週末のスーパーライダー

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洗った食器を水切りに並べながら、棗が呟いた。 「一縷くん、ほんまにようさん食べたなあ。」 「そうですか?」 「俺が食べないだけ?」 「それはね、ありますよ。」 キッチンから届く彼の声が「そおかぁ。」と言う。暗くなってから会うことの多い俺たちにとって今日と言う日は貴重であり、簡単な返事ですら妙に親密な言葉に聞こえた。俺はソファに埋もれるのが少し怖くて、前のめりになった。 「棗さん、海行きます?」 「行く。」 「じゃ、もう少ししたら行こう。」 そう言い切った瞬間、背もたれからはみ出していた猫の身体が落ちてきた。どうやら俺が体勢を変えたせいでバランスが狂ったらしかった。驚く俺と猫を見て、棗は笑い声をあげる。猫はしばし硬直していたが、すぐに持ち直し、棗の立つキッチンへと消えていった。きっと二度目の朝食でもねだるつもりなのだろう。やー、と聞こえた声が物欲しげに聞こえたのは、俺の勘違いではないだろう。棗が猫に言う。 「さっき食べたやろー。」 ごもっともである。しかし相手は猫だ。飼い主のありがたいお言葉が響くわけもなく、しつこく鳴いては餌をせびっている。 しばらくは攻防を続けていた棗もやがて呆れたのか、キッチンを離れこちらに寄ってきた。ただし猫を引っ付けて。 「もお、行こ。埒あかんわ。」 「準備しましょうか。」 やー!と抗議する彼女をほったらかしにして、棗はダイニングに背を向ける。俺はと言えば、猫の必死な声に足を止めかけて、容赦なく服の裾を引かれたところだ。 「甘い顔すると、猫はすぐ調子乗る。」 「詳しいですねえ。」 「飼い主やさけ。」 ふっと息を吐く音が聞こえた。それから彼は玄関で待っていていいと言い、寝室に消えた。俺はなんとなく鏡を見てから、ほとんどないような荷物を持ち、言われた通りに玄関で彼を待った。なぜかキッチンの端に置いてあったiPhoneもしっかり回収済みだ。 彼はバイクで海に行きたいらしいのだが、中型だろうしニケツはともかく、ヘルメットはあるのだろうか。俺はそんなことを考えていた。俗に言う杞憂ってやつだ。 もはや言うまでもなく、棗は普段使っていないヘルメットを引っ張り出して戻ってきた。なんの変哲もなく黒いそれには、どう見てもギター用であろうステッカーが貼ってある。誰が貼ったかなんて容易く想像できるので、何も言わずに受け取った。 「運転よろしく。」 「ま、飯のお礼ってことで。」 俺の軽口を聞きながら、棗はポールハンガーに引っ掛けてあったグレーのヘルメットを手に取った。おそらく普段から使用しているものなのだろう、傷は多いが、埃は付着していなかった。 「一縷くん、バイクの免許持っとる?」 「え、今更だなあ。」 「無免運転はごめんやで。」 そう言って靴を履き始めた棗は、どこか子供のような顔をしていた。休日は人を幼くするなと、俺は半ば言い聞かせるように思考する。棗のバンズはローカットで、当たり障りなく綺麗な藍色をしていた。一方で俺の革靴は履き古された焦げ茶色で、どうにも草臥れている。不釣り合いなくらいがいいのだと、俺も靴に足を通した。ヘルメットは一旦置いて、靴紐を結ぶ。棗はさっさと立ち上がって、つま先で床を鳴らしながらこちらを見ていた。 「一縷くんは、手、おっきいなあ。」 「身長と比例するとか、なんとか。」 「だから俺はちいさいの?」 そう言うなり、棗が顔を寄せる。突飛な発言をいくつか呟いたかと思えば、今度はこうだ。膝に手をついて、毛先を揺らしながら俺を覗いている。額が触れるか触れないか、目と鼻の先に、目と鼻の先がある、なんてなんだか笑えた。愛の代わりに信頼と慣れがあるスキンシップは、存外心地よいものだ。こんなにも軽くて。 「単に遺伝って線は?」 「どーかな。」 棗の滑らかな指が、俺の作業を妨害する。結んでいた靴紐を解いて、左手の自由まで奪っていった。 「ちょっと。」 「だって、へたくそ。」 「結べてるんならいいじゃない。」 俺が言うと、棗は笑いながら膝をついた。彼の意図は、いつでも読めない。 「だーめ。俺がやったげる。」 と、宥め賺すような声で言われたので、もう諦めて俺は手を離した。そのまま後ろについて全くの無抵抗を示すと、棗も満足したようだった。流れるような手つきで、ただの紐だったものが、無機質な蝶に変えられてゆく。俺はそれを見ていた。上手だな、とかそんなことを考えながら。
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