週末のスーパーライダー

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ビー、と鳴ったのはどちらの携帯か。俺は少し寒いかなと考えながら、音のする方に手を伸ばした。ほら、タオルケットを忘れた腕が、やっぱり少し寒い。 「……なんでアラームつけてんの。」 音の主は棗のiPhoneだった。色が違うのでよくわかる。と言うかそもそも、俺の携帯はどっかのテーブルにでも置いてきたはずだ。多分ダイニングあたりだろう。 「……今、何時。」 からからになった声で棗が言う。多分ほとんど起きていないのだろう。俺は掴みっぱなしの黒い板で、勝手に時刻を確認する。彼は指紋認証も数字のパスワードも掛けていないのだ。このご時世にこの体たらく、狂っているのかと言われれば、まあ、だいたいそれで間違いない。 「九時。」 「起きなん……。」 流動体さながらの生身をタオルケットから覗かせた彼は、二重の線が少し滲んでいた。惚けた表情のまま俺の後ろを見つめている。まだ覚醒しきらず、手のひらで強引に顔をこする姿が、いたいけで笑えた。 「……なんや。」 「いえ、別に。」 「可愛くな。」 ぴんと真っ直ぐ、布団についた腕をなぞる。身をよじるついでに片足を下ろし、笑うような声で彼は言った。 「夜はおぼこい顔しとったのになあ。」 なるほど、俺も大概か。背を向けた棗の裸足を追って、マットレスを軋ませる。しわくちゃのタオルケットはそのままだったが、まあいいだろう。 それにしても、ちゃんと朝だ。数時間前とは打って変わって、部屋全体に週末の匂いが充満している。直接差し込む天然的な輝きに、眼球がぎゅっと収縮した。 そう言えば、と思ってベッドの角に目をやると、いたはずの丸いシルエットは忽然と姿を消し、代わりにゆるいパン生地のようなものがべろりとフローリングに寝そべっていた。彼に似てふてぶてしい子だ。日中特有の細い目が俺を見ている。微笑みかけてもその表情は変わらない。俺は諦めて寝室を出た。棗はすでに風呂場にいるようで、ノイジーな水音が、わずかに滲み出ていた。 キッチンに突っ立って、勝手に淹れたコーヒーを啜っていると、風呂場から棗の声がした。ドアを開けているのかシャワーの音も漏れる中で、流暢に「一縷くーん。」と俺を呼びつけている。半ばくわえるようにカップを持ったまま、俺は彼の元へ向かう。ダイニングを過ぎてすぐ、木一枚の先にある脱衣所はもくもくとし、熱気と湿り気を帯びていた。 「なんです?」 濡れた頭を覗かせて、棗は笑っていた。シャワーの音はしないが、湯気は健在だ。肩についた毛先はどことなくぬめりを帯びているようにも見える。一方長い前髪は奥へと押しやられていて、白い額には水滴が伝っていた。 彼は俺の手元を確認すると、笑ったまま茶々を入れた。 「何勝手に飲んでんの。」 「だめでした?」 「だーめ。それよりタオルとって、ちっちゃいの。」 俺は片手を簡易収納に突っ込み、中に積まれた灰色のフェイスタオルを一枚取り出す。折り畳まった部分が露わになる程、柔軟剤の匂いも広く漂うようになり、しみじみ「他人」を実感する。俺は特段意味もなく棗の顔に当てた。なんでや、と飛び出した声に、ふと育ちを見出したりもする。 「それだけ?」 「そおよ。」 頬でタオルを受け取った棗は上機嫌に言い切ると、毛先の水気を切り始めた。別に見ている必要もないだろうと踵を返した俺に、彼は「一縷くんもシャワー使ってええよ。」と声をかけ、そのまま鼻歌を歌い始めた。なんの曲かはわからなかったので、「じゃあ、あとで。」と返し、俺は脱衣所を出た。手に持ったままのコーヒーは徐々にぬるくなりはじめ、酸味が際立つようになっていた。ため息を苦味で誤魔化すのは、二十歳を越えてからついた癖、かもしれない。 しとしとダイニングに戻ると、ソファの陰から現れた猫と挙動が重なった。こいつは本当に足音を立てない。猫だから当たり前かもしれないが。彼女は俺を見上げ、お前だけ良いもん飲んでるな、と言いたげにやーと言い、自分用の皿に目線を移した。いや、確かにコーヒーは淹れたが、猫の飯まで入れていいわけではないだろう。俺は動物を飼ったことがないので、なおさら。 「ごめんな、もうちょっと待ってろ。」 俺が言うと、猫は首を振りながらダイニングを出て行った。俺の言葉がわかったのか、聞いてすらないのか、真相は不明だが。乾いた餌皿を横目に、アイボリーのソファに腰を下ろす。食い込むほど身体が沈むこの柔らかい素材には、未だ慣れない。彼はよくここで微睡んでいるらしいのだが、俺には当分無理そうだ。肩の力が抜け切らないまま、またコーヒーを啜る。やはり時とともに酸化しつつあるようで、すでに微妙な味になっている。カーテンの隙間から漏れる朝日もなかなかに眩しい。素晴らしい環境とは言えないはずだがやけに居心地が良く、休日も休みなく動き回っていた過去を彷彿とさせた。なんだろう、いやに不思議だ。休日の保障されなくなった今、これほどにも穏やかな時間の流れは、俺にとって「いやに不思議」以外の何物でもなかったのだ。 どうにも覚め切らない頭でぼやぼやと考え事をしていると、先ほど何処かへ消えたはずの猫が首を振りながら戻ってきた。しかも、後ろに棗を引き連れて。 「こいつ、ドライヤーもさせてくんないの。」 「あー、さっきから、飯、ほしそうにしてましたよ。」 「あげてよかったのに。」 「適量がわからないもんで。」 俺が頭をかくと、棗も肩にかけていたタオルで髪を拭きはじめた。言葉の通りまだ濡れているそれは束になり、普段よりも色濃く存在している。紅茶に牛乳を混ぜたみたいな色だ。 「猫、にゃーんは?」 ふと手を止めて、棗は優しい声で猫に言った。少しかがんで、彼女の様子を伺っているようだ。細やかな沈黙が流れる。さすがの俺もこいつ何言ってんだ、と思ったし、猫もそうだと信じていた。 「やー。」 「よーし。」 しかしあろうことか、彼女は答えてみせた。至極当たり前のように。俺は目を丸くする。棗は満足そうに猫を撫でてすっくと立つと、キッチンの収納から餌の袋を取り出した。 「すごいな。賢い。」 「そりゃ、俺の猫だから。」 棗はなんでもなく言う。それから、袋を振ってガサガサと音を出し、猫を寄せると、皿の半分くらいまで餌を流し込んだ。ざーっと言う断続的な音と、からからと言う高い音が混ざって飛び出る。こう言う些細な生活音が、美しい音楽を生むのだ。 待ち望んだ朝食に飛び跳ねた猫は棗の足元に滑り込み、挨拶のように鳴きながら食事を始めた。咀嚼の間に「やっや。」と漏れる声がなんとも間抜けだ。 「一縷くんも風呂浴びてきな。」 「じゃ、お言葉に甘えて。」 底の色が透ける程度には減ったコーヒーをぎゅっと飲み干して、俺は立ち上がる。 「それ、洗おっか。」 「自分でやりますよ。」 「飯作るついで。」 結果、カップは強奪された。
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