泣き虫君と職場の人々2

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泣き虫君と職場の人々2

「おや、アッシュ君おはよう」 「シマさん、おはようございます」 アツシが更衣室から出ると丁度入れ違いでやって来たのはバーテンダーのシマさんだった。 彼はロイさんが引き抜いてきた例のベテランさんだ。 ちなみにここの最年長で今年56歳になるらしいのだが、全くそれを感じさせない。少なくとも10歳以上は若く見える。 長い髪を一つに結び、あまりシワも寄らない若若しい風貌をしている。薄いスミレ色の目元は涼しげで穏やかだ。 サイドに流れるこぼれ髪がなんとも大人の色気漂う。 こんな風に歳をとれたら素敵だと思うアツシの憧れだ。 あまり自分からは話さないがのんびりとした相槌が絶妙で、話もよく聞いてくれるのでお客さんからも人気がある人だ。 勿論スタッフにも同じく優しげに接してくれるので皆から慕われている。 キイトなどはバーテンダーの仕事を教えてもらっている分顕著でよく懐いている。まぁキイトの場合懐かないことの方が稀なのだが。 「今日もよろしくね」 「はい、よろしくお願いします」 ニコリと笑われアツシもペコリと頭を下げる。 ホント、シマさんと話している時は穏やかで好きだ。 ロイさんとかロイさんとかロイさんとかとは大違いだ。 本人に聞かれたらまた嫌がらせでもされそうなことを思いつつ、シマさんを見送る。 さて、向こうの準備はどうかと足を運ぶとまた誰か入ってきたようだった。 「おはようございますです!ちょっと遅くなりました!!」 元気な声と共に入ってきたのはここ唯一の女性、アルバイトのチャロである。 ミルクティーブラウンの髪はいつも頭上でお団子にしているが、今は急いできたのか下ろしたままだ。息を吐く度に肩にかかったスクールバッグが揺れている。相当急いできたらしい。 彼女はこの店の最年少でユキオ達の一つ上の学年だ。 すぐ恋愛問題を持ち込まれたり、自衛の問題からロイさんはあまり女性を入れたがらない。しかしチャロは合気道道場に子供の頃から通っている有段者だ。 その上体を動かす事自体が好きらしく、自主トレと称して筋トレもしている。女子としては珍しい部類の子だろう。 そんな点もあり万が一何かあっても自衛の手段があるだろうということで働くことになったらしい。勿論その万が一が起こらないよう気をつけてはいるが、お酒を提供する場なのでトラブルというものは存在する。頭の痛い話だ。 自衛という点においてはアツシの方がチャロより問題かもしれないがあまり考えると悲しくなるのでやめておこう。 「チャロちゃんおはよーッス!」 「はよ。まだ時間前だ……早く着替えてこい」 返事を返すキイトとコテツ。コテツの対応がアツシの時とは大分違う。 流石に女の子にいきなり手をあげたりしたら問題なので当たり前なのだが何となく腑に落ちない。チャロはぺこりと頭を下げると慌てて女性更衣室に駆けていく。 もうそんな時間なのかとアツシが時計を見上げると、ちょうど時計の針が18時を指す所だった。 「おはよう」 最後にやって来たのはこの店のマスターである。 「おはようございますロイさん。……またギリギリですよ」 「朝は苦手でねぇ」 「どこが朝なんですか…」 いつもならにこやかな右目は、寝起きなのかまだ眠たそうにしている。この人は完全なる夜型なので寝起きがすこぶる悪い。というか起きない。 たまにどうしても起きなくてはならない用事の時に頼まれて起こしに行くが、まぁ起きない。二度寝三度寝は当たり前で、起きてからも覚醒するまで一時間はかかる。 ため息を吐くロイに「もう夕方も過ぎて夜ですよ」とアッシュが呆れたように返した。 それを背中で受け流しながら、ロイもゆっくりと更衣室へと入っていく。 支度を終えると、眠気も無くなってきたらしくロイはすっきりした顔をして出てきた。 そこから先はいつも通り簡単な申し送りをして、すぐにそれぞれの場所へと散っていく。 アツシはキイトやチャロと一緒にフロアを担当だ。 だいたいがロイさんの常連だが、中にはシマさんに会いに来ている人もいるのでそういう人はシマさんのところに当たるようバーカウンターの方へと席を誘導する。 最初はまばらで、20時から21時の間が一番忙しい。ピークを過ぎれば賑やかではあるものの入りが少なくなるので注文もある程度は落ち着いてくる。 そして22時になるとコテツさんとキイト、そしてチャロが上がる時間だ。 チャロは飲み屋通りを通らないと帰れないので毎回キイトかコテツさんが通りを出るまで一緒に帰るらしい。 コテツさんはマキさんと次回の打ち合わせをした後早々に帰って行くが、キイトはその日の気分で上がったり上がらなかったりする。 勉強したい時はロイさんとシマさんに伝えて残ってくれる。 とはいえ、バーテンダーの勉強の為の残務なのでフロアには入らない。 どうしてもの時は別だが、余程のことがない限りアツシだけで事足りる。 0時を過ぎれば殆どの客が帰っていく為、ここでシマさんも上がりだ。 それに合わせてキイトも勉強を終え、帰宅することもあればラストまで残って一緒に掃除をしてくれる時もある。 今日も閉店まで残って片付けを終一緒にしてくれる。 「いつもありがとな」 「えー、良いんスよー!でもだからってわけじゃないっスけど、今度はちゃんと話聞いてください!」 んじゃ、お疲れでした!と元気に手を振って帰っていく。 それに手を振り返しながらアツシは苦笑をもらした。 なんだかんだで慕ってくれているのが分かるというか、こういうところがあるのでキイトのことは憎めない。 さて、仕事も終わったことだしと着替えたアツシは帰ろうと戸口に向かった。 が、急にパーカーのフードを鷲掴みにされる。 「ぐぇ……っ」 首が絞まって思わず変な声が漏れた。 「ロイさん……」 名前を呼ぶとニコリと笑われる。 それを合図に手を離してくれたので絞まった首元を整えながらアツシは首を傾げた。 「今度は何ですか?」 するとロイさんは目を細めてカウンターを見やった。 「コーヒー淹れて」 ロイさんはしょっちゅう何か理由をつけてはアツシを引き止める。その主な理由がこれだった。 「自分でも淹れられるでしょうに」 むしろアツシより上手に入れられるはずだ。なんせ自分はこの人に習ったのだから。 ……うぅ、勉強と称してコーヒーを飲まされ続けたことを思い出す。 と同時にぐわりと口の中が苦くなったような錯覚に陥った。 この人はコーヒーに関しては妥協しないので鬼のような特訓を受けた。それこそコーヒー中毒にでもなるんじゃないかと思うほど毎日毎日コーヒーばかり飲まされたのだ。 おかげでコーヒーだけは苦くともなんとか味を確かめる余裕がある。 その為に扱かれ抜いたことは決して忘れないが。 「却下。君が淹れたのが飲みたい」 また我儘が始まる。ユキオ達が言えば仕方ないなと甘やかすアツシだが、正直さっさと帰りたい。 「着替えちゃったんですけど」 つい渋るような声が出たがロイさんは気にせず営業用の笑みを貼り付けた。 ニコニコする様子にあ、これは引かないなと悟る。 「そのままでいいよ」 いや、そういうわけにもいかないだろう。 せめてと思いパーカーを脱ぐことにした。抜いだものを適当にその辺の椅子にかけると私服の袖口を折る。 手を洗った後でいつものコーヒーミルに手を伸ばした。 「どうします?」 「いつものに酸味足して」 「分かりました」 酸味か。少し疲れてるのだろうか。 言われた通り、ロイさんの好きなブレンドに酸味が強い山地の豆を追加した。それに合わせて他の豆を調整して味を整える。ある程度イメージ出来てからそれらをミルで挽く。サイフォンを使用するので中挽きだ。 次にフィルターをセットし、ついでに濾過器の具合も確認する。今挽いたコーヒーの粉を入れてからお湯を沸かした。 ロートを伝って沸騰した泡がぶくぶくと上がってくるのを確認して混ぜる。 ここから先は散々言われた抽出だ。時間が長すぎると雑味が増えるし、短くても美味しくない。 未だにロイさんにはよくお叱りをもらう。 注意して確認し、コーヒー液が全て落ちきるのを待った。 その間、ロイさんは何も言わずにカウンターで寝転がるようにして頬杖をついている。じいっとこちらを見られると昔の癖で何かお小言でももらうんじゃないかとついビクビクしてしまう。 しかし実際には何も言うことなくアツシの動作を眺めているだけだ。 珍しく顔が笑っていないのでやはり疲れているのだろう。 ロイさんは基本貼り付けたようにいつもニコニコしている人だが、時折そうして笑わなくなる。 大抵が2人になった時で、あとは古株のシマさんやマキさんといる時だ。 キイトやコテツさんがいる時には決して悟らせない。 何が基準になっているのかは分からないが、ある程度本人の中でその辺の線引きをしているのだろう。 しかしアツシから何か言うことはない。 いちいち指摘されるのが嫌いな人なのできっと誤魔化されるに違いない。 だったらそっとしとく方が良いだろうというのがアツシの考えだった。 ロイさんの様子を気配で感じつつ、抽出が終わった物を最後にもう一度混ぜる。 出来上がったものをカップに移すとロイさんに差し出した。 「どうぞ」 「ん、ありがとう」 受け取ったロイさんはカチャリと小さく食器音を立てただけで、あとは静かにコーヒーを飲んでいる。 そうしていると本当に何処ぞの芸能人のようだ。ただし中身はだいぶ変わっているが。 しかし今は静かゆえに何だか少し落ち着かない。 何となく置いて行けなくてそのまま飲む姿をぼーっと眺めていたら笑われた。 「何ですか」 「……いや、何でもない。それより、この配合なら少し抽出長かったね。今度は30秒減らして」 「…………はい」 いつもの表情に戻って少しだけホッとしたのは内緒だ。 結局アツシはそのままロイさんがコーヒーを飲み終わるまで帰らなかった。
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