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2 木越家のドアをドンドン
兄妹が肩に雪を積もらせて帰ってきたとき、母は「やっぱり(落ちたのね)」とその場に崩れ落ちた。
「だから鉄はだめだって言ったんだよ」
祖母は自分のカンが当たって満足そうだ。「鉄はともかく、あえんまで真っ青よ」
母の心配にあえんは「生理」と短く言う。そのたび母は「婦人科に行きなさい」と言うのだがあえんは「乙女の大事なところいじられてたまるか」と怒る。気持ちはわかるがそれで将来肛門科医になるのかよとも思う。
山手線の事件のことは写真が撮れていない以上信じてもらえないと鉄もあえんも親に言えないでいた。
無口な鉄に父はますます自暴自棄になっていく序章と感じ、
「あわてて答えをだすことはないぞ」
と早口に言う。
そうですね。というのを喉元で止める。医大でなければ二浪しなかったんじゃないかと思うたび、その思考がすでに逃げで、自分の無能さと情けなさで潰れそうになる。
「木越優希に会った」
父の気の使いように疲労感を与え、ついその名を出してしまった。父と母が揃って「え」と言う。
「そうだよな。K医大だものな、会ってもおかしくないよな」
父は無理に笑いを浮かべる。
「すっごくカッコ良かった」
メガネとお下げに戻ったあえんが頬を薄紅に染めた。
「あの人が婦人科医だったらなにされてもいいや」
うれしそうに笑うあえん。父の怒りの導火線に火がついた。
「いかん、木越の遺伝子はおそろしく危険なものだ、騙されてはいかん」
鉄は会ったことがないが、木越の父親はさぞかし木越に似ているのだろう。授業参観や卒業式などで会ったことのある全身シャネルな母親だってブランドに負けないほど綺麗なのだからどっちに似ても美形ではあるが。
「で、なにか話したのか」
父は鉄に向き直る。
「話したっていうか」
一連の出来事がよみがえるものの説明のしようがない。
「あいつ、風邪ひいてたみたいで、すぐ帰ったよ」
犬怪人に拉致されていった。なんて言ったところで信じてもらえないだろう。
テレビをつけてもオテフセ団のことは取り上げられなかった。山手線で皮ジャンを切り刻まれたと訴えた男性がいたが革ジャンには傷ひとつなかったことから不審に思った警察官が調べたところジーンズのポケットから薬物を押収、即逮捕という話題はあった。
自室で予備校のパンフレットを並べながら溜息をついていたらノックもせずあえんがドアをあけた。
「ノックぐらいしろよ、着替え中だったら恥ずかしいだろ」
「大丈夫、男の人の下半身なんて将来いやってほど見るんだから」
「お前が診るのは前じゃなくて後だろ」
「いいじゃないそんなこと、それよりさ」
それよりさ、でかたづけないで欲しい。
「オテフセ団、ネットでは広まってるよ」
乗客がブログで書いたりマスコミに訴えたりしてきているらしい。
「そうか、そうだろうな。あれだけ派手なことしたんだものな」
でしょ、とばかりにあえんが近づいてくる。お下げをやめてメガネを外せばそこそこかわいいのに。あえんは祖父の形見にこだわっているようだ。
「あのさ、お兄ちゃん」
しおらしすぎて気持ちが悪い。
「なんだよ」
「木越様があそこまでカッコイイとは思わなかったの」
「それかよ」
食卓で話題には上るものの生を見たことがなかったあえんは木越優希にハートを奪われてしまったようだ。
「様なんてつけるなよ、あいつ性格キツイぜ」
またもや思い出した。
高校の卒業式の日、気軽に肩を叩いた鉄。なにもかも手に入れ栄光の未来しか待っていない彼とは最後まで仲よくなることは出来なかった。でも、最後くらいクラスメイトとして別れを惜しみたかった。
なのに木越は鬼のように目を吊り上げ、鉄にしか聞こえない声で囁いたのだ。
「イッテーな、なにすんだよこの野郎!」
おれってそんなに力持ちだったっけ? 軽く叩いただけなのに。という疑問とともにいままで尊敬と敬意を抱いていた木越へのイメージは崩壊した。
それでいてこんな再会。
「そう? すっごくやさしい瞳をしていたわよ。歯も光ってたし」
「人間の歯が光るわけないだろ」
「あんな人と痔核の話ができたら素敵なんだけど」
「アイツの親父は心臓外科だから同じ道選ぶんじゃないのか」
「えーっ」
あえんは露骨に残念がる。
「つっていうか、お前下半身からはなれろよ」
「お兄ちゃんは下半身をバカにするの。男も女も下半身から生まれてくるのよ」
そういう怒り方は父そっくりだ。
「バカになんかしてねえよ。ただ、おまえ女の子なんだからさ、もうちょっと」
「もうちょっとなんなのよ」
生理中のあえんはさらに気性が激しい。逆らわないほうが無難だ。
「で、なんの用なんだよ」
「あ、そうそう。木越様が心配なの」
今は好きでも嫌いでもない木越だが、せっかく再会したのにああいう別れ方は納得がいかないことは確かだ。
「とても具合悪そうだったじゃない」
「まあ、そうだよな」
「お兄ちゃんヒマなんだから様子見に行ってよ。家ぐらい知ってるんでしょ」
お兄ちゃんヒマなんだから、にわざと力を込めて言っている気がしてならない。
「明日報告してね、あたしお腹痛いし寝る。おやすみ」
一方的なことを言って一方的に去っていく。と思ったら再びドアが開いた。
「来年同級生になれたらいいね」
にいっと笑ってドアは閉まった。
「くっそ、かわいくねー」
とぼやいてから、あの妹に医院を継がせて自分はサラリーマンになるのかなと漠然と思ったりする。
「おれも木越くらい頭よかったらな」
翌朝には雪はすっかりあがっていてやわらかな陽もさしている。これならば雪も早く溶けるだろう。
受験シーズンで大学は休みだろうから木越は家にいるに違いない。
(あれだけの熱があったんだ。家で動けないでいるだろう)
インフルエンザかもしれない。そう思って高校時代の友人にメールしまくって木越の携帯メルアドと電話番号をゲットしようとしたが、これがかなり手間取る作業だった。なにせ鉄の高校時代の仲良しといえば『木越君にはうかつに近づけない』連中ばかりだったから、まずはそのなかから木越に近いところにいたヤツを探し出すわけだが、鉄の通っていた進学校は学力のランクで友だち付き合いも決定していたようなものだから、鉄らCランクの集団がAランクのメルアドを知るにはまずBランクにつながりをもたなければならない。鉄はBランクのヤツらのメルアドも知らなかったので、ほかのCランク友だちに頼るしかない。
Cランク友だちがレスのたびに「合格できたか?」と言ってくるものだから「この先どうしようかと思っている」とさらにレスを返した。何人かは「励ます会をやってやる」と心温まるレスをくれた。持つべきモノはと言いたいが、あいつら理由をつけては飲みたいだけなのだ。
Cランクといえども進学率100%といわれる高校だ。同級生は%現役合格、残りは一浪で春を迎えていた。同期で二浪は鉄だけということも知った。高校はじまって以来の快挙ではないかというヤツもいて、鉄は自己嫌悪の深みにますますはまっていった。
昨夜からメールしまくって情報がもらえたのは翌日昼近く。又聞きの又聞きだから本当か嘘かはわからないが、東大やら京大に進学したAランクのヤツらでも『話はしてたけど、あいつアタマの回転良すぎてついていけなくてさ』とか『女子がキャーキャーうるさくて外でつるむっていう気になれなかった』というレスが多かった。知っていたのは修学旅行で木越と同じ班になったという東大生小宮山だった。「いまもこのメルアドかどうかはわからないけど、連絡事項知らせるために交換したんだ。僕班長だったから」と小宮山から丁寧なメールが来た。鉄はAクラスでもおだやかな雰囲気を持つ小宮山を懐かしく思いつつお礼のレスを返した。
(木越の周囲には人だかりができていたといつも思っていたのに。小宮山としかメルアド交換してなかったのか)
たまに席の離れた木越をチラッと見ることがあった。Aクラスのヤツら同士でひとつのテーマを斜め上から切り込むような会話をして笑っていたようだった。まれに付き合っている女の自慢話もしていたようだった。モテない要素をも持ち合わせたCランク仲間と指をくわえて眺めていたものだ。
溜息つきつつ携帯に木越優希の情報を登録した。
(おれがメールしたら驚くだろうな)
でもこれは必要なことだ。とても無視できる出来事じゃない。意を決してこんな文面を書いた。
『小宮山からメアド聞きました。体、大丈夫か、見舞い行こうと思う』
これ以上文章をつけたすと相手を刺激しそうな気がしてそのまま送信した。幸い『そんなアドレスはアンノウですよ』と突き返されなかったから、届いたと思う。
気高い貴公子が城下町の庶民にレスを返すだろうか。
その予感は的中し、送信から一時間たってもレスはない。
時にメールを出して時になろうとしていた。
(おれなんてそんな存在だよな)
なんて思っていたら携帯からカノンが流れた。メールだ。着電の場合は人によって着メロを変えている。カノンってことは特定の音楽を設定していないヤツ。
画面をみたらはっきりと木越優希と表示されていた。
『寝てた。来てもいい』
高いところから見下ろすようないい方ができるのはAランクの特権かな、と鉄は力無く笑う。
分くらいで行く。というレスを返し昨日と同じ紺のダッフルコートをはおる。
「鉄、どこか行くの。まだ外寒いわよ」
母親が声をかけたので、
「木越の見舞いに行ってくる」
「それじゃ、ちょっと待ちなさい」
母はキッチンに戻ってアメリカンオレンジを数個入れた袋を渡した。
「風邪のときはビタミンCが必要だから」
「ありがとう」
「鉄」
「なに」
母はすこしうつむいて、でも顔をあげて言った。
「仲良くしてあげなさい。木越さん、お母さん家を出ちゃったから」
「マジで」
シャネルで身をかためた美貌の母親は去年はにこやかに自慢の息子の高校の卒業式にのぞんでいたのに。
「木越さんの女グセのせいだと思うんだけど、実家に戻ってしまって。木越さんがあやまって来るまで戻らないって」
「でも、お袋さんも負けないくらい浪費グセあるんだろ」
「そうね……旦那さんの浮気が発覚するたび銀座に向かってたからね……」
母は考えながら固まってしまった。
「わかった、刺激しないようにするよ」
鉄は家を出た。
同じ地域に住んでいても、学校という媒体がなくなったとたん会わなくなるヤツはたくさんいる。木越もそういう感じでじいさんになっても会うことはないんだろうなと思っていた。
(この辺だったと思うんだが)
小学生のときの記憶だけできてしまったからか、雪がアイスバーンになって滑りやすくんっているせいか遠回りしている気がしてくる。
分くらいで行くと言ったのに分は軽くオーバーしている。
キャウンと犬の声が耳に飛び込んできた。
「なんだ」と思って声のするほうを見たらやせ細って首輪がブカブカになった犬がいた、雑種なんだか純血種なんだかもわからないくらい毛も抜けきってみすぼらしい。そんな犬がお役所の職員の手によってワゴン車のゲージに押し込められ、連れて行かれるところだった。
(かわいそうに)
この辺をウロウロしているところを通報されたんだろう。首輪をしているということは元は飼い犬だ。
(あの犬に比べたら、おれはまだ幸せなのかもな)
と二浪の自分をなぐさめてみる。
「なにをやっている」
背後から聞こえる声は木越に似ていた。
「あれ、かわいそうだと思わないか…」
相手が木越のつもりで連れ去られる犬のことを言ったのだけれど、振り返ったらそこにいたのは黒いラブラドールレトリーバー男だった。
昨日と同じ『悪の秘密結社 オテフセ団』と書かれた赤色Tシャツを着て黒いビキニパンツを履いている。
「うえおわっ?」
言葉にならない悲鳴。
「そうだな」
黒ラブ男は冷静に溜息をつき鉄の言うことに同意した。
「どんな理由があったのかは知らないけど、飼い主は無責任だよな」
と鉄が言うと、
「そうだ、人間のエゴだ」
と黒ラブ男は答えた。
「おまえ犬同志だろ、助けないのか?」
「いまの使命はそれじゃない」
鉄は首をひねった。
やせた犬はワゴン車で連れ去られてしまった。白い雪の上に灰色の排気ガスが吐き出され、遠のいていく。
「遅いので迎えに来た。家はこっちだ」
黒ラブ男は背を向けた。そこではじめて知ったがTシャツは背中に『OFD』と白抜きされ、肉球のマークがついていた。
(OteFseDanの略か)
しばらく黒ラブの背中を追いかける。雪道だというのに黒ラブ男はまったくコケたり滑ったりしない。
黒ラブ男が振り返った。
「この角を曲がった五軒先だ」
と角を指さし、先に曲がる。
「待てよ」
とあわてて曲がったら黒ラブ男は消えていた。
「なんなんだよ」
これで昨日のことは夢ではないことは確定したわけだが。
黒ラブナビが優秀だったおかげで木越家の前に立っている。
外車が二台置けるガレージ。心臓外科の権威という木越父は白いポルシェで出勤していると小学生の頃から聞いていた。
(いまガレージに車がないっていうことは父親が出勤に使っているのと、家出したっていう母親が乗ってったのかな)
インターホンを押すとしばらくたってから「はい」という木越の声がした。
「柴浦だけど」
「入れよ」
それじゃあ遠慮なくと門扉をあけてなかにはいると手入れをする者がいなくなったおかげで雑草伸び放題の庭、玄関のドアをあけた。鍵はかかっていなかった。
「あがっていいよ」
と奥の居間から声がする。
(出迎えなしかよ)
さすが鉄とは格が違う。
「おじゃまします」
(そういえばおれって木越家のなかって入ったことなかったな)
キョロキョロと見回してしまう。高校まで同じ学校だったが仲良くしていたわけではない。だから家に上がるのははじめてだ。
(お屋敷ってわけでもないんだな)
玄関先に置いてある花瓶とか絵画とか、高そうなのに掃除をする者がいないおかげでホコリがかかっている。
とはいえ二階への階段が吹き抜けとか天窓とかあっておしゃれな造り。注文住宅なのだろう。
「ん?」
途中、鉄は振り返った。視線を感じたのだ。
「気のせいか」
いま入ったのは自分だけなのだ。背後から見つめるヤツがいるわけがない。
「なにやってんだよ」
奥で木越が呼んでいる。
「ああ」
居間の扉は開けっ放しなのでそのまま入る。
「やあ」
真っ白なリビングであった。
手入れされていない庭に残った雪がよく見渡せる天井まで届くような窓。白い壁に白い皮のソファー。家電製品売り場でしかお目にかかれないと思っていた子供の背丈ほどの細長いスピーカーを両脇に従えた大型薄型テレビ。
「映画館か」
思わず突っ込んでしまう。しかも足下に鉄の家ではありえない仕掛けを感じ取ってしまう。
雪道を歩いてきた足の裏に瞬く間にぬくもりが伝わる。
「スゲー、床暖房かこれ!」
「そんな感動するようなものか」
4人がけのソファーのど真ん中で白いジッパー式のフード付きトレーナーにジーンズ姿の木越は足を組んで座っていた。ソフトフォーカスの光に包まれた美青年だ。
(同じ医者の息子とは思えない)
鉄は素直に思った。これが大学病院心臓外科の権威とご町内のお尻を守る者との差なのか。そうだとしたらあまりに理不尽すぎる。
「おすわり」
「え?」
「ぼけっとしてないで座れよ」
ローテーブルを挟んで正面のひとりがけが3つ並んでいるのをあごでさす。普通のヤツなら舌打ちもしそうものだが木越にやられるとしょうがないなと思ってしまうのはなぜなんだろう。
鉄は真ん中に座った。
(おれ、いま「おすわり」って言われなかったか? 犬みたいに。犬……犬っていえば)
「さっきここに来るとき」
「その袋のなかはみかんか」
「ああ、おふくろが持っていけって。風邪にはいいぞ」
袋ごとわたそうとする。6~7個ははいっているみたいだ。
「テーブルに置いてくれ」
素直に置いてやった。木越は手をのばして袋からひとつとりだした。みずみずしくて張りがある。美味しそうなオレンジだ。
「みかんじゃないのか」
オレンジを手のなかで転がして呟く。
「英語でオレンジじゃん」
木越はさめた目を鉄にむけた。
「お前、そんな発想してるから落ちるんだよ」
木越はオレンジのおしりに親指を突っ込んだ。食べてくれるらしい。
と思ったら、
「チッ」
唇のはしを持ち上げて不愉快をあわわにした。甘栗をむくときにきれいに甘皮が取れないと面白くないと思うが、それを上回る嫌そうな顔だった。
木越はオレンジをテーブルに戻した。
テーブルに置かれたオレンジにはてっぺんに爪で開けられた穴がそのままだ。
(いやがらせなのか?)
母が木越の風邪を気遣って持たせてくれたものなのに。そう思うとむきかけのオレンジから目が離せなくなってしまう。
「あとでいただくよ」
鉄の視線に気付いたのか手をこすりながら木越がフォローする。しかし「チッ」という声が耳から離れない。
「熱はもういいのか」
鉄は穴の空いたオレンジをみつめたまま問いかける。
「ああ、あんなものは1日寝ればウソのようにひいてく」
「そうか、よかったな」
「今年も医大全滅だったのか」
「悪かったな、頭わるくて」
「もう1年頑張るのか」
「考え中」
「柴浦はなんで医大受けるわけ?」
「そりゃ、先祖代々」
「仕方なく受けてんのか。それじゃ落ちて当たり前だ」
「仕方なく……そうなのかな。おれ」
「はっきりしないヤツだな」
あえんのような目標が自分にあるのかと言われると胸が痛む。
「でも、親父が治した患者さんが嬉しそうな顔するの見るのは好きなんだ。解き放たれた囚人ってあんな顔するのかな」
完治した患者さんに「お父さんのおかげで」と微笑まれるたび、医者という仕事を意識してきた。
「でも、自分がこんなに頭わるいとは思わなくってさ」
屋根の雪が陽差しで溶け、ドサッと庭に落ちた。
「うわっ」
「。だから落ちるんだ」
大きな音だったので声をだしてしまう鉄に木越が言った。
そしてそのあと、しばしの沈黙。
鉄は木越をうらめしそうににらみつけ、木越は目を細めて受け止める。しかもほくそ笑んでいるようにも見えた。
静寂を破ったのは木越だった。
「お手」
いきなり鉄の前に右手のひらを差し出してきたのだ。
「え?」
おれは犬か! と思ったのだが、あまりに突然しかも想像もしていないことを言われたせいで疑問符を投げかけつつも握り拳を手のひらに乗せてしまっていた。
木越は頷いた。これはなにかのゲームなのか、それともどこかに隠しカメラでもあってドッキリをしかけられているのか。
「伏せ」
しかもつかさずコマンドをだす。どうしたらいいのかわからなくてつい頭をさげてしまった。なにも悪いことをしていないのに謝っているみたいだ。
「なにさせるんだよ」
頭をおこしたとたんそう言い放ったが、木越は軽く手を叩いて大いに喜んでいた。
「儀式みたいなものだよ」
なにが? と思ったとたんまた視線を感じた。木越家にあがったとき感じた背中を突かれるような視線だ。
「犬」
リビングの入り口に犬がいた。赤い短毛立ち耳巻尾の中型犬。柴犬にみえた。
「木越、犬飼ってたのか」
柴犬はその場でお座りをした。じっと鉄を見つめている。
鉄はなんとなく犬にむかって「おいで」と言って手を伸ばしてみた。だが犬はポーズを崩さずただ見つめるのみ。
「犬のわりにさめた目してるな」
誉めていないのに木越はうれしそうな顔をしている。
「なあ、こいつの名前なんていうんだ」
「クロ」
「はあ?」
「なんで驚く」
どうみても赤毛だ。
「黒くないのにクロなのか?」
「お前だって鉄でできているわけじゃないだろ」
「おれの名前と一緒にするなよ」
「そうだな、ははは」
明らかにバカにされているのだがかっこいいから文句が言えない。
「腹黒いからクロなんだよ」
クロという名の赤毛の柴犬は一瞬舌をぺろっとだした。
その仕草をみた木越はうなずいて鉄に言い放った。
「おめでとう柴浦、君はいまからオテフセ団の一員だ」
目玉がはじかれたピンポン球のように飛び出しそうになった。なにを言っているのだこのさわやか男は。
「お……うえ、いあ……」
木越にむかってなにか文句をつけたのだが言葉にならなくて空気をむさぼる金魚のようになってしまった。
「まあ、落ち着けよ」
「落ち着けるか!」
やっと人に通じる言葉がだせた。
「なんなんだよ、オテフセ団って」
木越は高い天井を仰ぎ言った。
「悪の秘密結社だ」
鉄の脳裏に決していい趣味とは思えないデザインのTシャツが浮かんだ。
「じゃあ、あの変な犬は」
「秘密結社の犬怪人」
さらっと言ってくれる。
「おっしゃる意味がわからないんですけど」
鉄は折れるほど首を横に傾けた。
「オレは悪魔に魂を売って悪のかぎりを尽くす決意を固めたってことだ」
鉄は眉間にしわを寄せた。
「木越、勉強しすぎてどうかなったのか? それとも悩み事は恋愛か、3また4またがバレて修羅場なの
か?」
「どうかなったんだろうな、だから悪魔が降臨してきた」
「わかった、両親の不仲が原因だろ。お父さんは浮気し放題。買い物好きのお母さんが家を出て、放っとかれた息子。それでノイローゼに」
口にだしてから禁句だったと青ざめるがもう遅い。木越は眉間にしわをよせてにらんでいる。
「お前も見ただろ、犬怪人」
「……」
昨日の出来事があったから自分はいまここにいるのだ。鉄はしばらく考えて深呼吸を繰り返す。
「ネットで騒がれてるぞ。山手線の事件」
「だろうな、いいじゃないか、目立ってなんぼだ」
ネットでは賛否両論だった。老人、妊婦、病人には席を譲るべきという者と若者だって疲れているんだから座らせろ。というもの。車内の化粧は見苦しいとかシルバーシートに若者は酷いだろうきびしく処罰せよなんていう過激な意見もみかけた。なかには犬には文句は言えないとか、それは集団催眠で、実際はそんなことおこっていないだろ。どこかの宗教団体のお騒がせだろうから無視しろとか。
「なんでそんなことをする」「なにが目的だ」「どういう経緯で犬怪人が現れたのか」聞きたいことが多すぎて順序だてができない。頭の整理がつかないなかで口からでたのは。
「なんで怪人は犬なんだ」
であった。
「オレの思いが強かったんだろうな」
木越は指をいれたまま放置したオレンジを見つめる。
「悪魔はオレのひきだしの奥底にしまったはずの記憶を元に現れる」
クロという名の柴犬を見つめる。
(それが犬なのか? 女じゃなくて?)
美しい女がでてきたほうが木越らしいと思う。そうしたら顔色で伝わったのか、
「オレのイメージって女しかないのかよ」
木越ががっかりしたように言った。だが鉄でなくても木越を知る者なら大方そう思う。
「飼ったことがあるんだよ。犬を飼うことになっていろんな犬種を調べた。犬種によって気質や運動量は様々なんだ。オレは特に飼い主に一途で他人にはシッポを振らないマイペースな日本犬に決めた。それがこいつだった」
「だった、って。いまもいるじゃん」
木越はクロをみつめ。
「オレが殺してしまった。いまでも後悔している。だから同じ姿で現れたんだろうな」
「え、じゃこいつ本物の犬じゃないって言うのか」
木越は静かにうなずいた。
「犬飼ったって、ガキのころか」
木越が犬を飼い始めたなんて学生時代にきいたことがなかった。
「いや、去年の今頃だよ。大学の合格祝いに。母さんも犬でもいたら親父が帰ってこない寂しさとか病的な買い物への意識を遠ざけることができるかなと思ったんだ。ペットがいると家族の会話も増えるかもしれないし」
ずいぶん寂しい話だな、声に出せない感想が漏れる。
「で、その柴犬はなんで死んだんだ」
失礼だとは思ったが、殺したなんて聞かされて黙っているわけにはいかない。
「散歩中にうっかりリードを放してしまったんだ。走っていったロッキーは車にはねられた」
「そうか、でもうっかりなんだろ。自分を責めるなよ」
下手ななぐさめで木越は沈黙してしまった。すまない気分になってくる。
(ごめん)
と心のなかであやまったら、伝わってしまったのか。
「なんでお前があやまるんだよ」
と木越に言われた。
「思い出させたのかなって」
「……そんなことだから、悪魔も怪人もオレのイメージで現れるってわけだ」
(木越がそこまで犬好きだったとは意外だった。どちらかというと猫っぽいのに)
「オレ、犬好きだぜ」
「そうなんだ……ちょっと待てよ」
「なんだ」
「怪人が犬なのはわかったけど、あの衣装も木越のイメージなのか?」
「さて、新しい団員が入ったことだし悪事をはたらくか」
あからさまに受け流された。いい趣味でないことを本人もわかっているのだろうか。
「入団した覚えはないぞ」
「儀式は済んだ」
「儀式?」
「3つのコマンドに応じただろ」
「なにを?」
真面目に聞いてくる鉄に木越は無表情に、
「お座り、お手、伏せ」
そう言われて、鉄はしばらく固まった。リビングに入ったとき椅子を勧められて「オスワリ」。いきなり手をだされて「オテ」。つかさず「フセ」と言われてまんまと。
(ハメられたのか、おれ)
「まあ、そういうことだ」
と返された。
「話しかけていいか」
うなだれる鉄に木越のやわらかな声がかかる。
「柴浦は」
話しかけられているということは、少なからずうなずいたということだ。
「タバコ吸うか?」
「……」
「そうか、ならよし」
そう言われたということは首を横に振ったんだろう。実際吸わないし。
「歩きタバコをどう思う」
「よくないんじゃないか」
「そうだろ。後を歩く者にはいい迷惑だ。あの煙が胸にはいると咳が止まらなくなる」
木越は胸をさすった。
「タバコ持ったまま大きく手を振って歩くヤツもいるしな」
子供の顔に当たってもめ事になっているのを見たことがあった。
「さらにポイ捨てするヤツもいるだろ」
「迷惑だよな」
それは素直な感想である。木越は大きくうなずいた。
「よし、そういうことだ」
木越はクロという名の赤柴犬に目をやる。クロはうなずいて直径1メートルぐらいで円を描くようにまわりはじめた。
「なにをしているんだ」
「みてればわかる」
5~6回まわったところで信じられないことが起こった。クロが歩いた軌跡が光りはじめたのだ。
最近の床暖房はこんな装飾もあるのか、なんて言う気はおこらなかった。言う前に円の中心から犬の耳が現れたから。
じょじょにせりあがってくる犬怪人は二匹。さきほどの黒いラブラドールレトリーバーともう一匹はゴールデンレトリーバー。盲導犬や介助犬に適した人慣れしやすくおとなしい傾向のかしこい犬種たちだ。
「黒ラブ男とゴルデン男だ」
光の円は消え、二匹の犬怪人は片膝をついて挨拶をした。
黒ラブ男は赤色Tシャツ、ゴルデン男は橙色のTシャツだ。
「お呼びでございますか」
「なんなりと悪事をお申し付けください」
鉄は寝ぼけているのかもしれないと思いはじめるものの。
「新メンバーの柴浦君だ」
と紹介されてしまう。
「よろしくお願い致します。黒ラブ男です」
「はりきって悪事を働きましょう。ゴルデン男です」
二匹は鉄に深々と頭をさげた。
「あ、ああ。よろしく」
鉄のあいさつは棒読みだった。
「やることはわかるな」
木越は上からものを見るかのように言う。それで犬怪人たちは理解したようで。
「さすが首領、それなら人間どもを不快の水底に沈めることができますね」
「昨日の悪事もお見事でしたが、今日の計画もかなりのものですね」
肩を上下させて悪事とやらを褒め称える犬怪人たち。
「昨日の悪事?」
鉄は思わず突っ込んでしまった。山手線のことだろうが、悪事といわれてもピンとこない。
「気持ちよく座っているところをほうりだされた感想は」
仕方ないな、といいたげな瞳をむけてくる木越。
「いきなりあんなことされてムカッときた」
それはそうなのだが。
「でも、お年寄りや妊婦さんを立たせていたのは悪かったよ。恥ずかしいっていう気持ちにもなった」
マスカラに夢中になっていた女性やシルバーシートで大きく足を開いて座っていた革ジャン男を思い出すとマナーを知らないというか、人に優しくなかったと思う。
「でもあれ悪事なのか?」
それに木越は溜息で答えた。
「じゃあ逆に聞くが、柴浦の考える悪事ってなんだ」
あらためて問われると、
「殺人、窃盗、強姦、賄賂、世界征服とか」
「オレの考えるイメージとは違うな」
「……」
鉄は遠回しに二浪を笑われているような気になってきた。しかしきらきら輝く瞳をもった二匹の犬怪人に見つめられては怒る気がしなくなる。
「なあ、このTシャツのデザインなんだけど」
鉄は話を変えようとした。このセンスも木越のイメージの産物だとしたらかなりの人間はひいていくのではないか。さすが、美術だけは万年平均点以下。それをネタに己の劣等感をなぐさめようと試みたのだ。
「柴浦はゴルデン男のほうに意識を預けろ」
「はあ?」
あっさりかわされてしまった。それどころか意味不明なことを言われた。
「こいつらは、オレたちの意識を乗っけてくれるんだ」
「え?」
鉄にはちんぷんかんぷんである。
「ここにいながら外で行動する犬怪人と悪事が働けるんだよ」
木越は足を組み直した。
「ああ、昨日は自分の肉眼でも見てたけどな。ちょっと無理してしまった」
「熱があったのになにやってんだよ」
「そうだよな、でも愉快だった」
ふふふ、と思い出し笑いをするのも木越でなかったらかなりの人はひいていくだろう。
「口でいうより実践だ。目をつぶってみろよ」
胡散臭さを感じながら言われるがままに目を閉じてみた。
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