第二章 愛しさの頂点

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第二章 愛しさの頂点

 二人の結婚に障害は何もなかった。雪乃にはすでに両親はなく、親戚付き合いもないとのことで、周囲に誰も反対する者はいなかった。  一方の中里家は何の問題もなかった。初めて雪乃を連れて実家に帰った時から、父も母も妹も一瞬で雪乃のファンになってしまったのである。みんな、大樹そっちのけで雪乃を取り合いをする騒ぎであった。  そんなこともあって、二人は出会ってわずか二か月後に結婚した。あまりに短期間だったために、マリッジブルーになる余裕すらなかったと雪乃が言っていたのを思い出す。結婚式は仲の良い友達だけを集めたパーティ形式にした。大樹の両親も、お前たちがそれでいいならと理解を示してくれた。  雪乃がそのパーティに招待したのは、高校時代の友人と短大時代の友人の二人だけだった。同性の友達は少ないと聞いてはいたが、せっかくの結婚披露パーティなので、もっと多くの人を呼んだらと言ったら、『男の友達を呼ぶわけにはいかないでしょう』と、いたずらぽい目をして言われてしまった。もちろん、冗談だとはわかっていたが、一瞬胸騒ぎがしたことを覚えている。そんなことで、大樹の友達や会社の同僚が大半を占める男くさいパーティとなってしまったが、それでも雪乃は楽しそうだった。  彼女のドレス姿はいつにも増してきれいだったし、彼女の友人たちもそれぞれきれいだった。彼女たちがいる一角だけが浮き立つほど華やかだった。雪乃の友人たちとはその日に初めて会った。みんな妙によそよそしかった印象があるけれど、初対面なのでそんなものかと納得した。もちろん、その時に雪乃から名前も聞いた。ひとりは田村朋美といい、もう一人は木村真紀という名だった。しかし、その後の結婚生活の中で雪乃からその名が出てくることもなく、家に呼ぶということもなかったのでいつしか失念してしまった。  新婚旅行は北海道に行った。独身の時にさんざん海外旅行に行ったので、新婚旅行は国内がいいと雪乃が言ったので、北海道に決まった。ちょうど時期が7月だったこともあり、雪乃が富良野のラベンダーが見たいというので、旭川から美瑛に向かった。その後、小樽、函館というコースを選んだ。  水彩で描かれた抽象画みたいな風景の中を走る列車に、柔らかい日差しが斜めに差し込む。向こう側の青さを透かす淡い雲が、掃くように高い空を流れている。隣に座る雪乃の香水の残香が切なくも美しい匂いの結晶となって大樹の心の奥底を焦がす。その時、大樹は何かの本の中にあった『恋のきっかけは、そこに人が自分の欠片を発見してしまうからだ』という言葉を思い出した。自分は自分の中にいる雪乃を愛しているのかもしれない。自分は今、本当の意味で幸せの起点にいる。  新婚旅行も最後の日の夜、雪乃があの約束を持ち出した。 「私、あまりに幸せ過ぎて怖いの」  それは大樹も同じだった。雪乃は先を続けた。 「だから、約束してくれない?」 「どんなこと?」 「生まれ変わってもまた一緒になろうって」 「もちろんだよ。生まれ変わってもまた一緒になろうね」 「嬉しい」  雪乃の目から涙が流れていた。  結婚を機に二人はそれぞれの住まいを引きあげ、JR中野駅から徒歩10分ほどのところにあるマンションに引っ越した。2DKの部屋も、二人分の荷物を入れて見ると、案外狭く感じた。 「ここで新しい生活が始まるのね」  段ボールの山と山の間に座り、近所のコンビニで買ってきた弁当を取り出しながら雪乃が言った。まるで、それ以前の嫌な過去を清算するかのような決意の籠った言い方だった。 「そうだよ」 「幸せになろうね、今度こそ」 「ん? 今度こそ?」 「あっ、ごめん。これ前から思ってたんだけど、大樹って初めて会った気がしないんだよね」 「そういう感覚、わかる」  あくまでも感覚の問題だけど、大樹の中にも同じ思いがあった。  一緒に住み始めてみると、大樹の知らない雪乃に驚くことがあった。もちろんそれは雪乃にとっても同じで、雪乃の知らない大樹に面食らったこともあったようだ。何しろ、知り合って2カ月で結婚してしまったのだから当然である。そうした中では、ともすると相手の長所ではなく欠点に目が留まり、それまで好きだと思っていた部分まで嫌いになったりしがちだ。その結果、二人の関係に深い溝が生まれるという不幸を招くこともある。しかし、大樹と雪乃の間には、そうしたことは一切起こらなかった。  人間誰しも欠点はある。もちろん、大樹と雪乃とて同じこと。でも、だからといって嫌いになることなど決してなかった。逆にカワイイとかおもしろいと思うことのほうが多かった。特に、雪乃は大樹の欠点をおもしろがった。笑いながら『ええー、信じられない』などと言って。でも、雪乃にはただ単におもしろがるだけじゃなく、『こうしたら』とか『こう考えて見たら』とアドバイスしてくれる優しさがあった。そんな雪乃は、大樹にとって、いくら噛んでも甘さの消えないガムみたいな存在だった。  相性が合うという言葉があるけれど、自分たちほど相性のいい男女はいないのではないかと本気で思った。神様が最適・最高の相手を選んでくれた奇跡のカップルなのではないかと、雪乃に言ったら『そうに決まってるじゃない』とごく自然に答えた。  結婚後もカフェ巡りは続けていた。もちろん、それ以外に映画を見に行ったり、食事に行ったり、旅行に行ったりもした。それでも、二人にとっては、あくまでもカフェ巡りが中心だったように思う。都内の有名店を制覇した後は、知られざる名店探しに精を出した。さらには、近郊から地方にまで足を延ばしていた。 カフェ巡りをする中で、二人はさまざまなことを話し合った。日常の細々したことから、将来の生活設計まで。このことが、夫婦の絆をより深めることに繋がったと思っている。ロマンチックな言い方をすれば、結婚後も二人はずっと恋を継続していたといえるのではないか。だから、二人は一度も夫婦喧嘩というものをしたことがない。  やがて、雪乃は妊娠して長女を産んだ。名前を決める際、大樹は「映美」という名を主張した。特に深い意味があったわけではない。ただ単にその名前が好きだったから。しかし、雪乃にはその名前は絶対嫌だと拒否された。『なぜ、映美が嫌なの』と訊いても、特に理由はないと言うことだった。結局、雪乃の提唱した「瞳」になった。  子供が生まれると雪乃は懸命に育児に取り組んだ。だからと言って、雪乃は大樹との関係を疎かにはしなかった。そんな雪乃に応えるためにも、大樹は可能な限り育児を手伝った。おかげで夫婦関係はさらに良好なものになった。  それから3年後には次女の穂香が産まれ、4人家族となった。平凡だけど、幸せな生活だった。穏やかでゆったりとした時間が流れて行く。二人の娘もすくすくと育ち、いつしか、長女の瞳が高校二年生、次女の穂香が中学三年生になっていた。次女の穂香は自分の顔が大樹に似てきたことが嫌だと雪乃に言ってるようだが、年頃の娘にありがちなことなので大樹は問題にもしていない。ただ、長女の瞳の顔が高校生になった頃から変わり始め、今では妻の雪乃にも大樹にも似ていない顔になっている。女の顔は大人の女になる過程で変わるものだと雪乃は言うが、大樹は少し気になっている。 「ちょっとお、パパとママ。子供の前でやめてよね」  日曜日の午後、大樹はリビングのソファーでテレビを見ている雪乃の隣に行き、雪乃の手を取って触れようとした。雪乃も嫌がることはなく、されるままになっている。いつものことだ。その時、二階の自室から降りて来た瞳が二人の姿を見て呆れたように言ったのだ。 「何?」  雪乃と大樹がほぼ同時に声を揃えて言った。二人にとっては、いつものことで何のやましさも感じていない。 「だから、その手」  雪乃の手を撫でていた大樹の手を指して言う。 「ああ、これ。こうするとママの気持ちが落ち着くんだよ」 「そうかもしれないけどさあ」  思春期真っ只中の瞳からすれば、あまり見たくない光景なのかもしれない。すると、ダイニングテーブルで一人宿題をしていた穂香が、おかしそうに言った。 「二人ともいつまでラブラブなんだろうね」  若干から揶揄うような言い方をした穂香に大樹が答える。 「ずっとだよ。しょっちゅう喧嘩している夫婦より良くないか」 「まあ、そうだけど。程度問題だよ」  瞳が大人ぶって言う。すると、今度は穂香が興味深々という顔で訊いてきた。 「前々から訊いてみたかったんだけどさあ、パパはもし生まれ変わってもママと結婚したいの?」 「当たり前じゃないか。それ以外の選択肢なんてあり得ないよ」 「ふ~ん。で、ママは?」 「もちろん、パパと同じよ。だって、パパのこと大好きだもん」 「なんかカッコいい」  感心したように言った穂香に対し、瞳が反論した。 「ええー、カッコよくなんかないよ。私は生まれ変われるとしたら、まったく違う人と、まったく違う人生を歩みたいわね。そのほうが絶対楽しいもの。そうじゃないと、生まれ変わった意味がないと思わない?」 「確かにお姉ちゃんの言う通りかもね。だけど、そもそも同じ人間に生まれ変われるかなんてわからないし。それに、人間じゃなくて昆虫に生まれ変わってるかもしれないしね。カフカの『変身』みたいにさ」  穂香は本当にカフカの『変身』を読んだのだろうか。 「カフカの『変身』って言ったけど、穂香はちゃんと読んだことあるのか?」 「図書館で読んだと思う」 「カフカの『変身』って、ある日目覚めたら、巨大な毒虫・害虫になってたって言う話で、家族に気持ち悪がられて部屋に閉じ込められて、結局部屋で息絶えるんだよ」 「それは嫌だなあ。でも、普通の昆虫だったらいいじゃない」  まあ可能性はある。誰も経験ないので肯定も否定もできない。そこで、父親らしく二人を諭すことにした。 「二人ともロマンチックじゃないなあ。強い愛で、来世でもまた結ばれると信じて祈り続ければ、願いは叶うに決まってる。ねえ、ママ」 「その通りよ」 「呆れた。二人ともいい歳をして夢見る夢子さんなんだから」  リアリストの瞳は冷たくそう言い放った。 「瞳、それは違うな。パパとママはそういう夢を見ているんじゃなくて、現実を永遠にできると信じているだけさ」 「なんかよくわかんない」  瞳がそう言う中で、穂香は、まったく違うロマンティストぶりを発揮した。 「私は人間に生まれ変わるよりも、昆虫に生まれ変わるほうがロマンチックだと思うけどな」 「穂香らしいわね」 雪乃が感心したように言った。大樹は同じ姉妹でもこれだけ違う感性の子に育ったことが嬉しかった。それぞれの良いところが活かされる分野で輝いてくれれば、親として嬉しい。    大樹の仕事も順調で、45歳になった時には念願のマイホームを手に入れることもできた。もちろん、ローンでだけど。まさに、公私ともに順風満帆な生活が続いていた。  子供の手が離れるようになり、大樹と雪乃はカフェ巡りを再開した。改めてネットで最近流行りのカフェを探すと、雪乃が好きそうな新しいカフェが次々誕生していた。リストアップして雪乃に見せると目を輝かせ、 「行きたい。行こうよ。また二人で。でも、スタートはやっぱり広尾のレ・グラン・ザルブルからね」  広尾のレ・グラン・ザルブルは今もずっと昔のまま営業していた。 「二人の初デートの場所だからね」 「それもあるけど、あのお店ってずっとずっと昔からあって、この先もずっとある気がしない?」 「確かにそうだね」 「そんな時代を超越したようなところが好き。あなたの昇進祝いも、二人だけであのお店でしない?」 「ああ、いいね」  大樹はこの春に部長に昇進した。出世欲などさらさらなかったが、まじめに仕事をしてきた結果としての昇進は悪い気はしなかった。しかし、父親の昇進などにもはや成人した子供たちは何の関心も示さなかったので、二人で祝うことにしたのである。 「幸せね、私たち」  雪乃が改めて言った。 「ほんとに幸せだ」  このまま何事もなく人生の後半を迎えるのだろうなと思っていたそんな矢先、事態は急変することになる。幸せの中にいると、立ち昇った嫌な予感すら気づかないものらしい。 秋の終わりと冬の始まりを繰り返しながら進む季節の中で、木々の葉は様々な色に枯れていこうとしていた。 「じゃあ、行ってくるよ」  雪乃に声をかけるが、何か考え事をしていたのか返事がない。もう一度声をかける。 「えっ、何。ごめん。ぼんやりしていた」 「行ってくるよって言っただけ。ああ、ちなみに今日は帰りは遅くなるかもしれない」 「わかりました」 「大丈夫。何かぼおっとしていたみたいだけど」 「ううん。大丈夫よ」 「それならいいんだけど…」 その日は、夕方から気温が急激に下がったせいで冷たい風が吹いていた。大樹が仕事を終え自宅に戻ると、雪乃がソフ-に横になっていた。そんなことは今までないことだったので、驚いた。 「どうしたの」 「ちょっと頭が痛くて。薬飲んだんだけど、なかなか治らなくて。食事の用意してあるから食べて」 と食堂のテ-ブルを指す。 「食事のことは心配しなくていいよ。それより大丈夫。病院に行ったほうがいいんじゃない」 「大丈夫よ。もう少しだけ、ここで休ませて」 「わかった。治らなかったら言ってね」  娘二人はまだ帰宅していなかった。私は急いで食事を済ませ、妻を寝室まで連れて行き寝かせた。しばらくは、ベッドの横で様子を見ていたけれど、安心したのだろうか、雪乃は寝息をたてていた。それを確認した大樹は階下に戻り、応接間で休んでいた。それから、3時間ぐらいたった頃に、もう一度雪乃の様子を見ようと2階の寝室へ行った。雪乃はまだ寝ていたが、鼾をかいていた。普段鼾などかいたことのない雪乃の鼾に、異常を感じ、大樹はすぐに救急車を呼んだ。  雪乃は、くも膜下出血であった。昏睡に陥っており、危険な状態であった。大樹も、二人の娘も奇跡を信じ、交代で雪乃についたが、事態は変わらなかった。  そんなある日、大樹がいつものように雪乃の病室へ行き、手を握りながら話しかけていると、雪乃がうっすらと目を開けた。大樹は奇跡が起きたと思った。 「雪乃」  大樹は、そっと声をかける。雪乃がかすかに頷いた。大樹であることがわかったようだった。しばらくの間、二人は見つめ合ったままであった。あまりにもいっぱい話したいことがあって、かえって言葉にならなかった。雪乃の口が少し開いた。何かを大樹に伝えたがっている。そう思った大樹は、雪乃の顔に自分の耳を近づけた。すると、雪乃は途切れ途切れに息を吐くように小さな声でこう言った。 「あなた、あの約束覚えている?」  その瞬間、大樹はすべてを理解した。 「もちろん、覚えているよ」 「そう、良かった。で、お願いがあるの」 「うん?」 「もう一度、今ここであの約束を言って、お願い」  そう言って、雪乃は右手を少し上げ、小指を大樹のほうに差し出した。大樹は、その指に自分の小指を絡ませた。 「生まれ変わってもまた一緒になろうね」 「ありがとう。嬉しい。また、あちらで楽しい思い出をいっぱい作ろうね。約束だよ」 「うん、約束する」  大樹の目に涙が流れるのと、雪乃の目に涙が流れるのは同時だった。でも、「約束」に安心したのか、雪乃の意識は再び薄れ、昏睡の中に落ちて行き、二度と意識を取り戻すことはなかった。温もりは返す波にさらわれてしまうようにするするとどこかへ消えた。  それから3日後に雪乃は帰らぬ人となった。心はまるで冷えた蝋のように固まり、「悲しみ」の形にまとめようとしても、形作った端からそれはさらさらと崩れ落ちた。  二人の娘の悲しみようは、傍で見ていても辛かったが、大樹は雪乃との固い約束を信じて、これからも生きて行けるような気がしていた。
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