週末のスーパーライダー

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「ようさん歩いて、きけたわ。」 残り半分くらいのコーヒーをちびちびと飲み、棗は静かに言う。 「きけるって、なんだっけ。疲れる、みたいな意味でしたっけ?」 「そおよ。一縷くん、だいぶ毒されてきたな。」 「おかげさまで。」 ふとテーブルを見ると、空になった皿に、使用済みのナプキンが四角く折って置かれていた。彼は結構マメな人間だった。俺は手早くまとめて、その辺にやってしまったりするから。渋い焦げ茶の木材は、照明を受けて艶めいている。少しベタつくのがまた、懐かしい。 俺が物思いに耽っているうちに、隙を見てか棗が微睡み始めていた。薄暗い店内ではこうもなるか、寝不足だろうしとその姿を見ていると、伏せた彼の目がこっちを向いた。かち合った目線はなかなか離れない。見つめ合うと言うほど緻密ではない瞳の邂逅ののち、彼はこう言った。 「そんな顔しやんと。」 その時の俺がどんな顔をしていたのか、結局彼は教えてくれなかった。 そのあとの棗は本当に眠ってしまって、そして何故だか俺もそれでいい気がしてしまって、冷めてゆくコーヒーと彼の寝顔を見ながら、少しの時を過ごした。無駄な休日こそが最も素晴らしいのだ。 棗が起きる前に会計を済ませ、微妙にどこだかもわからないこの場所で、俺は「生きているな」と実感していた。目の前のこの人も、たぶん、生きている。だから眠るのだろう。窓の向こうに見える春の気候は、ゆっくりと暮れつつあった。今日は日没も早いのだろうか。 店を出た俺たちはまたうろうろと徘徊を始め、古本屋に入ってみたり、散歩中の犬に手を振ったりした。最初は寝惚けていた棗も、再び外の空気を肌で感じ、ほとんど元に戻っていた。世界が彩度を下げてゆく。見上げた空はそれなりに雲が多く、決していい天気ではなかった。春なんてそんなもんだ。 「あ、ねえ。」 細い階段を降る手前で、棗は俺のジャケットを引いた。思わず足が止まる。 「なんです。」 「見て。」 彼が突き出した、人差し指のずっと向こうを見る。そしてそこには、海があった。 「海やん。」 「ほんとだ。海ですねえ。」 「どうしよ。デート終わっちゃう。」 「帰るまで終わりませんって。」 どうしよ、と言うわりに、棗は嬉しそうだった。海に行きたいと言う言葉は、あながち嘘でもなかったらしい。彼はぱたぱたと階段を下って、踊り場で俺を見上げた。 「一縷くん、はようおいで。」 「はいはい。」 もうだいぶ暗くなった空を背負って、彼は俺を見ている。彼の目から、俺はどう見えているのかな。わからないことばかり考えてしまうのは人間のさがだと言うことにして、階段を下った。そろそろ始まっているであろう夕焼けの輝きは雲に隠れてしまって、あまり見えない。裂け目から覗くわずかに色づいた光だけが、時間の流れを示している。俺たちの休日もじきに終わる。車がいないのをいいことに道路を横断して、砂浜へ降りた。夕方に香る潮の匂いは妙に不穏で、いけないことをしているような、もう退っ引きならないような、そんな気持ちになった。 「海や。」 棗が細い声で言った。波の音が、全てをかき消してゆく。春先だからだろうか。人はほとんどいなくて、ずっと向こうの、もっと繁華街に近い方に、ちらほらと輪郭が見えるだけだった。どうやらここらは、侵入可能箇所のなかでも端っこにあたるようだ。本当に入ってもいいのかは、わからない。 「ありがとおなあ、一縷くん。」 「安全運転についてですか?」 「……うん。」 俺が茶化すと、彼はそれを甘受するように目を細めた。俺たちの関係が、あらわになってゆく。なにもない砂浜が、全てを暴き始めた。棗は波打ち際によって、海水に指をつけている。冷たいだろうに。その横顔は、風邪で乱れた前髪のせいで、よく見えなかった。
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