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泣き虫君と職場の人々
片付けをしていたアツシはハッとして時計を見やった。
時刻は17時を少し過ぎたところだ。
そろそろ家を出なければ出勤時間に間に合わなくなる。
掃除機をしまったアツシはいそいそと準備をし始めた。
準備といってもそう大したことはない。ケータイと財布を持てば準備は完了である。
いつものパーカーを羽織るとアツシは家を後にした。
飲み屋通りを1つ入った路地裏、レンガ通りの所にひっそりと佇んでいるのがアツシの働くお店だ。
シックな色合いで纏められた扉をガチャリと開ける。
少し暗めの店内では丁度キイトが振り返ったところだった。
「あー!アッシュ先輩はざッス!」
「おはよ。元気だね」
パタパタと嬉しそうに駆け寄ってくるのに合わせてワックスで固められたサイド髪がまるで耳のように揺れる。
キイトは同じウェイターを勤めるバイト君だ。派手な金髪とピアスをたくさんつけているのがよく目立つ。
そういえば指輪も良くつけているな。今日は右手に黒っぽいのを二つ左手にも一つ付けている。
お洒落が好きだと言っていたのでそういうのが普通なのだろう。アツシにはよく分からないが。
彼はバーテンダーを目指してここに入ったらしい。
基本的にカフェタイムを担当し夜には帰る事になっているが、勉強と称してラストまで残っていることも多い。
見た目とは裏腹に勉強熱心な子だ。
「俺はいつでも元気ッスよー!アッシュさんこそもう少しアゲてかないと!」
「いや、そんなんじゃもたないし…」
まぁ言動は見た目通りというかチャラいというか。それから声が大きい。
背丈はアッシュの方が大きいが、声の張りは明らかにキイトの方が強いのだ。
タイガもかなり騒がしい方だが、キイトも大概である。
横に2人並べたらさぞや賑やかなことだろう。ユキオが嫌がりそうだ。
お客がいないのをいい事に、キイトはアッシュの後ろをひょこひょこと付いて回った。髪が黄色いのも相まってまるでひよこのような動きだ。
何故かこの子はアツシに懐いている。まぁ年も5つくらい離れているので何となくユキオ達の相手をしている感覚に近い。
「アッシュさーん!まだ時間ありますよね?」
「あるけど、キイトは仕事中だよ」
真面目に仕事してくれ。
あとで怒られるのはお前だけじゃない。
かれこれここで働き始めてもう5年以上になる。
最初はキイトのようにアルバイトとして働いていたが、ロイさんに誘われてそのまま成り行きで就職した。
今ではフロアを任される立場になったアツシは何か問題が起こればロイさんから直々に呼び出されるようになっているのだ。
本当に損な役回りである。
しかしキイトの方はそんなこと御構い無しにアツシの腰に抱きついた。
「だってこの時間仕込み時間だから人いないんスもん!」
だからって他人に抱きついて良い理由にはならんだろう。
キイトはこの懐っこい性格のせいかやたらとスキンシップしたがる。パーソナルスペースが狭いというかなんというか……。
そのせいでよく女子をその気にさせて彼女を取っ替え引っ替えしている。
「分かったから離れて。着替え行けない」
「じゃー、ちょっとだけ話聞いてくださいっスー!」
ちょっとだけー!とキイトは騒ぎながらアツシの服やら腕やらをグイグイと引っ張る。
伸びるからやめてほしい。ただでさえパーカーはすぐダメになるというのに。
ねーねー、と引っ張るキイトを引き離そうともがくがあまり効果はない。ただ抱きつく位置が後ろから横に変わっただけである。
そんなキイトに付きまとわれながら、曰くアガっていないアツシは困った顔をしながらキイトを見下ろした。
「もーキイト、いい加減――っ痛ぁ!!」
バシンッ!!
大きな音とともに背中へ衝撃が走る。
びっくりして思わず涙腺が緩むと同時に後ろから怒鳴られた。
「うるせーな!遊んでねーで早く準備しろ」
「コテツさん……」
振り返った先にいたのはもう1人の出勤者であるコテツさんだった。
彼は料理人で主にカフェタイムから夜にかけてを担当している。
背はほぼ平均かそれ以下なのだが、それを上回る目つきの悪さで存在感がすごい。如何にもヤンキーな兄ちゃんといった風貌である。
赤っぽい髪を上に上げているのもその要因の一つだろう。
しかし実際のところヤンキーなのは口調と態度だけで割と根は真面目な人だ。
とはいえ気が短い人なのでアツシは少しだけこの人が苦手だった。
「えぇー、コテツさん俺騒いでな―――」
「うっせ!いいからさっさと支度しろそこにいると邪魔だ」
不満を言うや否や、背中へ更に追い打ちをかけられる。
気が合わないというかそりが合わないというか。
のんびりした態度のアツシと気が短いコテツではあまり相性が良くないらしくすぐこうして怒られる。
「き、着替えてきます」
アツシは堪らず更衣室に逃げ込むことにした。
「あーぁ、逃ーげられたー!」
「……何だよ」
後ろからコテツを茶化すキイトの声が聞こえる。
やめろ刺激するな!
あとで怒られるのは俺だ!!多分!
コテツはハキハキしたキイトの態度を気に入っているのできっとそう怒りはしないが、イラついた分は多分こちらに回ってくるに違いない。
早々に退散したアツシはさっさと更衣室へと入った。
「失礼します」
「あらぁ、おはようアッシュちゃん」
呼ばれて視線を前に向ければ美しいピンクのロング髪が映る。マキさんだ。
化粧を施された顔の中でも自前らしい下まつげが目立つ。
じっと顔を見ているとニコリと笑われた。
「やだもー、早く入んなさいよ。寒いじゃない」
「あ、すみません」
丁度支度中だったらしく、上着を手にした彼はクスリと笑った。
別にアツシが部屋を間違えたのでも何でもなく、マキさんは男性だ。現に声は割と普通のハスキーボイスなので顔だけ見ていると少し混乱する。
しかしそれ以上に彼を男足らしめるものがあった。
「アッシュちゃん、コテツちゃんにまた殴られたんでしょう。ここまで聞こえてたわよ」
「う、はい」
別に自分が悪いわけではないのだが、そう言われるとなんだか居心地が悪い。
アツシのロッカーとマキさんのロッカーはすぐ隣なので彼の方へと近づく。
隣に立つとマキさんはアツシより数センチ高い。結構大柄な人なのだ。
しかし気にしているらしいのでそれを口にすればラリアットを一発かまされることになるのでアツシは死ぬ気で口を閉ざした。
マキさんはコテツさんの上司にあたり、ここのメイン料理長を務めている。
アツシがアルバイトをしていた頃からいるお店の古株である。
よく賄いで彼の料理を食べるが味は絶品で、休みの日でもここへ食べに来たくなる程だ。
まぁ実際オフでここに来ようものならば全力で周りからお誘いを受けそうなので実際に来たことはないのだが。
しかしそれ程マキさんの料理は美味しい。美味しいのだがマキさんにも困った癖があった。
それは――。
「もおおおお、あんたまたご飯食べてないんでしょう!」
「ひっ!!」
着替えようとパーカーを脱いだところでガシリと腰を掴まれる。
「もう少し食べなきゃこんっなペラッペラで……羨ましい!!!」
「ちょ、痛い痛い痛い!!!」
骨盤からミシッて変な音が!!
最初は掴んでいるだけだった手が、羨望と共に力が入り始める。
いくら顔は綺麗でもやはりこれだけ大柄な男性なので力が強い。アツシなど正直なところもやしっ子なので普通に握り潰されそうだ。
「なぁーんで太らないのかしらぁー!!」
「だ、だから言ってるじゃないですか。体質ですって!!」
「あんたの場合体質以前に食べないからよ!!今日もアッシュちゃんの分は大盛りね!!」
これである。
ただでさえ一人前食べれるか否かというところなのにマキさんはアツシを太らせようとすぐ大盛りにしてくるのだ。
無理に出されてもタイガがいれば残った分は引き受けてくれるがここにはいない。
毎度食べきれずに残す罪悪感を考えて欲しい。
「勘弁してくださいよ」
「ダメよ!今年こそは5キロ太らせてやるんだから!」
「人の体重で変な目標を掲げんでください」
アツシは呆れてため息を吐くがマキさんは聞いちゃいない。
毎年こうして目標を掲げれるのだがそれが達成されたことは今の所ない。
大盛りさえなければなぁとアツシは小さくため息を吐いた。
「とりあえず着替えるんで手、離してください」
「あらそうね」
パッと手を離したマキさんはごめんなさいと言って鏡に向かい始める。
視線がなくなったことでようやくホッとしたアツシは制服に袖を通した。
ここの制服は皆ほぼ一緒の作りをしている。
クリーム色のカラーシャツに細身シルエットの黒パンツ、そして黒のロング丈のソムリエエプロンだ。
靴は黒指定はあるものの各自持参。それ以外はここで貸し出してくれる。
慣れた手つきで着替えたアツシは最後にロッカーの鏡で最終チェックを行う。
身だしなみが確認出来るよう、わざわざ大きな鏡が扉のところに付けられているのだ。
これでの確認を怠るとロイさんからお叱りを受ける。
そういうところには厳しい人だ。
よし、特に変なところはない。大丈夫だろう。
アツシが1人脳内で頷いていると隣からジト目が降りかかってくる。
「あぁもう、その細い腰が羨ましい……」
「……っ、先行きますね!!」
副音声で「羨ましい」のところで妬ましいという声が聞こえた気がする。
あまりにも強い視線に耐えられなくなったアツシは早々に更衣室からも逃げ出したのだった。
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