2人が本棚に入れています
本棚に追加
週末のスーパーライダー
一人暮らしなのに、部屋じゃ吸わないらしい。猫が気になるのだと言う彼は、存外動物に甘い。灰皿代わりの空き缶に苦い享楽を押し付けて、前足を出した彼女をちっちと指先で押し戻す。俺もまあ、彼と似たようなもんなのだ、つまり。
サンダルを脱ぎ捨ててフローリングに舞い戻る。右手がまだ香ばしいがしかし、彼なら許してくれるだろう。
「ええ加減に寝えや。」
「むしろね、もうすぐ朝ですけど。」
瞳が冴えれば冴えるほど、部屋の彩度が上がってゆく。夜明け前らしい視界に、とろけていた脳もじりじりと稼働を始めた。息を吸う、その感覚すら明確だ。
紺青に沈んだ瑞々しいベッドルームは、清潔さをもみくちゃにしたような匂いに包まれている。しかしその一方で、隅の窓辺から漂うのは決して閑静でもない夜の、そう、ちょっとドヤドヤしている、世田谷らしい匂いなのだから不思議だ。すぐ下を走るスクーターと、本当に遠くから、遠くから聞こえる、若者たちの笑い声。近ければ眉根を寄せるくせ、遠方の騒がしさは愛しく思う、それが人間だろう。無意味なため息が俺を襲う。棗は何を思っているのだろう。空気が笑っている気がするのは、俺の自意識過剰か。わははは、あー、待てよー、おーい。若い叫びは楽しそうだった。
「……静かな夜ってあるんですかねえ。」
「あってどうするの、そんな怖いもん。」
深夜区、路地裏町在住の彼らを眺める俺たちはなぜだか妙にしんみりとしていた。出会ったのはせいぜい二年前程度なのだが、ずいぶん老けたようにも感じる。たかだか十分足らずを二、三回ほど繰り返し、嘘くさい生命を語ったのが動かぬ証拠かもしれない。
俺も彼も大差ないと言えばそうなのだが、やはり一枚上手なのは慣れっこな彼の方で、俺はそれがとても悔しかった。擦れたこの人の、無邪気な顔を見たいとすら思った。明け透けにならないその身体を無理に透かして、許されないものの全てに、暴力的、かつ日常を反芻させながら、噛みついては痕をつけた。明日のど真ん中に根をはれよと、全てのドアに触れておくことすら厭わなかった。どんな方法でもいい。手荒でも穏便でも構わない。そうだ、俺は、石鹸より清く、喧騒にも近い、彼の孤独の巣を踏み荒したいのだ。こうやって、何度も、そう、こうやって。
わあー、と青少年の歓声が再び向こうから流れてきた。俺ははっとする。しかしなんだ、つくづく住宅街とは言いづらい微妙な立地にあるな、このマンションは。だのにその一部屋を、彼は好んで借りている。どうにもわからない人なのは、出会った時から変わらないのだが。カーテンが柔らかい風を抱き、ふっと膨らんだ。窓の淵に手を伸ばすと、いいから、と止められる。そっか。そうだっけ。
「あなた、色々開けて寝るんでしたっけ。カーテンとか……なんか、意外だ。」
「うん?……窓も、うん……。たまあに。うん。」
「えー?ははは、うん、起きてる?それで?」
「もおー……寝る……。」
半分くらい生のまま、厚手のタオルケットに包まって棗は不明瞭にそう言った。彼はよく眠る人だ。足元にすり寄ってきた猫も無防備にあくびをしている。夜に住めるのは青少年だけなのか。俺だってちょっとは眠い。立っているから起きている、たぶん横になったら眠ってしまう、その程度だ。お互い若くはない。確実に。疲労と眠気の境界線があやふやになる。
「明日は休み?」
「違ったら呼ばん。」
「それもそうか。あんた、自分本位ですもんねえ。」
「そお。一縷くんには甘えたいの。」
「おっ、かわいいじゃないの。」
枕に顔を押し付けて、棗が笑う。くぐもった声が「うふふ。」と言うのだ。そして、
「だからもう帰れ。」
この仕打ちである。だからってなんだよ。
「始発までは置いてって。」
「でも、飯はないよ。」
「飲みたいなー。棗さんの作った味噌汁……。」
俺の足元にまとわりついて、そのくせ外には出てゆかない猫が、「やー」と鳴く。猫は「にゃん」とは鳴かないものだ。ふと見るとばっちり目があって、ライム色の球体に、くるんと光が一周する様を見せつけられた。月よりは幾分かはっきりとした輝きだった。
「そおかぁ。一縷くん、白味噌、好き?」
「好き好き。なんでも好き。」
「俺のことは?」
「どうかな。」
「なんでもって言うたやん。」
「それは味噌の話ね。」
俺がちょっかいをかけすぎたのか、彼の声色がだんだん鋭くなってきた。もう諦めたのかもしれないな、だって、寂しいと言えばそれは嘘だが、寂しくないと言っても嘘になるじゃないか。俺たちはそう言う間柄だ。今日くらいは短い一夜にしてくれたって、いいだろうに。今にも色を変えそうな空を眺めてながら、頭では全く違うことを考えていた。
「一縷くんも仕事ないの?」
「そう、一日中フリー。」
「じゃあ、ええよ。寝て、起きて、食べてけば。」
「ええ、なんか妙に素直ですけど……。」
何を企んでんだと言わせもせず、棗は朗らかに続けた。俺が振り向いても、顔色を変えたりはしない。
「でも、代わりにデートして。」
「……デート。」
「デート。してくれやんのなら、飯もない。」
そんなの極論だ。しかも横暴だ。元はと言えば、味噌汁がどうのとか言ってふざけた俺が悪いのかもしれないが。
「わかりましたよ。デートね、でも、俺みたいな奴とどこ行きたいって言うんですか。」
「うーん、海。」
「……そうか、海か……。」
入り込む外の空気と、やんやん鳴く猫を連れてベッドへと戻る。彼は海と言った。海底三万マイルより奥にあるその心を、もっと深く沈めるとでも言うのだろうか。そんなの馬鹿げてる。俺はタオルケットをめくり、おどけた声を出した。
「何で行こうか。」
「バイク。一台しかないけど。」
「俺が運転するんですか?」
「してよ。エスコートして。」
「しょうがない人だな。」
冷えた足を差しこんで、つめたいつめたいと逃げる身体を追いもせず、そっと布団に埋まってみる。猫も鳴くのをやめ、爪の先で丸まった。眠れるかな、どうかな、夜も明けるのかな、すぐに。いやに小さく感じる体温と、交わらない呼吸が安堵を呼び、あんなこと言ったってこの人は、と何度か確認する。瞼が意識を失い始め、視点も定まらなくなる。呼吸のたびに生きた心地が抜けてゆき、自我が消えてつつあると感じた。そうだ。忘れていた。俺たちは今、境界線を越えようとしているのだ。朝と夜の明確なラインを、心だけで。
「一縷くん。」
棗の声は優しかった。虚しいほどに。
「……なによ。」
「ちゃんと起きてな。」
「そりゃこっちの台詞です。」
この時間帯には結局、どこにだって永住することはできない。明仄区は眠れる街だ。ビルも道路も関係ない。ほんの少しの休息に、日頃「生活」を送る全てが鎮まるのだ。俺だってそうだ。きっと彼も。
最初のコメントを投稿しよう!