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泣き虫君とバイト君
会計へと足を進める客を見送り、一通りテーブルを片付けたアツシは裏方に戻ると重くなった身体を軽くしようと息を吐き出した。
それに気づいたマキさんは厨房の方から顔を覗かせるとアツシに声をかける。
「アッシュちゃんも、今のうちに休憩行ってらっしゃいな」
マキさんに言われてアツシは反射的にフロアを覗き込む。
今日はこの時間にしては珍しく客の入りが落ち着いていた。その代わり少し前まで目が回る程忙しかったのだが、30分前に入った二人組の男女を最後に新たな客は現れない。確かに今ならちょうど良い頃合いだろう。
しかしほんの少し前にキイトを休憩に入れたばかりだ。今アツシが抜けるとフロア対応がチャロだけになってしまう。彼女だけでは回らないというわけではない。むしろテキパキと動く子なのでそこは大丈夫だろう。
ただ普段ならチャロを1人にしないよう、アツシかキイトのどちらかが休憩の時はもう一方が残っている。二人同時に入るのは初めてではないだろうか。
その事に躊躇したのに気づいたシマさんが大丈夫だと手をヒラヒラと振る。
「何かあったら私が対応するから大丈夫だよ。今行かないと行けなくなるから行っておいで」
確かに、今を逃せばフロアのバイト組が上がってしまうのでラストまで入れなくなる。
キイトだっていつもならもっと早く入るのだが、さっきまであまりにも人の波が途切れず入りそびれていたのだ。
二の舞にならない為にも今入るのが得策だろう。
「じゃあ、お言葉に甘えます」
少し疲れていたので助かった。アツシはシマさん達に感謝しつつ大人しく休憩室に向かう事にした。
休憩室の扉を開けると席に座ったキイトが目を丸くした。
「え?アッシュさんも休憩っスか?!」
珍しいっスね!とはしゃぐキイトにアツシはコクリと頷く。
「今はお客が少ないからな」
「さっきまでエグいくらい混んでましたからね」
中々一緒に入れないからか、キイトはこっちこっちと手招きしつつニコニコしている。
どうせ席はそこしかないのだからそんなに慌てることはないのだが、キイトは楽しげだ。
もう既に賄いは済ませてしまったらしく、トレイを端に寄せてケータイを弄っていたようだ。
扉を背にするようにして向かい席に座った。アツシが賄いを食べ始めるとケータイそっちのけで、ワクワクした様子でこちらを見ている。多分何か話したいことがあるのだろう。
こういうところが懐っこいというか、犬っぽいというか。
なんとも性格が出るところである。
「で、キイト。何か話しがあるの?」
「っそーなんっスよ!」
バン、とテーブルを叩かれて思わず肩が跳ねる。キイトはリアクションが大きいので此方の方が驚いてしまう。
アツシが驚いた事に一言謝りつつキイトは続けた。
「俺!アッシュさんにどーしてもお願いしたいことがあって!!」
キラキラとした表情は特に何か企んでいるようには見えない。後輩にお願いがあると言われてあからさまに嫌がる者もそういないだろう。
少なくともアツシは嫌がるタイプではなかった。
一度箸を止めると首を傾げた。
「お願いって?」
「ピアス開けさせてください!」
待ってましたとばかりにキイトはハキハキと答えた。
前言撤回する。
何を言い出してるんだ。
「開けてください」ではなく「開けさせてください」だ。間違いない。後輩が、何故かは分からないがアツシの耳にピアスを開けたがっている。
彼の言うことなので他意はないのだろうがこういう店にいるからか、ちょっと警戒するセリフだ。
とはいえ理由を聞かなければ分からないこともあるだろう。アツシはとりあえず理由を聞いてみることにした。
「えと、何で俺にピアス開けたいの?自分にやればいいんじゃない?」
キイトはぱっと見ただけでも片耳に4つはピアスを付けている。これ以上耳に開けるのは難しそうだがボディピアスという手もあるだろう。
「いや、ホントは口ピ開けようとしてたんス!それをシマさんに話してたら近くで聞いてたロイさんに下品だからダメって言われて」
「あー」
確かにロイさんはピアス自体に関しては特に規制しないが口元などに付けるのは嫌がるかもしれない。
「やるならここ辞めてからにしてねって言われたら流石になーと思って」
確かにそこまで言われては開けにくい。というかそれで開けたらなかなかの勇者だろう。
「ってことで自分の開けれないんでアッシュさんの開けさせて下さい!」
うん、聞いたけど意味分かんなかった!
何故自分のが開けられないからって他人のを開けようと思うのか。その心理が理解出来ない。
「いやボディピアスとかでいいじゃん!」
「ボディピは好きくないっス。見えるとこがいい!口ピは耳と繋げたやつ作りたかったからぁ!」
「耳と?」
「こーいうのっス」
首を傾げるとすぐさま検索してキイトは目当ての物を見せてくれた。
確かに細いチェーン状のものでピアス同士を繋げている。そういえばこの子チェーンとか好きだったな。
ちらりと手首に目を向ければ細いブレスレットがたくさん付いている。
チェーンが好きならこのピアスが付けたいのも納得がいく。
それにしてもこのピアスはうっかり何処かに引っ掛けたりしたら痛そうだ。アツシ的にはそちらの方が気になる。
別にこういうのを開けようとしているわけではないだろうが、自分がつけたらと思うと途端に耳がぞわぞわしてくる。絶対痛い。
「ねー、アッシュさんお願い!」
片耳だけ!とキイトは手を合わせて頼み込む。
「嫌だ」
「何でっスかー!」
拒否するアツシにキイトは抗議の声を上げた。
当たり前だ!
ただでさえ痛いのが苦手だというのに人に開けてもらおうとは思わない。
「俺慣れてるから上手いっスよ!絶対痛くしないからね、一回だけ!お願い!!」
なんだかセリフだけ聞くと誤解を招きそうな言い方だ。
しかしアツシは変わらず首を横に振った。
「嫌だ!」
「おーねーがーいー」
尚も粘ろうとするキイトに反論する為口を開こうとした所で何故か後ろから声が割り込んできた。
「アッシュ君のは僕が開けたいからダメ」
びっくりして振り返ると声の主はロイさんだった。
騒いでいたからか、いつ休憩室に入って来たのか全然分からなかった。
というか、割って入ってきて何を言い出すんだこの店長は。
「いや、開けさせるとか言ってないんですけど?」
何故開ける事を前提で話を進めるんだ。
アツシにその気は全くない。痛いのは嫌だしちょっと怖い。
同年代の子達は割と普通に開けているが、アツシにはその勇気がなかった。
「えー、開けたい」
「なんでですか!」
「すっごく痛がってくれそうだから」
うっとりしないで!怖い……!!!
想像しているのか、目尻を下げて甘やかな表情をされる。これを表現するなら蕩けるような微笑み、という感じだろうか。しかしアツシ的には一体どんな風に開ける気なんだと勘繰ってしまう。
まさかあれか、針でザクザク刺して開ける気だろうか。
考えただけでゾッとする。
「ロイさん痛くするのはダメっスよー。アッシュさん痛いの嫌がるから開けさせてくんないっスよ」
キイトの発言は当たっている。痛いのは嫌だ。だからキイトにも開けさせる気は無いのだが分かっているのだろうか。
それを聞いたロイさんはアツシの顔を覗き込むとニコリと笑った。
「ダイジョウブイタクシナイヨ」
「絶対嫌です」
嘘なのがバレバレじゃないか。というか、これは単純に遊ばれている。
その後も俺が開ける僕が開けるとうるさい。このままだと埒があかないのでアツシは食事を再開することにした。
まともに付き合っていたら賄いを食べ損ねてしまう。
とはいえ、目の前にいるので嫌でも会話が耳に入ってくる。咀嚼しながらアツシは二人の会話に耳を傾けた。
「片耳だけでイイっす!もう半分はロイさんにあげますからぁー」
やめろ!先輩の体を山分けするな!
「だめ。僕両方開けたい」
いや開けさせるだなんて一言も言ってません。
「えー」
えー、じゃないよ。何不満タラタラな声出してるの。
言いたいことはたくさんあるのだが、割り込むと更に面倒なことになりそうで割り込めない。
キイトだけなら兎も角、ロイさんには丸め込まれそうで怖いのだ。強引に開けられた日には泣く。
というわけで安全策の為、言いたい事をアツシはご飯と共に飲み込んだ。
その後も言い合いは続き、問答の末ロイさんがキイトを言い負かした。
「ちぇー」
キイトは唇を尖らせている。
大丈夫だよキイト、どっちにも開けさせないから。
そう思いつつ、一緒に貰ったお茶に口を付けていると急にロイさんがこちらを向いた。
「ってことでアッシュ君」
おもむろに手を伸ばすと、スリッと耳朶に触れられる。
急なことに肩が跳ねたが、ロイさんは気にする事なく目を細めてニコリと笑った。
「ピアス開けない?」
「開けません……!」
痛がって欲しいとか散々言われたら普通に怖い!絶対嫌だ。
アツシがブンブンと首を横に振るとロイさんはあっさり過ぎるほどあっさりと引いた。
「残念だなぁ。気が変わったら教えてね」
それだけ言い残すと、ロイさんは休憩室を後にした。
一体何だったんだ……。
「…………あ、時間っスね!アッシュさん、先戻りますね!」
ぽかんとしていたが、キイトの声で現実に戻される。
「あぁ、俺もすぐ行く」
どうせ自分も時間だろうとアツシは頷いた。
結局のところ、ロイさんは暇だから弄りに来ただけなのだろう。
ようは体良くアツシとキイトは暇つぶしに付き合わされたのだ。
そのことに気づいてアツシは大きなため息を吐いたのだった。
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