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第六章 わずかな光を透かして
雪乃と会うためのスケジュール調整はミエがやってくれた。再会の場所は、当然ながら広尾のレ・グラン・ザルブルになった。
当日、大樹が店に行くと、すでにミエと雪乃は向かい合って座っていた。
「先生、こっち」
手招きするミエの席へ向かうと、雪乃が立ち上がって大樹に軽く頭を下げた。
「どうも、中里大樹です」
現段階では雪乃の中に大樹の記憶がないようだけど、かといって『初めまして』と言うのも抵抗があって言えなかった。いや、言いたくなかった。
「さっき話した、うちの高校の中里先生。私のクラス担任です」
ミエがいつも以上に明るく振舞っているのが痛々しく見える。
「そうですか。私は橋本雪乃と言います」
雪乃が結婚した相手が橋本進次郎という名前の男だということはミエから聞いて知っていた。
「とにかく、二人とも座って」
それまで雪乃の正面に座っていたミエが横にズレ、大樹が雪乃の真向かいに座ることになった。二人の着席を待って、ミエが言った。
「お二人が揃ったので私は帰りますね。あとは若い者同士で。なんちゃって」
「何言っているんだ君は」
おかしな冗談を言ったミエに対し、普段なら名前を言うところだが、雪乃にへんな誤解を与えたくないという心理が働き、敢えて『君』という言葉を遣った。
「君って、へん。まあいいや。雪乃さん、あとはお願いしますね」
「わかりました」
ミエが去って二人だけになると、急に気づまりな空気になった。自分のほうから何か話さなくてはと思うのだが、どこからどう話したらいいのかわからない。
「ミエさんって、カワイイですよね」
沈黙に耐えかねたのか、雪乃のほうから話しかけてきた。
「そうですかね?」
「ええ、とっても。中里さんの彼女ですか?」
「いえいえ。彼女まだ高校生ですし、だいいち教え子ですから」
これから雪乃に話すことを考えれば認めることなどできない。
「そんなの関係ないと思うし。お似合いなんだけどなあ」
「本当にそんなんじゃないんで」
『ごめん、ミエ。ここはそう言うしかない』
「そうですか…」
「ところで、広田はこの間どんなことを話していましたか?」
「彼女は私が中里さんのことを知っているはずだから会ってみてほしいと言ったのです。でも、私にはまったく思い当たらない名前だったし、この間ここで一瞬あなたの顔を拝見しましたけれど、存じ上げない方でしたのでお断りいたしました」
無理もない。今目の前にいる雪乃は自分のことなど知らないのだから。この日の雪乃のファッションは、白のブラウスにグレーのスカート。それに、細いベルトや細いストラップのショルダーバッグ、ストラップシューズで上品な印象を与えていた。同じ雪乃なのに、こちらの雪乃は話し方も見た目の雰囲気も、自分の知っている雪乃とは違う。
「ご迷惑をおかけしました」
「いえ。でも、彼女は引き下がりませんでした。それはそれは真剣な顔で、何度も何度も会ってほしいと。そして、二人が会わなければ生まれることができない命があるのだとまでも言われました。意味がわからなかったのですけれど、彼女の熱意に応えることにしたのです」
ミエの気持ちが雪乃に通じたのだろう。それにしても、ミエが最後に言った言葉は、大樹にも意味がわからなかった。
「ありがとうございます」
「それで、さっきお会いした時からずっと考えていたのですけど、今のところまだ何も思い出せていません。ただ、中里さんの顔も、それから広田ミエさんの顔も、何か引っかかりはあるんです」
『引っかかりがある』と雪乃は言った。だとずれば、雪乃の『記憶』が蘇るチャンスはある。しかし、雪乃はミエの顔にも引っかかりがあると言った。それはなぜだろう。
「そうですか。じゃあ、何かのきっかけで思い出していただけるかもしれませんね」
「中里さんに、私の記憶はあるんですか?」
「あります。ただ、それが確かなものなのかは、僕じゃなくて橋本さんが決めることなんです。そういう意味で、僕のほうからいくつか質問させていただいていいですか?」
雪乃と話していると、自然と自分のことを『僕』と言っていることに気づく。
「ええ、どうぞ」
「ただし、答えたくない質問には答えなくて結構です」
「わかりました」
「では、一つ目の質問ですが、ご主人とはどこで出会い、いつ結婚されてのですか?」
「それも関係あるのですか?」
「あります。しかも、重要な」
「そうですか…」
雪乃が躊躇っているのがわかる。まだ何も思い出していない雪乃からすれば、奇異な質問に思えたのであろう。
「主人と会ったのは、このお店です」
「この店、ですか?」
今度は大樹が驚く番だった。
「ええ。このお店で私は誰かを待っていたのですけど。その人が来ないので帰ろうと思っている時に主人に声をかけられたのです」
『それは僕だ』と言いたかったが、何の確証もない。
「誰を待っていたのかは思い出せないんですか?」
「ええ。不思議なことに、その部分がすっぽり抜け落ちているのです。ちなみに主人と結婚したのは3年前です」
あの男と結婚して3年経つと聞かされ、猛烈に嫉妬心が湧く。
「そうですか。わかりました。お二人の間にお子様はいらっしゃるのですか?」
「いえ、まだいません。主人がもう少しの間二人だけの生活を楽しみたいというので」
子供がいないと聞いて、大樹は正直ほっとした。万が一、自分と雪乃がやり直すとした場合、子供がいないほうが進めやすいなどという現実的な理由まで先走って考えていることに、我ながら呆れる。
「わかりました。では、次の質問に移らさせていただきます」
「なんだか取り調べみたいね」
「そんな風に思われているのならごめんなさい。謝ります」
「まあ、大丈夫ですよ。続けてください」
「すみません。橋本さんのお友達に太田小百合という名前の人はいませんか?」
「いません」
「では、田村朋美さんとか、木村真紀さんという名前の友人は?」
大樹と雪乃の結婚披露パーティに雪乃が招いた人物の名をあげてみる。
「いや、知りません」
嘘をついているようには見えなかった。
「そうですか…。差し支えなければ、学生時代から今に至るまでの間にお付き合いしてる友人のお名前を教えていただけませんか?」
「親友という意味では、作山佳代という子と永野美優という子ですかね」
聞いたこともない名前だった。ミエが小百合から聞き出したリストの中にも該当する名はなかったように思う。
「そうですか…。ところで、橋本さんの趣味は何ですか?」
「趣味はゴルフですね」
「えっ、ゴルフですか?」
大樹の記憶を探っても、雪乃からゴルフという言葉が出たことはなかったと思う。
「そうですけど、何か?」
「いえ。カフェ巡りとかは?」
「カフェ巡りですか。私は興味ありますけど、主人が無関心なので…」
「橋本さん自身は興味あるんですね」
「ええ」
次の質問に考えあぐねて手を頭にあげた時、
「ちょっと待って、その時計。見覚えがある」
その時は突然やってきた。何が雪乃の『記憶』を呼び覚ますかわからなかったので、大樹は家中を捜索し、雪乃との思い出の品を探した。しかし、見つかったのは二つだけだった。そのうちの一つが、初めて雪乃からプレゼントされたこの時計だった。
「どんな時計だかわかりますか?」
「ごめんなさい。それはわからないわ」
時計という物は何となく思い出したけれど、その持ち主である大樹やどんな意味を持つ時計なのかまでは思い出せていないらしい。しかし、ここを攻め時と考えた大樹は次の手を打った。
「そうですか。じゃあ、これは?」
大樹は首の横にある自分の黒子を指さした。それを雪乃は最初不思議そうに見ていたが、何かに気づいた。そのとたん、言葉を失った雪乃。大樹は、雪乃が『記憶』を取り戻しつつあると確信した。
「橋本さん、あなたの左足の内腿のちょうど中間あたりにも大き目の黒子が二つありますよね」
「何でそんなことまで知ってるの?」
雪乃の顔はますます青白くなっていく。
「そのことにお答えする前に、もうひとつだけ見ていただきたいものがあります」
「何?」
「これです」
大樹がバッグの中から取り出して雪乃の前に置いたのは、首から下げる鈴であった。
「これは…」
「橋本さん、もう思い出しましたよね。これは私たち家族がホテルのプールに遊びに行った時、迷子になった次女の穂香が首から下げていたものです。あの時あなたは取り乱して、ずっと涙を流しながら穂香の名前を呼んでいました」
雪乃の目から、すうっと涙が流れた。
「私は…」
蘇った『記憶』は雪乃を混乱させているに違いない。
「雪乃」
大樹はこの日初めて名前で呼んだ。
「大樹……、だよね」
大樹の顔をじっと見つめ、自分自身に確認するように、ゆっくりと名前を言った。
「あの約束、覚えているよね」
大樹がどうしても確認したかったことを訊いた。
「生まれ変わってもまた一緒になろうね」
雪乃は約束を覚えていた。いや、思い出した。
「なぜ?」
『それなのに、なぜ約束を破った』と言うのは言葉が強すぎて、雪乃を追い詰めるようになってしまう。だから、『なぜ?』という言葉に思いを込めた。大樹は単純に理由を知りたかった。
「私は…、私は…、ずっと、ずっとあなたを待っていた。でも、あなたは現れなかった…」
雪乃は声をふり絞るようにしながら、でも、はっきりと答えた。
「だって、僕には残された二人の娘をちゃんと育てる必要があった」
「瞳と穂香ね」
雪乃は愛しい自分の娘の名前を噛みしめるように囁いた。大樹も辛かったが、今それ以上に雪乃は辛い思いをしている。
「二人とも雪乃に似て優しくて、心細やかで、そしてきれいな子に育ってくれた」
そう言った大樹だったが、まさにその瞬間、長女の瞳の顔がミエとよく似ていたことに気づく。
「そう…。ありがとう」
これ以上、自分は雪乃に何を話せばいいのだろうか。
「雪乃は今幸せ?」
自分で混乱させておきながら訊くべきではないかもしれなかったが、最後にどうしても訊きたかった。
「ついさっきまで自分は幸せだと思っていたけれど、今はわからなくなってしまった」
「ごめん。僕は君を混乱させただけだったね」
「ねえ、大樹。今の私に考える力はないわ。だから、一週間だけ時間をください」
「わかった」
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