き、首を振った。
「似てんだよ」
「は? 似てるって、誰に?」
「――この業界くる前に、借金、苦にして死んじまった女房によ」
俺がそう言うと、驚きと憐憫とが混ざりあった、なんともいえない表情を右腕は作り、俺から目をそらした。
「さあて。早く行かねえと、酒も肴もなくなっちまいそうだな」
ソファの脇に彼女が落としていった、口紅を拾いながら俺は言った。
事務所を出て鍵をかけ、エレベーターにふたりで乗り込む。
「部長も案外、ロマンチストだったんスねえ」
「冗談だろ。ただでさえこの一年忙しくて女どころじゃなかったんだぞ。あと二週間も女日照りが続くのかと思うと、泣けてくるぜ」
「アッレエ? 彼女が来るまで、他の女抱かないんですか?」
「どこに気軽に抱ける女がいるんだ。残念ながら一年も俺を待っててくれる健気な女はひとりもいなかったよ」
「部長相手ならいくらでも、って女、山ほど知ってますよ」
俺は右腕の肩を抱いて、ニヤニヤ笑いながら答えた。
「愛のないセックスはいらねェな」
今までの俺の行状を知っている右腕は、ぷっと吹き出した。
「知らなかったなあ。部長がそんなにロマンチストな上に貞操観念発達してたなんて」
お前たちに合わせてたんだよ、と茶化しながら、俺たちは街を歩く。知り合いの黒服や不良どもが軽く頭を下げてくる。
ああこれだ。ここが俺の街だ。
「彼女、明日あたり、三本耳揃えて持ってきたりして?」
「ああいいねえ。そしたら俺はその時点で仕事あがるぜ。明後日も休むから、頼むぞ?」
「どんだけヤるんですか」
「一年分」
「股、裂けちまいますよ、彼女」
街にふさわしい下世話な会話をしながら、俺たちは部下が待つ店へと向かった。
「ねえ、部長?」
「あん?」
「さっきの話、本当なんですか? 奥さんに似てるって――」
おそるおそる右腕が訊いた。俺はニヤリと笑い、煙草のパッケージを胸ポケットから取り出した。
「――さあな」
「まったく、部長にはかなわねえな」
たどり着いた店のドアを開けて、右腕が笑った。
俺はポケットの中の口紅にそっと触れた。それは、彼女らしいノンブランドの地味なベージュの口紅だった。
明日、デパートの化粧品売り場で、同じような色の口紅を買おうと思った。プレゼントと言えば、箱に詰めてくれるだろう。
箱にかけるリボンは赤い色がいい。彼女のうぶな唇とほっぺたの色だ。
俺は、いつの日か来るであろう彼女のことを思いながら、店のドアをくぐった。
――了
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