週末のスーパーライダー

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それからの俺たちは、浜辺を歩きながら、時々止まりながら、小さく会話をしていた。言葉の数も声量も少ないし、なにより、本当に小さな会話だった。小さな、小さな、幼い時に読んだ童話のような、寝る前の灯りのような、会話だった。そこには嘘も本当もなかった。 「あなたには、幸せがわからないんだろう。」 「うん。」 「俺もです。その感覚が、掴めなくて。」 「生まれた時から。」 「そう。」 「教わらなかったから。」 「ええ、全く。その通りだ。」 暮れ時の潮風が目にしみる。彼の髪をはたいて、バタバタと乱暴に過ぎて行く。春なのに、こんなに寒い。海は、いつでも畏怖の対象だ。波の音が響いて、俺たちの会話が少しずつ大きくなってゆく。 「お揃いや。」 棗のあどけない訛りが、今だけは妙に胸を打つ。少しだけ黄ばんだ、でも灰色の世界を背負って、彼は嬉しそうに言う。 「一縷くんは、ずっと一人なんだ。ずーっと。」 「多分ね。」 「それって、よくないんちゃう。好きな人なんてようさんおるのに、なんで、嘘、つけやんの?」 「……なんでだろうな。なんでだろう。嘘がいけない事だとは、思っていないけど……。」 冷気に晒されて赤くなった顔が、大人の目と、子供の笑顔を同時に宿している。本当にあやふやな人だ。そう思った。 「一縷くんは、俺のどこが好きで、一緒にいてくれるの?」 「全部ですよ。……惹かれてるんです、あなたは、俺と同じで一人だから。」 「そおかぁ。」 「人としてよ?」 「もお、わかってるのに。」 風が吹くたび、棗は無邪気に笑った。俺はそれを見ても、なかなか笑えなくて、むしろ苦しくなったくらいだ。淡墨をまいたようなほの暗い海辺で、こんなに綺麗に微笑む男が、いるなんておかしい。この世は狂ってるんだと、確かにそう思った。 「でも、こんなに楽しかったの、初めてや。ちゃんとデートだった。」 「そうですか?」 「うん。一縷くんは、ちゃんと俺のこと、好きだから。俺もそうだし。俺たちだから、出来たんやろな。きっとな。」 こんなに悲しい好きがあるのか、それとも、人間を愛すると言うのは、こう言うことなのか。穏やかな純愛は男女間の恋愛に比べるとあまり理解されないが、俺と彼の間には、確固たる「それ」が存在していた。俺たちの発する愛と言う言葉は、いつでも他意を含まず、単純だった。 「幸せかもって思ったよ。一縷くんといるとな、俺は幸せなのかもって。でも、冷静になると、どうかな。許せてない気もする。」 「何がです。幸せな自分が?」 「ううん。幸せが。俺じゃなくて、幸せが。幸せに生きるって言う、概念が、だめだった。おかしいって思うの。」 棗が足を止め、向き直る。彼の瞼は曇天に埋もれて見えた。こんなにもシュールに、愛を語っている。愛と、幸福は、付随しないのだと。つまらない小説みたいな現実が、俺たちにとっては愛しくてしょうがない。 「それとも、俺がおかしいの?」 「いいや。おかしいのは世界ですよ。愛の定義が、狂ってるんだ。」 足元は不確定で、力を込めれば込めるだけ、砂が崩れて、ぬかるむような感覚に襲われる。実際は一滴も濡れていない灰色の浜辺に、俺たちは立っていた。これから濡れるんだと思った。潮が満ちるよりも早く。感情が揺れ動き、その輪郭は激しくぶれて定まらない。俺が、と言った彼の声が、俺の中の何かを叩き割った。ガラスのようだ。弾け飛んだ破片は、虚しく音を立てて地に落ちた。 声が震えていたが、それでも俺は答えた。 「幸せじゃなくても、いいじゃないか。」 真っ直ぐ見据えたはずの棗は何処にもおらず、ただ抽象画のように歪んだ砂浜が見えるだけだった。海の落とした幼子が、そっと頬を伝う。ただ、熱を感じた。潮風だけが冷たい。 「あなたは芸術なんだ、棗さん。あなたの世界は、あなたの手に収まるものじゃないんです。だからあなたは不幸なんだ。そんなもの、抱え込んでいたら……でも……。」 棗の手が頬を掬う。何も言わずに、その手は触れている。慈しむような動きに、どうにもたまらなくなって、嗚咽を噛んだ口で私欲を話す。薄汚さなんて今更だ。俺たちはもともと、美しい人類ではないのだから。 「不幸なんてなんの問題でもない。不幸でも、生活があれば、それでいいんだ。あなたも俺も、そう言う人間で、きっと死ぬまでこのままです。だから、お願いだ。」 なあに、と指が動いた。涙が砂に還らないのは、彼のおかげだった。 「ただの男になんて、ならないでくれ。」 そう言って彼を抱き締めた時、ようやく俺自身が、棗の心に触れられたような気がした。はじめてだった。これほど彼を、近くに感じたのは。腕に力を込める。潮風の通る隙間がないように、そこにある背中を抱え込む。 棗は俺に抱かれたまま、小さく歌を歌っていた。なんの歌かはわからなかったけれど、細やかなメロディだった。時々その手が俺の背中を撫でて、ちょっとだけ身体を揺らす。身をよじっているわけではなくて、それは単なるリズムだった。 波の音と、心臓の音、そして棗の小さな声が、美しい音楽として俺の身体に響いていた。
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