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突如として風呂場のドアを引っ掻きにやってくる猫を追い返したりもしつつ、適当にシャワーを浴び、ドライヤーもそこそこにダイニングに戻った。
猫の朝食から二十分も経っていないはずだが、室内にはいかにも「食卓」の匂いが充満していて、キッチンに立つ棗も、当然だが存在していた。いつのまにかカーテンが開け放たれている。変に白いなとは思ったが、どうやら電気をつけていないらしい。朝日にだけ染まったダイニングは、健康的で綺麗だ。
「なんかうまそうな匂いですけど。」
「もっと褒めやんと。」
「匂いだけでか!」
菜箸を動かして茶化す棗の髪は、もうずいぶん乾いているようだった。呼ばれる前にキッチンに踏み入れると、彼は食器棚の方へ振り返り、
「適当に持っていきよし。」
と言った。時々訛りがきついのにも、もう慣れた。
「何がいるんです?」
「取り皿。あと箸。」
「棗さん、コーヒーは。」
「飲む。」
会話は淡々と進む。関係性は言葉に現れる。
「一縷くん、結構食うよね。」
「えー……?」
「なーに?俺の記憶違い?」
「いや、うん、食います。」
ほら、やっぱりそうだ。彼がからかおうと言うなら俺は甘受する、また、逆も然り。コーヒーマシンに豆を入れながら、そんなことを考えていた。二杯分のメモリに合わせて容器を豆で満たし、ガラスサーバーで水も注ぐ。こう言うマシンは単純だし、便利だ。当たり前ながら。
抽出音を聞く暇もなく、俺は食器を持たされた。重なった薄い陶器に、当たり障りない箸が二膳乗っている。棗はソファとローテーブルではなく、もっと簡素で線の細いテーブルを食卓に指定した。本当に場所を取らない、ほとんどお一人様用のダイニングテーブルだ。少々背が高く、備え付けかもわからない椅子すら子供を許さない作りになっている。俺はそこそこ狭いテーブルの真ん中に皿を置き、もう一度棗の元に戻る。すると今度は、まあるい木に入った味噌汁が待ち構えていた。
あれよあれよと朝食の運搬を行い、コーヒーまで出揃った頃、棗が部屋の隅にあった丸椅子を引っ張ってきた。俺が座るのかと思えばそうでもなく、彼は椅子を設置してすぐ、自らの腰を落ち着かせていた。なんなんだ。よくわからないまま、元からあった軽そうな椅子に座る。目の前では、棗が静かに手を合わせている。俺もそれに従った。そして、食事が始まった。
俺は汁椀を手に取る。昨晩の彼が言った通り、どうやら白味噌だ。淡い色の味噌汁は久々に見たな。口を寄せると、なめらかな湯気が顔を包んだ。
「……。うまい。」
目だけで棗を見ると、こっちがむず痒くなりそうな優しい顔をしていた。涙袋の浮き出た眦は、昨日と打って変わって健全な光を宿している。テーブルの下に猫が潜っているようで、爪先にさらさらした毛が触れた。それももう、あまり気にならなかった。
「味噌汁に卵、入れるんですね。」
「おいしいやろ。」
「おいしいです。料理上手って聞いてたけど……。」
「知世から?」
「あの人、割となに食ってもうまいよって言うから。」
「あいつは「食えたらそれで」な子やさけ。」
確かにそうだと思いながら、しっかりと固まった白身をつまむ。火の通った卵には案外弾力があるものだ。卵と青菜の下から現れた人参も、ぱっと口に放り込む。飯なんて適当に済ませそうな人が丁寧な和食を用意するものだから、実は少し驚いていた。偏見だけで失礼をかますわけにもいかないので、黙ってはいるが。茶碗に盛られた白米はしっとりと朝日を映していて、ところどころに梅の欠片が見えた。彼曰く、こうすると腐りにくくなるのだそうだ。
「一縷くんは料理好き?」
テーブルの真ん中に置かれた煮物を取り分けながら、棗が言う。俺は人参を飲み込んで、
「好きとか嫌いとか、考えたことがないです。」
と答えた。少々面白みに欠けるが、事実だった。棗の目が俺を見る。
「食べるのは?」
「好き。」
「じゃ、これも食べて。」
その言葉とともに差し出されたのは、いかにも煮てありそうな大根の乗った皿だった。受け取りつつも、認識に歪みがないか確認する。
「これは?」
「普通の煮物。昨日のやけど。」
なるほど、全く問題なさそうだ。手に収まった皿の底が、じんわりと温かい。見た感じじゃあ大根と鶏肉が煮込まれたもののようだ。色と香り的に、しらつゆかなにかで味付けされているのだろう。
「あ、でもどうやろ。味薄いかな。」
そう言いながらも、彼は自分の皿の大根を箸で割っている。関西は醤油とかも薄口なんだっけ。上品な彼を真似て大根を二つに割る。染み出した水分が皿に溜まった。味噌汁があれだけうまくて、煮物はまずいなんてことありゃしないだろうと、ある種の思考停止状態で口に入れる。そしてまあ、予定調和に全然うまい。そりゃそうだ。よく味が染みているのだが、なんだろうな、くどくも塩辛くも感じず、口当たりがあっさりとしているのだ。俺が思った通りにしらつゆが使われているんだろうけれど、それだけが理由と言うわけではないだろう。どこか朝のような味だとも思った。煮崩れているわけでもないのにあまり噛ませてくれない大根を喉に通して、感想を告げる。
「大丈夫。めちゃくちゃうまいです。」
「関西舌なんちゃう?」
「……いや……多分……ただただ飯がうまいってだけだな。」
「ほんまかあ?」
棗が笑った。たぶん本当に嬉しいんだと、俺にでもわかるような笑い方だった。
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