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第四章 時間の流れに愛撫され
それからの一週間を大樹は落ち着かないままに過ごした。授業中、ミエと目が合ってしまうとなぜかドギマギしてしまい、慌てて目を逸らしたこともある。しかし、そんな大樹を嘲笑うかうように、ミエのほうはより大胆になっていた。休み時間に廊下を歩いていると、大樹の元に駆け寄り、悪ふざけのようにして腕を絡めてきたりする。
「やめなさい」
慌ててミエの手を引き離すと、
「セクハラ」
と小さく言って、立ち去る。今度会った時、注意しなければと思う。
人気店でもあるグリーンビーントウバーチョコレートには行列が出来ていた。ようやく店に入れたが、やはり雪乃の姿はなかった。この時点で大樹は帰りたかったが、大樹に向かって手を挙げているミエと目が合ってしまい、帰るわけにはいかなくなった。誰かに見られていないかと気にしながらミエの向かいに座る。
「早かったじゃないか」
「この時間混むのわかってたから早く来たの」
「そうか。待たせて悪かったな」
「別にいいよ。それより彼女来ていない?」
改めて店内を見渡してみるが、雪乃の姿は見当たらない。
「残念ながらいない」
「そう。かわいそう」
『かわいそう』と言われ、堪えた。胸奥にちりちりとした痛みが走る。やはり、ここには前田雪乃という女性は存在しないのだろうか?。
「でも、諦めないぞ」
自分を奮い立たせるつもりで言った。
「そうよ。まだ始まったばかりなんだから」
ミエの女子高生らしい若さが、大樹に勇気を与える。ミエと一緒に行動を共にして良かったのかもしれない。もし一人だったら、もう終わりにしていたような気がする。
「なんかミエって、昔から知っているような気がする」
ミエの顔を改めて見て、ふと思ったのだ。
「昔付き合ってた彼女に似ているなんて言う口説き文句は、今時流行らないですよ、先生」
「いや、そういうことじゃないんだ」
「なんだあ。ちょっとがっかり。あっ、それよりさあ、私のほうの現在までの調査結果を発表するから聞いて」
確か先週ミエは情報は探せばあると思うと言っていたのを思い出す。
「なんか大げさだな」
「だってえー、大変だったんだよ」
雪乃のことを調べたということだろうけど、調べようがないはずだ。
「それで?」
「まずは、松岡の奥さんの小百合を突撃しました」
「おい、二人とも君たちの先生でもあるんだぞ。呼び捨てにするな」
「陰ではみんな呼び捨てにしてるよ」
私立丸川学園高等学校はお嬢様学校と聞いて赴任したのであるが、女子高生の中身なんてあまり変わらないものらしい。
「まあ、そうかもしれないけど…。ということは、俺のことも中里と呼んでるのか?」
もちろん、そうだとは思ったが訊いてみた。
「ううん、大樹」
「何だそれ。俺だけ下で呼んでるのかよ」
「それだけ先生は人気者っていうことだから、いいんじゃない」
喜んでいいのやら、悲しんでいいのやらわからない。
「まあ、そういうことにしておこう」
「それでね。結婚披露宴に出席した小百合の友達のリストをもらったの」
と、一枚のコピーを大樹に見せた。
「こんなもの、よくもらえたなあ」
「それは、私がカワイイ生徒だから。って嘘だけどね。ほんとのところは内緒」
「ふ~ん」
ミエはどんな手を使ったのだろうか。案外、小百合の弱みを握っていたりして。
「先生は雪乃さんが小百合の友達だったって言ったけど、それって勘違いかもしれないじゃない」
大樹の『記憶』では小百合の友人としか覚えていなかったので、小百合以外の人間に当たろうという発想はなかった。
「う~ん。そう言えなくもない」
「今順番に訊いているところ」
「そうか。やっぱりミエと行動を共にして正解だったのかもな」
「今頃気づいたの」
「許してくれ。それで、どんな感じ?」
「今週は3人に訊けたけど、残念ながらみんな知らないって」
「そうか…」
「でも、まだこんなにいるんだよ。諦めないで。直接じゃなくても、何か情報が得られるかもしれないでしょ」
確かに、まだたくさんいることがリストのコピーから読み取れる。
「ありがとう。すまないね」
「そう思うんだったら、もっと私にも優しくしてよね」
「なんかグイグイくるねえ」
妙な照れもあって、そういう言い方になってしまった。
「だって、先生は押しに弱いタイプでしょう」
自分の性格まですっかり読まれているようだ。
「う~ん。当たらずとも遠からずだ」
「どこまでも素直じゃないなあ。でも、そういうところがカワイイのよね。ほんとうは優しくしたいのに、照れちゃってできなかったりしてね」
「おい、バカ、やめろ」
まるで恋人同士のような会話になってしまっていることに戸惑う。
「先生、顔赤いよ。で、今日はこれからどうする?」
ミエが話題を変えてくれたことに感謝だ。
「そうだなあ。もう一軒行ってみようかと思う」
「日にちとか時間は関係ない?」
「もう、そういうことじゃないような気がする。会える時は会えるし、会えない時はどんなことをやっても会えないんだろうし。それが運命って感じかなあ」
「なるほど。そうかもね」
ということで、その日は自由が丘にあるベイクショップという名のカフェに行ってみたが、やはり雪乃には会えなかった。だが、会えないという状況に慣れつつある自分がいて、たとえそこに雪乃がいなくても落ち込み方も徐々に小さくなっていた。こうしていつか諦めがつく時がやってくるのかもしれないと、漠然と思うようになっていた。
その後も、毎週、毎週、ミエと一緒にカフェ巡りを続けた。どうしても、大樹が仕事で行けない時は、ミエが一人で行った。だが、雪乃と会えることはなかった。ミエが調べている小百合の友人の調査も、今のところ何の情報も得られていない。
「先生、雪乃さんが独身時代時に住んでいたマンションの住所、思い出せないの?」
「う~ん。ずっと考えているんだけど、思い出せないんだよ。確か、3回くらいは行ってると思うんだけど」
「住所は無理だとしても、場所は? たとえば、五反田とかさあ」
「ごめん。出てこない」
「そうかあ。結婚して最初に住んだマンションには行ってみたんだよね」
「もちろん、行ってみたさ。マンションそのものがなかったけどな」
そんな答えを繰り返す大樹のことを、ミエはまじまじと見つめて言った。
「先生。そもそも夢を見てたんじゃないの?」
すべてが夢だった? そう言われてみればそんな気がしてしまう。
「夢ねえ。そうかもしれないなあ…」
ぼおっとしてしまった大樹にミエが喝を入れた。
「どうしたの、弱気になっちゃって。まだまだ頑張ろうよ。そのマンションがあったのって、どこだっけ?」
「JR中野駅から徒歩で10分ほどのところ」
「そう。じゃあ、そのマンションがあった住所を教えて?」
「いいけど。どうするんだよ?」
「周りを当たるのよ」
自分よりよほどミエのほうが真剣だ。
「なるほど」
「なるほどって、感心してる場合じゃないでしょう。できることは何でもしないと、情報なんて入ってこないよ」
「ミエの言う通りだな。だけど、なんで俺のことでそこまで真剣に動いてくれるの?」
「自分でもよくわかんないんだよね。でも、なんか先生を放っておけないって感じ…かな」
「感謝してるよ」
とにかく、ミエは行動的だった。仕事で忙しい大樹が平日動くことはまずできなかったが、その分ミエが動いてくれていた。小百合の友人へのアプロ―チ、結婚当初住んでいたマンションの周辺での聞き込み等々。それでも、ミエの学校の成績は落ちなかったし、学級委員長の仕事もちゃんとこなしていた。そんなミエがいじらしく、声をかけたかったが、恋バナが大好きな女子高生たちの餌食にならないよう、学校の中で大樹は極力ミエとの接触を避けていた。でも、それはそれだけ大樹がミエを意識しているという証でもあり、クラスの中でもそういうことに目ざとい白鳥真知子に勘づかれてしまった。
職員室に宿題のレポートを持ってきた真知子は、帰り際に思わせぶりな笑顔を見せながら大樹の耳元で囁いた。
「先生、今日の授業の時のミエを見る目、怪しかったですよ」
「何勘違いしてるんだよ」
もちろん、認めるわけにはいかなかったので、強く否定する。
「大丈夫。秘密にしといてあげるから」
ウィンクをして離れて行く真知子をなす術もなく見送るしかなかった。真知子は『秘密にしといてあげる』と言っていたが、あの真知子に勘づかれたのはいかにもまずかった。この後、どんな噂が流されるのかと思うと恐ろしい。
その週の土曜日。いつものように大樹とミエはカフェにいた。一緒にカフェ巡りを始めてからちょうど10軒目になる。だが、予想通り、この日も雪乃には会えなかった。しかし、大樹はミエには言わなかったが、今や雪乃との再会をほぼ諦めていた。それでもミエとカフェ巡りを続けているのは、ミエと一緒にいられることにこそ喜びを見出していたからである。
困ったことに、ミエに対する思いが生徒に対する思いとは異質のものに変わってしまっていた。それは、確実に恋に近いけれど、でも微妙に違うような気もするのである。
「先生、私の話聞いてる?」
先ほどからミエは小百合の友人たちと接触した結果を大樹に報告していた。
「ごめん、ごめん」
「どうしたの? ぼおっとしちゃつて」
「だから、すまん」
「何、その言い方。今大事な話をしてるところなんだから、ちゃんと聞いてよね」
「わかった。それで?」
「この通り、全滅」
ミエが大樹に見せたリストの名前の前にすべてバツ印があった。
「そうかあ…」
本当のところ予想はしていたので、それほどショックは受けなかったが、一生懸命に調べてくれたミエのために落ち込んでみせた。
「先生、お願いだから、そんなんにがっかりしないで。まだ可能性はあるんだから」
そう言って大樹を見つめるミエの目には涙が滲んでいた。
「ミエ、どうした? 泣くことなんてないじゃないか」
「だって、だってえ…」
後は声にならなかった。思わずもらい泣きしそうになるのをぐっと堪え、冗談めかして言った。
「前にも訊いたけど、俺なんかのために、なんでそんなに真剣になっちゃうわけ?」
「先生のことが好きだからに決まってるじゃない」
遂に言わせてしまった。聞いてはいけないことを聞いてしまった。前にも『先生のことが気になる』とは聞かされていたが、実は大樹は、ミエがこれほどまでに真剣に自分のことを心配する理由は、まったく違うところにあるのではないかと思っていた。だが、それは確信が持てないでいた。だから、思わず訊いてしまったのだった。でも、ミエが『好きだから』と言う可能性もしっかりわかっていたはずではなかったか。それを言わせてしまった責任は自分にある。
二人の間に流れてしまった、この微妙な空気を年上で、しかもミエの担任教師である自分が何とかしなくてはならない。
「それは、担任教師としては嬉しいよ」
あくまで『教師』として好きだと言ったことにした。
「そういうことじゃないよ。わかっているくせに。逃げるの?」
どう答えるべきなのだろうか。大樹は迷った。
「逃げやしない。ちゃんと受け止める覚悟はできている」
『ああ、言ってしまった』
「ほんと? 嬉しい」
「ミエ、実は別件で訊いてもらいたいことがある」
この際、話題を変えることしか手が思いつかなかった。
「何?」
「白鳥真知子のことだ」
「真知子? 真知子がどうしたの?」
大樹は先日職員室で真知子に言われたことを話した。
「そう」
ミエには驚いた様子はなかった。
「白鳥はいろんな噂を流すことで有名だろう。だから、心配なんだ。それで、ミエに相談しようと思って」
「先生、心配ないよ」
「どうして? あの白鳥だよ?」
「真知子、秘密にしといてあげるって言ったんでしょ」
「そうだけど、白鳥に限ってそれで終わる可能性ないだろう」
「先生って、わかってないよね」
「何だよ。そういう話じゃないだろう」
「もう。真知子はねえ、そう言って先生の気持ちを自分に向けさせたかっただけ」
「どういうことだよ」
「あの子も先生のことが好きなの。それはずっと前からわかっていた。あの子、ひねくれているから、そんな言い方しかできなかったの」
大樹にはよくわからなかったが、ミエが言うのならそうなのだろう。
「俺はどうしたらいい?」
「先生は今まで通りで大丈夫。万が一、真知子がおかしな行動をとったら私がちゃんと解決するし」
「ミエが? 大丈夫か?」
「だから、大丈夫だって。私を信じて、先生」
「そうか。わかった」
ミエの言葉を信じることにした。
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